第八十五話 川くだり
干沢城の戦いが終わった後、俺はしばらく諏訪に留まることになった。
先の戦いで受けた傷がけっこう深かったのだ。
案内人である小池主計に、一足先に躑躅ヶ崎館に向かってもらったのはこのためである。
――まあ嘘なんだけど。いや、負傷したのは本当なのだが、諏訪に留まるつもりはなかった、理由は後述する。
さて、負傷した俺の治療をしてくれた人物であるが、これがびっくり。
誰あろう、永田徳本先生であった。
戦国時代の名医オブ名医、貧者も富者も関係なく治療は一服十六文を貫いた、人呼んで「十六文先生」ことあの永田徳本だ。
先生は俺のほかにも、先の襲撃で板垣兵に襲われた農民たちを治療してくれたそうだ。女性の死者はいないというから、俺が見た矢で射られた女性も助かったのだろう。ありがたや、ありがたや。
で、どうしてこんな名医が俺たちの治療をしてくれたのかと思ったら、なんでも先生はもとから諏訪に居を構えていたのだそうな。
この地で薬などを自作しながら医療活動を続けているのだという。
先生は植物にも造詣が深く、自宅で花梨やぶどうの栽培もしていた。花梨を煮出して水飴をまぜた花梨茶は、めっちゃおいしかったです。
あと自分用にぶどうをつぶし、ワイン(に似た酒)もつくっていた。
少し飲ませてもらったのだが、うん、俺的にはワインというよりもぶどうジュースという感じ。まあ、そもそも元の世界でワインを飲んだことはないので、ワインとジュースの違いなんぞ分からんのだけど。
ともあれ、これ越後で作れないかしら。鮫ヶ尾名物越後ワイン的なものをつくれば売れると思う。
ともあれ、京では『医聖』こと曲直瀬道三の治療を受け、諏訪では『十六文先生』こと永田徳本の治療を受けた俺は、ある意味すごい幸運者。
この幸運が尽きないうちに次の行動に移らねばなるまい。
次の行動。すなわち武田信虎を滅ぼすことである。
情報源は干沢城で捕らえた板垣信憲だった。
武田軍の長坂光堅、昌国父子には討ち取ったと伝えたが、それは嘘。
主計にも不義理をしてしまったが、これは用心の結果である。
というのも、信憲が生きていると分かると、高確率で口封じの刺客が送られてくることが予想されるのだ。
その証拠に、先の干沢城での戦いにおいて、弥太郎、秀綱、虚無僧様、他七名によって追い詰められた信憲が降伏を申し出るや否や、それまで信憲を守って戦っていた馬廻が一斉に信憲を殺しにかかったらしい。
信虎の命令で信憲に付けられた馬廻――おそらく忍びの者だろうと秀綱は言っていた――は信憲の護衛のみならず監視兼刺客の役目も兼ねていたようだ。
結局、信虎の手勢は弥太郎たちによって切り伏せられ、数太刀を浴びた信憲もかろうじて命だけは助かった――と思われた。
ところが、信憲を切った馬廻の刀には毒が塗られており、信憲は瀕死の状態に陥ってしまう。
もし、徳本先生の治療が間に合っていなかったら、間違いなく信憲は命を失っていただろう。
――まあ正直なところ、信憲がやったことを考えれば、そのままおっ死んだところで一向に構わないのだけど。むしろ腹を抱えて笑うまである。
ただ、情報源としての価値が残っている以上、簡単に死なせるわけにはいかなかった。
流石というべきだろう、徳本先生は飄々としながらも見事な手際で信憲を死の淵から救ってのけた。
で、意識が回復した信憲を尋問してみたところ、まあ胸糞悪い情報が出るわ出るわ。
信憲にしてみれば裏切られたという気持ちが強いのだろう、拷問の必要もなく、こちらが訊かぬことまでぺらぺらとよく喋ってくれた。
俺たちが上杉家の人間だと知ったことも、信憲の口を軽くした一因だったと思われる。
もう信虎には従えない。かといって、今さら晴信に降伏したところで助命されるはずもない。
