冥王星の絶対
太陽系の端っこに浮かぶこの小さな準惑星には、ありとあらゆるものが揃っている。一瞬たりとも消灯することのないネオンも、合法的にトリップできるハイビートな音楽も、灰色と緋色の混じった浅瀬の海も。居住可能な他の惑星や衛星と比較すれば、科学技術の進歩は遅れており、日照時間の短い独特の気候は生命活動に優しいとはとても言えない。それでも、ここにはありとあらゆるものが揃っていた。少なくとも、人が幸せを掴むために必要最小限なものはすべて。この冥王星という星を簡単に説明するのであれば、つまりはそういうことだった。
冥王星生まれ冥王星育ちのアリソン・ハンマーキャット・ステフは左手首にはめた旧式の腕時計を見つめ、ため息をついた。彼女の頭上では火星から輸入された中古の飛行タクシーが低い唸り声を響かせながら飛び交い、高層ビルの側面に埋め込まれた原子光モニタでは、キャッチーな音楽に合わせて腰をくねらせるだけの品の悪い広告動画が繰り返し再生されていた。冥王星の開拓以来、一度も眠りについたことのないこの繁華街の端っこで、ステフはいつものように待ち合わせの時刻にやってこない双子の妹、アリソン・ハンマーキャット・ミルラへのいらだちをただ募らせるばかりだった。
自分から誘ってきたときくらいは遅刻しないでよ。ステフが独り言のようにそうつぶやくと、偶然目の前を通りかかった巡回ロボットが、ちらりと彼女の方を振り返り、そのまま何事もなかったかのように夜の街へと姿を消していった。
ようやくミルラが待ち合わせ場所に現れる。ミルラは最近流行りのハーリキンチェックのシャツを首元の丸いTシャツの上に羽織っていて、髪の毛はほんのりと濡れている。なんで遅れたの? ステフが腕時計をコツコツと指で叩きながらミルラに尋ねると、ミルラは肩をすくめてこう答える。
「ちょっと、『冥王星の絶対』を探してたの」
ミルラがこの数ヶ月、冥王星で流行っているスラングで返事をする。
「で、それは見つかったわけ?」
ステフが尋ねる。これは先程のスラングに対する返し文句で、それを言われた相手はさらにこのような言葉を言わなければならなかった。
「この冥王星にはありとあらゆるものが揃ってるけど、『絶対』だけは見つからなかったわ」
一連のやりとりを交わした後で、仕事が押しちゃってさとミルラが上目遣いで謝罪する。二人は双子の姉妹だったが、ミルラはステフの一回りも二回りも小柄だった。身長も、手の大きさも、足の大きさでさえも。
「生まれた時の体重なんですが、ステフが4000gで、私が3000gだったんです。だから私達の昔からの担当医もこう言っているんです。子宮の中で、食い意地の張った姉が私の分まで栄養を摂っちゃったのが原因だって」
どうしてそんなに身体の大きさが違うのかと聞かれた時、ミルラはよくこんな冗談を言った。そして、その横で決まってステフはこのように言葉を続ける。
「全然違うわ。ミルラは小柄な方が男に受けるってことを子宮にいたときから知ってただけよ」
ステフとミルラはそのまま二人で並んで歩き出した。商業ビルのエントラスから地下通路へと降り、通路突き当たりにある小洒落た海王星料理レストランへと入っていく。ミルラが受付で自分の名前を告げると、二人はそのまま一番奥への席へと案内される。ホールには食事を楽しむ客の他に、同じ顔、同じ格好をしたヒューマノイド型の給仕ロボットが所狭しと動き回っていた。
「このレストランの給仕ロボットね、私が勤めてる研究所で開発したロボットなの」
なんでこのお店を選んだのかと尋ねられたミルラがそう答える。給仕ロボットが椅子を引き、ステフとミルラが背もたれの硬い椅子に腰掛ける。ステフは妹の研究所が開発した給仕ロボットをまじまじと見つめた。髪はムースでぴっしりと整えられ、レストランの制服は襟元までアイロンが行き届いていて、糊が効いている。目は細く、鼻はシリコンが埋め込まれているかのように高い。顔立ちはそこそこ整っているものの、かと言ってモデルのような美形というわけではない。特に見新しいものはない、どこにでもいる給仕ロボット。どうせならもっとイケメンにすればよかったのにとステフが感想を伝えると、ミルラはドリンクメニューに目を通しながら、「うちの女所長の彼氏がモデルらしいわ」と教えてくれる。
