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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第九十三話 富士川の邂逅



「わ!?」



 それまで黙って座っていた早姫が突然立ち上がったため、隣で手をつないで座っていた御宿友綱は、腕を引っ張られて思わず声をあげてしまった。

 場所は富士川の下流、渡し場の南に位置する広々とした河原である。

 今、この河原には駿府城代 根津政直に連行されてきた数十人の罪人が引き据えられており、これから始まるはりつけの準備が行われていた。



 罪状は駿府城の放火、並びに当主 氏真の奥方の誘拐である。

 早姫が火事で死んではいないと判明するや、政直は大々的にこれを公表して「誘拐された」早姫の行方を追った。

 城に火を放った者たちは誘拐犯の一味であり、火事の後に城に戻らなかった者はことごとく一味の者と決め付けられた。

 今、柵の中に捕らえられているのは、それら逃亡者と、逃亡者の家族である。



 彼らは哀訴あいそ泣訴きゅうそを繰り返し、そんな彼らに対して見物人たちは容赦なく罵声を浴びせた。

 その喧騒はすさまじく、だからこそ突然の早姫の行動もさして目立つことはなかった。

 だが、なにしろ早姫は根津政直らが探し求める張本人である。当然、顔を知る者も多い。絵姿も出回っている。注意を引く言動は出来るかぎり避けるべきであった。



 友綱は袖を引いて早姫に座るよう促すが、早姫は上流の方向を見据えるばかりで動こうとしない。普段は友綱の言葉に逆らうことなどまずない早姫にしては、きわめてめずらしい行動だった。

 上流――渡し場に気になることでもあるのだろうか、と友綱は思ったが、このときは友綱自身、河原に引き出された家族を案じて気も狂わんばかりに煩悶していたので、早姫のことばかり気にかけてはいられなかった。

 北条三郎や、二曲輪猪助ら風魔衆も同様である。



 それゆえ、早姫の視線が渡し場ではなく、そのはるか先、甲斐の国に向けられていたことに気づいた者はいなかった。

 早姫の頬に一筋の涙が流れたことに気づいた者もいなかった。



 ……そうこうしている間にも、処刑の準備は着々と進められていく。

 友綱は蒼白な顔でその様を見つめていた。

 このとき、北条三郎が考えた御宿みしゅく家の救出策はこうである。

 処刑前はどこも警備が厳重で手が出せなかった。

 通常、公開処刑の目的は見せしめである。隠れ潜んでいる罪人やその仲間をおびき寄せると同時に、庶民に対して「おかみに逆らえばこのような惨い目に遭わされるぞ」と見せ付けることで将来的な反抗の芽を摘むのである。

 ゆえに、処刑当日には多数の見物人が押し寄せると推測できる。



 そうなれば、風魔衆は群集という隠れ蓑にまぎれて、これまで以上の働きができる。

 それだけではない。

 警備の主力が河原に移れば、当然のこと、渡し場の警戒は手薄になる。そこを突くのである。



 具体的には渡し場の根津政直の居館に火を放ち、町中で火事だ家事だと騒いで住民を混乱させる。

 処刑場と渡し場は目と鼻の先だ。騒ぎはすぐに伝わる。そうなれば見物人たちは家族や家屋が心配で処刑見物どころではなくなるだろう。

 大勢の人間が一斉に移動しようとして、巨大な混乱が生じる。



 そのとき、身体に火をくくりつけた牛馬を処刑場に突っ込ませるのである。それにあわせて、賊が根津政直を狙っている、と騒ぎ立てる。

 ここまで混乱が重なれば、今川兵も処刑どころではなくなるだろう。

 その隙に友綱の家族を助けて海へと逃れる――というのが三郎の計画だった。



 可能であれば早姫の身は先に船に移しておきたかったが、海の脱出路も警戒は厳重だ。渡し場や処刑場で騒ぎを起こすのは、海側の警備を手薄にするためという理由もあった。



 この三郎の策を聞いた友綱はうなずいて賛意を示す。

 友綱としても、それ以上の策を考えることはできなかった。



 ただ一つ友綱が気になったのは、作戦の内容に比して北条側の人員が薄い点であった。

 成功にいたる道は綱渡りの連続。どこか一つでも失敗すればすべてが破綻してしまう。

 それが分かっていても、手勢などない友綱は北条勢に頼らざるを得なかった。そもそも、早姫を助けに来た彼らにとって、友綱の家族を助けるなど無駄以外の何物でもない。助けてくれるというのであれば、感謝して任せる以外に道はなかった。



