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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第九十二話 血祭り



「武田の爺。そなたは……」

「爺、爺とうるさいわ、氏真。親離れできぬわらべでもあるまいに。ああ、それとも義元亡き後、わしに親の影でも見ていたか? だとすれば間の抜けたことよな」



 信虎が歯をむき出しにして哄笑を発するや、それまで氏真の後ろに控えていた側近たちが堪りかねて進み出てきた。

 側近の一人、庵原忠胤が顔を真っ赤にして口を開く。



「武田殿! 先ほどから聞いておれば、氏真様に対して何たる口の聞き方か! それに今のげん、奥方のかどわかしもおぬしの仕業と聞こえたぞ!?」

「聞こえたも何も、そう申したであろうが。ただまあ、正直なところ、ここまでうまく事が運ぶとは思うておらなんだ。朝比奈といい、岡部といい、庵原いはら、おぬしといい、今川の家臣どもは凡骨ぼんこつばかりよな。義元と雪斎があの世で嘆いておるぞ」

「どの口が言うか、裏切り者が! ここで貴様を八つ裂きにして、そのしわ首を先君の墓前に供えてくれるッ! 忠縁ただより、信虎の太刀を奪え!」



 忠胤の怒声に背を蹴飛ばされるように、庵原忠縁が床に転がった信虎の刀に飛びつき、鞘を引っつかんで後方に下がる。

 これで信虎の武器は脇差のみとなった。それを見て、忠胤以外の側近たちがばらばらと信虎の周囲を取り囲む。



「奸智に溺れたな、信虎! その邪心、今ここで断ち切ってくれよう!」

「くかか! これまでわしの影さえ掴めなんだうぬらに一体なにができるというのだ。まさか、わしが何の備えもなしにこの寺に案内あないしたとでも思うておるのか?」

「貴様こそ、我らが何の備えもなしに貴様に付いてきたとでも思うておるのか! 外には我らの手勢を伏せておる。合図を送れば、すぐにもこの場に踏み込んでくるわ!」

「ほうほう、手勢をなあ。ならば待っていてやるゆえ、さっさと合図を送るがいい」

「わざわざ新手を呼ぶまでもない。脇差一本で我ら全員を相手にできると思っておるのか!?」



 忠胤が一歩進み出ると、信虎は愉しげに笑いながら床に手を伸ばし、無造作に床板を取り外す。

 床板の下には一本の太刀が隠されていた。

 忠胤が忌々しげに眉をひそめる。



「小細工を……」

「まさに奸智、といったところかの」



 太刀を取り出した信虎がゆっくりと鞘を払う。

 それを見た瞬間、それまで呆然と佇んでいた氏真がうめき声を漏らした。



「爺……その刀は……!」

「さよう。宗三そうざ左文字さもんじ。わしが三好宗三より授かり、後に義元に授けてやった刀よ。義元を討ったおり、取り返しておいたのじゃ」

「…………父上を、討ったおり、だと?」

「正確にはこの手でいびり殺してやったおり、であるがな。くふふ、義元は我が娘をめとり、我が宝刀を授けられた恩を忘れて晴信と組み、わしを逼塞ひっそくせしめた。忘恩の愚か者は、罪にふさわしい罰を受けおったわ」



 我が手に戻ってきた愛刀を一振りした信虎は、満足げに左文字の刃紋を撫でた。



「あいもかわらず見事なものよ。幾度、義元を蹴倒して奪い返してやろうと夢想したか。義元から奪い返した後も、うぬらの目を欺くためにくことができなんだが、ようやく今日という日が来たわい。これよりは誰はばかることなく左文字で敵を斬り殺してくれよう。これを機に信虎左文字と名を改めての」

「……そうか。爺、まことなのだな……まことに爺が父上を……」

「おお、まことまこと。まことにわしが貴様の父を殺し、妻をなぶり、妹を死に追いやった張本人よ。妹も狂うまで犯しぬいてやろうと思うたが、よほどにわしの書いた絶縁状が衝撃であったのか、骨と皮ばかりになりおったからな。仕方なく、鶏のごとくくびり殺してやったぞ。くあっはははは!」



