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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第九十七話 虚無僧の正体



「まさか貴様が御館様に背くとはな。律儀なだけが取り得の男と思うて油断した」



 駿府城代 根津政直はぎろりと御宿みしゅく信貞を睨む。

 この場には娘の友綱がおり、さらには姿を消した早姫までがいる。政直が「すべては信貞の仕業」と判断したのも無理からぬことであった。



「お、お待ちくだされ、城代。それがしは――」

「言い訳無用。そこの二人が何よりの証拠であろう。何やら怪しげな者どもを雇ったようであるが――あるいは、貴様は利用されただけで、首魁しゅかいはそちらか」



 政直はそう言って三郎らに視線を向ける。

 その唇が嘲るように吊りあがった。



寵童ちょうどうを装って信貞をたぶらかしたか、あるいはたぶらかされたのは娘の方か? いずこの手の者――と訊くまでもないか」



 早姫をかばう三郎を見て、政直は正確に事実を推察する。



「やはり駿府を探っていたのは貴様らか、北条。わざわざ参らずとも奥方の首はすぐに小田原に送ってやったものを。無駄足を踏んだな」

「それが氏真殿の――いや、氏真の本心か?」

「……なに?」



 三郎の問いかけに政直が眉根を寄せる。

 信虎の情報は信貞を通じてとうに北条に伝わっていると考えていたのである。

 だが、この時点で三郎たちは信虎の詳しい情報を掴んでいなかった。信貞とは顔を合わせたばかりであり、つい先ほど加倉相馬から引き渡された板垣信憲にしても情報を聞き出す時間はなかった。



 その信憲は救出の邪魔になると考えて、風魔衆の一人をつけて先に港へ向かわせている。

 むろん、政直はそんなことは知らなかったが、自分が考えているより事態が錯綜さくそうしていることには気がついた。

 駿府城代はわずかに目をすがめて三郎を見やる。



「とぼけているのか、本当に知らないのか。まあ、どちらでもよい。ここで討ちとってしまえば同じことだ」



 そう言って政直が身体を右にずらした。

 背後から現れたのは火縄銃を構えた兵士。筒先は三郎に向けられている。ここまで政直が口を動かしていたのは、射撃の準備が整うまでの時間稼ぎという意味合いもあった。

 対する三郎は火縄銃を見たことがない。

 ゆえに、その脅威を測りようもなかった。

 無防備に銃口に身を晒す三郎を見て、政直の唇が三日月の形に開かれる。



「撃て」



 政直の口が二文字をつむぎ、鉄砲を構えた兵士が引き金を引く。

 その寸前だった。



 ――ふわり、と白い布地が政直の、そして三郎の視界にひるがえる。



 編笠をかぶった虚無僧が銃口と三郎の間に割って入ったのである。

 とん、と。

 虚無僧は絶妙な力加減で三郎の身体を突き飛ばし、その場にしりもちをつかせる。



 次の瞬間、眼前で起こった出来事を、北条三郎は死ぬまで忘れることはなかった。



 カチリと小さな金属音が響く。

 途端、宙に巨大な火の花が咲いた。それが引火した火薬の爆発だと三郎が知るのは後日のこと。

 同時に落雷のような轟音が刑場に響き渡り、きりで突かれたような痛みが鼓膜を襲った。

 何の知識もなかった者たちにとってはまさしく青天の霹靂へきれき

 ほとんどの人間が大陸渡来の武器に度肝を抜かれ、耳を押さえてその場に立ち尽くす。



 しかし、銃口を向けられた虚無僧はそこに含まれなかった。

 鉄砲のことは発射の際の轟音まで含めて知り尽くしている。そう宣言するかのように、虚無僧は冷静に砲手を見据えて弾道を予測していた。

 弾が飛ぶ方向は銃身と筒先を見れば判別できる。弾が飛び出すのは引き金を引いたとき。

 それらを見極める視力と度胸があれば、あとは最小限の動きで弾道を避けるだけだ。



 ――轟音と同時に虚無僧の編笠が宙に弾き飛ばされる。

 だが、銃弾が射抜いたのは編笠のみであり、虚無僧本人は発射直前に身を沈めて銃弾を避けていた。



「あ……」



 吹き飛ばされた編笠の下から、凛とした美貌の佳人が現れる。

 長く艶やかな黒髪を白絹で結わえた姿に三郎を目を奪われた。

 多くの美男美女を輩出する北条一族の中で育った三郎は、自身にせよ、他者にせよ、顔の美醜にこだわることはない。端的にいって美形には慣れていた。



 その三郎が見惚れてしまった。

 単純に目鼻立ちが整っているというだけではない。得体の知れない攻撃を受けた直後だというのに、怖じる気配などつゆ見せず、眼差し鋭く今川兵を見据える虚無僧の姿には、全身が震えるほどの澄み切った美があった。