 ――だが。

 友綱の不安は早速的中してしまう。



 刻限になっても町で騒ぎが起こらないのだ。

 渡し場で騒ぎを起こすのは作戦の大前提。すべてが河原で推移すれば、今川兵もそれだけ落ち着いて行動できる。付け込む隙も小さくなる。

 三郎が苛立たしげに二曲輪猪助に問いかけた。



「猪助、どうなっている!?」

「思うたより渡し場の警戒が厳重なのやも知れませぬ」

「知れませぬ、ではない! これではこの場の今川兵をすべて我らで相手取ることになるではないかッ」



 それが自殺行為であることは三郎にも分かっている。

 だからこそ声を荒げたのだが、猪助は眉一つ動かさずにあっさり応じた。



「であれば、この場は退くことも考慮すべきでありましょう」

「何をたわけたことを。そのような不義理が――」

「ならば何の手立てもないまま押し入り、我らの命も、ご自身の命も、姫様の命も、御宿殿の命も、すべて磨り潰しますか?」



 冷然と告げる猪助に、三郎は眉を吊り上げた。



「そこを何とかするのがそなたの役目であろうが!」

「三郎様、我らとて出来ないことはございます。むろん、三郎様が命がけで事に当たれと仰るのであれば従いまする。なれど、出来ないことを出来ると偽ることは我が任ではございません。そも、こう申しては御宿殿に申し訳なきことながら、我らの役割は姫様の奪還でござる」

「……まずはおはやを助けることを優先せよ、ということか」

「御意」



 猪助は頭を垂れる。

 実を言えば、このとき、放火の実行を遅らせたのは猪助の指示であった。

 もとより猪助は三郎と早姫を小田原に送り届けることを最優先に考えている。余力があれば、御宿友綱やその家族を助けることはやぶさかではないが、余力がない状態で余計なことに力を割き、途上で果てるような無様をさらす気はさらさらなかった。



