鏡。
「…………はぁ」
断続的に甲高く響く忌々しい目覚まし時計を止めながら、重たい身体を起こす。
未だ肌寒い外気に触れ、抗い難い布団の誘惑に身を委ねたくなる。が、ここで意識を柔らかいベッドに預けてしまえば後悔することになる。名残惜しいがこの誘いを振り切らねば。
目覚めが悪い。よく寝付けなかった。
というか、私は安眠できたこと自体が少ないほうだ。最期に気持ち良く眠れたのはいつだったか……そんな思い出せもしないどうでもいいことを考えながら、私の身体は機械的にいつもの習慣である着替えを無意識に始めている。
「……あ」
ふと、机に立ててある小さな鏡が目に入る。
映っているのはもちろん、眠気と不機嫌さを隠しもせず表情に出している私の顔。
それから。
首元。
不自然に赤い色が付いた首。
その赤い色は4本の線状に模様を作っている。そう、ちょうど指のような。
その赤い模様を自分の指でなぞりながら、昨夜の眠りにつく直前の出来事を思い出し、早くも本日二度目のため息をつく。
そしてそのため息と一緒に、思わずいつもの口癖が勝手に飛び出すのだ。
「どうして私だけこんなメに……」
☆★
高校生になって一月程経った。
新しい学校生活にも少しずつ慣れてきた頃、早くも私はこの高校に入学して後悔している。
入学した理由はもちろん、自宅から最も近いからだ。学力のごく平均的な私でもさほど苦労することなく入学できる程度の、片田舎の進学校。真っ当な理由を口に出すのは面接の時だけでじゅうぶんだし、その時に言ったでまかせもとっくに忘れている。
そんな高校だが、後悔している理由は立地だ。何故こんな山の天辺なんぞにふんぞり返っているのだこの学校は。おかげさまで私は好きでもない坂道をえっこらよっこら登らされる毎日だ。
しかも一年生の教室は何故か三階。校舎のいちばん上の階だ。普通違うだろ。上の階って偉い方々に我が物顔させながら使わせるべきだろ。主に三年生様方とか。坂道を登りきった後にさらに階段とか。何故こんな朝っぱらから苦行を強いられなければならないのか。
今の時期はまだいい。まだ時々今日みたいな肌寒い日があるくらいだ。しかしこれから来る夏場にこの苦痛のウォーキングをさせられることになると考えると飛び降りたくなる。一日の始まりが汗だくとかやってらんない。んなキャラじゃねーし。
そんな愚痴をいつものように頭の中でつらつらと並べながら、いつものように上階へと伸びる階段を登る。
途中、駄弁りながらのろのろ登る男女のカップルを追い越す。同じクラスだろうか? 未だにクラスの生徒達の顔と名前が一致しない。というか顔も名前も大して思い出せないけど。とりあえず君達、そこから二人仲良く転がり落ちてくれないかな?
通り過ぎる私のことにも気付かぬ様子で笑いあう二人。私にも一緒に登校するような仲のいい誰かがいれば、あんな風に楽しそうに笑いながら登校できるだろうか?
……べ、別に友達がいないわけじゃねーし。これからだし。妬んでるわけじゃねーし。
「……はぁ、どうして私だけ……」
自分の勝手な妄想に既に本日何度目かのため息をつきながら、また。いつもの口癖が漏れる。
こんなんだからいつまで経ってもこんなんなんだよ。わかってるけどさ。
心の中はマイナススパイラル真っ逆さま。しかし歩はいつの間にか最上階の私のクラスがある階にまで進んでいた。
今日もこんな風にいつの間にか一日が終わるのかな。
「ーーーー」
……それだけならどれ程良かったことか。
三階に登り、階段地獄から解放された私を待っていたのは、あの「気配」。
視覚や聴覚等といった一般的な感覚とは程遠い私の感覚が、「近くにいる」と叫んでいる。
どこだ? 嫌だ。どこに? ミたくない。どこだ? 来るな。どこ――
――視界の端。窓。
窓の景色を塗り潰す、モノ。
女の顔、の、ようなそれ。
……いや。ような、ではない。本当に女の顔だ。
乱雑に振り乱した長い黒い髪。虚ろに私を見詰める眼差し、そして薄笑いを浮かべた口。
透き通るような……いや、本当に肌が透き通っている。向こう側の景色が薄ぼんやりと見えている。
改めて断っておくが、ここは三階だ。たった今ひいひい言いながら階段を登り終えたところなのだから確かなはずだ。
その三階の窓の外から人が覗き込んでいるなんて普通あり得ないし、あり得てほしくない。
そしてその「あり得ない」が、私の目の前でゲンジツとなってあり得てしまっている。
……ひ……ひひ……うふふひひひ……
脳内に直接染み渡るような、薄気味悪い笑い声が私の耳に届く。
窓の向こう側から発せられた声だというのに、まるで耳元で囁かれているかのように、はっきりと聴こえる。
ゲンジツ感が欠如した空間。階段を登っている間は確かに誰かのとりとめのない声や廊下に響く足音等が、生きた人々の音に溢れかえっていたはずなのに、「こいつ」と対面してしまった瞬間から、それら生あるゲンジツから切り離されたかのように、「こいつ」以外の人物の存在を認知することができなくなってしまっている。
誰も私の側を通り過ぎない。誰の声も聴こえない。このセカイには、私と「こいつ」しかいない。
――私の目に映るセカイは、フツウとは違う。
私は、あり得ない存在を知覚してしまう。
所謂、「幽霊」等と呼ばれる存在を……。
幼い頃から私には一般的に「霊感」等と呼ばれているものが備わっていた。
他の人には見えないモノが見えて、聴こえないモノが聴こえて、感じれないモノを感じ取れた。
私の目には確かに映っていた不可思議で不気味な存在が、しかし他の誰の目にも映ってはいなかった。
知識も分別もなかった幼少の頃は酷いものだった。周囲からはまるで私がその「モノ」自体であるかのように不気味がられ、奇異の目で見られ疎まれた。嫌でも他人とのコミュニケーションが苦手な性分にもなるというものだ。
