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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第八十六話 小さな火計



「……妙だな」



 北条三郎は駿府の町を歩きながら眉根を寄せる。

 その隣を歩いていた二曲輪にのくるわ猪助いすけは同意するようにうなずいた。



「御意。度重なる粛清に外征、いま少し荒れていると思うておりましたが……」

「思いのほか栄えている。まあ、小田原の町にはとうてい及ばないけど」



 鮮麗な美貌を惜しげもなく晒す三郎に対し、大路のあちこちからチラチラと視線が寄せられている。

 それらすべてを三郎は一顧だにせず、ただ眼前の町並みを観察し、分析していた。

 風魔衆の一員である猪助は、そんな三郎に従者のごとく付き従う。

 小柄な三郎とは対照的に、猪助は六尺(百八十センチ)を超える長身であり、顔つきも鬼のようにいかめしい。

 主従のように歩く二人はとにかく目立っていた。



 本来、敵地への潜入というのはもっと目立たないようにやるものであり、三郎とてそれは重々承知していた。

 だが、この組み合わせでは何をどうやっても絶対に目立つ。

 ならば初めから腰をかがめずに堂々としていればよい。昂然と胸をそらして歩いていれば、かえって不審には思われまい。

 今の三郎は、小田原城下の大店おおだなの子という設定なので、役柄的にも堂々としていた方が自然なのである。猪助は護衛兼奉公人という役割であった。



「城の警戒も厳しい。よほどに留守居がしっかりしているのか。たしか根津ねづ政直まさなおと言ったな、駿府の城代は」

「御意」

「根津といえば信濃の一族だろう。他国者の手に居城を委ねるとは相当の信頼だ。刀自とじが仰っていた、氏真を唆している奸臣というのは根津のことなのではないか?」

「さて、どうでしょうか。根津殿の母は、氏真殿のご生母の妹と聞き及びます。鷹匠たかじょうとして義元公にも重用されていたとか。氏真殿が居城を預けても不自然ではございません」

「母方の従兄というわけか。確かに、奸臣と決め付けるには早いか」



 おそらく無意識のうちだろう、三郎が唇を噛みつつ言う。

 現在、北条家には今川家から矢のような催促がなされている。氏真が求めるところは二つ。塩止めの速やかな実施と、甲斐への援軍派遣だ。

 この懇請こんせいに対し、北条家は言を左右にして返答を引き伸ばしている。武田もまた北条にとっては同盟相手。一方の主張だけを鵜呑みにして約を違えるわけにはいかなかったからだ。



 だが、氏真はこれを北条の背信と見たようで、小田原城に差し向けられる使者の態度は、氏真の内心を映すように日に日に硬化していった。

 三郎が小田原を発った頃には、使者を派遣すること自体を止めていた。

 このままでは両家の関係が途切れてしまいかねぬ。

 普通ならば、関係を絶った家から嫁いできた妻は、離縁した上で実家に送り返すものだが、今の氏真にまっとうな対応は期待できない。

 最悪の場合、駿府で処刑されかねない。



 そこで三郎が氏康の命令を受けて駿府に派遣されたのである。

 いちおう潜入任務ということになっているが、いざという時は北条の正式な使者として行動できる権限を与えられている。

 つまるところ、いま三郎の肩には北条、今川両家の未来が乗っかっている。駿府城にいるおはや――北条姫の命運もだ。

 少年の肩に責任は重かった。



 もっとも、それをいとうているわけではない。

 責任の重さは信頼の証でもある。三郎ならば成し遂げられる、と幻庵や氏康は考えてくれたのだ。

 三郎が奮い立つには十分すぎる理由であった。



「いっそおはやの病気見舞いという名目で正面から城を訪ねてみようか。これまでの使者は病を理由に退けられたが、北条一族が直接やってくれば、むげに追い返すわけにもいかないだろう」