 とはいえ、それをそのまま三郎に告げたところで、性情に潔癖なものを持つ若武者がうなずくはずもない。

 なので、まずは急場をこしらえ、そこで三郎の選択肢を狭めておく必要があったのである。

 その上で混乱を起こし、三郎と早姫の身を海上に移す。そのとき、可能であれば友綱とその家族を助ける――それが猪助の算段であった。



 そして、それは友綱が正確に理解するところとなる。

 一瞬、友綱は眉根を寄せたが、すぐに仕方ないと諦めた。

 もとより北条家には友綱や家族を守る義務などない。こちらは早姫を助けてやったのに、と責め立てることもできるが、この状況では言っても詮無せんないことであろう。

 最悪、邪魔者と判断されて猪助に切り殺されることになりかねぬ。



「……そういうことであれば、行動を共にするのはここまでですね」



 そう言った友綱の言葉は、自分でもびっくりするくらい冷めた声音をしていた。

 これに三郎が慌てたように反応する。



「待ってくれ、御宿殿! 今のはあくまで猪助の考え。私は賛同していないッ」

「いえ、北条家のお立場を考えれば、猪助殿の意見が正しかろうと存ずる。ここよりは私は家族、そちらは姫様、それぞれの大切な者のために行動した方がよろしいでしょう」

「だが、御宿殿には手勢の一人もいない。それでは家族を助けることなど……」

「もとより城に火を放ったのは私です。その結果として今日の事態を招いたのですから、責任は取らないといけないでしょう」



 友綱が名乗り出れば、刑場の注意は友綱に集中する。

 その間に北条が騒ぎを起こして、それに乗じることができればよし。出来なければ、罪にふさわしい罰を受けるだけだ。

 ひとたび決意してしまえば、心は先刻よりも軽くなった。

 もしかしたら、単に捨て鉢になっただけかもしれないが。



「私などが申し上げることではございませんが、どうか姫様をお願いいたします」



 そう言って三郎に頭を下げると、相手の返答を待たずに友綱は視線を早姫に移した。

 と、黒とも藍とも取れる不思議な色合いの双眸がじっと友綱を見つめていた。先ほど北の方角を見据えていた早姫は、いつの間にか友綱へと視線を戻していたのである。

 早姫の眼差しにこれまでとは違う何かを感じた友綱が、いぶかしげに目を細める。



 すると、早姫は力を込めて友綱の手をぎゅっと握り締めた。

 そして、戸惑いの消えない友綱から手を離すと、きびすを返して河原に向かって歩き始める。

 早姫が人ごみの中で自分から友綱のそばを離れ、あまつさえ背を向けて歩き出すなどはじめてのこと。くわえて、見物人の大半は男性であり、警備の兵士にいたってはすべて男。

 いまだ三郎にさえ怯えを見せる早姫がそこに向かって歩いていくなど、二重三重の意味でありえない行動だった。



 そんな早姫を見て、友綱と三郎は少しの間呆然としてしまう。猪助は意思の力で驚きを抑え込んだが、猪助が早姫を止めれば、あの魂消たまげるような絶叫があたりに響き渡ることになろう。



「――三郎様、御宿殿!」



 猪助の小声の叱咤を浴びて、はっと我に返った二人は慌てて早姫の後を追う。

 友綱などは思わず「姫様!」と呼びかけようとして、すんでのところで口を噤んだ。

 おそらく見物人の中には今川の手の者が紛れ込んでいる。こんなところで求めて注目を浴びるのは愚かなことであった。



 友綱らが自失していたのはわずかな時間であり、その間に早姫が進んだ距離はわずかな距離に過ぎなかった。

 だが、不運なことに、刑場の警備に当たっていた今川兵がこの早姫の動きに気づいてしまう。

 あるいは、はじめから友綱たちを怪しいと判断して警戒していたのかもしれない。友綱たちは目立たないように粗衣をまとい、顔には泥を塗っていたが、それでも端整な面立ちを隠しきれるものではない。



「そこの者ども、止まれ!」



 不審な動きを見せる友綱たちを睨み付けながら、数名の今川兵が近づいてくる。



「貴様ら、いずこの者だ? 農民や漁師とは思えぬ面構えをしているが――」



 先頭の兵士が居丈高に詰問しながら早姫の肩に手を伸ばす。

 その手が触れれば、早姫は刑場全体に響き渡る悲鳴を発することになるだろう。根津政直などは早姫の状態を知っている。政直に気づかれればおしまいだった。



 友綱と三郎が早姫をかばおうと動き出す。

 が、このとき、二人に先んじて動いたモノがいた。

 まりのような丸々とした影が、いきなり今川兵の顔に飛びついたのである。



「ぬお!? ぐ、この、なんだ……ぎゃ!?」



 突如、顔に張り付いた何かを引き剥がそうとしていた今川兵の口から悲鳴があがる。

 その影は兵士の頭を蹴って空中できれいに一回転すると、そのまま早姫の肩に飛び乗った。

 得意げにキッキキッキと騒ぐ「それ」を見て、友綱がぽかんと口を開ける。



「……さ、猿?」



 確かにそれは猿だった。赤い半纏はんてんを着た仔猿が、早姫の肩で得意げに飛び跳ねている。

 格好からして何者かに飼われているのだろう。

 見れば早姫に掴みかかろうとしていた今川兵の顔に赤い線が走っている。仔猿に思い切り引っかかれたらしい。



 今川兵が憤激もあらわに仔猿を睨みつけ、次いで仔猿を肩に乗せている早姫を見据えた。

 向こうから見れば、早姫こそ仔猿の飼い主であると思えたのだろう。

 今にも切りかからんばかりの形相を見せる兵士を止めようと、友綱は足を踏み出す。




 ――そのとき

 ――ふと、横合から風を感じた




 友綱のかたわらを一人の青年が通り過ぎていく。

 いつの間に後ろまで歩み寄っていたのか、まったく気づかなかった。

 青年はまっすぐ今川兵に向かっていく。武器を持って憤激している兵士と対峙しようとしているのに、その足取りは散歩の最中のように軽い。気のせいか、鼻歌のようなものまで聞こえてきた気がした。

 一瞬だけ見えた横顔にも緊張の色はなく、唇は笑みの形に吊りあがっている。



 それを見た瞬間、友綱の心臓が大きく一つ脈打った。

 どくん、と音を立てて。

 その理由が何なのか、このときの友綱には分からなかった。



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