そして感じ取れるだけでなく、その存在からとても見入られやすかった。
目を合わせてしまったなら、ほぼ確実に暫くはその存在から憑き纏われることになる。何気ない日常の中に唐突に私の視界に入ってきたりしては私を驚かせるのだ。
霊感があることを他人に悟らせないほうがいいということを理解した私に、次に待ち受けていた苦難だ。頻繁に挙動不審になるような私が他人とうまくやっていけるわけがない。
私のこれまでの短い人生は、そんな苦痛でしかない毎日に満ちていた。狂えるなら狂いたい。そう願ってやまないほど、私の人生観は終わっている。
今私の目の前にいるこの女も、先日から私に憑き纏っている困ったちゃんだ。ふとした拍子に互いに存在に気付いてしまい、以来こうして何度も私にちょっかいを出しに現れるのだ。
今朝私の首に残っていた痣ももちろんこいつだ。おかげで昨夜は生きた心地がしなかった。くそう、こんなモノに好かれても全く嬉しくない。お願いだからもう一度死んでくれ。
などと心の中では思ったりするのだが、実際対面している私はそんな啖呵をきれる余裕なんて微塵もない。というか身体が鉄筋のように膠着してしまって動かない。ザ・金縛り。
本当なら知らんぷりしてガン無視決めたいところなのだが、一度こうして奴さんに意識を捕らわれてしまったらそうもいかない。目を逸らすこともできない私は強制的にあの女が満足するまで気の滅入るワンマンショーに付き合わされてしまう。
その窓の外から笑っていた女の行動に変化が生まれる。窓に手をかけ、ゆっくりと開け始めたのだ。
え、鍵閉まってなかったっけ? あ、いや、こういう奴に鍵の有無は関係ないか。
開いた窓から侵入を開始する女。その間私から決して視線は逸らさないあたりもまた不気味だ。って、え、待って、なにするつもり? 入って来ちゃったよ?
戸惑う私の表情を見てか、薄笑いを浮かべていた女の口が歪む。笑っている、のだろうか?
その口は何故か次第に開き始め……え、や、嘘、まっ……
その女の、笑い声とも悲鳴ともつかない異常な声が私な頭をぐわんぐわんと揺さぶる。耳鳴りが痛い。寒い。嫌だ。
女の顔が、私の目の前にまで迫る。既に顎が外れてしまっているくらいあり得ないほどに口を開き、目も飛び出しそうなほどに見開きながら、人間とはかけ離れた異常な顔を私の目の前にまで――
「――『深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ』」
「え……?」
りん、と。私の背後から意識に割って入る鈴の音のような声がした。
その声に、反射的に振り向いた。金縛りになっていること、異常な顔が目の前にまで迫ってきていることも忘れて。
そこに居たのは、少女だった。
……いや、背は低いが、私と同じ制服を着ている。私と同級生の女生徒だ。
背のあたりまで伸びた艶やかな髪、前髪に隠れそうな切れ長の目が、居抜くように私を見詰めている。顔立ちは驚くほど整っていて、まるで人形のような美しさを思わせる。
「あなた、は……」
呟いてから、私に迫って来ていた幽霊のことを思い出し慌てて振り向く。しかしあの異常な顔は何故か既に消え失せていた。開かれた窓もどういう訳か今は既に閉じている。
そして周囲の雑踏が、内容の聞き取れない多くの声が、生きた音が思い出したかのように私の耳に届いてきた。
……解放、されたらしい。
「……あ……」
少しの間茫然と立ち尽くしていたが、女生徒のことを……私をあの幽霊から助けてくれた彼女のことを思い出し、またも慌てて振り返る。
しかし、廊下には教室に向かい急ぐ顔も知らない生徒が数人歩いているだけで、あの女生徒の姿は既にどこにもなかった。
「……何だったの、今の……」
あまりにも意外なことが連続で起きて、現状を整理できない私はまた暫く立ち尽くすことになり、今が登校中で早く教室に向かわないといけないことを思い出したのはチャイムの音が学校じゅうに響いた時だった。
☆★
……いた。
なんかいるし。普通に。私の教室に。私の席からみっつほど離れた窓際の席に。
そこそこ余裕のある時間に登校したはずの私がホームルームの始まりを知らせるチャイムを聴き慌てて遅刻寸前で教室に入った直後に、またも私は思考停止してしまいそうになった。
担任の先生の、さっさと席につけみたいな注意に我に帰り、いそいそと自分の席に向かいながら、ちらりと彼女を改めて見る。
先程私を助けてくれた……本人にそのつもりがあったのかはわからないが、結果的にあの幽霊から解放されたのだから助けてくれた、でいいだろう、その女生徒。
あの時はあまりにも唐突で、先程は彼女も幽霊か何かのように異常な存在なのかと勘ぐったりしたようなしなかったような気がしたが、教室で生徒達に紛れる彼女の姿は意外なほど普通だった。
つまらなさそうに持ち出している本に目を落とし読書に耽る、ありふれた一生徒。こうして私が驚愕混じりに彼女を見ていることにも気付いていないようだ。
混乱した頭のまま自分の席に着いた私は、ホームルームなどそっちのけで彼女のことを、先程起こった出来事を思い出し頭の中で整理する。
まず、私は最近私のことを憑き纏っている迷惑な幽霊に見入られていた。金縛りに遭わされ、結構やばい状況だった。
そんな状態の私に、彼女の声、だと思う。振り向いた時、確かに彼女が私のことを見詰めていたのだからそう考えるのが妥当だろう。その彼女の声が何故か私をあの幽霊から、金縛りから解放させてくれた。
過去にも一応、何度か何かのきっかけで突然金縛りから解放されるということはあった。しかしそのきっかけが誰かの「意志」を感じさせることはこれまでに一度もなかった。
そう、彼女はまるで私を金縛りから解放するために私に声をかけたように思えたのだ。
……ということは、彼女にもあれがミえていた?