「そしてね、開発した私達だけしか知らない隠しコマンドがあるのよ」
ミルラはそう言いながらドリンクメニュー表をテーブルに置き、握りしめた拳で思いっきり給仕ロボットの股間を殴りつけた。カチリというスイッチ音とともに、給仕ロボットの顔が縦軸方向にくるくると回転を始め、『ウレシイ、ウレシイ。モット、モット』と片言で喋りだす。
「この部分もね、女所長の彼氏がモデルになってるらしいの」
ミルラが肩をすくめてそう説明する。厨房からロボットではない人間のウェイターが現れて、給仕ロボットへの乱暴はお止めくださいと二人を穏やかに注意する。ウレシイ、ウレシイ。モット、モット。「当人は喜んでいるようだけど」とステフがおどけて答えると、当人が喜ぶことが必ずしもこの店の利益になるとは限りませんからとウェイターが言い返す。
「ところでどうして急に食事に誘ったの」
ウェイターが席を離れた後で、ステフがドリンクメニューを吟味しながら尋ねる。
「ごめんね、どうしても話しておきたいことがあって」とミルラ。
「何よ、かしこまっちゃって」とステフ。
「ウレシイ、ウレシイ。モット、モット」と給仕ロボット。
「私ね、結婚を考えている人がいるの」
ミルラが真剣な眼差しでステフを見つめ、そう言った。ステフはちらりとミルラを見つめ返した後で、再びドリンクメニューへと視線を戻しながら答える。
「あなたは仕事と結婚してるじゃない。この星じゃ重婚は犯罪よ」
ステフの返事に、ミルラが深くため息をつく。
「ねえ、ステフ。お願いだからちゃんと聞いて。これは冗談でもなんでもない、真面目な話なの」
給仕ロボットの顔の回転がようやく止まり、「チュウモンハオキマリデショウカ」と二人に尋ねてくる。今度はステフが給仕ロボットの股間を殴りつけると、給仕ロボットは再び頭を回転させ始め、『ウレシイ、ウレシイ。モット、モット』と片言で喋りだす。
「私達ももう二十代後半だからね、驚きはしたけど、別におかしなことじゃないわ。パパとママにはもうこのことは話したの?」
「ううん、ステフが最初よ。それにね、パパとママにはまだ紹介するつもりはないの。将来的に結婚しようって約束してるだけで、まだしばらくは結婚できないから」
「なぜ」
ステフの言葉にミルラが少しだけためらいがちに答える。
「私の結婚相手ね、まだ中学生なの。だから、年齢的にまだ結婚できないわけ」
ステフがドリンクメニューから顔を上げ、じっとミルラの目を見つめる。店の中の誰かが食器を床に落とし、静かな店内に軽やかな金属音が響きわたった。そして、残響が聞こえてなくなったそのタイミングで、ステフがゆっくりと口を開く。
「私はいつだってあなたのの味方でいたし、あなたのやること、考えることを尊重してきたわ。だから、別に私から何か言うことはないわ」
「ありがとう、ステフ」
「ところで……」
ステフが目を細めて、言葉を続ける。
「冗談でもなんでもない真面目な話はいつになったら始まるわけ?」
「ステフ!!」
ミルラが声を荒げる。さっきのが冗談でもなんでもない真面目な話なのよ。ミルラは懇願するような表情でステフに訴えると、ステフはメニュー表をパタンと閉じて、髪をかきあげた。彼女の腕にはめた時代錯誤な腕時計がレストランの白昼色の照明の光を反射していた。
「ねえ、冷静になりなさいよ。中学生なんて、まだ子供じゃない。未成年に手を出すなんて、惑星が惑星ならしょっぴかれても文句は言えないのよ。お馬鹿さんにもほどがあるわ」
