第九十一話 雌伏は終わりて
「爺よ。躑躅ヶ崎館を前にして、私に会わせたい者とは何者ぞ?」
日が沈んだ甲府盆地の一画。
人の気配のない廃寺に連れて来られた今川氏真が武田信虎に訊ねた。
氏真の周囲には庵原忠胤、忠縁ら十名あまりの側近たちが付き従っている。
仮にも敵の本拠地に攻め込んでいる今、少人数での行動は無用心に過ぎると忠胤らは訴えたが、信虎を信頼する氏真はさして迷うことなくこの場に足を運んでいた。
「さようですな。強いてたとえれば、氏真様にとって千金を費やしても対面を望む者、とでも申しましょうか」
「ふむ? 私が千金を費やしても会いたいと望む人物、か。諸葛孔明のような優れた隠士と引き合わせてくれるのか?」
「ま、ま、答えを急がれるな。ささ、こちらでござる」
氏真たちは導かれるままに廃寺へと足を踏み入れる。
と、ここで氏真は自分の勘違いに気が付いた。人気がないゆえに廃寺だと思い込んでいたが、間近で見れば建物に痛んだところはなく、中庭の草木も手入れが行き届いている。
「住職は戦火を避けて寺を捨てたのか?」
「御意。このあたりの者どもは今川軍の武威を恐れ、ことごとく甲府へと避難しております」
「ふん。今ごろ晴信めは、領民どもによってたかって縋りつかれて身動き取れなくなっていような」
狙いどおりだ、と氏真が唇を曲げて嘲笑を発する。
酷薄さと陰惨さを溶け合わせたその表情は悪鬼羅刹を思わせる。かつての端麗な容姿は見る影もなく、桶狭間以前の氏真しか知らない者が今の氏真を見ても、同一人物と判断することはきわめて難しいであろう。
やがて今川一行は信虎によって講堂に招じ入れられる。
そこで氏真は一人の若者の姿を目にした。
膝をついて氏真らを迎えるその若者は、容姿といい所作といい、いかにも優れた禀質を感じさせる。
氏真に従っていた庵原忠胤などは思わず嘆声をこぼしたほどだ。
だが、氏真は露骨に眉をしかめた。
何故だか、若者の澄んだ眼差しが不快に思えてならない。別段、相手の視線に軽侮を感じたわけでもないのだが。
それに、この顔はどこかで見たことがある――そんな気がした。
「――爺。引き合わせたい者とはこの者のことか? どこかで見たような面構えをしているが……」
「武田の血を引いている者ですからな。わしの面影があっても不思議ではありませぬ」
「武田の? 爺の遠縁か?」
「そんなところでござる。さ、氏真様、お座りくだされ。皆々もどうぞ」
用意されていた虎の敷物の上に氏真が座ると、忠胤たちも主君に続いて腰を下ろした。
むろん、全員が手元に武器を置いている。氏真はともかく、忠胤たちは信虎を信用していない。信虎には内密で、寺の外に手勢を控えさせてもいた。
そんな警戒の視線を塵ほども気にかけず、信虎は再び口を開く。
「本来ならここで酒肴を出すところですが、場所も場所、時も時ゆえ、そちらは無しということでご理解くだされ」
「かまわぬ。爺には悪いが、甲斐で饗応されたところで心から愉しめるはずもない。それより、もったいぶらずに教えてくれ。そやつは何者だ? 見覚えはあるはずなのに、どうにも名前が出てこないのだ」
信虎の面影がある、などという話ではない。
氏真は確かに目の前の若者を知っている。さして昔のことではない、と感覚が告げている。
だというのに一向に名前が思い出せない。氏真は苛立たしげに顔をしかめた。
そんな氏真を見て、信虎が愉快そうに身体をゆする。
「はっは、それは仕方のないこと。氏真様はこの者と言葉を交わしたことはござらぬし、そも、直接に顔を見たわけでもありませんからな」
「なに?」
氏真が訝しげな顔をする。
顔を見たことがなければ見覚えがあるはずはない。
しごく当然のことを考えた氏真に対し、信虎はにたりと笑って告げた。
「絵姿で見たのですよ」
「絵姿? そんなもの、私がいったい何時見たと……いや、待て…………待て! 絵姿、絵姿だと!?」
信虎の言葉に記憶の一隅を刺激された氏真が血相を変えて立ち上がる。
刀の鞘を掴んだ左手がぶるぶると震えていた。