もしかしたら、彼女は私と同じセカイをミているのかもしれない。その予感にたどり着いた私の心は、驚愕と歓喜に満ちていた。
授業中や休み時間の間も、私はついつい無意識に彼女のことを見てしまっていた。おいおい、私は恋する中学生男子かよ。くふふ。
しかしそうして彼女のことを観察していると、先程の予感が間違っているのではないかという考えも生まれて来てしまった。
あまりにも普通過ぎるのだ。彼女は。
授業は普通に受けているのはともかく、他の生徒達ともごく普通に接していたりする。友達と言えそうな間柄のような人こそ見た範囲では見つけられなかったし、会話の内容までは聞き取れないが、普通に話しかけられてそれに普通に応えている様子を何度か見た。
意外だ。というかミえる人の前例が私自身以外に知らなかったのだから当然だが、もっとこう、そういう人って周囲から浮いてしまってたりしそうなイメージだったのだが。いや私のことなのだけど。
もし彼女が私と同じくミえる人なのだとしたら、単純に私がコミュ障なだけということか。そういうことなのか。くそう。
もしかしたら、彼女も私と同じくミえる人なのかもしれないという予想が外れていて、彼女もごく普通のありふれた女生徒なのかもしれない。あの時彼女が助けてくれたのは偶々で、単に廊下でアホみたいに突っ立っていた私を邪魔に思って見ていただけなのかもしれない。
うわ、恥ずっ。もしそうだとしたら私超アホの娘じゃん! 一人で勝手に舞い上がっちゃって! もし勘違いしたまま話しかけでもしたら超イタい娘決定だし! 一年間罰ゲーム同然の学校生活を送るハメになってたかもしれないよ!? 引きこもるわもう!
……って、待て待て。私に向かって彼女はなんて言っていた? あの時は深く考える暇もなくて流してしまっていたが、彼女の存在を認識するうえでかなり重要な台詞だったのではありませんか!? そう、確か……
『深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ』
……これは。この言葉は。
かなり気取った台詞、というか、ナントカって有名な哲学者かなんかが言ってそうな言葉だが、まさしく私のような「ミえる人」を指すべき言葉なのではないか。
それを理解しているということは、やはり、彼女は……。
お昼休みの時間になった。午前中の授業の内容は全く頭に入っていない。我ながら最高な生徒っぷりだが、今日ばかりは仕方ないだろうと自分で弁明しておく。だって集中できるわけないじゃん。
さて、彼女に話しかけるには絶好の機会と言える時間帯だが、しかしここでまたもや私の人見知りなダメ子ちゃんのタチが出てきてしまう。
彼女が私と同じ「ミえる人」で、今朝は私を助けてくれたということはほぼ確信している。九分九厘間違いないだろう。
ならば私がすべきことは、もちろん彼女にお礼を言うこと。そしてあわよくば、同じ秘密を共有しているという接点から親密になり、いずれは恋人……違う違う。同性だぞ何を言っている。友人関係にでもなれたらいいなとか思っちゃったり。思っちゃったり!
が、しかし。万が一、万が一にでも、私の勘違いだとしたら。
ほぼ確信しているとはいえ、絶対とは言えない。そう、冷静に考えて私の想像は異常なことなのだ。
だって昨日までなんの接点もなかった、私に至っては彼女の顔も名前も覚えていなかったほど関わりのなかった単なるクラスメイトという間柄。霊感などという異常な感覚を持っているような人間が同じクラス内に二人もいただなんて。
まだこの学校に入学してから一月程度しか経っていないとはいえ、今まで互いにそのことに気付かなかったなんて……。
ああ、いや、もしかしたら彼女は私のことに気付いていたのかもしれない。私は人見知りで他人の顔と名前を覚えることすら苦手な駄目人間だ。私が気付かなかった理由なんて深く考えなくても山のように出てくる。
今朝私を助けたのは、たまたま私が襲われている現場に居合わせただけだからなのかもしれない。それまで私に気付いていながらノーリアクションだったのは、私と関わるつもりはなかったから?