 哄笑する信虎を見て、氏真の顔色は死人のごとく青ざめた。

 ぎり、と奥歯をかみ締めた後、手にしていた刀を構えなおす。それを見て、忠胤ら側近たちもあらためて信虎に刀の切っ先を突きつけた。

 それでも余裕を崩さない信虎に対し、氏真は唸るように問いかける。



「……何故だ。何故裏切った? 私は、今川は、そなたを厚く遇したはずだ!」

「躑躅ヶ崎の乱で晴信めに敗れ、助力を求めて駿府を訪れたわしを今川家は幽閉しおった。おおかた、年若としわかな晴信が国主である方が甲斐を御しやすいとでも思うたのであろうな。で、これのどこが厚遇じゃ? 貴様のような青二才に頭をかがめ、膝を屈する生活なぞ屈辱以外の何物でもないわい」



 信虎はそこまで言うと唇の端を吊り上げた。



「ただ、義元を殺した後のうぬの動きはわしの予想を超えておった。甲斐を攻めるまでうぬが保つ可能性は五分――いや、せいぜい三分と見ておったのだが、今日まで潰れなかったことは見事と褒めておこう。さすがは海道一の弓取り 今川義元の子にして、太原雪斎の薫陶を受けた者よ。今日、こうしてうぬをここに案内あないしたのはな、わしからの褒美と思うがよい」

「褒美……?」

「わしを興がらせた褒美よ。うぬがつまらぬ男であれば、ここに来る道すがら、側近ともどもくびり殺して仕舞いにしたが、今日までわしの笛に合わせて踊ってくれたうぬの労をねぎらうため、わしも最後まで踊ることにしたのじゃよ。果たしてこやつはいつ真相に気づくのか、と腹の中でせせら笑いながらな」

「爺……!」

「途中からずいぶんとわしの仕業じゃと臭わせたのだが、くかか、結局最後まで気づかなんだな。ま、それほどまで信頼されていたと思えば情も湧く。ゆえに一つ、面白いことを教えてやろう」



 信虎の口から奇妙に長い舌が伸び、べろりと唇を舐めた。



「うぬが駿府の城代に任じた根津、あれはわしの手下てかでな。先ごろ、あやつにこう命じておいた。うぬの妻、早姫の首を切って北条に送れと」

「なんだとッ!?」

「今頃、うぬの妻は首だけになって小田原への道を駆けているであろう。あるいはもう到着したかの? これにて今川と北条は破約、開戦じゃ。仮にわしをここで討ったとしても、うぬらが帰る頃には駿河は北条領となっていよう。今川家はもう終わりじゃて」



 その言葉に応じたのは、氏真ではなく庵原忠胤だった。

 氏真をかばうように前に出た忠胤は勁烈な眼光で信虎を睨みつける。



「ふざけるな! 貴様の姦策かんさくなどで今川家がついえるものか! すべては貴様の仕業だと知らしめれば――」

「ほう? 義元が死んだのも、雪斎が死んだのも、駿河の粛清も、遠江の弾圧も、甲斐への侵攻も、そしておのが妻の首を切って北条に送りつけたのも、すべてわしの仕業であり、氏真は何も知らなかったと言い抜けるのか。くかかかか! まあ、たしかにそのとおりといえばそのとおりじゃが、それを聞いた家臣や領民はなんと思うのかのう? わしにいいように振り回されて、何一つ食い止められなかった今川氏真は赤子か、案山子かかしかと侮蔑するのではないか? 求めて領内と諸国に恥を晒すようなもの。そんな氏真が今川家を背負って立てると、うぬは本気で思うておるのか、忠胤?」