「……三郎様。申し訳ありませんが、それはしばしお待ちいただきたい」

「駄目か?」

「恐れながら。今の駿府城の警戒は異様です。昨夜送り込んだ者らもいまだもどっておらず、おそらくは討たれたのでしょう。だというのに城下への警戒は皆無なのです」



 城内に知られたくないものがある、と宣言しているも同然だ。

 その城内に三郎が踏み込んだとき、果たして北条一族への礼節をもって遇されるだろうか――そこに猪助は一抹の不安を感じるのである。

 猪助の任務は三郎と同じく駿府の偵察、北条姫の救出であるが、同時に三郎の安全を守る責務も帯びている。これは特に幻庵、氏康からじきじきに猪助へ下された命令だ。

 今の駿府城に、守るべき若者を送り出す気にはどうしてもなれなかった。



 実を言えば、三郎自身もその危険は感じている。

 かといって、このまま駿府の町を歩き回ったところで城内の様子がわかるわけでもない。

 住民から情報を集めようとしても、城や氏真のことになると、途端に皆の口が重くなる。北条姫に関していえば、ここ数月、姿を見かけた者さえいない有様だ。



 城下を歩き回っても得られるものは何もない。駿府について数日で三郎はそう判断するに至った。

 であれば、虎穴にいらずんば虎児を得ずの例えどおり、自ら危険を冒すことも必要なのではないかと思う。



 そんな三郎の目に、駿府城へ舞い降りていく一羽の鷹の姿が映った。




◆◆◆




「――お、奥方を殺せ、と?」



 駿府城の一角でその声を聞いた瞬間、御宿みしゅく友綱ともつなはとっさに口を塞ぎ、足音をひそめて手近な柱の影に隠れた。

 周囲を確認して人気ひとけのないことを確かめた友綱は、改めて声が聞こえてきた部屋を見やる。



 間違いなく、これから訪れようとしていた父の部屋であった。



「……そうだ。御館様からの命令だ。奥方を殺し、その首を掻き切って北条家に送りつけよとのことだ」

「な、なにゆえそのようなことを? それでは間違いなく北条家を敵に回しましょうッ」

「おそらく北条と今川を噛み合わせるおつもりであろう」

「お待ちくだされ、それでは駿河の国が……!」

「御館様のご深慮、我らがつべこべ口を挟むことではない――信貞のぶさだよ」



 父と話している相手――駿府城代 根津政直の声が低くなった。

 漏れ聞いているだけの友綱でさえ、ぞっと背筋が凍る酷薄な声。



「花倉の乱で義元殿を敵としたそなたを拾い上げ、のみならず駿河に戻れるよう取り計らった御館様の御恩、よもや忘れたとは言うまいな?」

「も、もちろん忘れてはおりませぬ」

「ならば速やかに命令を実行せよ。言うておくが、そなたは我らの企てを黙認した。今さら奥方を哀れんだところで、何の罪滅ぼしにもならぬ」

「そ、それは……」

こと成らば、おぬしには葛山氏元の旧領があてがわれるであろう。すでに賽は投げられたのだ。情けを捨てよ、恥を捨てよ。ここで奥方を喰らわねば、次に喰らわれるのはおぬしと娘ぞ」



