第九話 内戦のはじまり
栃尾城 軍議の間。
今、そこには城主である長尾景虎をはじめとして、直江景綱、宇佐美定満、本庄実乃らの諸将が顔をそろえていた。
いずれの顔も等しくかげりを帯びている。
つい先刻、春日山城からの使者が城に訪れ、景虎に対して宣戦布告を行った。それを受けてのことであった。
中でも、直江景綱の顔色はひときわ悪い。
柿崎城引渡しの際に生じた一連の騒動。その場に居合わせた栃尾方の責任者が景綱だったからである。
「まことに申し訳ございません! まさか弥三郎めが手勢を率いて春日山に挑みかかるとはッ」
もう何度目のことか、景綱が景虎に頭を下げる。
それに対し、景虎はこれまで通り首を横に振って応じた。
「頭をあげよ、景綱。弥三郎の狼心を見抜けなかったのは私も同じだ。それに今は責任の所在を問うているときではない。どのように事態をおさめるか、それが肝要であろう」
「は……!」
うなずきはしたものの、景綱は慙愧の念に堪えなかった。
柿崎景家の弟 弥三郎は兄ほどではないにしても剛勇の士として知られている。その弥三郎がおとなしく景虎に従い、春日山への臣従にも異を唱えなかったことに不審を抱くべきであった。
弥三郎は春日山から派遣されてきた城代一行に突如攻撃をしかけ、彼らを皆殺しにしてしまう。
そして激怒する景綱に対して言ったのだ。
兄 景家の意思を継ぎ、景虎様の御為に春日山と合戦いたす所存、と。
ようするに弥三郎は晴景に臣従するつもりなどさらさらなく、景虎を引きずり込んで春日山との再戦をはかったのだ。
このとき、景虎と栃尾の軍勢は景綱を除いてすべて引き上げた後であった。これは城代到着以前に柿崎側から言い出したことで、いつまでも栃尾の軍勢が城内にいては晴景の猜疑心を刺激してしまう、と訴えたのである。
すべては弥三郎の思惑どおりであった。
春日山の晴景は柿崎の背信を景虎の謀略と断定し、栃尾に対して宣戦布告を行った。
柿崎景家を失って焦った景虎が、謀略を用いて晴景の勢力を殺ごうとしたのだ――そんな憶測がまことしやかに越後各地でささやかれた。
景虎の清廉な評判に汚物をなすりつけるその噂が、春日山の諜者によって広められていることは火を見るより明らかである。
そのことに景綱は忸怩たる思いを抱く。すべては己の失態から始まったと思えば、何度頭をさげても足りるものではなかった。
放っておくと腹を切りかねない景綱を見て、景虎はもう一度口を開く。
その声にはどこか寂しげな響きが込められていた。
「よいのだ、景綱。私を除こうとする姉上の意思は断固たるもの。たとえこたびの件がなくとも、いずれ同じことが起きていたであろう」
晴景が今回の件を心底から景虎の謀略とみなしているのか、それとも、そのように決め付けて開戦の名分としたのかは分からない。
だが、真相がどちらであるにせよ、底に根ざしているものは変わらない。景虎に対する強い敵意と警戒心だ。
実の姉から心底疎まれていたことを認めた景虎はそっと目を伏せる。
景綱たちはかける言葉もなかった。
どれだけの時間が経っただろうか。
次に景虎が顔を上げたとき、そこにはすでに悲嘆の色はなく、清冽な戦意がとってかわっていた。
姉との戦を避ける術があるなら、最後までその可能性を模索する。だが、戦うことでしか交われぬのならば全力をもって戦うのみ。勝利が早ければ早いほど流れる血は少なくなろう。
景虎はすっくと立ち上がった。
「――軒猿」
「……ここに」
景虎の呼びかけに応じて部屋の外から低い声が返ってくる。
景虎はこの相手に問いを投げた。
「春日山の総兵力は」
「集まった国人の数から推して、おおよそ六千。斎藤朝信もこたびは春日山に参じております」
それを聞いた景虎たちの顔に緊張の色が浮かぶ。
