第九十話 河東は遠く
駿河の国 駿府城。
燃え盛っていた火はすでに消し止められ、周囲にはむせ返るような焦げた臭気が立ち込めている。
消火を指揮した駿府城代 根津政直は、苛立ちを込めて足元に転がる消し炭を踏み潰した。
「殿の留守中に城で火を出すとはな。申し開きのしようもないが……ただの失火にしては火の回りが早すぎた」
城内の様子をうかがう曲者がうろうろしている最中の放火。
とうてい無関係とは思えなかった。
「狙いは奥方か。だとすれば、火が奥棟に及んでいることも納得がいく」
早姫は火事で死んだ。
今川家にそう思わせることが放火の目的であろう。
政直はそう考えたが、しかし、違和感もあった。あまりにタイミングが良すぎるのだ。よりにもよって信虎から抹殺指令が届いた直後に放火が起きるなど、偶然にしては度が過ぎている。
「……信貞か? しかし、あれは事の直前までわしと共にいた。別れてすぐ火を放ちに向かえば間に合わぬことはないが、そこまでの果断を為せる男ではない」
御宿信貞は花倉の乱で今川義元の敵にまわり、敗れて甲斐に逃げたところを信虎にかくまわれ、武田と今川が盟約を結んだ後、信虎の口利きで駿河に帰参した男だ。
才走ったところはなく、度を越えた欲望があるわけでもない。人並みに律儀で、人並みに小心な、いってしまえばただの凡人。
信虎はこの凡人を利用した。
花倉の乱で義元と当主の座を争った者の名を恵探というが、義元の配下にはこの恵探派が少なからず在籍している。義元としても、今川家統治のために敵手すべてを放逐するわけにはいかなかったのだ。
ただ、当然といえば当然ながら、彼らの多くは重職に就くことができず、不遇をかこつ身であった。雪斎などは恵深派にも可能なかぎり配慮したが、
信虎は同じ恵探派であった信貞を通じて彼らに近づき、徐々に取り込んでいったのである。やがて来る今川領支配に向けての布石であることは言うまでもない。
だが、信貞本人はそういったことは知らなかった。
信貞が信虎の野望を知ったのは、先の早姫かどわかしの時である。葛山領内の監禁場所を用意したのは葛山一族である信貞だった。
もっとも、やったことと言えばそれだけで、あとは沈黙を貫くように、という信虎の命令を遵守しただけである。
信虎に逆らうほどの気概はなく、かといって、信虎に従って栄達を図る野心もない。
御宿信貞とはそういった人物であった。
今回、信虎が早姫を殺すにあたって信貞を起用したのは、実際に手を汚させることで信虎を裏切れないようにしておくためであろう、と政直は推察している。
それを伝えられた信貞は驚き、ためらい、迷っていたが、反抗の気振りはなかった。
やはり信貞がやったとは考えにくい。
そして、政直は信貞以外に命令を漏らしていない。
「となれば、稀有な偶然と考えるべきか」
実際、単なる失火という可能性もないわけではないのだ。
焼け跡から早姫の遺体が見つかれば、すべては政直の考えすぎということになる。
ただし、それを期待して時間を無為にすごすのは愚か者のすることであろう。
「奥方を連れ出した者がいるとすれば、向かう先は間違いなく北条領。東の関所に使者を出して厳しく詮議させよう。ことに富士の渡しには奥方の顔を知っている者を配し、東へ渡る者を厳重に調べさせる。これで曲者の動きを制することができよう」
東で早姫を捕らえれば、改めて首を斬って北条に送る。
早姫が焼死しているようなら、その遺体をやはり北条に送る。首切りが火あぶりにかわっただけのことだ、結果として信虎の意図通りになる。
信貞に関してはまた別の役目をあてがえばいいだろう。
政直はただちに手配りのためにその場を離れて城中に戻った。
この政直の手配は、駿府城炎上の報をともなってたちまち各地に伝播。駿府城を焼いた女の賊が東に逃げているという噂となり、東海道に緊張が走ることになる。
◆◆