いやいや、もしくは彼女も今朝たまたま居合わせたから私のことも霊感持ちなのだと気付いたのかもしれない。そもそも誰に霊感が備わっているのかなんてわかりっこないものね。きっとそうに違いない。
……なら、助けておきながら彼女のほうから声をかけてこないのは、やっぱり関わるつもりがないから?
それとも……私から声をかけてくるのを待っている?
どちらにせよ、まずは接触してみるべきか。でないと私はいつまで経ってももやもやと想像ばかり膨らませてしまい授業なんかも集中できない。
そう、自然に声をかければいいんだ。ちょうどお昼時なんだし、然り気無く「一緒にお昼にしない?」なんて言いながら……無理! そんな馴れ馴れしいこと私には無理! 昨日まであかの他人だったんだよ!? ああでもとにかくきっかけを作らなくちゃ……
「ね~えちょっと、アンタ、今暇~?」
「ひぇっ!?」
え、な、何っ!?
彼女をちらちらと見ながら悶々としていた私に、背後から私の肩を叩きながら誰かが話しかけてきた。
驚いてその人物を見る。そこにいたのは女生徒が三人。茶髪に髪の毛を染めていたり、ちょっと化粧なんかしてたりする、ごく普通のイマドキな女の子って感じ。多分、同じクラスの娘だと思う。三人ともにやにやと薄笑いを浮かべながら私を見下ろしている。一人は何故かクスクスと小さな笑い声を圧し殺しているようだ。
何だろう? 私に話しかけてくるような人に心当たりなんてないのだけど。
「まあ、暇だよね? ちょっと一緒に来てくれない?」
え、えっと、暇というわけでは……と心の中で呟くものの、突然の出来事に緊張してしまい言葉が出てこない。だって誰かから話しかけられるなんてどれだけ久しぶりのことなのか! ああもう私ってばダメ子ちゃん過ぎる! ノーと言えない日本人!
とかなんとか頭の中で考えている間に、話しかけてきたまん中の子に手を引かれ、何故か教室から連れ去られる私。何なのだろう? ここで用事を済ませられないのだろうか?
教室から出る直前、思わずそれまで話しかけようかと葛藤していた相手である件の彼女に目線を向ける。
一瞬のことだったけど……彼女と目が合った。達観したかのような彼女の眼差しが、私の心をちくりと刺した気がした。
ああ、私もこの娘達のように気負いすることなく彼女に話しかけれたらなあ。そんなことを思いながら、手を引かれるまま私は三人に囲まれるようについていった。
☆★
「……ふう」
ぱたん。
三人の女生徒に連れ去られたあの人を見送り、ひと息吐きながら手元で広げていた小さな本を閉じる。
「思ってたより内気な娘なのね……まあ、いいわ」
閉じた本を机に無造作に仕舞いながら、立ち上がる。
視線の先は、あの娘とあの娘を連れ去った三人の女生徒が出ていった教室の出入口。
「あの娘のことを知るいい機会ね……それに……」
あの娘達を追うように、教室を出る。
「私のモノにするにも、いい機会だわ」
微笑みながら呟いた彼女の独り言を、耳にする者は誰もいなかった。
☆★
「え……っと……」
連れて来られた先は、屋上へと伸びる階段だった。
屋上へ出る扉は鍵がかけられており、その手前あたりの登りきる直前の階段で三人は足を止めた。
何なのだろう。こんな人気のない場所に連れ出して。まるで他の人には聞かれたくない会話でも……。
……嫌な予感がした。
「えーっとー、何ちゃんだっけ? まあいっか。あのさー、今私達、お小遣いなくて困ってるんだよねー」
私の予感を肯定するように、私に話しかけてきた娘がやはり馴れ馴れしく私に肩を回しながら、にやにやと笑顔を向ける。
残る二人もクスクスと笑い声を溢しながら、私のことを見下すように笑顔を浮かべる。
なんて、気持ち悪い笑顔なんだ。
「でさー、ちょっと私達にお金貸してくれなーい? だいじょーぶー、いつかぜったい返すからさー?」
肩に回されている手が、強く、私の肩を握る。
強請集りというやつらしい。私を脅してお小遣いをせしめたいということか。
「な、んで、私が……」
「えー、だって私達トモダチぢゃん? でしょー?」
「ねー?」
「トモダチなら助け合うものだよねー?」
なんて白々しい。お前達、私の名前すら覚えてなかったじゃないか。私もこいつらのことなんて覚えていないが、そんな親しい間柄になろうなんてカケラも思えない。
「誰がお前なん……ひっ!?」
肩を掴む手を払いのけ断ろうと睨み付けた私の目に映ったのは。
見下すそいつの肩から覗く、今朝私を襲っていた女の霊。
あの時と同じあり得ないほど見開かれた両目が、私を食い入るように見詰めていた。
