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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第九十八話 海路、小田原へ



 なんと虚無僧様は輝虎様だった。

 その事実は越後の一行に大きな衝撃を与え――なかった。というのも俺以外の面々はだいたい知っていたからである。

 刑場での戦いの後、俺たちは船を奪って海上にのがれた。その船上で今さらながらに頭を抱える俺に向かって、段蔵が呆れたように口を開く。



「むしろ、何故気づかなかったのですか? 政景様だと思い込んでいたようですが、背丈からして明らかに政景様より高かったでしょうに」

「いや、正体を隠すために高下駄でも履いているのかな、と。政景様ならそれくらいやるだろうし」



 というか、そもそも輝虎様が編笠かぶってついてくるとか予想できんわい!

 可能性すら考慮していなかったから「もしかして輝虎様では?」という疑問が湧くこともなかったのだ。

 今さらながらに無数の疑問が脳内を乱舞する。



「え、なに、いったいどういうこと? 段蔵や弥太郎ははじめから知っていたのか?」

「はい」

「は、はい! ごめんなさい!」



 しれっとうなずく段蔵と、ぺこぺこ頭を下げながら認める弥太郎。

 マジですか。

 はじめからということは、甲斐に塩を運ぶ段階から、ということだよな。流れからして秀綱も知っていたのだろうと思ってそちらを見れば、狼狽する俺をおかしそうに眺めていた剣聖がかすかに顔を綻ばせてうなずいている。

 この分だと長安も知ってたな、ちくせう。



 いや、それはいい。本当はよくないが、後回しだ。

 それよりも問題は――



「あの、まさかとは思いますけど、政景様や直江殿の了解は得てますよね、輝虎様?」



 俺は輝虎様におそるおそる訊ねる。

 ちなみに、今の輝虎様は再び虚無僧姿に戻っている。実は気に入っているのだろうか。

 俺の問いを受けた輝虎様は、心配するなというように大きくうなずいてみせる。

 そうか、それならば一安心――などと思うほど今の俺は甘くなかった。



「書置きは残しておいたから大丈夫、とか言わないでしょうね?」

「……」



 輝虎様の編笠にはぽっかりと黒い穴が開いている。それが鉄砲によって撃たれた痕跡であると知ったときには肝が冷えたものだが、それはさておき、俺の追及を受けた途端、その穴がつつっと横を向いた。

 編笠をかぶってる御方が俺から視線をそらしたのである。

 おいこらマジですか、まさかの事後承諾ですか。うわあ、春日山に帰るときのこと考えたくねえ。

 無言で天を仰ぐ俺。晴れ渡った太平洋の空が目に染みた。



 と、ここで編笠の向こうから輝虎様の声が聞こえてきた。

 低く押し殺した声は、声音を変えるための努力の結果であろう。今さらその努力に何の意味があるのかはよくわからなかったが。



「加倉殿」

「……殿どの? は、はい、なんでしょうか、輝虎様?」

「それがし、上杉の当主とは別人でござる。ゆえに敬語は無用に願いたい」

「……北条の方からうかがったところによれば、おもいっきり越後守護 上杉輝虎と名乗ったそうですが?」

「それは……そう、相手を驚かせるための策でござる」

「そうきましたか」



 要するに輝虎様は主君扱いはやめて、これまでの旅路と同じように接してくれと言いたいのだろう。

 そういうわけにはいかない――と言いたいところだが、気づかなかったとはいえ、今日まで「困った守護代様だなあ」という扱いで接してきたわけだし、無礼うんぬんを口にするのは今さらかもしれん。

 むむむ……



「よし! 俺は何も見なかったし、聞かなかった。そういうことにしよう!」

「清清しい顔で後ろ向きな結論を出しましたね」



 だまらっしゃい段蔵さん。世の中には緊急避難という言葉があるんだよ。将来的に説教ないし折檻を受けることが確定された状況において、それを忘却して心の平穏を得る行為を罪とは言わぬ。