その頃、駿府を脱した御宿友綱、北条三郎らの一行は、政直の予測どおり東へ向かっていた。
だが、歩みは遅々として進んでいない。
主な原因は早姫である。
もともと早姫の身体は長旅に耐えられる状態ではなく、それにくわえて三郎や猪助、そして風魔衆らへの萎縮もあり、友綱にすがらなければ立って歩くことさえできなかった。
途中から風魔衆が調達してきた馬に乗っての移動となり、早姫は友綱の背にしがみついたが、絶えず上下動する鞍上の移動は慣れない者には苦行である。
三郎によれば、早姫には乗馬の心得もあったようだが、今の早姫にその技能が期待できるわけもなく、すぐに身体が音をあげて熱を出してしまった。
幸い、友綱の治療が功を奏して翌日には熱は下がったが、これ以後はこまめに休息をはさみながら移動するしかなくなった。
それでも早姫が苦しげなので、最終的には馬に荷車を結びつけて即席の荷馬車をつくり、友綱と早姫はそこに乗って移動することとなる。
これでは距離が稼げるはずもない。
道々の関所を何とか抜けた三郎たちが富士川に到着したときには、すでに渡し場は水も漏らさぬ警戒を固め終えた後であった。
「……お早の様子はどうだ?」
「……あいかわらず、というところです」
夜。宿とした商家の一室で三郎と友綱は小声で言葉を交わしていた。
隣室では早姫がすうすうと寝息を立てている。
早姫は起きている間は友綱から離れず、三郎や猪助ら風魔衆が近づくと怯えて震え出すような状態だった。
必然的に、友綱と三郎が言葉を交わせるのは早姫が眠っている間しかないのである。
「……渡しの様子はいかがでございました?」
「完全封鎖、という感じだな。向こう岸に渡る女子供は必ず役人に顔を確認されている。近くに住んでいる漁師に金を渡し、夜陰にまぎれて渡ろうかとも思ったが、そちらの船までおさえられていた」
「徹底していますね。おそらく城代の根津様のお指図でしょう」
「もう一つある。こちらもその根津の指図かもしれないが、役人が探しているのは駿府を焼いた女盗賊だという噂が広まっている。今はまだいいが、女連れの私たちが長逗留をしていると、怪しまれて密告されるかもしれない」
「そうですか……」
明るくも楽しくもない三郎の未来予想図に、友綱は知らずため息を吐く。
早姫の体調を考えれば、一日も早く北条領に向かうべきなのだが、それでは早姫の体力が追いつかない。ただでさえ慣れない旅で消耗しているところだ。
可能なら十日でも半月でもここで休みたいが、そんなことをしていてはいつまで経っても目的地にたどり着けない。ため息だって出ようというものだ。
消耗しているのは早姫ばかりではない。友綱とて心身の余裕が失われつつあった。
単純な疲労もあるが、不安も尽きない。駿府の家族が心配なのである。
友綱としては、自分と早姫が先の火災で死んだ、という状況が望ましかった。父や家族に心痛を与えることになるが、早姫と友綱が共に生きていると判明すれば、友綱が姫を連れて逃げたという可能性が浮上する。そうなれば心痛どころではなく、家族に死を与えることになってしまう。
友綱はそれを恐れていた。
だが、街道筋の警戒、特に富士川の状況を見聞するに、駿府は早姫の生存を確信しているとしか思えない。
おそらく焼け跡を掘り返して、早姫の死体がないことに気づいたのだろう。
当然、友綱の生存も掴まれているはずだ。出火と同時に城から姿を消し、火が消えた後も戻ってこないとなれば怪しまれない理由がない。
早姫のことさえなければ、今すぐ駿府に駆け戻りたいくらいだった。
だが、それは北条の者たちが許さない。彼らにしてみれば、友綱の口から北条の関与が漏れるのが怖いのだ。
少なくとも北条領に入るまでは同行してもらいたい、とすでに言われている。
友綱の意思を尊重するような物言いだったが、嫌だといえば無理にでも従わされることになろう。