斎藤朝信は柿崎景家に優るとも劣らぬ勇猛な武将であり、内政手腕にも長ける。また、物堅い人となりから他の国人衆の信望も厚く、敵にまわせば厄介きわまりない。
朝信の参陣を聞いて春日山に合力する者も増えてくるだろう。それほどの相手だった。
「斎藤殿が春日山に参じたとなると、これは一筋縄ではいきませぬな」
実乃が右手であごひげを捻りつつ深々と息を吐く。
景綱、定満も苦い顔だ。
そんな中、景虎は自らが戦うこととなる敵将――春日山勢の総指揮官の名を軒猿にたずねた。
晴景自身が出てくるのか、今まさに名前があがった斎藤朝信か、それとも――
ぬかりなく春日山の軍議の一幕を掴んでいた軒猿は「その名」を口にする。
それを聞いて口を開いたのは、たずねた景虎ではなく直江景綱だった。
景綱は眉間にしわを寄せて言う。
「加倉、相馬……柿崎を討ち取ったという男ですか。斎藤殿を差し置いて采配を預けるとは、どうやら晴景様はその者を相当に信頼しておる様子。したが、二十歳になるやならずの若者に国人たちが素直に従うかどうか」
「若者の頭上に将星が輝くこともある。油断するべきではあるまい」
「それはもちろんです、宇佐美殿。ですが、そこまで警戒するような相手なのでしょうか。聞けば、晴景様が農民から引き立てた者とのこと。兵法を学んでいるかさえ怪しいものです。柿崎を討ち取ったのも怪我勝ちやも知れません」
その言葉は、景綱にしてはめずらしく臆断の色が濃かった。
定満はゆっくりと首を左右に振る。
「怪我勝ちで討ち取れる景家殿ではあるまいて。たとえ怪我勝ちだとしても、烏合の衆に利と理を示し、一個の軍としてまとめあげた手腕は見事なもの。増水した川の上流から火の舟を流すなどという策を、一介の農夫が考えつくとも思えぬ。兵法を修めているかはわからぬが、少なくともまったくの無知ということはあるまいよ」
「たしかに。それがしが加倉なる者の立場であったとしても、川に火の舟を浮かべようとはなかなか思いつかなかったでありましょう」
定満の言葉に実乃が賛意を示す。
二人とも柿崎の剛勇をよく知る者だ。柿崎の黒備えの突進を止めることがいかに困難であるか、それをいやというほど知っている。
ゆえに、景家を討ち取り、黒備えを壊滅させた加倉相馬を「怪我勝ち」と侮る気にはなれなかった。
二人の言葉を聞いても景綱の眉間からしわが消えることはなかった。
といっても、別に二人の意見に異論があったわけではない。景綱もまた柿崎景家の戦ぶりを知っている。加倉とやらの将才がなかなかのものであることも理解していた。
しかし。
加倉が優れた将才の持ち主であり、なおかつ晴景からこれほど信頼を受けていることをあわせて考えると、今回の戦いの絵図面を描いた者が加倉である可能性は高い。
それはつまり、柿崎城の一件を針小棒大に触れ回り、景虎の尊厳に泥を塗ったのが加倉相馬であることを意味する。
幼い頃から景虎を見守ってきた景綱にしてみれば――いささか妙な表現になるが――我が娘を傷物にされたようなものだ。
そんな相手に高い評価を与えられるはずがなかった。
……もっとも、当の景虎が苦しい胸の内を押し隠して戦おうとしている以上、その臣下である身がいつまでも感情に振り回されてはいられない。
景綱は自らを叱咤し、胸中のわだかまりを掃き出そうと努めた。
と、そのとき、ささやくような景虎の声が耳に滑り込んできた。
「……加倉は神座に通じる。加倉相馬とは、神を乗せて走る者の意か」
雅な名だな。
そんな呟きを発した景虎に対し、景綱が怪訝そうに問いかける。
「景虎様、何か?」
「――いや、なんでもない」
景虎はかぶりを振って雑念を振り払うと、諸将に戦支度を命じて軍議を終わらせた。
その後、景虎は毘沙門天に祈りを捧げるため、栃尾城内に建てた毘沙門堂へと足を向ける。
戦端が開かれる十日前の出来事であった。