「ぬ……」



 忠胤が忌々しげに歯ぎしりする。

 信虎の言うとおり、もはや事態は信虎を討てば解決するというものではない。そんな段階はとうに通り過ぎてしまっている。

 と、ここで氏真が口を開いた。



「何故だ、爺――いや、信虎。今川を恨んでいたことはわかった。今川一族に報復を望んでいたこともわかった。だが妻を、おはやを殺す必要がどこにあった!? 政直がおぬしの手下てかであったのなら尚のこと、ここで北条の怒りを買って駿河を奪わせる意味などないではないか!? 私を討ち、甲斐を奪い、駿河を己の手に収め、おはやを人質にして北条と有利な盟約を結ぶ。それができたのに、何故おはやの首を斬るなどという真似をしたのだ!?」

「ただの嫌がらせじゃよ」

「…………なに?」

「北条の女郎めろう――ああ、これは幻庵ばばあのことじゃが、あやつには昔、戦場いくさばで不覚をとったことがあっての。愛娘の首を送ってその意趣返しをしようという寸法じゃ」



 あっけらかんと言い放つ信虎を見て、氏真は歯ぎしりしつつ柄を握りしめた。



「そんなことのためにか……!」

「そんなことのためじゃ。ああ、もちろん今川への意趣返しの意味もあるがの。どうじゃ、氏真? 父を、妹を、妻を、同じ者に殺された気分は? その者を信頼し、重用し、父から託された家を滅亡に導いた気分は?」

「信虎…………ッ」

「くかか、さぞにがかろう! さぞにくかろう! かなうならば全てをやり直したかろうな? じゃが、もはや手遅れよ! うぬは子として父を守れず、兄として妹を守れず、夫として妻を守れず、そして当主として家を守れなんだ愚か者じゃ!」

「信虎……ッ」

「今川家は滅びる。ただ滅びるだけではないぞ。こたびの今川軍の振る舞いは、すべて今川氏真の指示として史書に刻まれる。家を焼き、民を殺し、土地を汚した醜行は、未来永劫、うぬの行いとして語り継がれるのじゃ! 義元はうぬの父として、雪斎はうぬの師として、千載せんざいのちも消えない汚名をかぶるのじゃ! くかか、うぬは家族、家門だけでなく、弟子として師の名誉も守れなんだことになるのう。今川氏真とは何のために生まれ、何のために死んでいくのやら! 草葉のかげで義元と雪斎が泣いておるぞ、氏真ェ!!」

「信虎アアアアアッ!!!!」



 吼えるような絶叫と共に氏真が信虎に突っ込んだ。

 前に立っていた忠胤をおしのけ、信虎の首めがけて横なぎの一刀を振るう。

 型も何もない力任せの攻撃。信虎はたやすく太刀筋を見切り、軽く半歩退くことで切っ先を避けた。

 そして、渾身の一刀を避けられ、体勢を崩している氏真に向かって宗三左文字を振るう。



 名刀の刃が、講堂内の燭台の明かりを映して鮮紅色に輝く。

 と、次の瞬間、ぼとりと音を立てて何かが床に落ちた。



 ――それは、氏真が持っていた刀だった。

 刀だけではない。氏真の両手は柄を握ったままであった。左右の手は肘のあたりまで続き、そこでばっさりと断ち切られている。 



「……あ……あ、がああああアアアアアッ!!?」



 再度、氏真の絶叫が講堂を揺るがした。

 それを見た庵原忠胤らが怒声をあげて信虎に斬りかかろうとしたとき、音をたてて講堂の入り口が開かれ、そこから黒装束の男たちが踏み込んでくる。

 いずれも武器を持ち、しかもその武器はすでに赤黒い液体がべたりと付着していた。

 彼らを見た信虎が無造作に命じる。



「盛清、全員殺せ。今日は武田左京大夫(さきょうだゆう)信虎が再び世に出るき日。血祭りじゃ」

「御意」



 鬼面の指揮官が応じる。

 黒装束の数は氏真らの倍を数える。

 抵抗はすべて無駄に終わった。




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