ミルラは指でそっと唇をなぞり、わかってるわとつぶやく。給仕ロボットが再び「チュウモンハオキマリデショウカ」と尋ねてくる。ステフがドリンクメニューの一番上に書かれていた海王星エタノールを指差すと、給仕ロボットは「イエス、サー」とつぶやき厨房へと去っていった。
「ねえ、彼は本当にいい人なの。大人みたいなしっかりした考えをもってるし、愛してるって口に出して言ってくれる。それに年齢相応の初さもあって、周りのいるしょうもない男みたいに擦れてなんかない。付き合った初めなんて、セックスのセの字も知らないくらいに純粋で、私が手取り足取り教えてあげなきゃならなかったんだから。今じゃもう猿みたいに盛ってるけどさ」
ドリンクが運ばれてくる。ありがとうとお礼をいう代わりに、ミルラが給仕ロボットの股間をぎゅっと力強く捻る。ロボットは頭を先ほどとは逆の方向へ回転させ、『ソレハイタイヨ、ソレハイタイヨ』と片言で喋りだす。あんたんとこの女所長の彼氏って。ステフが給仕ロボットをあきれ顔で見ながら呟く。とんだマゾ野郎のくせにわがままなのね。ソレハイタイヨ、ソレハイタイヨ。ロボットがステフの嘲笑に応えるように言葉を発し続ける。
ミルラは泣いていた。唇を強く噛み締め、声を押し殺し、鼻から深く息を吐きながら。泣き虫なのにいつもそうやって強がってみせるのが、子供の時からのミルラの泣き方だった。ステフが海王星エタノールが入ったグラスを持ち上げる。色は薄水色に透き通っていて、グラスの縁には塩漬けされたレモンが一切れ添えられている。グラスを口元に近づけると、ハッカのような爽やかな香りが鼻を突き抜けた。
わかってるわ、私がとんだ変態だってことくらい。でも好きになったんだからしょうがないじゃない。ミルラが目の端に浮かんだ涙の滴を拭き取りながら自嘲混じりに言い返す。それがお馬鹿さんだって言ってるの。ステフが彼女の額についた前髪を手で払ってあげながらそう言った。
「私はね、双子の姉としてあなたには幸せになってもらいたいの。少なくとも、幸せになれる可能性の高い選択をできる限りとってもらいたいし、不幸になる可能性の高い選択はできる限り避けてほしいわ。人生において重要な選択に関しては、特にね」
「ステフがなんと言おうが私は彼と結婚するわ。絶対に」
「この冥王星には絶対なんてものはないのよ」
「私と彼の結婚がこの星の絶対第一号になるのよ」
そのタイミングでコース料理が運ばれてくる。辛味の強いアルゴラをテリーヌに、バターナッツかぼちゃの冷製スープ。メインディッシュとして運ばれてきたのは、深海鱒のムニエルと海王星豚のコンフィ。二人は黙々と運ばれてくる料理を食べ続けた。味が濃く、一つ一つの料理の主張が強い海王星料理も、この日だけはまるで乾ききった粘土のような味がした。
彼と結婚するわ、絶対に。食事の途中、ミルラは一度だけ自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた。それに対し、ステフはミルラを一瞥しただけで、何の言葉も発しなかった。二人が座るテーブルの横を、充電が切れかかった給仕型ロボットが足を引き釣りながら通り過ぎていく。二人は差し合わせたように早々と食事を済ませ、息苦しいこのレストランから立ち去ろうとした。私が払うわとステフがウェイターを呼び、テーブルまでやってきた彼にカードを渡す。そして、彼が再びテーブルに戻ってきたタイミングで、彼女はやりきれない気持ちをぶつけるように、彼の股間を殴りつける。しかし、彼女の手には金属の硬い反発ではなく、沈み込むような柔らかな感触が伝わってきた。
「ごめんなさい!」
股間を押さえ、苦悶の表情でもだえるウェイターにステフが慌てて謝罪する。
「喜んでもらえるものだと思って、つい」
