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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第八十九話 逃亡



 駿府城が燃えていた。

 ちょっと洒落しゃれにならないくらい燃えていた。

 早姫付きの少女侍医 御宿みしゅく友綱ともつなは冷や汗というには多すぎる量の汗をかきながら、早姫の手を引いて混乱する駿府の街中を足早に歩いている。



 当然ながら、途中幾度も男性とすれ違い、そのつど早姫は友綱の手を痛いほど握り締めてきた。

 だが、幸いなことに悲鳴をあげたり、立ち止まったりすることはなかった。

 おそらく、向こうが早姫のことを意識していないことがわかっているからだろう。仮に、誰かが声をかけてきたり、あまつさえ触れてきたりしたら、もっと大騒ぎしていたに違いない。



 ある意味、城の猛火が怪しげな女の二人連れを目立たなくしてくれていた。

 急なこととて変装の用意などしているはずもない。これは友綱が予期していなかった恩恵であった。

 もっとも、それを喜ぶような余裕は友綱にはなかったが。



「ああ、どうしよう、どうしよう。小火ぼやではまずいと思ったから色々仕掛けてはきたけれど、まさかあそこまで燃え広がるなんて」



 医師として様々な薬に触れる友綱は、役職上危険な品にも携わる。中には引火性が強く、厳重な管理が必要な物もあった。

 友綱はそれを使ったのである。いちおう燃え広がらないように計算はしたつもりであったが――ちらと後ろを振り返ると、今も城内の一角からもくもくと黒煙が噴きあがっているのが分かる。

 ときおり踊るような炎の先端も見て取れた。あれでは城の一部は間違いなく焼け落ちるだろう。



 駿府城は義元の御世から法度はっとが行き渡っており、失火の際の行動も細かに定められている。

 日がまだ出ている時間帯ということもあり、城内で働いている者たちの避難は心配ないだろう――というか、そうでも思わなければ友綱の方こそ罪悪感で足が止まってしまいそうだった。



