第九十九話 氏康と綱成
「おのれ……おのれ、おのれ、おのれ、ふざけおってェ!」
北条綱成が怒声をあげて拳を床に叩きつける。
場所は小田原城内にある氏康の私室。駿府から戻った北条三郎から事のあらましを聞いた氏康と綱成が、痩せ衰えた早姫の容態を見舞ってきた直後のことである。
畳に拳をめり込ませた綱成は、激情を怒声に変えて奔出させる。そうでもしなければ、胸に滾る殺意で綱成自身が焼け死んでしまいそうだった。
「武田信虎……我ら北条に手を出したこと、地獄で後悔させてくれる! 姉者、ただちにすべての五色備えを、いや、北条全軍を甲斐に差し向けましょうぞ! 不肖この綱成が先鋒を務めまする!」
「落ち着いてください、綱成。全軍を甲斐に向けるなど、それでは敵の思うつぼです」
「しかし、姉者!」
「――綱成」
不意に、氏康が声を一段階低くする。
常は笑みを絶やさない北条家の当主が、表情らしい表情を浮かべずに綱成を見ている。
首筋に冷気を感じた綱成は、びくりと身体を震わせて背筋を伸ばした。
「は、はい」
「落ち着きなさい、と言っています。一兵卒ならばいざ知らず、北条の武の頂点に立つあなたが冷静さを欠いてどうしますか。私たちの一声には数千、数万の民を戦に駆り出す力があります。だからこそ、拳を振り下ろす前に十全の思慮を働かせなければならない。それを忘れてはなりません」
そう言った氏康は唇を噛み、かすかに声を震わせた。
「……敵を許せないのは私も同じです、綱成」
「……はい。申し訳ありません、取り乱しました」
綱成は頭を下げて軽率な言動を詫びる。
大きく深呼吸して落ち着きを取り戻した綱成は、氏康に言われたとおり思慮を働かせることにした。
「信虎がお早の首を送りつけようとしたのは、北条と今川の仲を裂き、我が軍を駿河に引きずり出すためですか……いや、そうなれば甲斐を攻めている今川軍は退かざるを得なくなる。甲斐を攻め取りたい信虎にとっては好ましからぬ事態のはずですが……?」
「おそらく、甲斐における今川軍の役目は終わったのでしょう。氏真殿の役割は晴信殿の力を殺ぎ落とすこと。敵は独力で晴信殿を打倒し得ると考え、今川軍を切り捨てにかかったのだと思います」
氏康の言葉に綱成が忌々しげに膝を叩く。
「北条と今川を駿河で戦わせておいて、その間に自分は甲斐をいただくという寸法ですか。狡猾な!」
「それだけではありません。おそらく、関東の諸侯にも手を回しているはずです。敵は以前、両上杉(山内上杉家、扇谷上杉家)と結んで我が家と戦った者。みずから関東に乗り出してきたこともあります。そのときの伝手が残っていても不思議ではありません」
早姫の首で北条家を激昂させ、北条軍を駿河に誘き出した上で今川軍と死闘させ、空になった本国を関東諸侯に奪わせる。危急を知った北条軍が本国に取って返そうとしても、今川軍がそれを黙って見送るはずがない。
先に氏康が口にした「全軍を甲斐に向けるなど、それでは相手の思うつぼ」という発言の意味を悟った綱成は、ギリギリと奥歯を噛んでもう一度同じ言葉を口にした。
「狡猾なッ!」
「先の上野の敗戦で、関東では反北条の気運が高まっています。我が軍が箱根を越えて河東に出れば、関東で兵を挙げる者は必ず出てくるでしょう」
信虎は早姫の首を使って北条家を滅亡の危機に陥れようとした。北条が策略を見抜いて軍を動かさない可能性もあったが、それならそれで甲斐を奪うのに邪魔が入らないということである。信虎にとってはどちらに転んでもかまわなかったのだろう。
綱成の言うとおり狡猾な敵だった。
