第八十八話 信繁の迷い
夜半、細い灯火の明かりを頼りに論語を読んでいた信繁は、不意に眉をひそめた。
風もないのに燭台の火が揺れたのである。
足音はない。気配もない。だが、何かがいる。
そっと刀を引き寄せながら、襖の外に向かって低く、鋭く問いかける。
「――何者だ?」
「出浦盛清。武田信虎様の使いで参りました」
返ってくるまいと思っていた返事は、思いのほかあっさりともたらされた。
それを聞いた信繁の顔に困惑が浮かぶ。
信繁は姉 晴信ほどに父を疎んじているわけではない。幼い頃、父に可愛がられた記憶は今も残っている。
躑躅ヶ崎の乱においても、元服を済ませていなかった信繁は父と姉の争闘の外に置かれていた。
「父上の使い……よくぞ館に入り込めたものだ。御館様と勘助が構築した警備は水も漏らさぬ堅牢さだというのに」
「この身は武田甲賀衆の棟梁なれば、たやすきことでござる」
「必要とあらば自らの手で穴をあけることも辞さぬから、か――町の騒ぎ、そなたの仕業だな?」
「それは――」
相手の返答を待たず、信繁は引き寄せた刀を抜き放ち、問答無用で襖越しに盛清に切りつけた。
先の上洛において晴信が将軍家から賜り、その後、信繁に授けた刀「三日月正宗」が一閃し、襖の向こうから聞こえてきた声の主を切り裂いた――はずだった。
だが、手ごたえはなく、手元に引き戻した刃にも血は付いていない。
信繁はかすかに目を眇めた。
「忍と戦うは霞と戦うと同じことと信春は申していたが、なるほど、こういうことか」
「――しかり」
応えは信繁の背後、誰もいなかったはずの室内から聞こえてきた。
振り向けば、鬼の面をつけた黒衣の男が座っている。顔は鬼面で隠れ、頭髪は黒頭巾で覆われ、手足にさえ黒色の布を巻きつけて、いっさい肌を晒していない。
声は壮年の男性のものだったが、今の手並みを見るかぎり声などいくらでも変えられよう。
「失礼ながらお命を頂戴することはたやすく、されどそれをせぬことが此方に害意がないことの証と思し召しくだされ」
「甲府の町で騒ぎを起こしておきながら害意なしとは片腹痛い。それが父上の思し召しというのなら、なおのこと話を聞く余地はない」
「甲府および甲斐に降りかかる災いを一手で断ち切ることのできる妙策を持ってまいりました。受ける受けぬはご随意に。されど、それは話を聞かねば判断できぬこと。どうかわずかばかりの時間を拝借させていただきたい」
信繁はしばし瞑目した後、つぶやくように訊ねた。
「……今の言葉、今川軍を退ける策がある、と聞こえたが」
「そのとおりにございます」
「そのような策があるのであれば、なにゆえ御館様に持っていかない?」
「晴信殿が信虎様の策に耳を傾けようはずがございません」
盛清が即答する。
すると、信繁は大きくうなずいた。
「そのとおり。御館様が父上の策をお認めになることはない。であれば、その策とやらを私が聞いたとて何の意味がある? どうあれ、最後には御館様の裁可を得なければならないのに、それが出来ぬとわかっている策に興味はない」
ここで信繁はじろりと盛清を睨んだ。
「言うまでもないが、父上の策を私の策として御館様に言上しろ、などという話を肯うことはない。去るがいい、出浦とやら。父上に免じて一度だけは見逃そう。言っておくが、先の一刀で私の実力を見切ったと考えているのなら、その増上慢は高くつくよ」
そう口にした信繁は、先ほどのようにいきなり斬りかかったりはしなかった。
変化といえば、ほんの少し目を細めたくらいであろう。
――だが、室内に流れる空気は確かに変わった。
音もなく肩にのしかかる重圧。ちりちりとうなじの毛が逆立ち、黒衣に汗が滲んでいく。