 思いついたときは名案だと思い、実行している最中も特に疑問には思わなかったのだが、今になってみると他にもっと別の手立てがあったのではないかと思ってしまう。

 ……もっとも「別の手立て」とやらが具体的に思い浮かんだわけではないのだが。

 強いていうなら、何もかも聞かなかったことにして、すべてを成り行きにまかせることであるが、それをしたら後悔すると分かりきっていたから行動に出たのである。



 であれば、悩むのも悔やむのも後にしよう。

 友綱が早姫の手を握りしめ、足を早めようとしたその時だった。



「そこの者、待て」



 それが自分たちに向けられた声であることを友綱は直感的に察した。

 無視して進もうとした友綱たちの前方を、複数の影が素早くさえぎる。

 とっさに刀に手をかけた友綱を制するように、一人の若者が進み出てきた。びっくりするほど目鼻立ちの整ったその若者は、友綱の敵意を制するように右手をあげた。



「待て。いや、待たれよ。そなたらが駿府の城から抜け出した者であることは承知しているが、我らは今川の手の物ではない。そちらの女性にょしょうに見覚えがあるのだ」



 若者が言葉を重ねていると、ひときわ巨躯の男が見かねたように口を挟んできた。



「三郎様、それでは相手の不審が増すだけでござる。自らのお名前と、お探しの方のお名前を申し上げるだけでよろしゅうございましょう」

「しかし、それでは我らの正体が知られてしまうではないか」

「火が出ると同時に城から逃げ出した者どもが、我らの正体を知って城に駆け戻るはずもなしと心得ます」

「……確かにな」



 正体不明の者たちが勝手な話し合いを続けている間、友綱は素直に耳を傾けていたわけではない。

 だが、周囲を囲む者たちは、格好こそ農民町人であったが、その目つきと気構えは明らかに平民のそれではなかった。

 また、男たちに周囲を囲まれたことにより、早姫の手が小さく震えている。呼吸も喘ぐように乱れている。これではとうてい囲みを抜けることはできないだろう。

 早姫を力づけるように友綱が強く手を握り返していると、先の若者がふたたび口を開いた。



「申し遅れた。私は北条三郎長綱。探している女性にょしょうの名をお早と申す」

「……北条? それでは早姫様の……」

「いかにも。私とお早は、共に早雲寺で幻庵刀自に学んだ仲。義元公が戦死なされてよりこの方、お早からまったく連絡が来なくなったことを案じてここまで参った。だが、駿府は北条の使いに対してなしのつぶて。これといった手立てを打つこともできず城下を回っていたところ、城の異変に気が付いて……」



 はじめは勢い込んで言葉を続けていた若者――北条三郎であったが、その言葉は段々と勢いを弱め、表情にいぶかしげなものが混ざり始めた。

 それも当然。

 友綱に抱えられている早姫にも、当然今の言葉は聞こえている。三郎が知るおてんばな「お早」であれば飛びついて喜びをあらわにするであろう。もし、嫁いで多少の落ち着きを得たにしても無言でいる理由はない。

 少なくとも、本当に三郎かどうか、こちらを見て確認くらいはするはずだ。



 だが、三郎がお早に似ていると考えた人物は友綱の腕にすがるばかりで、顔をあげようともしない。おこりにかかったように、ぶるぶると大きく震える身体が三郎の目にも見て取れる。



「……人違いだったのか? いや、しかし今、おぬしは早姫と口にした。であれば、お早のことを知らないということはないだろう?」

「は、はい、知ってま――いえ、存じております。この方は……」



 確かに早姫である。そう言おうとして友綱はわずかにためらった。

 目の前の者たちが本当に北条家の者なのか疑ったのだ。

 だが、この状況で姫の存在をごまかしたところで意味はない――どころか、事態を悪化させるだけだろう。

 友綱は一瞬のためらいを振り払い、言葉を続けた。



「この方は確かに早姫様です。ですが、今は病んでおられまして……」

「病んでいる? 病んだお早を、供も輿もなしに城から連れ出したのか!? いや、今はそれよりも――おい、お早! それがしだ、三郎だ!」



 そう言って三郎は早姫の肩を乱暴に掴む。むろん、三郎に悪意はなく、むしろ喜びのあらわれであったろう。

 だが、次の瞬間、早姫の口からあがった絶叫はそんな三郎の喜びを微塵に打ち砕くものだった。



 きゃあ、などという可愛らしい悲鳴ではない。

 怪鳥けちょうを思わせる調子はずれの絶叫は、聞く者の心胆を寒からしめる響きを帯びていた。

 この声を一言で表すならば、それはきっと「狂気」であろう。



「…………ああああアアアアア!! 友綱、友綱ァ……!」

「はい、早姫様、友綱はここにおります! 大丈夫です、大丈夫ですよ――すみません、三郎様とおっしゃいましたか。すぐに姫様から手をお離しください。今の姫様にとって殿方はおしなべて恐怖の対象なのです」



 するどく、けれど落ち着いた声音で三郎を注意した友綱は、早姫の背を掻き抱くように撫でながら懸命に落ち着かせる。

 予想だにしなかった知己からの拒絶と、その異常性に面食らうばかりの三郎に、二曲輪猪助が小声で注意を促すした。



「三郎様、注目を集めてござる。急ぎこの場を離れましょう」

「わ、わかった……お早……い、いや、そのほう、友綱と申したか? すまないが事情を訊かせてもらいたい。望むならそなたの今後についても北条が面倒をみよう。ついてきてもらいたい」

「……は、承知いたしました」



 断ったところで無理やり連れて行かれるだけだろう。そうなれば男たちの手が早姫に触れて、もっと大変なことになる。

 友綱はすばやく判断して三郎の申し出にうなずいた。

 こうして出来た奇妙な連れ合いは、駿府を出て街道を東へ向かう。東海道を東へ進んで、はじめに目指すはまず富士川であった。




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