北条三郎をはじめとした北条勢は、友綱に対して常に礼儀正しく、友好的に接してくる。それは早姫を救い出した恩義によるものだが、だからといって友綱の希望をすべて容れてくれるわけではない。
北条勢にとって不利な動きをすれば、彼らはたちまち態度を一変させるだろう。
友綱としてはいくつもの意味で気が重い状況であった。
あまり話し込んでは早姫を起こすことになる。
三郎はほどなく友綱との会話を切り上げて別室に向かったのだが、そこで風魔衆の二曲輪猪助から眉をひそめる情報を聞かされた。
「公開処刑?」
「は。駿府城での出火で行方知れずになった者たちの家族を河原に晒し、定められた時日が来たら磔に処するという触れが出回っております」
「……お早を逃がした罪で、か」
「御意。今夕、罪人たちは駿府から護送されてくるとか」
そう言った後、猪助は声を低めた。
「……その中に御宿殿のご家族も含まれています」
「チィ! 今川め、余計なことばかりしてくれる――助け出すことは可能か?」
「さきほど、物見に放った者が戻りました。護送についている兵は百を越えます。忍びの者も多数従っている様子。救出は可能でしょうが、こちらの被害は無視できないものになりましょう」
現在、猪助奇麾下の風魔衆は二十あまり。これで捕らわれの者たちを助け出そうとすれば、全滅に近い被害を受けるだろう。
そうやって友綱の家族を救い出したとしても、そこから後が続かない。
仮に騒ぎにまぎれて富士川を渡れたとしても、そこから北条領までの短からぬ道中を風魔衆抜きで走破することはきわめて難しい。
時間さえあれば、小田原に使者を発して風魔衆の援軍を請うなり、いっそ水軍を動員して海路で北条領に戻るということもできるのだが――というか、すでに三郎は小田原に風魔の使者を差し向けて、その両方を要求しているのだが、さすがに使者を発して数日では効果が出ようはずもない。
幻庵や氏康が即日求めに応じてくれたとしても、援軍の到着は当分先になる。
つまり、現状では護送の軍に手出しはできない。
「……知らせれば御宿殿はじっとしておれませんでしょう。ここは秘しておくが得策かと」
「馬鹿を言うな。お早を助けてくれた恩人にそんな不義理ができるか!」
猪助の提案を三郎が一顧だにせずに却下した。
「恩には恩をもって報いるのが北条の家法。仇で返す真似をして、刀自や氏康様に知られたら大目玉では済まない。お早のためにはやむを得ぬとはいえ、強いて同道を願っているだけでも身の危険を感じているのだ。このうえ恩人の家族を見殺しになどしたら……」
三郎はぶるりと身体を震わせる。
そして、きつい眼差しで猪助をにらみ付けた。
「二度と言うな、猪助」
「は、失礼いたしました」
「この手のことはへたに伏せておくと、あらぬ誤解を招く。私はすぐに御宿殿に伝えてくるゆえ、おぬしはもっと詳しい情報を探っておけ。可能ならば護送の最中、それが無理なようならこの渡し場での幽閉場所を狙う。そのあたりを念入りにな。それと、御宿殿のご家族まで連れて行くとあらば、もはや陸路を行くのは不可能だ。港の船を奪って海路で小田原を目指す。適当な船を探しておいてくれ」
「委細承知」
三郎の命令に応じて猪助とその配下は渡し場に散っていく。
だが、罪人を護送してきたのは駿府城代 根津政直当人であり、その配下には正規兵のほかに多数の甲賀忍びが加わっていた。その数は物見が知らせてきた数の倍を超えている。
いかに猪助らが風魔の精鋭といえど、これでは手出しができない。結局、三郎らは護送される者たちをただ見ていることしかできなかった。
幽閉場所の警備も付け入る隙がなく、無理に手を出せば間違いなくこちらが全滅の憂き目を見る。
事態を打開する術が見つからず、焦る三郎たちを尻目に処刑の準備は着々と整えられていく。
結局、処刑が実行される日まで、北条勢はこれといった手立てを打つことができなかった。