甲賀衆の棟梁たる盛清が緊張を強いられていた。あたかも山中で肉食の獣に遭遇したときのように。
なるほど、どれだけ優しげに見えようと、この人物は疑いなく暴虎の血を引いているのだ――盛清は胸中でつぶやく。
考えてみれば、武田信虎の子を武田晴信が育て上げたのである。傑物が育って当然であろう。
だが、その傑物は少し考え違いをしている。
盛清は抜き打ちざまの一刀を警戒しながら口を開いた。
「お待ちください。信繁様は勘違いをなさっておられます。我が主は決して、己の策を信繁様にあずけようとは申しておりません。そも、この策は晴信殿の裁可なくして実行し得るのです」
「御館様の裁可なく? 今川軍が勝手に退却するとでも申すのか」
「御意。そも、こたびの今川軍の出師は確固とした戦略、戦術に基づくものではなく、ただ今川氏真殿の怒りによって決行されたものなのです。ゆえに、氏真殿の怒りを解けば今川軍は撤退いたします。そして、氏真殿の怒りの源は妹君の死」
「……今川姫、か」
室内に満ちていた覇気が、その一言でわずかに緩んだ。
盛清はここを先途と言葉を重ねる。
「氏真殿は、三国同盟を反故にした晴信殿と、妹を捨てた信繁様の首級を一番手柄として将兵に通達しております。我が主は信繁様がそのような非情な真似をなさるはずがないと懸命に説かれたのですが、氏真殿はまったく聞く耳を持たず……すでに、氏真殿は甲府盆地に入っておられます」
「なに? では、御坂峠を越えて来た今川の騎馬部隊というのは――」
「氏真様直属の精鋭でございます。このことからも氏真殿がいかに怒気に支配されているかはお分かりいただけましょう。このままでは氏真様は激情のままに暴れまわり、武田と今川、二つの家を巻き添えにして業火の中で滅びてしまいます。駿河と甲斐の民もまた、炎にまかれて苦しみましょう……それだけは断じて避けなければなりませぬ。そこで主が考えたのが、氏真殿と信繁様がじきじきに顔を合わせることなのです」
面と向かって言葉を交わし、真情を述べれば頑なな氏真の心にも変化が訪れるやも知れぬ。
信繁が今川姫のことを強く想っていたと知り、そして姫の墓を詣でるといえば、話に耳を傾けることも期待できる、と盛清は言う。
だが、信繁にはその言葉がいかにも胡乱に聞こえた。
「私が氏真殿のもとに赴けば、問答無用で斬られるだけではないのか? 仇と思っているなら尚のこと、私の言葉が氏真殿に届くとは思われぬ」
「何のつてもなく向かえばそうなりましょう。ですが、我が主が仲立ちすればお二人のための席を用意することは可能と存じます。その場でお二方が和解なさればよし。もし、和解がならずんば……我が主は、甲斐の民と武田の御家のために泥をかぶる覚悟を固めておられまする」
その場で氏真を討つことも辞さぬ。
盛清がそう言っていることを信繁は察した。
「何故そこまで、とは問うまい。だが、何故今になってなのだ。今川が甲斐に寄せてよりこの方、その蛮行は酸鼻を極めている。その間、命を賭して止める機会がなかったとは思われぬ」
「どうか心得違いのなきように。我が主は甲斐のことを愛しておられますが、今川にも大恩がございます。氏真殿には幾度も諫言をいたしました。甲斐での暴虐も制止いたしました。されどそれらは徒労に終わり、さりとて義元公に賜った恩義は忘れがたく、また己を爺よと慕う氏真殿への情義は尽きず。こたびのことは甲斐と駿河、武田と今川、双方のことを考えに考えた末に導き出された結論なのです。一方を贔屓してのことでもなければ、一方にくみしたゆえでもございません」
それを聞いた信繁の目がすっと細まった。
「では、今しがた和解がならずんば――と申したのはいかなる意味か」