最悪の場合、関東管領が越後の上杉を語らって攻めて来るかもしれない。氏康はそこまで予測していたのである――もっとも、この予測は思わぬ形で覆されることになったが。
氏康は安堵を込めて胸に手をあてる。
「まさか、お早を助けるのに上杉が手を貸してくれていたとは思いもよりませんでした。感謝しなければなりませんね」
「……はあ、まあ、感謝するのにやぶさかではありませんが……」
綱成が酢でも飲んだような顔で、はきつかない返答をする。
氏康は、おや、という顔で義妹の顔をうかがった。
「何やら上杉に意趣がありそうですね、綱成?」
「むしろ、どうして姉者はそう平然としていられるのかとお訊ねしたい。先の戦、上杉が余計な手出しをしなければ、我らは何の問題もなく上野を制することができていたのです」
「そうですね、ものの見事にしてやられました。康資を失ったのは返す返すも悔やまれます」
上杉との戦で討ち取られた太田康資のことを思い起こし、氏康は面差しを伏せる。
康資は人並はずれた膂力に加えて雷のような大声の持ち主で「小田原城のどこにいても康資の居場所だけはすぐわかる」と笑い話の種にされていた。
あんなに元気一杯だった人がもうこの世にいない。つくづく乱世は諸行無常だと思う。
だが、だからといって上杉を恨む気にはなれなかった。
氏康にせよ、綱成にせよ、関東管領を攻めれば上杉が出てくるかもしれないと予測していた。その上で敗れたのであるから、恨むとすれば自分たちの不甲斐なさをこそ恨むべきであろう。
その氏康の言葉に綱成もうなずいた。
もとより根深い遺恨を抱えているわけではないのである。
そう――上野での戦の最中、蛇が這い回るような視線で己の双丘を凝視していた相手が、駿府からの一行に混じっていた。ただそれだけのことなのだ!
それを聞いた氏康は目を瞬かせて綱成を見やる。
どことなくばつが悪そうにしている義妹を見て、やがて氏康は内心で「ああ、なるほど」と密かにうなずいた。
双丘うんぬんは初耳であったが、先の戦で綱成が上杉軍 加倉相馬によって行く手を阻まれ、上杉憲政の嫡子 龍若丸を取り逃がしたことは報告を受けている。
それは綱成にとって屈辱であったに違いないが、同時に、安堵も感じていたのかもしれない。
何故といって、もし加倉が現れなければ、綱成は十に満たない子供を手にかけなければならなかったからである。
北条綱成は生粋の武人だ。龍若丸を捕らえていれば、躊躇も容赦もなく斬ったであろう。
だが、そこに何の感情も抱かない鉄の心を持っているかと問われれば、答えは否である。他の誰が知らずとも、氏康はそのことを知っている。
おそらく、綱成は加倉に対して正負いずれも合わさった複雑な感情を抱いており、その加倉が今度はお早を助けて現れたため、少しばかり混乱しているのだろう。
つまるところ、双丘うんぬんは単なる照れ隠しである。
氏康はそう判断した――もちろん、綱成本人にそうと伝えたりはしなかったが。
と、ここである着想が氏康の脳裏にぴょこんと浮かびあがった。
綱成のことは戒めたものの、氏康とて今回の敵には怒りを禁じえない。
実を言えば、ともすれば溢れ出そうになる厭悪の感情を押さえ込むことに苦心していた。このままでは冷静な判断を下せそうにない。
北条家の当主として、一時の感情に囚われて戦を決断するなどあってはならないこと。
ゆえに、ここは一つ気分転換をするべきではあるまいか。いや、するべきである。
氏康はそう考えた。
そのための口実は、たったいま綱成が持ってきてくれた。
素早く胸中で計画を立てた氏康は、これについても綱成に伝えることはしなかった。
絶対に止められるとわかりきっていたので。