 それを聞いた瞬間、友綱はそっと後ずさり、足音を立てないように注意しながらその場を離れた。

 廊下の角を曲がり、息を殺して様子をうかがう。

 どれだけ待っても、父や根津政直が追ってくる様子はなかった。



 知らず、呼吸を止めていた友綱は大きく息を吐き出す。

 今もれ聞いた会話は聞いてはいけないたぐいのものだ。今すぐ記憶から削除したいところだったが、会話の内容がそれを許さない。



 奥方。北条家。あれは今川氏真の妻の早姫のことだろう。

 下級武士の娘である友綱にとっては遠い存在だった――つい先日までは。

 だが今、友綱は医師として早姫付きとなっている。知らぬ存ぜぬ見ておらぬ、では済まない立場なのだ。



 友綱は十四歳。

 本来なら、当主の奥方の侍医になることなど決してありえない年齢である。

 そもそも友綱は軽く医療に触れたことがある程度で、専門の医者というわけではない。

 どうしてそんな友綱が早姫の侍医になったのか。



 今の早姫は、先の誘拐騒動の影響でまったく男性を寄せ付けない状態になっている。

 夫である氏真でさえ、顔を見た瞬間に金切り声をあげて逃げ出そうとする――といえば、その状態は想像できるだろう。

 そんな状態の早姫が男性の医師に耐えられるはずもなく、結果、一時的に友綱が侍医の任を与えられているのである。



 正直なところ、これは友綱にとって迷惑な話であった。

 なぜといって、奥方付きの侍医になれば、早姫の体調のすべてが友綱の責任になってしまうからである。

 氏真は早姫を愛すること厚く、軽い風邪を引いただけでも顔色をかえて飛んでくる。友綱としては、毎朝毎晩、姫が体調を崩さないかと気が気ではない。



 その重圧は耐えがたく、誰でもいいからさっさと女性の医者を見つけてきてほしいと心底願っている。父の信貞にも何度も申し入れた。

 だが、いつまで経っても代わりの女医は現れず、なしくずし的に友綱は侍医であり続けている。



 その早姫を殺す、と城代である根津政直は口にした。

 命じたのは御館様である、とも。



 はじめ、友綱はそれを氏真のことと考えていたのだが、政直と父の台詞を思い出すと、そうではないことがわかる。

 そもそも、あれほど早姫を愛していた氏真が、突然豹変して首を北条に送れ、などと言うはずがない。



 花倉の乱で父を助けた人物といえば武田信虎。政直の言から考えるに、その信虎が早姫を殺せと命じたということになる。

 これも友綱にとってはせない話であった。氏真が武田の爺と慕う好々爺が、どうして早姫を殺そうとするのか。



「って、そんなことを考えている場合じゃないわ!」



 我に返った友綱はぺしりと自分の頬を叩くと、しゃんと背筋を伸ばして足早に歩き始めた。

 誰が命じたのかはこの際どうでもいい。

 問題なのはすでに命令が下った事実であり、駿府の城代がそれを実行に移そうしていることだ。

 首を切るといったからには荒事も辞さないつもりだろう。



 今の早姫の周囲には男性は近寄れない。

 氏真が付けた女性の護衛がいるにはいるが、言ってはなんだが友綱の方が腕が立つレベルである。とうてい姫を守りきれるとは思えない。



 友綱は懸命に頭をひねった。

 曲がりなりにも医の道に触れた者として、患者を見捨てることはできない。今回の一件は病とは異なる領域の話であるが、それでもここで早姫を見捨てれば、自分は一生悔やむことになると確信できた。

 ゆえに助ける。そこはいい。

 だが、その結果として友綱や父が命を落とすことを受け入れるつもりはなかった。



 先刻の城代の口ぶりからするに、ここで友綱が早姫をかばえば、御宿家は父娘ともども非業の死を遂げることになるだろう。

 そんなのは御免だ。

 ここで率先して早姫を連れ出せば、友綱が先刻の会話を立ち聞きしていたと白状するようなもの。父は城代に殺され、友綱は敵の手で追い回されることになる。逃げ切れるわけがない。

 そもそも、どうやって早姫を城の外に連れ出せばいいのだろう?



「姫様が城外に散歩に行きたいと望んでると言う? ううん、今日まで城の中庭にさえ出ようとしなかった方が、急に城外に散歩に行きたいなんて不自然すぎる。間違いなく止められるわね」



 早姫が城の外に出たいと望んだことは今まで一度もなかった。

 そんな早姫を自然に外に連れ出すにはどうすればいいか。

 答え。

 城代や城兵が不自然と思わない理由をつくりだせばいい。

 そう、たとえば。



 ――何者かの不始末によって城の一隅から火が出て、姫様はそれに動揺して城外に逃げ出してしまった、ということにすれば。



 強引であることは言をまたない。

 早姫が助かり、自分も助かり、父も助かるためにはこれでいいという確信もない。

 だが、なにしろ時間がない。こうしている間にも、城代の命令を受けた侍たちが早姫のもとに向かっているかも知れないのである。



 御宿友綱はぎりっと奥歯をかみ締めた後、まなじりを決してさらに足を速めた。




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