「あっはは! ちょーウケる! ちょーびびってるし!」
手を払いのけられたそいつは、すぐにまた私の手を掴み引き寄せる。
「でもさー、いきなり叩いたりなんて酷くなーい? ちょー痛かったんですけどー?」
そしてそいつは、仕返しにとばかりに私の髪を無造作に掴み引っ張りさらに引き寄せる。
嫌だ。痛い。近付くな。そいつの背後から、今もあの幽霊が私を見詰め続けているのだ。嫌だ。ミたくない。
「そうだなー、まずは明日に私達に一人ゴマンでいいー?」
「いいんじゃないー? まずはそんなもんでしょ?」
痛みと恐怖に耐えている私のことをそっちのけて勝手に話を進める三人。
「はいけってーい。なんか言いたいことあるー?」
「い……嫌……痛……見ないで……」
「あっはは、イミわかんないし。じゃ、明日までにジュウゴマンね。約束破ったらー、そうね~……テキトーな男達に犯させてもらおっか?」
「キャハハ、こわー!」
「でも約束破るほうが悪いんだしー? でも私達ってトモダチだもん。ぜったい約束守ってくれるよねー? あ、そうそう、チクっても同じだからね? わかってるよね?」
脅迫しながら顔を近付けるそいつ。私は直視するのが嫌で必死に目を逸らす……もちろん、幽霊からだ。
「じゃ、そういうことだから。だいじょーぶ、言う通りにしたらなんにも痛いこととかないし? 私達、トモダチだし……」
「待って……おいアンタ、何見てるのよ?」
私に猫なで声で嫌味ったらしく語るそいつを止め、三人のうち一人が階下にいる人物に向かって言い放つ。
「え……」
「…………」
階下で私達を見ている人物は……今朝私を助けてくれた、彼女だった。
「……じゃ、そういうことだから、約束守ってね、トモダチちゃん?」
私を脅していた奴は、白々しくそんなことを言いながら肩をぽんぽんと叩き、私から離れて他の二人と一緒に階下へと降りる。
「アンタは何も見てない。でしょ?」
「…………」
そして彼女とすれ違い様に、そんなことを彼女に向け呟いて去っていった。
いつの間にか、そいつの肩からはあの女の幽霊は消えていた。
「……なん……で……」
三人が去り、一気に緊張が解け、その場に崩れ落ちる。
そして、自然と涙が溢れ始める。
「なんで……私ばかりこんなメに……」
嫌だ。もう嫌だ。何もかも。
他人を傷付けることになんら抵抗のないクラスメイトも、私に憑き纏う幽霊も、そんなモノをミてしまう私自身も。
もう嫌だ。消えてしまいたい。楽になりたい。解放されたい。死にたい。こんな毎日、もううんざりだ。
……嗚咽を出し泣きじゃくる私の前に、彼女は歩み寄っていた。
顔を隠し涙を拭い続けている私には、今、彼女がどんな顔をして私を見下ろしているのかわからない。
ただただ彼女は、嗚咽混じりにそんなことを呟く私を、無言で傍で見詰め続けた。
「…………」
「……はい」
暫く泣き続けた私の傍に寄り、腰を降ろしてハンカチを渡す彼女。
ああ、いい人だな、なんて思ったら、また涙が溢れてきた。仕方なく受け取ったハンカチを目に押し当てる。
「……いつだって、人は醜いものよね」
前触れなく、鈴の音のような声で言葉を紡ぎ始める彼女。
「本当に醜く恐ろしい怪物は、いつだって人の中にある。人が抱える闇を前にすれば、実態のないモノなんて些細なものよ……だって、人があってのモノなのだから」
……思考が、停止する。
彼女の語る、実態のない、モノ。
それは、つまり……やはり。
「そ、それじゃっ……や、やっぱり、ミえて……」
思わず、自分が泣き顔であることすら忘れて彼女を向く。
彼女の目は、初めて会った時と同じように、私の全てを見透かしているかのように私を居抜いてて。
「本当なら関わるつもりはなかったけど……あなた、とても危ういから。それに……」
私の疑問には応えないまま、しかしその疑問の答が前提であるように、彼女は自分の言いたいことを続ける。
「あなたは、とても魅力的だわ」
私の頬を撫でる彼女のてのひらは、少し、ひやりと冷たくて。
それでも、ずっと触れられていたいと思えてしまうような温もりがあって。
――美し過ぎる彼女の笑顔に、時を忘れて見惚れてしまっていた。
「……さて、と……」
一瞬のような、永遠のような、そんな時間を忘れてしまう彼女との見詰めあいに区切りをつけ、彼女は両手をそれぞれ左右のスカートのポケットに入れる。
「しっかり拭き取らないと。今のあなたの顔、なかなか酷いわよ?」
そう言いながら、彼女が取り出したのは手鏡のようだ。たった今魅力的だとか言ってませんでしたっけ?