「これ以上の戦の継続は、武田のみならず今川をも滅亡に導く暴挙。そのようなことになれば、氏真殿の名も泥にまみれることになりましょう。それでは泉下の義元公にあわす顔がない、と我が主は申しております」
「……氏真殿はもはや今川家にとっても害に成り果てているのか」
「御意。信繁様のご出馬を願うのは我が主にとって窮余の一策。事ならずんば、我が主は氏真殿を誅し奉り、その後に腹かききって黄泉路の供をいたす所存。最後に我が主の言伝をおつたえいたします――そちの諾否にかかわらず、氏真様は必ずわしがお止めする。わし亡き後の甲斐と武田、そして晴信を頼む、と」
「……父上」
信繁は天井を見上げて奥歯を噛む。
動くべきか、動かざるべきか。
本来ならば考えるまでもなく後者だ。思慮に欠けた行動は晴信に繰り返し戒められたところ。信虎の言葉が事実である保証はなく、もっといえば目の前の出浦盛清が信虎の使いであるかも定かではないのだ。
氏真が甘言を弄して信繁を誘い出そうとしている、という可能性も十分に考えられる。
だが、そう考える一方で、おのれ一人を誘い出すためにそこまでするものか、という疑問もある。
これが晴信ならばともかく、信繁は武田の一武将。数少ない宗家の男児とはいえ、信繁一人を討ったところで武田が崩壊するわけではない。
だいたい、今川勢はすでに躑躅ヶ崎館の目と鼻の先まで攻め寄せているのだ。こんな小細工を弄して信繁を狙わずとも、直接襲いかかってくればよい。
とつおいつ考えるに、この使いは本物である可能性が高い。
だが、たとえ本物だとしても動く必要はないはずだった。
諾否にかかわらずということは、信繁が動かずとも今川軍はじきに当主を失って退くということ。
あえて危険を冒して敵の総大将に会う必要はない。
そう。
父を見捨てることになる――その一点に目を瞑れば、迷う必要はどこにもないのである。
すべてが事実であれば、父はすでに死を決している。無辜の民を害した悪党でさえ、末期の願いは聞き届けるのが常道、
まして相手は実の父。信繁は父の最期の願いをむげに退けた人非人に成り下がる。
仮にこれが何者かの策略であれば信繁は殺されるだろう。
だが、姉が生きていれば武田家は揺らぐまい。
反対に、うまくいけば現在ただいま甲斐を襲う多くの困難が消滅する。
懸けるべきは己の命一つのみ。成功によって得られるもの、失敗によって失われるものを天秤にかければ、秤はおのずと一方に傾いていく。
――ふと、先刻、大蔵長安から聞いた話が脳裏をよぎった。
長安が仕えた加倉相馬は、かつて上杉輝虎を己と春日山城もろとも焼き払おうとしたという。
当時の主君晴景のために命を賭した――いや、命を捨てたのだ。成功しようと失敗しようと己が長らえることはないのだから。
加倉が今の己の立場であれば、どのように行動するだろうか。やはりためらいなく己の一身を捨てて氏真のもとに赴くのだろうか。
きっと赴くのだろう。
おそらく、信繁のように悩むことすらせず、事態の打開のために命を懸けるに違いない。
長安の話から思い浮かぶ加倉相馬という人間の人物像はそれである。
別段、そんな風になりたいとは思わない。なれるとも思えない。
そもそも信繁と加倉では立場も身代もまるで違うのだから、比べることに意味はない。
だが。
そんな加倉はあの気難しい猿楽師の心をああも見事に掴み、一方の信繁は猿楽師の才覚を見抜いていながら取り逃がした。慎重に時間をかけようとした結果、将来重臣になりえたであろう才能を他家に取られてしまったのだ。
その事が不思議と頭の中で引っかかっている。
慎重に運んだがゆえに、取り返しのつかないことも起こり得る。
むろん、性急に運んだゆえに失敗する可能性もあるだろう。
此度の一件はいったいどちらなのだろうか。