 緊急避難ではなく、ただの現実逃避のような気もするが、細かいことは気にしちゃいけない。

 俺は胸を張って段蔵に言い返した。



「猿を連れてるだけに見ざる聞かざるってな!」

「うまいこと言った、みたいな顔をされても反応に困りま――」

「…………? あ! 猿と見ざる聞かざるの『さる』を引っ掛けたんですね、相馬様! お上手です!」



 感心した顔の弥太郎に手を叩いて褒められた俺は、思わず視線をあさっての方向にそらしてしまう。

 しまった、勢いにまかせて余計なことを言わなきゃよかった。

 素直に感心されてしまうと、それはそれで恥ずかしい。

 そんな俺の姿を見た弥太郎が小首をかしげて問いかけてくる。



「あ、あれ、相馬様、どうかなさいました?」

「い、いや、なんでもない。なんでもないぞ」

「大切なのは見ざるでも聞かざるでもなく、言わざるでしたね」

「お、段蔵もお上手お上手――」

「加倉様」

「はい」

「戯言はこのあたりで」

「うっす」



 段蔵に軽く睨まれた俺は首をすくめてうなずく。

 隣では何故か弥太郎も肩を縮めてうなずいていた。

 実際、冗談を言っている場合ではないのである。当面の危機を脱したとはいえ、前途はなお多難だった。



 前述したように、俺たちはいま船に乗って太平洋を東に進んでいる。

 駿府の城代と正面きって戦った上は今さら駿河に戻ることはできない。そのため、北条一行に同道して海路で小田原に向かうことにしたのである。

 北条三郎はこちらの助力に感謝し、俺たちを賓客として扱ってくれている。船の操縦もあちら任せで、俺たちはこうしてお喋りする時間を持てていた。



 その意味では不満も不安もないのだが、小田原城の北条氏康が三郎と同じ結論に達するとは限らない。

 上野こうずけを奪った上杉一党を捕らえて首を斬る、あるいは人質として越後との交渉の道具に使う可能性もある。

 俺が輝虎様の一件で頭を抱えている理由もここにあった。

 上杉輝虎が少数の護衛だけを連れて小田原城にやってくるとか、鴨ネギどころの話ではない。心臓がきりきり痛むぞ、ほんとに。



 ぬうう、主君が我が身の危険をかえりみずにちょろちょろ動き回るのは、こうも頭と胸が痛むものだったのか。

 自分が部下の立場になると殊更ことさら良くわかるな。

 人のふり見て我がふり直せとはけだし名言である!

 ……うん、以後なるべく慎もう。



 決意をこめてうなずいていると、何故だか視界の端で弥太郎と段蔵がうれしげに手を叩いているのが見えた。

 はて、何か良いことでもあったのだろうか?

 謎である。




 俺の反省の態度を毘沙門天がよみしたもうたのか、その後の航海はきわめて順調に進んだ。

 天候は晴れ続き、波は穏やかで、懸念されていた今川水軍の追撃もない。

 あれだけのことをしでかした俺たちを見逃すなど普通なら考えられないが、現在の今川軍は主だった武将がほぼすべて甲斐に遠征している。その状況で城代という頭が抜けおちたことで、指揮系統が寸断されてしまったのだろう。



 そうこうしているうちに伊豆(北条)水軍の哨戒網に引っかかった俺たちは、海賊さながらのおっかない水兵たちに囲まれたが、彼らは北条三郎の顔を見ると歓呼の声をあげて無事を喜んだ。

 どうやらあの美少年、将兵にかなり人望がある様子である。

 人望といえば、危ういところを救われたせいか、三郎は輝虎様をいたく尊敬しているようで、船の上では何かと輝虎様に話しかけていた。



 俺はそんな三郎をある種の危惧を込めて見つめていた。



 別段、輝虎様と楽しげに話す姿に嫉妬しているわけではない。

 おそらく、三郎少年は俺の知る上杉景虎だ。

 上杉謙信の後継者の座をめぐり、上杉景勝と御館おたての乱で激突した人物。史実の謙信はいたく三郎のことを気に入り、自分の若いときの名である景虎を名乗らせたという。

 俺の所領である鮫ヶ尾城は上杉景虎終焉の地として知られている。なお、その景虎を裏切って死に追いやったのが、現在は与力として俺に仕えている堀江宗親である。

 


 ……なんだかよからぬ因縁が感じられて仕方なかった。



 ただ、そう思う一方で、考えすぎだという気もしているのである。

 この世界の三郎少年が上杉景虎になると決まったわけではない。

 仮にそうなったとしても、御館の乱が起こるとは限らない。



 諏訪の地では、過去の歴史から長坂光堅に隔意を示し、息子の昌国に誤解されて牢に放り込まれるという苦い経験もした。

 同じ過ちを繰り返してはならない。

 ここは歴史のことは綺麗さっぱり脳内から掃きだし、素直な気持ちで三郎少年と向かい合うことにしよう。

 あいにく、向こうは輝虎様に夢中で、俺のことなんぞ眼中にない様子であるが。




 そんな三郎にかわって俺の話し相手になってくれたのが御宿友綱だった。

 聞けば駿府城に火を放ち、北条姫――早姫を救出したのはこの少女なのだという。それだけ聞くとずいぶん乱暴者という印象を受けるが、実際に自分の目で見れば、長い髪をポニーテール風に結わえた、いかにも大人おとなしやかな女の子だった。