その右手に持った手鏡で私に自分の泣き顔を見せようとする彼女。何それ、どんな神経してんだよ。
どんな意図があってかはともかく、見せられるままにその手鏡に目を落とす……が……。
「…………ひっ!?」
その手鏡に映っていたのは。
泣きはらして目を赤くした私と、その私の背後、肩から顔を覗かせ鏡越しに私を見詰め笑っている、あの女の幽霊。
思わず私は飛び退き、鏡から自分の顔を離す。
しかし、鏡にはその幽霊が映ったままで、移動したにも関わらず私に視線を合わせ続け、大口を開けて笑って――
――ぱきっ。
「……え?」
音が、した。割れる音。硝子が……いや、鏡が。
手鏡に映ったままの幽霊。その顔、目のあたりに、突き立てられている刃物。
彼女だ。
彼女は両手を左右のポケットに入れ、右手から手鏡を取り出していた。左手はポケットに入れたまま。
その左ポケットから取り出されたもの、彫刻刀が、勢いよく幽霊の映った手鏡に降り下ろされたのだ。
突き刺された場所から亀裂が走る手鏡の中で、右目を突き刺された幽霊の顔は苦痛の表情に変わり、泣き叫ぶように悶え苦しんでいる。
「……ウフ、フフ、フ……」
信じられない光景に、その状況を作り出した彼女は、
「つかまえたぁ……ウフフフフフ……」
とても、愉しそうに手鏡と、それに刺さったままの彫刻刀、そして苦悶の表情を見せる幽霊を胸元に抱き笑うのだった。
「お、お前、なに、を……」
「そのハンカチ、返してくれるかしら? それも必要なのよ」
そして私に渡していたハンカチを取り、手鏡と彫刻刀を包んで簡単に結ぶ。
もう幽霊の姿はミえないし、声も何故かキこえなくなっていた。
「な、何……? 何をしたの……?」
目の前で起きた信じられない出来事に、混乱しながら彼女に問う。
「言ったでしょう? 捕まえたのよ? ウフフフっ、いいモノを捕まえられたわ……ウフフフフフ」
立ち上がり、小躍りしながらうっとりとハンカチで包んだモノを見詰める。
私に向けていたものとは、明らかに質が違う笑顔。
……やばい。
幽霊などという存在を捕まえることができるのか、その方法があんなものなのか、様々な疑問が浮かぶが、それ以上に理解できた事実が、私の頭の中で響き続ける。
彼女、やばすぎる。
幽霊とかさっきの強請なんかより、格が違うって理解できるくらい、やばい。
「さて、目的も済ませたことだし……あら?」
語り始めようとした彼女に踵を返し、階段を急いで降りる。
これ以上、彼女といてはいけない。そんな強迫観念にとらわれて。彼女を置き去りにして、私は教室へと走った。
「……本当の仕上げは、まだ終わっていないのよ?」
☆★
私は教室に逃げ帰り、机に突っ伏したままぐるぐり混乱する頭をどうにか落ち着かせようと努めていた。
そういえば泣きはらした後だった。もう目元なんかに跡は残っていないだろうか。誰かに見られてしまっていたら恥ずかしい。いや、私なんかのことを気に止める人がいるわけないか。
いやいや、違うだろ。彼女のことだ。
私のことを幽霊から助けてくれて、同じクラスの娘に強請られて泣いていた私を慰めてくれた彼女は、実はそのどちらよりも異常で恐ろしくて狂っていた。
だってそうでしょう? 幽霊をあんなおかしい手段で捕まえて嬉しそうに笑っていたんだよ? 私に近付いて助けたり慰めたりしたのだって、全てあの幽霊を捕まえるためだったんだ。そうに決まってる!
……いや、だけど。
それでも彼女が私を助けてくれたこと、慰めてくれたことは紛れもない事実で、たとえ目的があったにしても結果的に私が救われたことも確かで……。
そもそも、私はあの幽霊に憑き纏われていた。彼女があの幽霊を捕まえたということは、私は事実上もうあの幽霊に憑き纏われる心配もないというわけで……。
……もしかして、幽霊を捕まえたことも私のため……?
あの狂人にしか思えない笑みを思い出すと信じられないけど、その行動もまた結果的には私を助けてくれていることに変わりはない。
……後で、謝らないといけないな。というか、しっかりお礼も言っていない。
仲良くなれるかはわからない、というかあんまり関わりたくなくなっちゃったけど、少なくともそれだけはしておかないと。
そう決意して顔を上げ……
「おはよう」
「うわっ!?」
いるし。なんか目の前にいるし。
やはり私を見透かしたような眼差しのまま、微笑んでいる彼女。心臓に悪い。
「え、えっと……」
「もう、急に行っちゃうものだから驚いたわ。何か気に触ったことでもあったかしら?」
白々しくもそんなことを宣う彼女。いやいや、あんな光景を目にしてドン引きしない人なんているわけないし。
「それはそうと……」
話しかけておきながら、私の返答を待たずに視線を外す彼女。びっくりするほとマイペースだなこいつ。
仕方なく彼女の意図を知る為に彼女の視線の先を追うと……
「あー、間に合ったー」
「当たり前じゃん。ぜったい間に合うって言ったじゃん」
「あはは、アンタがいちばん慌ててただろー」
思わずびくり、と目を叛ける。彼女の目線の先の教室の出入口から入って来たのは、私を強迫したあの三人だった。
そうだ。私はまだ不幸から抜け出せていない。あの三人に言われるままにお金を明日には持って来るか、逆らって酷い目にあうことになるか。考えただけで吐きそうになる。
かなりの大金を要求されているし、仮にしっかり持ってきて渡したにしても、それで開放されるとは思えない。こういうのはエスカレートしていくものに決まっている。
かと言って逆らえば、さっき言っていた酷い目にあわされる。冗談で言っていたとは思えない。怖い。そんなのは嫌だ。
葛藤に頭を巡らせながら、あの三人と目を合わせたくなくて俯く。どうして私ばかりこんなメに……。
「え……何これ?」
私のどんどん沈む気持ちを余所に、すっとんきょうな声が耳に届く。
あの三人のうち誰かの声のようだ。その声が妙に気になり、声のした方向に目を向ける。
「あ……」
三人が机の周りに集まって、机の上に置かれている何かを見ている。どうやら私を脅していた娘の机のようだ。
その娘が「それ」を手に取る。
ハンカチ。
私がさっき涙を拭うのに使っていた、ハンカチ。
そのハンカチに包まれた、ナニカ。
思い出す、先ほどの光景。
結び目が解かれ、露になるその中身。
思わず、彼女を見る。
「え……やだなにそれ!?」
「うっわ、悪趣味~」
彼女は、変わらず全てを見透かしたような眼差しを三人に向けていて。
その口元は、
微かに、しかし、確かに……
「誰だろうねこんなの置いたの?」
「ぜったい頭おかしいってー」
割れた手鏡。
突き立てられたままの、彫刻刀。
気持ち悪そうにそれを見て感想を口走る、周囲の二人。
その手鏡を手にしている、私を脅していた娘は。
おもむろに突き立てられた彫刻刀を、手に取り、握り締め。
「え……?」
「ねえ、何して……」
自分の、
目に、
彫刻刀を……
「――っきゃああああああああっ!?!?」
「え? 痛っ……え? な、なに、こ……いた、痛い!? 嫌!? 痛い痛い痛い痛いっ!? やだっ、嫌、痛いぃっ!?!?」
信じられない光景……そんな表現をするのが今日だけで何度目だろう?