 英雄が持つ気格と、人格が放つ香気が確かに感じられた。



 それが三郎の思い込みではなかったことは、ほどなくして明らかになる。

 虚無僧の働きはここで終わりではなく、むしろ、ここからが本番であった。



 次の瞬間、虚無僧は地面を激しく蹴りつけ、銃を持った兵士に突っ込んでいく。

 速い、と三郎は内心で驚嘆する。

 虚無僧の刀が陽光を受けて眩くきらめくのと、片腕を切り飛ばされた今川兵が地面に倒れこむのはほとんど同時だった。



「があああああッ!!」



 右の肩口からばっさりと腕を断ち切られた兵士は、鉄砲を捨てて左手で傷口を押さえようとする。

 むろん、それで出血が止まるはずもなく、手の隙間から溢れるように血が噴き出し、地面に朱色の水たまりをつくりだしていった。

 その間にも虚無僧は右に左に刀を振るい、鉄砲を持っていた残り三人を瞬く間に斬り伏せる。

 それを見て、周囲の兵士が一斉に虚無僧に対して牙を剥いた。

 中でも、もっとも敵意をあらわにしたのは根津政直であった。それだけ虚無僧の動きに容易ならざるものを感じ取ったのであろう。



「殺せ!」



 政直の命令に応じて今川兵が虚無僧を取り囲む。いや、取り囲もうとする。

 だが、虚無僧はむざむざ包囲されるのを待ってはいなかった。流れるような身ごなしで自分から敵兵に肉薄する。

 


 最初に迎え撃ったのは三人組の兵士だった。

 息の合った攻撃で正面、左右、同時に切っ先を突きこんでくる。自ら突っ込んでいった虚無僧には避けようのない連携攻撃。

 三人組はもらったと確信しただろう。

 しかし、この三方向からの攻撃を、虚無僧はこともなげにかわし、受け止め、弾き返して凌ぎきる。しかる後、攻勢に転じて瞬く間に三人の肘を、手首を、首を斬り裂いて戦闘力を奪い去った。



 この場にいる今川兵は精鋭だ。もっといえば、信虎麾下の甲賀衆の一団。板垣信憲の馬廻うままわりに扮していた者たちと同じく、信虎にとっては虎の子の戦力である。

 その戦力が――並の兵士なら二人、三人とまとめて相手取って汗もかかない者たちが、まるで新兵のようにたやすく斬り立てられていく。



 虚無僧の動きは水が流れるにも似て、一秒とて立ち止まらず、それでいて全ての動きが理にかなっていた。無理をしていない。あらゆる攻撃に、あらゆる防御に余裕が感じられる。