 言動も所作も丁寧で、目には理知的な光が輝いている。早姫の侍医を務めているとのことだったが、なるほど、医者らしい落ち着きぶりだと言えた。



「なんの。初対面の方の前で猫をかぶっているだけでござるぞ」

「父上ェ!」



 親御さんとの仲も良好そうで何よりである。まあ、ただ大人しいだけの少女が城に火をつけたりはしないわな。

 それはさておき、なんで俺が友綱や信貞――御宿父娘と言葉を交わしているかといえば、信貞の方から打診があったのである。

 いざというとき、友綱の身柄を上杉家であずかってはもらえまいか、と。



 主体的ではなかったにせよ、信貞は早姫の誘拐に関わった。北条家に処断される可能性は十分にある。

 その際、娘を巻き添えにすることを信貞は恐れていた。

 友綱は陰謀に関与しておらず、早姫救出に大功を立てた身なので、処断される危険は少ない。だが、北条家中で今川憎しの炎が燃え広がった場合、今川家に仕えていた友綱がそのあおりを食らってしまうことは十分に考えられる。

 そのとき、友綱を救う一手を信貞は欲したのだろう。



 こちらとしても否やはなかった。

 というか、女性の医者を召し抱えられるなら諸手をあげて歓迎する。

 輝虎様の許可が出なければ加倉家で迎え入れてもいい。

 なにせ俺のまわりには年頃の女性が多いからな。風邪一つでもばかにできない時代にあって、身近に同性の医者がいてくれる安心感は貴重だろう。



 ――問題なのは、俺たち上杉家の方こそ北条に処断されるのではないか、という点であるが、これはまあ小田原に行ってみなければわからない。

 そちらが問題なければ、上杉家はいつでも御宿家の方々を受け入れる、と二人には伝えておいた。

 あえて御宿家と述べたのは、友綱だけでなく信貞についても受け入れるという意思を伝えるためである。

 これはしっかり伝わったようで、友綱は潤んだ目で俺を見上げると、深々と頭を下げた。

 俺はなるべく優しい声音で、顔をあげるように友綱に促そうとする。

 だが、そのとき。



「キキー!」



 器用に船のへりを伝って走りよってきたさるが、赤い半纏を翻らせて俺の頭に飛び移ってきた。

 思い切り髪を引っ張られて地味に痛い。

 どうやら俺が友綱をいじめていると思ったらしい。



「ちょ、待て、こら。髪を引っ張るな!」

「キィー!」

「ええい、女の子の涙に反応して駆けつけるとか、どこのヒーローだ、おのれは!?」



 この、この、と仔猿と格闘する俺。

 その姿がおかしかったのか、顔をあげた友綱がくすりと笑い、慌てて口元を手で押さえる。

 それに気づいたのか、それとも俺を十分にこらしめたと判断したのか、仔猿は再び船のへりに飛び移ると、またまた器用にへりを伝って船内を移動し、少し離れた場所に立っていた早姫の胸元にぴょんと抱きついた。



 心得た早姫が両手をつかって仔猿の身体を受け止める。なんだかえらく通じ合ってるな、申と早姫。

 そんなことを考えていると、不意に早姫がこちらを向き、俺と真っ向から目があった。

 不思議な色合いの瞳が視界の中で瞬いている。今にも宙にとけてしまいそうな儚げな風情は、見る者に強い庇護欲を抱かせる。



 時間にしてほんの数秒、俺は間違いなく早姫に見惚れていた。

 だが、すぐに我に返ると、慌てて相手から目をそらす。

 聞けば早姫は、異性に対して強い拒絶を示すという。彼女の境遇を知れば、そうなった理由は推測できる。たとえ悪意がなくとも、俺のような男にじっと見られているだけで、向こうにとってはひどく不快であろう。気をつけねば。



 その早姫であるが、俺はともかく仔猿のことは気に入ったようで、船内ではよく肩に乗せたり、今のように腕で抱えたりしている。

 ときどき、何やら話しかけては小さく笑ったりもしているそうで、友綱はこれまでになかったことだとうれしそうに話していた。

 事この一件に関していえば、さるは俺よりよっぽど役に立っている。まったく、本当にどこのヒーローだ、お前は。




 そんなことを考えていると、不意に舳先へさきに立っていた見張りが大声をあげて前方を指し示した。

 つられてそちらに視線を向けると、海上からでもそれとわかる長大な城壁が延々と大地に連なっているのが見て取れた。城壁の向こうには見上げるばかりの城郭がそびえ立っている。

 音に聞こえた総構えと大城郭。

 相州北条家の本拠地 小田原城であった。



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