だが、今目にしている出来事は今までの比なんかじゃない。
ぽたぽたと滴る鮮血。右目に突き刺さったままの彫刻刀。響く悲鳴。教室に広がる混乱。
「な、何してるの!?」
「え、うわっ!? お前、どうしたんだそれ!?」
「や、やだ! 痛い!? 痛いよお!?」
「は、早く保健室!!」
「違うでしょ! 病院!! 誰か先生呼んできて!!」
「痛い!? やだ! 死んじゃう!? やだよ!? 死にたくないよ!! 助けて!! 誰か助けて!! 死にたくない!! やだぁぁぁぁぁっ!?!?」
混沌は瞬く間に広がった。クラスじゅうはもちろん、隣のクラスからも騒ぎを聞きつけ数人の生徒達が見に来て、騒ぎ始め、さらに人を呼び。
床や机の上に彩られる鮮やかな赤。隣り合わせの非現実の色。
やがてその娘は駆けつけた教師達に連れられ、教室を出て行った。目に刺さった彫刻刀はそのままで連れて行ったようだ。
少しずつ、彼女の悲鳴、奇声が遠ざかってゆく……。
ほとんどの生徒は、放心し沈黙していた。何人かは口を抑えながら必死になって教室から出て行く者もいた。
ほんの数分前までは誰も予想だにしなかった事態。
なんの前触れもなく、突然、クラスメイトの娘が自分で自分の目玉を刃物で――
……いや。
一人だけ、この事態を事前に予想し把握できていた人物がいる。
そのことに気付いているのは、その本人と……私だけだ。
鏡。
彫刻刀。
目。
――彼女、が。
あの手鏡も彫刻刀もハンカチも、彼女の所有物だったもののはずだ。
そう、鏡に映ったあの幽霊の目を、彫刻刀で突き刺し、「捕まえた」と語りながらハンカチで包んだ。
これは、この事態は、紛れもなく彼女が仕組んだものだ。
あの幽霊が封印された鏡をわざとあの娘の机に放置し、彼女が解き放つように仕向けたのだ。
そして、あの娘はその幽霊と同じように、目を……。
私の前に立つ、彼女を見る。
彼女は、あの娘の机を、そこに放置された割れた手鏡を見詰め……。
――狂気を孕んだ瞳で、美しい笑顔を浮かべていたのだった。
☆★
「何故あんなことを!?」
彼女をあの屋上へ伸びる階段まで連れて来て、叫んだ。
午後の授業は急遽中止となった。あの惨状を目にし気分が悪くなった生徒が多く、さらには失神した生徒までいたらしい。私のクラスは全員下校するようにと先ほど副担任から指示された。
下校を始める他の生徒に気付かれないよう、私は彼女を連れてこの場所に移動した。彼女も抵抗はせず素直に私に着いてきた。
「質問の意味がわからないわ。言いたいことは相手にしっかり伝わるように考えないといけないわよ?」
こいつ……この期に及んで白々しいことを……!!
「何故あの霊をあの娘に仕向けるようなことをしたの!? あんまりじゃない!! 信じられない!!」
「……何か誤解があるみたいね? ただの一般生徒である私が、モノを操れるような技術があるわけないじゃない」
私の追求に素知らぬ顔で反論する彼女。仮にそうだとしても! 明らかにこの事態を誘発させるよう仕向けたのはあなたでしょうが!!
「フフッ、まあ、そう言われてみればそうかもしれないわね……でも、私だって驚いているのよ? 想像を遥かに上回る成果だったのだもの」
成果? 想像? 何を言っているのだこいつは?