二人は逃げ出すように店を後にした。地下通路の階段を上り地上に出て、夜の通りを二人並んで歩き出す。星空がかすむほどのどぎついネオンが夜空を覆い尽く、視界の隅では宇宙飛行船の夜行便がジェット音を轟かせながら暗闇の中へと溶けていくのが見えた。空中タクシーのヘッドライトがビルの側面を照らし、金属の光沢がラメ状の素材のように瞬く。誰かが捨てたドリンクカップをステフが踏みつけ、中に入っていたヴァーミリオン色の液体がタイル状の通路に飛び散った。
どうしようもなく怖いの。わかってくれる? ミルラのそのつぶやきは、街の喧騒にかき消されてしまいそうなほど、小さかった。
「一日一日がね、少しずつ少しずつ短くなっている気がするの。冥王星の自転周期が私の人生に合わせてこっそり早くなってるみたいに。それってね、私の一日が、一分一秒が、どんどん軽くなっていってるってことだと思うの。きっとこれからの人生は何かを手に入れることよりも、何かを失うことの方が多くなるし、私が感じることのできていたあらゆる感情が川底の石っころのように削られていく。それが、その事実が、私は怖くて怖くてたまらない。愛がすべてを解決してくれるだなんて少女じみた幻想に浸ってるわけじゃないの。でもね、死へと向かってゆっくりと転げ落ちていく残りの人生で、せめて慰めだけはあって欲しいと思わない?」
二人が停留スポットにたどり着く。ステフが右手を高く上げ、ちょうど通りかかった空中タクシーを呼び止める。タクシーはくるくると器用に旋回を行いながら地上へと降り立ち、排気口から吹き出す湿気た風が、ステフとミルラの髪を乱暴に撫でた。ステフはミルラの肩に手を回し、頭の先端に優しくキスをする。空中タクシーの自動ドアが開くと、ステフはミルラの身体をそっと車内へと押し込んだ。私は歩いて帰るから。ステフがそう告げると、アルコールで少しだけ頬が紅く染まったミルラが小さく頷いた。
「ごめんね、ステフ。本当はもっと楽しいおしゃべりをして、素敵な時間を過ごしたかったんだけど。ほんの数分だけ後に生まれただけなのに、私ったらステフに甘えてばっかり」
「それは今に始まったことじゃないでしょ。温かいミルクを飲んで、まぶたがくっつくくらいにたくさん寝ると良いわ。そうすればきっと、明日は今日よりも物事を楽観的に考えられるから」
「ありがとう、そうするわ。おやすみ、ステフ」
「おやすみ、お馬鹿さん」
二人がお互いの両頬にキスをする。それから空中タクシーの扉が閉まり、車体がゆっくりと浮遊を始めた。窓から地上を見下ろすミルラの顔が少しずつ小さくなっていき、やがて見えなくなる。ミルラを乗せたタクシーを見送った後で、ステフは踵を返し、自分の家の方角へと歩き出す。ビルのモニタからは彩度の強い光が発せられ、彼女の影をほんのりと色付かせていた。
ありとあらゆるものが揃うこの冥王星で、ミルラは中学生の男の子と恋に落ち、愛を契った。でもそれは、『絶対』だけは見つからない、この星らしい愛の形なのかもしれない。妹の顔を思い浮かべながら、ステフはふとそんなことを考えてしまう。さっきはあれだけ反対したのに都合のいいこと。ステフは自分の移り気の早さにうんざりしながらも、一番物事を楽観的に考えられていないのは自分なのかもしれないと思い立つ。
夜が更けるにつれ、冥王星の街は騒がしくなっていく。冷たい夜風を浴びながら、人々の体温が、街の熱気が静かに上昇していく。ビートをあげていく脈拍に耳を澄ませながら、ステフは自分が生まれ育った星の、決して上品とは言えないけばけばしい夜空を見上げた。目が眩むほどのネオンとヘッドライドの光に手をかざし、ステフはミルラの家がある方角へと無意識のうちに目を向けた。
きっと明日は今日よりも物事を楽観的に考えられるわ。ステフはミルラではなく、自分にそう言い聞かせる。それから、彼女は再び歩き出す。太陽系の端っこの、決して大都会とは言えないこの小さな街の呼吸に、歩調を合わせて。心地よい街の喧騒の中で、彼女のヒールパンプスが地面をこすり、リズミカルな音を立てていた。