◆◆◆
越後騒乱において先手をとったのは春日山勢であった。
長尾晴景の号令のもと、大動員をかけた春日山の総兵力は実に六千。
先の戦では下男、小者まで含めて五百しか集まらなかったことを思えば、関川における勝利がもたらした影響の巨大さをうかがいしることができる。
春日山勢はこの大軍をもって関川を渡り、一路柿崎城へ向かう。
春日山勢の指揮官である加倉相馬が柿崎城を狙った理由は二つ。
一つはここを落として栃尾へ進軍する足がかりとするため。
もう一つは、当主景家を失って弱体化した柿崎家を叩き、新参の将兵に勝利を味あわせるためであった。
一口に春日山勢とはいっても、その内実は種々雑多な豪族、国人による混成軍。
若輩の身で彼らを束ね上げなければならない加倉にとって、もっとも最も単純にして効果的な手法は勝利を味合わせることだった。
この指揮官についていけば勝利の美酒を味わえる。そう思わせることができれば、自然と命令も通しやすくなるだろう。
踏み台にされる柿崎家にとっては好い面の皮であるが、彼らは春日山が派遣した城代一行を無残に殺している。遠慮する必要は微塵もない、と加倉は考えていた。
ところが事態はおかしな方向に転がりはじめる。
柿崎城外に到着した春日山勢が陣を敷こうとしたとき、城門が開かれ、中から柿崎弥三郎が出てきたのだ。
言うまでもなく、弥三郎は城代を殺害して今回の大戦の発端となった人物。栃尾方の武将である彼が、どうしてのこのこ姿を見せたのか。
戸惑う加倉の内心も知らず、現れた弥三郎は「かねての約束どおり」と春日山勢に降伏を申し出た。
聞けば、すでに守護代と話はついているという。
加倉はそのような話は知らなかった。
だが、今日までの事態の推移を考慮し、さらに弥三郎のとった行動が栃尾にどれだけ悪影響を与えたかを考えれば、晴景と弥三郎の間に密約があったことは察せられる。
――加倉はその場で決断を下した。
弥三郎を捕らえ、城代一行を無慈悲に殺害した罪で即座に処刑したのである。
約束が違うとわめく弥三郎の言葉に耳を貸さず、ただちに首を斬った加倉はそのまま春日山勢を率いて柿崎城を制圧する。
その後、城代殺害はすべて弥三郎の独断であり、柿崎家に罪はないと言明。城の一室で幽閉状態に置かれていた景家の長男を新たな柿崎城主として担ぎ、後見人には実直で知られる重臣を選んだ。
全てが長尾晴景の名をもって行われ、決定された。
これにより、亡き景家の蜂起に始まる柿崎家の混乱はいちおうの決着をみるのである。
柿崎家の仕置きを終えた加倉は密使を坂戸城に遣わした後、斎藤朝信を先手として、日本海を左に望みながら北上。要地柏崎に腰を据える宇佐美家の居城琵琶島城に襲いかかる。
琵琶島城は宇佐美定満の子定勝が当主として城を守っていた。父の薫陶を受けて育った定勝は、春日山勢の来襲に備えて城の守りを固めていたところであったが、柿崎城の早すぎる陥落のせいで防備が間に合わず、苦戦を余儀なくされた。
父定満が縄張りした琵琶島の堅牢さも手伝い、かろうじて春日山勢の猛攻を耐えしのぐ定勝であったが、城内の兵力は五百に満たず、対する春日山勢は十倍以上。
落城はもはや時間の問題と思われた。
それに待ったをかけたのが、軒猿の働きによって春日山勢の動きを正確に掴んでいた栃尾勢である。
景虎率いる主力部隊はこの時すでに琵琶島城を指呼の間にとらえていた。
その兵力はおよそ四千。栃尾勢のほぼ全戦力にあたる。
景虎の接近を知った加倉は、敵に背後をとられることを恐れて琵琶島城の包囲を解き、城外に陣を敷きなおす。
奇襲の機を失ったと見た景虎は、春日山勢に呼応してこちらも野戦の構えをとった。
琵琶島城外で対峙する春日山勢と栃尾勢。ここに両軍は正面から矛を交えるかと思われた。