「私はせいぜい、あの霊が今度はあの娘に取り憑いて暫く悩ませる程度になるくらいにしか思ってなかったわ。それがまさか、あれほどまでの厄災を引き起こすなんて……やっぱりあなた、最高だわ」
語りながら何故か恍惚とした表情を私に向ける彼女。待った。言っている意味がなにひとつ理解できない。わかるように言え。
「わからない? あのモノは元々あなたに取り憑いていたのよ? だからあなたの感情の影響を受けやすくなっていた……あなたがあの娘のことを深く憎めば憎むほど、あの娘に与えられる霊障は大きなものとなっていた……フフフッ、言いたいこと、わかるかしら?」
彼女の言葉をひとつひとつ噛み砕いてどうにか理解する。それって、それじゃあ……この事態は……。
「ええ……他でもない、あなたが望んだことよ」
突きつけられた真実。いや、私には何が嘘で何が本当のことなのか判断できない。けれど、彼女の語る言葉は、どうしても嘘とは思えなかった。言いようのない真実味を帯びていた。
あの娘が自分の目に彫刻刀を突き刺した原因は、それを望んでいたのは……私自身……。
震える私に密着するほど近付き、私の両頬を優しく撫で包む彼女。
「ああ、あの時手鏡が手元になかったのが悔やまれるわ……あの時のあなたの顔……」
彼女は、彼女の笑顔は、私の脳裏に焼き付くその微笑みは、
「あんなにも心の底から沸き上がるような嬉しそうな笑顔、そうそう見れるものではないわ……そう、その笑顔よ……ああ、やっぱりあなたは最高だわ……」
――鏡なんて、いらなかった。
理解した。私が、彼女の笑顔に心を奪われてしまう理由。
彼女は、私なのだ。
狂っている彼女は、狂っている私なのだ。
彼女が狂気を瞳に宿しているならば、私も同じく狂気を孕んだ瞳を輝かせているのだろう。
――その日私は、生まれて初めて心からの笑顔が顔に出たのだった。
☆★
……あれから、数日が経ち。
「おはよー」
「おはようございます」
「お、おはよ……」
私と彼女が朝早くから駄弁っていると、登校してきたクラスメイト達からよく挨拶をされる。彼女と関わる以前の私には滅多になかったことだ。彼女はクラスメイトからなかなか人気があるみたいだ。
彼女は丁寧に挨拶を返すが、私はそういうのに慣れてなくておっかなびっくり返事をしてしまう。コミュ障で悪かったなちくしょう。
「なんか最近、二人とも仲いいね?」
「そ、そう……?」
「渡さないわよ?」
「はい?」
……彼女の冗談なのかわかりにくい発言はひとまずとして。
あの日以来、私は彼女と行動を共にすることが多くなった。休み時間やお昼の時、席が自由な授業の時とか。
ごく普通の日常的な会話から、私達二人にしか理解できないモノについての話……。
「あ、そうそう、聞いた? ××さん。例の失明した娘! もう学校には来れないんだって」
「え……」
挨拶をしてきた女生徒が、話したがりなのだろうか、私達の間に入りあの娘の話題を持ち出して来た。
少し、身構えてしまう。
だいぶほとぼりの醒めた頃だったが、罪悪感は未だに拭いきれていない。「直線手を下したわけでもないし、あの娘が恨みを買うようなことをしたことも事実なのだから気にする必要はない」、とは彼女の弁だが……。
ああ、因みにというかもちろんというか、その娘やトモダチの二人は私から金をたかろうとしていたことは忘れてしまったらしく、あれ以来私に話しかけては来ていない。というかそれどころじゃなかったしね。
「どういうことかしら?」
「んとさー、なんかあの娘、おかしくなっちゃったんだって。や、あの時もおかしかったけどさ……あの娘の友達が言うには、少し前に「潰れた目が変な景色を見せてる」とか言い出したらしくて……」
……どういうことなのだろう?
いまいち意味がわからないが、そもそもガチで発狂してしまった人の考えなんて理解できるわけないか、と自己完結する。
そこまで話して、その娘は新たに教室に入って来た友人らしい娘を見つけ、今度はその娘に向かって行ってしまった。忙しい娘だ。
「……今朝、あのモノをミたわ」
「え……?」
二人だけになってから、彼女は私にしか聴こえない程度の声で語り始めた。
彼女は幽霊のことを「モノ」と呼ぶ。話の流れからするに、あの時に件の娘の目を潰した幽霊のことだろう。
「あの姿はなかなか興味深かったわ。あなたにも是非ミせてあげたかった」
御好意は嬉しいですが、私は極力そういうモノはミたくないので丁重にお断り致します。
しかし、何だ? 興味深い姿?
「右目がね、しっかりあったのよ。左右で色が違っていたけどね」
……は?
私はあれ以来、あの幽霊の姿を見てはいない。でも、あの幽霊は鏡に映ったあの時に彼女に彫刻刀で目を刺されて潰されていた、と思っていた。
その目がしっかり残っていたということは、あの行為が幽霊に影響を与えるわけではなかったと考えられるかもしれないけど……もし、そうでないとしたら。
右目……あの幽霊と、それから、件の発狂してしまった娘が潰された目……。
それって、まさか……。
「その娘のミていた景色にも、とても興味があるわ……もう、知る術はないのでしょうけどね……」
そう言って彼女は今日も、唱うように、囀ずるように、
「本当に醜く恐ろしい怪物は、いつだって人の中にいる……私も、あなたも、発狂したあの娘も……誰もが悍ましい化物を身に秘めている……その怪物に喰われるか向き合えるかも、いつだって自分次第……モノの影響なんて些細なものよ。だって……私達は、生きているのですもの」
――美しく妖しい笑みを浮かべるのだった。
ただ在るゲンジツ。ただ広がるジジツ。ただ空虚なシンジツ。
ゲンジツはただただ無意味に横たわっていて、私達ニンゲンはその面白みのないゲンジツの中でつまらなく這いずり回っている。
ニンゲン一人一人によって多少見えるセカイの景色は変わるだろうが、それも誤差の範囲なのだ。
……けど。
どうやら「私」のゲンジツは、「私」の目に見えているセカイは、他の「ニンゲン」とは少しズレているらしい。
そして、「彼女」も。
……いや、「彼女」は。
「彼女」の見ているセカイは、きっと――