その点、上杉家なら――そんな風に判断したらしい。
それが甘い考えだと伝えてやるほど親切ではない俺は、なるべく好意的な表情を浮かべつつ、信憲から絞れるだけ情報を絞り取った。
そして、信虎を滅ぼすことを決意した。
もとより田畑に塩をまくような相手だ。ろくでもない敵であるのは初めから分かっていたが、それにしても信虎の行動は非道に過ぎる。
率直に言って気に食わん。これが武勇や策略のみで今川家を呑み込んだというなら、戦国の世に雄たる者と称えることもできたろうが、女子供を踏みにじって一国を牛耳る姿には嫌悪しか湧かなかった。
俺の判断には若干の焦りも含まれている。
脳裏でしきりに警鐘が鳴っていた。これは早めに潰しておかないとまずい敵だ、と。
すでに信虎は、氏真を傀儡として駿河と遠江を動かす権力を手に入れている。このまま今川軍が甲斐を攻め取れば、甲斐、駿河、遠江の三国が信虎の手に落ちてしまう。
甲斐が失われれば、信濃の武田軍も信虎に屈するしかなくなるだろう。
残る北条家は大切な姫を信虎に握られたまま。最悪、氏真のように信虎の傀儡にされてしまうかもしれない。
そうなれば、東国に恐るべき巨大勢力が誕生してしまう。
かつて三国同盟を結んだ武田、今川、北条の三家が等しく信虎の手に落ちれば、いったい誰がこれを止められるというのか。
もはや他国の戦争、他家の諍いでは済まない。
これから始まるのは、正真正銘、上杉を守るための戦いだった。
では、信虎を討つにはどうすればよいか。
まずは俺たちが手に入れた情報を春日山の輝虎様に伝えなければならない。
虚無僧様にはただちに越後へ帰ってもらおう。信虎の脅威を輝虎様に伝え、晴信が敗れた場合に備えてもらうのだ。状況によっては、信虎より先に上杉が信濃を制圧する。
秀綱には虚無僧様の護衛をお願いしよう。
他にも、荷駄の護衛から越後行きの人員を何人か割く。
で、その荷駄だが、これは長安に託して躑躅ヶ崎館に向かわせる。
甲斐で塩が不足しているのは事実だし、戦況を聞いたかぎり、これから今川軍によって村を追われた領民が大挙して甲府に集まってくるはずだ。どれだけ塩があっても困るということはないだろう。
長安は元武田の家臣であるし、父や兄が甲府にいる。それに晴信や信繁といった武田宗家とも面識があると聞いた。塩の交渉を任せても問題あるまい。
仮に問題があったとしても、今の上杉家には干沢城防衛、上原城奪還の功績がある。俺を牢屋に放り込んだ一件も、蒸し返そうと思えばいくらでも蒸し返せる。
武田側も強いことは言えないだろう。
残るは俺と弥太郎、段蔵。
今回の一件で注目を浴びたせいで、俺の周囲には絶えず人の目が光っている。
負傷療養はそんな連中に対する目くらましである。
大人しくしていると見せかけて電撃的に諏訪を出立。そのまま一気に甲斐に入国して川くだりを決行する。
「川くだり……?」
「…………はぁ」
「あれ、段蔵、わかったの?」
「外れてほしいと切に願いますが、まあ、わかりました」
なにやら腹心二人がぼそぼそ話しているが、気にせず続ける。
上原城と干沢城の間に上川、宮川という二つの川が流れているのは以前に説明したが、甲信の地には他に幾つもの河川が流れている。幾十もの河川、といった方が正確か。
中でも武田信玄が堤を築いた釜無川あたりは特に有名なのではないだろうか。
で、この釜無川であるが、甲斐の北西部から発して南へ、南へと流れ、やがて笛吹川と合流して――このあたりから富士川と呼ばれる――駿河に到達し、そのまま駿河の国を縦断して海へと流れ込む。
富士川は日本三大急流の一つに数えられるくらいの暴れ川であるが、逆に言えば、それだけ水量が豊富であり、なおかつ流れも速いということ。
ようするに、駿府城へ向かうには格好の経路なのである。