「絵姿! それに武田の血を引いている!? 爺、そやつ、もしや……!」
「御意。ほれ、名乗るがいい」
信虎が促すと、それまで黙して座っていた若者は、非の打ち所のない作法で一礼すると、怖じることなく自らの名前を告げた。
「お初にお目にかかります。武田信虎が息、武田晴信が弟、武田信繁と申します」
「やはりかァ!!」
信繁が自らの名を告げるや、氏真は音高く刀の鞘を払っていた。
目は血走り、眉は吊り上がり、髪は逆立って天を衝いている。
憤激のあまり真っ赤になった氏真は瞬く間に信繁との距離を詰め、問答無用とばかりに斬りかかった。
空気すら両断する勢いで振るわれた一刀には必殺の意思が充満していた。寸前で刃を止める気など微塵もない。
対する信繁は、武器を持たずにこの場に来ていた。
ゆえに、耳を焼くような擦過音と共に氏真の刃を止めたのは信繁ではなく――
「どういうつもりか、爺!」
自身の一刀を受け止めた信虎を見て、氏真は低い声で問いかける。
これに対して、信虎はこちらも沈痛な声で応じた。
「どうか、これの話に耳を傾けてやってくれませぬか、氏真様。爺のこれまでの奉公の全てを捧げて、お願い申し上げる」
「今さら裏切り者の話を聞いて何としよう。そこをどけ、爺」
「どうしてもお聞き届けいただけぬというのであれば、まずはこの爺めをお斬りくだされ。これこのとおり、抵抗はいたしませぬ」
そう言うと信虎は、今しがた氏真の一刀を受け止めた刀を放り投げた。
音高く床を転がる刀の音を聞きながら、氏真は小さく舌打ちする。
「いくら爺の子とはいえ、今さら命乞いなど聞き入れぬぞ。余人ならいざ知らず、晴信と信繁、この二人は必ず殺すと妹の墓前で誓ったのだ!」
激情を抑えかねた氏真は、踏み砕かんばかりの勢いで床を蹴りつける。
そうして、ぎりぎりと歯を鳴らしながら信繁をにらみつけた。
「貴様も貴様ぞ、武田信繁! 今川家を裏切っただけならば、戦国の世の習いと割り切ることもできたであろう! だが、かりそめにも許婚であった妹にあのような雑言を書き送っておいて、よくも兄たる私の前に顔を出せたものだ!」
氏真が吼えると、ここではじめて信繁が口を開いた。
それまで氏真の激情を真っ向から受け止め、怯む色を見せなかった信繁は眉をひそめながら言う。
「お待ちください。妹御に雑言を書き送った、とは何のことでしょうか?」
「何のこと!? 貴様が妹に送った書状のことに決まっておろうが!」
「お待ちあれ! 私は駿府に書状を送ったことなど、ただの一度もありません!」
「ふざけるなァ!!」
見に覚えのないことを責められ、信繁が声を高くして否定する。
それを聞いた氏真は、もはや我慢ならぬと言わんばかりに再び刀を振り上げた。
だが、信虎が再びその前に立ちはだかって首を左右に振る。
氏真は忌々しげに刀を下ろすと、乱暴に懐に手を入れ、一通の書状を取り出す。
そして、それを信繁に向かって投げつけた。
「貴様でないなら誰がこの書状を書いたというのだ、うつけ者が!」
投げつけられた書状を掴み取った信繁は、険しい顔で中身をあらためる。
すると――なるほど、そこには読んだ者が顔をしかめるような内容の文章がつらつらと書き連ねられていた。これを読んだ今川姫が衝撃を受けたというのもうなずける。
だが、信繁は断じてこんなものは書いていない。それ以前に筆跡が違う。
信繁はそれをそのまま口にした。
「このような書状、書いた覚えも送った覚えもありませんし、そもそも筆跡が違いまする。お望みとあらばこの場で同じ文面を書きますゆえ、見比べていただきたい」
「ふん。くだらぬ言い訳をするな。我が妹が受け取った書状はそれだけではない。私は妹の遺品を調べ、すべてこの目で確認した。送られてきた十を越える書状はみな同じ筆跡であったわ! 貴様でなければ一体誰が送ったというのだ!?」
「……十を越える? 先ほども申し上げましたが、私は駿府に書状を送ったことはただの一度もございません。その書状とやらは、いったい誰が届けたものなのですか?」
