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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第八十七話 躑躅ヶ崎の影


 甲斐の国 躑躅ヶ崎館の一室に軽やかな笑い声が響く。

 当主晴信の弟 武田信繁は久しぶりに腹の底から笑っていた。

 その信繁の前には恐縮したように平伏する大蔵おおくら新之丞しんのじょうと、その弟 大蔵長安の姿がある。



「五百貫! はは、いるところにはいるものだね、慧眼と果断を併せ持つ士というものは!」

「も、申し訳ございません! 信繁様のご厚情を無にするような真似を……」

「新之丞、何を謝ることがある。私は長安に好きにしてかまわないと言い、長安はそのとおりに行動した。それだけのことだよ」



 鷹揚に言った後、信繁は少しだけバツが悪そうに頬をかいた。



「……まあ、正直なところ上杉家に仕えるとは思っていなかったけどね。とはいえ、所領すべてを差し出すほどの熱意を示されたら断れないだろう。私が長安の立場であっても感激するさ」

「あ、ありがとうございます……! ほら、長安、お前も礼を申し上げろ!」

「……ご厚情、かたじけなく存じます」



 新之丞に言われて長安が応じる。

 その長安を見て、信繁は興味深げに目を細めた。

 信繁が知る大蔵長安という少年はもっと表情が豊かであり、言動もハキハキしていた。

 ところが、今は人が変わったように言葉すくなで、表情も能面を思わせる静けさである。



 緊張している、というわけではなさそうだ。信繁を見る眼差しはまっすぐで、怖じる気配は少しも見て取れない。

 ということは――



「それが君のまことの姿、ということかな? それとも、役柄に応じて面をかえているだけなのか、さて、どちらなのだろう?」

「……主より命を賜った身なれば、猿楽師のときのまま、というわけには参りません」

「そうか。こうして向かい合ってみるとよくわかる。今の君はあたかも海千山千の商人のように表情が読めない。心が掴めない。一国の使者として不足なき姿だと思う。もし武将として兵を与えれば、また違った顔を見せるのだろうね。ふふ、どうして外に出したのだと御館様に叱られてしまうな、これは」



 現在、躑躅ヶ崎館は御坂峠を越えて現れた今川軍の対応に追われている。

 数こそ一千あまりと少なかったが、その多くが騎馬で編成された今川軍は、風のように甲府盆地を駆け回っては田畑を襲い、蔵を壊し、収穫を控えた、あるいは収穫を済ませた穀物を焼き払っていく。

 時に数十から数百の小部隊に分かれて分散行動をとる今川軍は、甲斐国内の地理を河川の深浅までも把握しており、武田軍はなかなかこれを捕捉できずにいた。



 今川軍は穀物を焼くだけではなく、積極的に民衆にも刃を向けていた。

 ただ、その一方で殺すことは極力避けていた。つまり、意図的に負傷者をつくりだしては躑躅ヶ崎館に追い立てているのである。

 戦死者は物を食べず、治療も必要としない。

 だが、負傷者はそのどちらも必要とする。

 今川軍は執拗しつように、変質的なまでの熱意をもって武田軍を苦しめようとしていた。



 今、晴信はこの対応に追われており、それゆえ越後勢の迎え入れは信繁に任された。

 今川姫のことで自責の念に駆られていた信繁であるが、いつまでも打ち沈んではいられない。

 その点、長安の来訪は時宜を得たものだったといえる。

 このとき、信繁の興味が長安を召し抱えた加倉相馬に集中したのは当然のことであったろう。

 塩の売買を早々にまとめた信繁は、身を乗り出して加倉の話を求め、長安はこくりとうなずいてこれに応じた。



 信繁は長安の話を聞き、そのつど楽しげに笑い声をあげた。

 なるほど、流浪の猿楽師に五百貫という大禄たいろくを与えるだけあって実に愉快な人物だ、と思う。

 諏訪での一件は晴信から聞いていたが、あらためて長安の口から聞くと、野放図のほうずなまでの行動力に羨望さえ覚えた。



 いまだ姉の庇護下にある自分にはとうてい真似できない。

 同時に、あの姉がめずらしく一個人に対する感情をあらわにしていたことを思い出し、くすりと微笑んだ。

 他者に借りをつくることを好まない晴信にとって、今回の上杉家や加倉の行動はありがたくも忌々しいものであったに違いない。あのしかめっ面も納得だった。



「これは是非とも直接会ってみたいな。諏訪で療養中という話だったが、それほど重い怪我なのかい? 何なら当家から侍医を遣わすよ」

「……いえ、そこまでの深手ではございません。永田徳本殿の治療よろしきを得て、回復は順調です。ただ、無理をして悪化してはならじとの用心で、こたびは諏訪に留まっております」