◆◆
駿府城を目指す目的は、むろん北条姫の救出である。
繰り返すが、このまま北条姫を信虎の手にゆだねておくのはまずいのだ。
このうえ北条家まで信虎に操られるような事態は絶対に避けねばならない。
とはいえ、どうして救出を上杉の人間がやらなければならないのか、と問われると返答に窮する。
段蔵あたりが「北条に使者を出せば済むことでは?」と言ってくるのは十分に予測できることだった。
当然、俺もそれは考えたのだが、その場合「諏訪にいる上杉の人間が今川の将を捕らえて駿府城の内情を掴んだ」という摩訶不思議な説明をしなければならない。
俺たちが諏訪(武田領)にいる理由を説明するだけで一苦労するに違いなく、そもそも諏訪で起きたことを晴信の許可なく北条に伝えるのはまずいだろう。
おまけに、上杉と北条はつい先日上野の地で激突したばかり。門前払いされる可能性も否定できない。
そんな手間をかけるくらいなら、俺たちが向かった方が絶対早いのである。
幸い、駿府の城門を開く鍵(板垣信憲)は手に入ったことだし。
と言うようなことを機先を制してこちらから段蔵に言ったら、ため息まじりにこう返された。
「そこを『俺たちが向かった方が』ではなく『お前たちに向かわせた方が』に訂正してくださるなら、私としても特に異存はないのですが」
「何を言う。駿府で何が起こるか分からない、というかそもそも川くだりがうまく行く保障もないんだ。こんな危険な道のりを部下に押し付けられるか」
途中で間違いなく武田軍と今川軍の戦いに巻き込まれるしな!
今川軍と武田軍が死闘を続けている下山城は富士川のすぐ近く。
最悪の場合、両軍が戦っている真っ只中を押し通る必要があるのだ。さすがにこの道のりを部下任せにはできない。
その俺の主張を聞き、段蔵はこともなげにうなずいた。
「そうおっしゃると思っていました。それで、同行するのは弥太郎と私だけですか? 鍵(板垣信憲)を持っていくなら、もう一人二人はほしいところですが」
「あ、ああ、そのあたりは任せるが……あれ、反対しないのか?」
「お仕えして一年以上経つのですよ。止めても無駄なときくらいわかりますとも。それに――」
「それに?」
「言ってはなんですが、はじめから同行できる分、干沢城の時より気が楽です」
段蔵の言葉に同意するように弥太郎がぶんぶんと首を縦に振っている。
干沢城に行ったときは、まさか投獄されるとは思っていなかったので弥太郎たちを連れて行かなかった。
その事実が微妙に尾を引いているらしい。
あのときは、板垣勢の増援が再び農民たちを襲う恐れがあったので、それの備えとして二人を残した。妥当な判断のつもりなのだが、結果として思い切り心配をかけてしまったのは事実なわけで、俺は何も言うことができない。
ま、まあ今回ははじめから二人を供にすると決めていたので、それで勘弁してもらおう。
と、そんなことを考えていると、何やら肩に重い感触が。
見ると、長安が飼っている仔猿が歯を剥いてきーきーと物申している。
もしもし、飼い主さんや。この仔は何を言っているんだい?
「……城で捕らわれた主を心配したのは小島と加藤だけではないぞ、と言っている」
「む。そうか、申にも心配をかけたな」
そう話しかけると、わかればいいんだというようにぺしぺし頭を叩かれた。
長安がさらに続ける。
「主。荷駄の件については了解した。川くだりにも反対しない。だが、念のために申を連れて行ってほしい」
「それはかまわないが、いいのか?」
「いいから言っている。猿は邪気を祓う動物。くれぐれも気をつけて」
そう言ってじっと俺を見る長安。
……ああ、たしかに俺を心配してくれたのは弥太郎と段蔵だけではなかったようだ。
そう思って頬を掻いた俺の動作を、すぐ隣で申が真似をしていた。