ち、と音高く舌打ちした氏真はちらと信虎を見やる。
まだこの茶番を続けねばならないのか、と言外に問うていた。信虎が首を縦に振ると、きこえよがしのため息を吐きながら信繁に応じた。
「そば付きの者を通して、甲斐の商人に託していたという話だ。書状を出すのも、受け取るのもな」
「それでは急ぎその商人を取り調べるべきです。その者こそ、妹君を死に追いやった張本人――」
「もうよい!!」
氏真は煩わしいものを払うように顔の前で手を一振りすると、信繁をにらみ付ける。
「どうして私が貴様の指図を受けねばならぬ!? そもそも、貴様の姉が今川家を見限り、婚約を反故にしたと同時にこの手紙は送り届けられたのだ! これだけでも貴様ら姉弟の関与は明白である!」
と、ここで信虎が不意に吼えるように口を挟んだ。
「そこでござる、氏真様!」
「な、なんだ、爺? いきなり大声を出して」
「たしかに時期から見て、妹君に届けられた書状が武田に関わる者の手で書かれたことは疑いござらぬ。したが、信繁は書いていないという。であれば、信繁以外に武田の外交を知悉した何者かが書状を妹君に送った――この可能性を考えてみるべきではござるまいか」
「可能性といったところで、信繁以外に晴信の決定を知っている者など……」
氏真はかすかに眉根を寄せて信虎の意図を探った。
ややあって、氏真は大きく目を見開く。
「まさか、晴信の仕業だというのか!?」
「お待ちください! 御館様がそのようなことをなさるはずが――!」
信繁がすぐさま否定の語を発しようとする。
信虎はそんな我が子を目線と言葉で制した。
「信繁、控えておれ――氏真様、晴信をかばうわけではござらぬが、あれは諸事において無駄を嫌う者。こう申しては不敬ながら、妹君には家中における発言権はありませなんだ。その妹君に信繁の名を騙って十通以上の文を送るなど、何の意味もない行い。晴信がそのようなことをするとは思えませぬ」
そう言うと、信虎は強い眼差しで氏真を見据えた。
「そも、武田が今川家を見限ったと同時に、妹君に対して信繁の名で手酷く拒絶を突きつけることに何の意味がござろうか? わしが思うに、その行いに意味があるとすれば――」
「あるとすれば、何だというのだ?」
「それは恨みでござろう」
「恨み……私、いや、今川家、今川一族への恨みか?」
氏真の反問に信虎は大きくうなずく。
「そうとでも考えなければ、妹君の件はおかしゅうござる。もしやすると、奥方のことも根を同じうしておるやも知れませぬな」
「お早をかどわかした者と、妹を死に追いやった者が同じと申すか!?」
「御意。そうでもなければ、あのようなむごい仕打ちはそうそう出来るものではありますまいて。いやいや、事によったら桶狭間の戦いさえ、その者の意思が関わっていたのやも知れませぬ」
「どういうことだ、爺!?」
詰め寄る氏真に対し、信虎はあごひげをひねりながら続ける。
「奥方をかどわかし、氏真様を追い詰めて義元公のもとへ追いやる。そうなれば、義元公は自由に動けなくなり、結果として戦場で隙を晒すことになりましょう。事実、桶狭間の戦いはそうして起こったわけですからな」
「まさか、そのような……」
「むろん単なる偶然やも知れませぬ。ですが、この短い時日に今川家に立て続けに不幸が続いたこと、それも御家の命運に関わる極めて重大な不幸が生じたこと――これは何人にも否定しえない事実でござる」
「そこに、今川家を恨む者の影が見えるということか」
「御意。氏真様は駿河における粛清を断行なさり、遠江の謀反人どもを討ち滅ぼし、此度は甲斐の国内深くまで侵攻いたしましたが、これらも今川家の力を殺ぎ落とさんとする者の陰謀やも知れませぬ」
信虎が滔滔とまくし立てると、さすがに耐え切れなくなったのか、氏真は声を高めて制止した。
「やめよ、爺! すべてが他者の手のひらの上であったなどと、そのようなことがあるはずがない! 私は、私の考えに沿ってすべてを決断してきたのだ! すべてが正しかったとは言わぬ! 間違いもあったかも知れぬ! だが、誰かに操られていたなどと、そんなことがあるはずがない! あってはならないのだッ! そうだろう、忠胤! 忠縁!」