 戦に慣れた甲賀衆は、この相手に安易に仕掛けるのは自殺行為であると悟った。

 ここで数人が地面に落ちていた鉄砲に目をつける。砲手は虚無僧によって真っ先に排除されたが、他の人間が鉄砲を扱えないわけではない。



 複数で同時に撃てば、先のように紙一重で銃弾を回避するような曲芸も披露できないだろう。

 今川兵はそのように考え、それは正鵠を射ていた。

 しかし、鉄砲を確保しようとした者たちは何処からともなく飛来した矢によって額を、あるいは喉を射抜かれてばたばたと倒れる。

 敵が一人ではないことを知り、今川兵の間に無音の動揺が走る。それを虚無僧は見逃さなかった。



「はあああああッ!!」



 勁烈けいれつな戦意に満ちた声を張り上げ、虚無僧が密集した敵兵に切り込んでいく。

 一対多であるにもかかわらず、周囲に満ちる苦悶と絶鳴はいずれも甲賀衆のものばかりだった。

 攻撃、防御、足運び、いずれも基本に忠実で、正道といえばこれ以上ないほどの正道。

 目に見える違いはただ一つ。

 速い。ただただ速い。

 時間にすればほんの一瞬、動作でいえば瞬き一つ。それだけで虚無僧はたやすく甲賀衆の懐に入り込み、致命的な斬撃を浴びせていく。



 甲賀衆の中には虚無僧と何合か打ち合った者もいたが、それも長くは続かなかった。

 速く重い虚無僧の斬撃を立て続けに受ければ腕は痺れ、体勢は崩れ、時には刀そのものを砕かれる。

 今もそう。

 右から左へ、横一文字に振るわれた一刀を受けそこねた甲賀衆の刀身が鈍い音をたててへし折られた。虚無僧の刀の切っ先はそのまま敵の首をえぐる。

 半ばまで断ち切られた首から、鮮血と共にひゅうひゅうと壊れた笛のような音が漏れた。



 甲賀衆は視線で合図を交わしながら、なんとか虚無僧を押し包んで討ち取ろうとするが、正面から襲い掛かった一人は袈裟懸けに斬って捨てられ、背後に回った者は首筋を矢で射抜かれ、血反吐を撒き散らして倒れこむ。

 三郎や風魔衆が手を出す隙もなく、刑場の一画は倒れ伏した甲賀衆によって埋め尽くされた。



 圧倒的に優位であったはずの形勢を覆され、根津政直はギリッと奥歯を噛んだ。

 ややあって、その口からうめくような問いが発される。



「……何者だ、貴様?」

「越後守護 上杉輝虎」



 静かに、けれどはっきりと告げられたその名を聞き、政直は驚愕をあらわにする。

 同時に、悪夢にも似たここまでの戦いが現実のものであったと改めて認識できた。噂に名高い越後の軍神であれば、なるほど、この程度のことはやってのけるだろう、と。

 だが、認識するのと納得するのとは別の話である。



「上杉、輝虎だと……? なぜ越後の大名がこんなところにいるのだ!?」

「それを知ったところで誰に語ることもできない」



 輝虎はそう言うと、軽く刀を一振りして刀身についた血を払い落とした。

 びしゃり、と音をたてて河原の石に血がはねる。



「自らを討った者の名を知らずに死ぬのは無念であろう。ゆえに名乗った。討たれる理由については己の心に問うがよい」

「ほざきおれ、女郎めろうが!」



 声高に言い返しながら、政直は内心で悔いていた。

 政直が信虎から預けられた甲賀衆しか連れてこなかったのは、その方が曲者どもを一網打尽にするには都合が良いと考えたからだ。

 駿府城に火を放った賊が、処刑にあわせて騒ぎを起こすことは十二分に予測できたこと。その際、今川兵が騒ぎに動じず、統率の取れた動きをすれば、賊が恐れて出てこないかもしれない。

 それよりは兵の動揺を放置して、賊に混乱している様を見せつけておびき出した方がいい――政直はそう考えたのである。賊の口から早姫のことが漏れた場合、何も知らない今川兵が動揺する可能性も考慮に入れていた。



 思惑どおり、賊――北条の人間は釣れた。

 予想外だったのはそこに越後の大名を名乗る者が混ざっていたことだ。まさか、ほんの一人二人に精鋭である甲賀衆が蹴散らされるとは想像だにしていなかった。



 今さらここで大声を張り上げたところで、混乱しきった今川兵が立ち直ることはありえない。

 この場はいったん退くしかない。

 ようやく駿府の城代にまで登り詰めたのだ。こんなところで死んでは、いったい何のために外道に身を落としたのか分からなくなる。



 だが、当然のこと、向こうは政直を逃がすつもりはないだろう。

 政直が今川兵を糾合すれば勝ち目はなくなる。是が非でもここで政直を討ち果たそうとするはずだ。

 どうすれば――



「どうすれば逃げられるか、などと考えても無駄だぞ」

「な!?」



 その声は前からではなく後ろから聞こえてきた。

 愕然として振り向く政直の視界に映ったのは、長大な八尺棒を構えた女武者と、傍目にも分かるほど剣気をみなぎらせた女剣士。

 そして鉄扇を片手に立っている青年の姿であった。




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