171話 痴話喧嘩
「待ってくれ、頼むよクラン、本当に助かったんだってば」
前を行く小さな背が、小走りでもないのに追いつけなかった。
関門を能動的に生成する魔術的な何かかもしれない。
「……。」
いや無言は怖いって。
簡単なすり合わせのはずが一向に戻らない俺を案じ、辺境伯代行の権限で迎えに来てみれば、王女に覆い被さる俺が居た。
……弁明できんわな。
『あららぁ』
とクランに見えないよう舌を出す王女に軽く殺意が湧いた。王家に殺意って、割と簡単に抱けるんだな。
尚、文官は今まで止めていた手が嘘のように、一気に情景を書き殴っていた。ドシュッドシュッって筆記してるとは思えない音を発しながら。
その光景に一瞬息を止めた幼馴染だったが、「失礼しました」と膝を折り礼をすると、足早に去って行ったのだ。
間髪入れず、王女の膝が腹にめり込んだ。
『早く追いなさい。じゃなきゃ、もう彼女は捕まらないと知るがいい』
誰だよ?
井然と入り組んだ通路から、左手が中庭に吹き抜けた回廊へ出た。日差しと影から距離を換算する。小さな背を目指してはダメだ。距離は経過時間に比例しない。そういう術だっていうなら、本気で拒絶されていないと思いたい。
ストレージから探った武器の柄を握る。
タイミングは石柱の影から小さなシルエットが抜けた瞬間だ。その手首。
一気に獲物を引き抜き先端を放った。
不可視の距離を亜空の刃が繋ぐ。彼女の振り上げた腕にワイヤーが絡まる――全て影の中での出来事だ。
「……んん」
と可愛らしく鼻を鳴らすと、ようやくクランは足を止めた。
シャマダハルの先端は何にも触れず俺の手元に返っている。彼女の白雪に傷も跡も付けなかった。床に落ちた二人の影だけを、シャマダハルのワイヤーが繋いでいた。
「クラン」
足早に近寄り名前を呼ぶ。小さな肩が振り向く。華奢な腕が振り上げられるのは同時だったろうか。
パァン、とこ気味のいい音が響いた。
女の細腕なんてものじゃない。カウンターと勢いで俺の体はギュルギュルギュルと回転し、反対側の壁に激突した。
「サツキくんの……馬鹿、嫌い……!!」
「って、バフ乗せて引っ叩きやがったな!?」
あまりの衝撃に、神経がパニックを起こし、足腰が立たない。産まれたての子鹿のように震えつつ、辛うじて壁に背を預けた。
「……サツキくんが……悪いんだから」
「俺が巻き込まれた体勢だったよね!? どう見たってさ!!」
「だったら……ちゃんと拒んで見せなさいな!!」
彼女の張り詰めた叫びは、今では希代の調子と分かる。
「いつも……いつも!! サツキは女性に甘くて!! だからって、よりにもよって姫殿下とだなんて!!」
「待てよ、クラン、ちょっと待てよ!!」
彼女の肩に触れたが、超スピードと超パワーで振り解かれた。バフ掛かったままじゃん。仮借無ぇー。
「だったら私は!! どうしたらいいのよ!! メイドが増えるのも妹が増えるのも別にいいのよ。まだ看過できる。お母様や王妃様に可愛がられるのもいいわ。だってサツキ、可愛いもの!! 女の子の格好をするようになって尚更!! こう、こう路地裏で押し倒したいくらい!!」
この女やべーぞ!?
「だからって!! お姫様が相手じゃ、もうどうしようもないじゃない!! 私に何ができるっていうのよ!!」
「そこだ。何でアレだけ特別なんだ? 元々受ける気もなく否定して来たが、クランを絶望させる関係じゃ無かったはずだ」
ていうか、他の女が増えるのも問題だろ。ダメだろそれ。
「王族の伴侶はそれだけで意味が違うの……ケイトウ王子に一朝有事の際は……王配になる事だって。それとアレ呼ばわりしないで。不敬です」
どっちだよ。
「そりゃ確かに。家臣の皆さんには一層強く王女殿下の暴走を止めてもらわなきゃ」
ムっと睨まれた。
おっと、そうだった。他人事じゃない。
「惨憺たる苦心を強いたようだ。済まなかった」
「……。」
「自己喪失感みたいに流されるのが不誠実だと分かるよ。今後は断固拒絶する。だから、」
「……。」
「カサブランカであんな決別をして、都合がいい話だが、あー、……今は呪詛で関係が曖昧とは言え、決着を付けたいと願っている」
小さな肩がピクんと跳ねる。これは、痛々しいな。
「筋を通したい」
「……ちゃんと?」
「今夜、君の部屋に伺ってもいいか?」
俺の言葉に、反射的に胸の前で小さな握り拳を作り頬を紅潮させた。愛らしいと思うはずが嘔吐感が先立つこの身が、いい加減に恨めしく思う。
「……ん」
小さく、コクンと頷く。視線は逸らされたが、拒絶では無いと分かる。
嫌悪感に耐えつつ、この時間が愛おしく思えた。
邪魔者が来るまでは。
「栄誉あるアザレア王城の中で、何を騒々しくしてるのかね」
でっぷりした男が、油ぎった顔に嫌味ったらしい笑みを浮かべていた。
貴族なんだろうけど、成金趣味のような派手に飾った服が品を損ねている。
「ご機嫌麗しく――ベリー辺境伯代行殿」
「……第二十五内務補佐卿」
凄い微妙な立場の人だ。
「ふん、貴族の礼も知らぬのか」
デブ卿が小さく毒づく。独り言のようでいて、意図的に聞こえる声で言うのか。
クランを庇っていいものか迷った。彼女の立場上、表に出てもらわねば困る。
「冒険者如きに、王城を好きに歩かせるとはぁ、いささか問題ですぞ? 代行殿ぉ?」
「んんー?」と妙なイントネーションで少女の顔を覗き込んでくる。
彼女は微動だにせず、
「王女殿下が直々に調書をお取りになると命じられました。今は帰りの案内を仰せ使っています」
毅然とした態度にデブ卿が「ムム」とたじろぐ。
「御用が無ければこれにて失礼します」
「ぼ、冒険者風情に、いいように扱われておられるご様子。いささか心配になりますな。それも、こうも見目麗しいともなれば」
変な目で見てくるな。
「……何を……仰りたいのでしょうか?」
風花の小雪のような少女の声に、ゾクリとした。
峻厳なる態度には余りある。背筋に走る電気信号は、死への警告だったろうか。