氏真が後ろに控える側近たちに呼びかける。
名を呼ばれた庵原の義兄弟は二人同時にうなずいた。
「は、そのとおりでございます!」
「氏真様は義元公の後を継ぎ、堂々と今川家を率いて来られました! 何者がこれを否定できましょうか!」
「どうだ、爺! 二人もこう申しておる!」
そう言った氏真は、信虎が口にした言葉を払い落とすように激しく首を左右に振った。
「そ、そもそも、爺が言ったことすべてを実行に移せる者などどこにいるというのだ!? 妻をかどわかされた私が父上のもとへ行くことを予測し得る者がいるとは思えぬ。あまつさえ、それを織田に知らせて桶狭間を誘発させるなどとうてい不可能なこと! 元康に通じた者どもの処刑も、遠江の謀反人どもの討伐も、誰かに唆されたからではなく、私が必要と信じてやったことだ! 甲斐への侵攻にいたっては武田の手切れから端を発した戦い。今川家が操られる余地などどこにもない!」
「したが氏真様。氏真様は武田の手切れを聞いて即座に開戦を決断したわけではござるまい。発端となったのは妹君の死でござろう?」
信虎に言われて氏真は言葉に詰まる。
たしかに、氏真は婚姻の履行を拒絶した晴信に驚き、怒ったものの、あの時点で即座に報復を決意したわけではなかった。
妹が亡くならなければ――それも婚約者からの非情な手紙で失意の死を遂げなければ、全軍をあげて甲斐へ攻め込んだりはしなかったであろう。
「そもそもといえば、氏真様。そもそも、妹君の死は本当に病死だったのでしょうかな?」
「な……に……?」
「ここまで用意周到な相手でござる。失意の末の病死、などという不確実な手段に頼るとは思えませぬ。殺すならば確実に。そう考えて行動するのではありますまいか」
「だ、だが、典医は病死である、と……」
「買収か、あるいは脅迫ということも考えられましょう。書状の一件は、氏真様の敵意を武田家に向けるための細工と考えれば筋が通るかと」
「わ、私を甲斐に攻め込ませるために、あの書状をこしらえたというのか!?」
「御意。事実、氏真様はそのとおりに行動なさいましたからなあ。その者にしてみれば、してやったりといったところかと存ずる」
信虎の言葉に、氏真はかぶりを振った。
赤子がいやいやをするように、何度も、何度も。
「そ、そんなはずはない。そんなはずは……だ、だいたいそのような者がいるはずがないではないか! 常に私のそば近くに張り付いてでもいないかぎり、すべてをてのひらの上で転がすことなぞできるはずがない! そうであろう、爺!?」
「まことにさようですなあ――したが、氏真様」
「な、なんだ!?」
「今のお言葉をひっくり返せば、常に氏真様のそば近くに張り付いていた者ならば実行は可能であった。そういう意味になりませんかな?」
「だから、そのような者がいるはずがないと言っている! 条件にあてはまる者など、それこそ爺くらいしかいないではないか!!」
氏真が叫ぶ。
叫んで、何かに気づいたように目を瞠る。
ややあって、氏真は幽鬼でも見るような眼差しで信虎を見た。
「………………じ、爺?」
「は! なんでござろうか、氏真様」
「……爺ではない、よな? 爺は、私を裏切ったりはしていないよな?」
「はっは、何をおっしゃるかと思えば! この爺が氏真様を裏切るはずがござらん!」
「そ、そうよな。すまない、妙なことを――」
氏真がほっとした表情で詫びようとする。
その言葉にかぶせるように信虎が声を高めた。
「なにせ、わしははじめから今川家に忠誠など誓っておらんからな! 裏切りようがないわい!」
「……な、に?」
「おや、よく聞こえなかったか? ならばもっとわかりやすく言おうかの。氏真よ。おぬしの妻の誘拐に始まる今川家の不幸、これすべてわしが裏で手を引いたこと。そう言ったのじゃよ」
得心したか、と信虎は笑みを浮かべる。
氏真が見慣れた好々爺のそれではない。
獲物を前にした肉食獣の笑みであった。