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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第九十四話 乱入



さる



 呼びかけると、少女の肩に乗っていた仔猿が一声鳴いて俺の肩に飛び移ってきた。

 それを見た今川兵が親の仇を見るような目でこちらを睨んでくる。

 その顔に×の形で刻まれた赤い線はさるの仕業だろう。思わず吹き出すと、今川兵の顔がたちまち憤怒に染まった。



「何だ貴様は!?」

狼藉ろうぜき者だ」



 端的に事実を告げると、相手は虚を突かれたように口の動きを止める。

 その隙にこちらから言葉をねじ込んだ。



「冗談だよ。駿府の城代 根津政直に用があって参上した。通らせてもらうぞ」

「い、いきなり何を言うか、ものめが! どこの誰とも知れないやからに城代様がいちいちお会いなさるわけが――」

板垣いたがき



 兵士を無視して後ろに呼びかけると、青白い顔をした板垣信憲がおぼつかない足取りで進み出てくる。

 その後ろには秀綱が従者のように付き従っていた。もちろん、実際は見張っているだけであるが。

 信憲の顔を知っていたのか、今川兵が目を見開く。



「い、板垣様!? 何故このようなところに……たしか、あなた様は目付けの一人として朝比奈様の部隊に――」

「雑兵に説明する必要はない」



 ことさら冷たい声を出して相手の疑問をさえぎる。

 唇の端を吊り上げた俺は、行く手をさえぎる者たちを睥睨へいげいしながら言葉を続けた。



「火急の用件につき、板垣信憲が諏訪より立ち返って城代に会おうというのだ。貴様らごときが口を差し挟むことではない。そこをどけ。どかぬというなら力ずくで押し通る――弥太郎!」



 俺が名前を呼ぶと、心得た弥太郎が八尺棒を持って前に出た。

 そして、右手一本で巨大な鉄棒を勢いよく真横に振るう。

 宙を断ち割る轟音がその場にいた者たちの耳朶を打ち、強い刃風が今川兵の前髪をかきあげる。

 その威に押されたように、集まった今川兵は一歩、二歩と後ずさった。



「警告は一度だけだ。次は殺すぞ」



 そう告げて俺が歩き出すと、前方を塞いでいた敵兵が慌てたように道を開ける。

 それを見て、俺はわずかに目をすがめた。

 駿府城代 根津政直が信虎の麾下であることは板垣信憲から聞き出している。なればこそ、配下の兵には初めから斬りあい上等の喧嘩腰でのぞんだのだが、どうやら全員が主のように信虎に従っているわけではなさそうだ。



 まあ、考えてみれば当たり前か。

 まっとうな家臣が主家を使い潰す計画に賛同するはずがない。

 だからこそ、信虎は今川氏真を立ててその下で動いていたのだ。

 その信虎が徐々に自身の爪牙をあらわにしている。それはつまり、氏真を立てる必要がない段階まで計画が進んでいることを意味していた。



 察するに、もうじき今川氏真は武田との戦で討死するだろう。

 むろん、そう見せかけて信虎が殺すのだ。

 氏真と氏真の妹が死ねば今川宗家――義元直系の血は絶える。信虎は外から宗家の血を引く幼児を連れてきて今川家を継がせ、みずからは摂政せっしょうとなって今川家を治めるのではないか。

 あるいはそういった迂路うろをとらず、力ずくで駿河を奪う気かもしれない。



 そのいずれにせよ、信虎が動き出せば、今川内部に潜んでいる信虎(ばつ)の人間も一斉に動き出すだろう。

 信虎を倒すと決めた以上、この連中はできるかぎり排除しておく必要があった。特に駿府城代なんぞという地位にいる人間は確実に除いておかねばならない。



 根津政直。

 俺がこの場にやってきたのはこの人物を討ち取るためである。

 今、このとき、駿府城代が富士川にいるのは天の配剤としか思えなかった。



 ――ただ、それについて気になっていることもある。

 いま天の配剤といったが、この時期に駿府の城代が気まぐれで富士川まで足を伸ばすはずがない。

 政直が富士川にやってきた理由は、駿府城に火を放った賊と、その家族を処刑するためであるという。

 俺が気になっているのはこの火災だった。



 俺が救出しようと考えていた北条姫は、この火災の際に行方知れずになったという。

 当初、俺はこれが信虎の仕業であると考えて天を仰いだ。何らかの理由で邪魔になった北条姫を、信虎が始末したのだろうと判断したのだ。

 散々苦労して川くだりをしたというのに、着いてみれば全ては終わった後。力も抜ける。

 賊を探し求める政直の行動も、謀殺を疑われないための細工だとしか思えなかった。



 だが、冷静になって考えてみれば、信虎なり政直なりがわざわざ北条姫を謀殺する理由――特に城の一部を焼いてまで殺す理由はない。もっと目立たず、確実に殺す方法はいくらでもある。