しかし、春日山勢を率いる加倉相馬は景虎と野戦で勝敗を決するつもりはなかった。
敵の攻撃には応戦するものの、それ以外は自陣を出ることなくひたすら守りを固める。
それを見た景虎はそれ以上攻めかかろうとせず、兵を琵琶島城に入れた。栃尾から急行してきた将兵の疲労を考慮したのである。
当初の目的である琵琶島城の救援を成しとげた上は、急いて事を仕損じる必要もない。
景虎の入城は琵琶島の将兵に歓呼の声をもって迎えられ、栃尾勢の士気は大いに高まった。
城内の兵力を加えれば栃尾勢は四千五百。
六千を数える春日山勢とはまだ数の上で大きな隔たりがあるが、琵琶島城という拠点を有する分、栃尾勢の方が有利に戦を進められる。仮に敵が城を包囲して兵糧攻めを始めようとも、景虎がいれば包囲の兵を突き崩すことはたやすいだろう。
栃尾の諸将はそのように考え、前途を楽観視しはじめる。何よりも長尾景虎が城内にいるという事実が栃尾勢の心にゆとりを与えていた。
だが、ほどなくして、栃尾勢の楽観を吹き飛ばす知らせが早馬によってもたらされる。
その報告を聞いた諸将はうめき声をもらした。
栃尾城の南に坂戸城という城がある。
先代守護代 長尾為景の弟である長尾房長と、その娘政景の居城だ。
その坂戸城から栃尾城に向けて二千の兵力が進軍しつつある、というのが急報の内容だった。
長尾房長・政景父子は今回の戦いに不干渉を貫いてきた。
その血筋から春日山長尾家当主の座を望むこともできた房長であるが、これといった主張を行うことはなく、領内の統治と周辺豪族との関係を厚くすることに心を砕き、情勢を静観してきたのである。
その房長が動いた。しかも晴景方として、主力の出払った栃尾城に向かっているという。
むろん、このタイミングでの参陣は加倉の指示による。
晴景には子がいない。加倉は出陣に先立ち、晴景亡き後の守護代職を政景に譲るという誓紙を晴景から受け取っていた。
それを差し出すことで坂戸城を味方に抱き込んだのである。
上田長尾家は父房長、子政景、いずれも勇猛をうたわれている。二人に鍛えられた二千の上田衆もみな精強。
これに対して栃尾城に残っているのは宇佐美定満率いる五百のみ。一刻も早く救援に駆けつけなければ景虎は居城を失ってしまうだろう。
しかし、ここで景虎が軍を返せば、春日山勢はえたりとばかりに追撃をしかけてくるに違いない。退却戦が困難を極めることは常識であり、それは景虎にとってもかわらない。
栃尾勢は進退きわまった感があった。
ところが、そんな栃尾勢に救いの手を差し伸べた者がいた。
敵将加倉相馬である。
このときの加倉の動きは栃尾勢が予想だにしないもので、なんと春日山勢は退却を始めた。
加倉が坂戸勢の動きを知らないはずはなく、また景虎率いる本隊の退却を予測していないはずはない。
しかるに、加倉は退いた。
あらたに加倉が陣を敷いた地点は琵琶島城から遠く離れており、これでは退却する栃尾勢の後ろ姿を見ることさえ難しいだろう。
景虎をはじめとした栃尾の諸将は、敵軍の思惑をいぶかしみつつも退却を開始する。
春日山勢はそれを遠望し、申し訳程度に追撃の構えを見せたものの、これだけ距離が開いていれば追いつけるはずがない。
結局、栃尾勢はこの退却において一人の死者も出さなかった。
春日山勢が動かなかったのは琵琶島城の攻撃に全力を投じるためである。そう主張する栃尾方の将がいた。
実際、それ以外に春日山勢の動きを説明し得る理屈はなかった。
だが、加倉相馬はまたしても他者の予測をあざ笑ってみせる。栃尾へ退く景虎本隊の後背を見送った春日山勢は、琵琶島城に背を向けて柏崎の地から去ったのだ。
唖然とする城兵を尻目に春日山勢が向かった先は、琵琶島城の東に位置する安田城。
栃尾勢に加わった国人衆のひとり、安田景元の居城であった。