 信繁が侍医を派遣すれば、加倉らが諏訪にいないことがばれてしまう。

 長安はそ知らぬ顔で嘘をついた。



「そうか、諏訪には徳本先生がいらっしゃったね。先生が治療なさったのなら何の心配もいらないだろう。私も幼い頃はお世話になったものだよ」

「……永田殿は躑躅ヶ崎館にいらっしゃったのですか?」

「ああ。父上の侍医を勤めておられた。姉上の代になって、残念ながら諏訪に隠棲されてしまったけどね。先生のことだ。狭い館の中より、広い野天の下で好きなように医療に励みたかったのだろう」



 懐かしそうな顔をする信繁の表情をちらと見て、長安は内心で小さく首をかしげる。

 今、信繁が父上と言ったのは信虎のことであろう。その顔に厭わしげなものは感じられなかった。

 それがいぶかしい。



 今回の戦いに信虎が関与していることは、すでに小池主計の口から晴信に伝わっているはず。

 だが、今の信繁を見るかぎり、信繁にはそれが伝わっていない。

 おそらく、晴信は弟に対して意図的に信虎の情報を伏せたのだ。



 これは注意が必要、と長安は内心で考える。

 もとより、誰が聞いているかもわからない躑躅ヶ崎館で、不用意に信虎の名を口にするつもりはなかったが、晴信と信繁の間で父親に関する認識に食い違いがあるのだとすれば、よりいっそう注意しなければならない。

 へたに信虎の情報を信繁に伝えれば、晴信の怒りは雷霆らいていとなって長安を打ち据えるだろう。



 ――逆に言えば、この情報をうまく使えば、武田姉弟の仲を乱すことができる。



 長安はしっかりとそのことも胸裏に刻んでおいた。

 使者として他家に赴いたからには、有用な情報は取れるだけ取っておかないといけない。

 主の気性を考えれば、まず間違いなく実行に移されることはない策であるが、だからといって長安の判断で捨て去ってよいものではない。



 何故といって、同じ情報を掴んだ誰かが、その策を実行に移さないとも限らないからである。

 そのとき、加倉相馬がこの情報を知っているか否かで初動が大きく変わってくるだろう。

 長安はそのように考えていた。



 この考えは正しかったであろう。

 ただ、さすがの長安も、まさかその日のうちに自分の危惧が的中しようとは思っていなかった。






 その日、甲府の町で一つの騒ぎが起こる。

 戦地から逃げてきた難民と、もともと甲府に住んでいた者たちの間で衝突が発生したのだ。

 事の発端は、空腹に耐えかねた難民の子供が、民家の軒先から野菜を盗んだことであったが、騒ぎは瞬く間に拡大し、ついには大人同士の刃傷沙汰に及んだ。



 双方に数十人の負傷者が出たこの衝突は、駆けつけた武田兵によって間もなく鎮圧される。

 だが、この事件が甲府の住民と難民との間に大きな亀裂を生んだことは明白であった。



 躑躅ヶ崎館にあって一報を耳にした武田晴信は小さく舌打ちすると、すぐさま立ち上がる。

 今川軍への対処は春日虎綱に委ね、自ら町に出て事態の収拾に当たった。

 日一日と膨れ上がっていく難民と、その難民を警戒する甲府住民の対立は昨日今日始まったものではない。晴信も手を尽くしているが、今川軍を除かないことには根本的な解決はなしがたい。ここで対処を間違えると、同じ国の住人同士が殺しあう事態に発展してしまう。

 それだけは絶対に避けなければならなかった。



 晴信がみずから裁きを行えば、どちらの側も納得するしかない。

 むろん、だからといって強権的に不満を押さえるのは悪手である。晴信はすばやく、けれど丹念に聞き取りを行い、巧みな裁定で双方を納得させた。

 このすばやい行動により、事態はその日のうちに終息する。

 難民と甲府の住民との対立をあおるという武田信虎の一手は、晴信によって阻まれたのである。



 だが、晴信が町に出た間隙を縫うように、一つの影が躑躅ヶ崎館に忍び込んだことに気づいた者はいなかった。

 その影が密やかに武田信繁の部屋へ向かったことも……




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