 そもそも、信虎にとって北条姫は相模に対する貴重な人質のはず。今の段階で謀殺するのは不自然だ。

 念のために板垣信憲を尋問してみたが、信憲は早姫の扱いについて詳しいことを聞いていないという。だが、少なくともこの時期に始末するという話を聞いたことはない、ということだった。



 駿府城の火災が信虎の仕業ではないと仮定すれば、今回の一件はいっぺんに色合いを変える。

 まったくの偶然であるとは考えにくい。たまたまこの時期に火が出て、たまたま北条姫が行方知れずになった、というのは偶然にしては度が過ぎている。

 何者かの意思が関わっていると考える方が自然だ。



 問題はそれが何者なのかという点だが、普通の盗賊であれば火事に乗じて蔵を狙うはず。北条姫の身柄を狙うあたり、今回の一件にかかわりのある勢力である可能性が高い。

 せんずるところ、動いたのは北条家ではないか、と俺は睨んでいた。



 俺たちが掴めた信虎の動きを、北条家が掴めない道理はない。

 なんらかの手段で信虎の蠢動を知った北条家が一族の姫を奪還した――この可能性は低くないだろう。

 もし動いたのが北条家であるとすれば、当初の目的――北条家が信虎の膝下に屈さないように人質である北条姫を助け出す――は達成されたことになる。

 俺にとっては骨折り損であるが、上杉家にとってはめでたい事だと言えるだろう。これで信虎と北条家が組む可能性は極めて低くなったのだから。



 だが一方で、信虎たちが何らかの理由で北条姫をかどわかした可能性も依然として残っている。

 そのあたりのことを根津の口からじかに聞き出したかった。



「――ま、素直に吐くとも思えないがな」



 知らず、そんな呟きがもれた。

 信憲の話を聞くかぎり、政直はかなりのやり手だ。信憲を捕らえた時のようにはいかないだろう。

 なにより駿河は俺たちにとって敵地に他ならない。情報ほしさに生け捕りを、などと甘いことを考えていると間違いなく不覚をとる。

 ゆえに俺は弥太郎たちには生け捕りのいの字も伝えていなかった。



 俺が立てた作戦は単純である。

 もうじき渡し場の方で騒ぎが起こる。段蔵が今川兵の陣屋を中心に火をかけるのだ。

 こうすれば見物人の多くはそちらに流れ、今川兵は処刑どころではなくなるだろう。その状況を見計らい、甘粕長重が今川軍の牛馬に遠矢を射掛けて騒ぎを拡大する。

 ここまでくれば根津の周囲は間違いなく混乱するし、根津当人も落ちついてはいられないだろう。

 俺と弥太郎、秀綱はその混乱を縫って根津政直を狙うのである。



 その間、虚無僧様には根津が連行してきた罪人たちを解放してもらう。駿府城の火災の真偽が分からない以上、彼らが本当に悪人とその家族である可能性もあるが――まあ、その時はその時である! 仮に悪人だったとしても、信虎の駿府城に火を放った事実は事実。彼らがいなければ根津政直が富士川にやってくることもなかったろう。

 縄を解くくらいのことをしても罰は当たるまい。



 長重には牛馬を射た後、虚無僧様の援護を重点的にしてくれるようお願いしておいた。

 正直、虚無僧様には渡し場でじっとしていてもらいたかったのだが、言っても聞いてくれないからなあ……まあ、川くだりへの同行を押し切られた時点で今さらという話であるが。

 俺は苦笑してから、ぺしりと頬を叩いて気合を入れ直した。

 


「さて、武田信虎。少々予定外だが、まず一枚、そちらの駒を落とさせてもらおうか」



 届くはずのない宣戦布告。

 その声に応じるように渡し場から轟音が響き渡り、富士川の川面を激しく波立てた。



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