第八十四話 伸びる魔の手
「報告、報告! 吉報にござるぞ、各各方!」
そんな声が躑躅ヶ崎館に響き渡ったのは、上原城陥落の報告がもたらされて間もなくのことだった。
何事かと集まってきた家臣たちの前で、その人物は大声をあげる。
「諏訪の武田軍が上原城を奪還! 敵将 板垣信憲をも討ち取り、捕らわれていた長坂様はじめ、人質も残らず解放されたとのことでござる! 諏訪は武田の手に返りもうした!」
諏訪は甲斐と信濃を結ぶ結節点。
その奪還は喫緊の問題であっただけに、これを聞いた武田家臣はおおいに沸き立った。
報告を受けた武田晴信も、上原城奪還の命を受けて出陣の準備を整えていた春日虎綱も同様である。
だが、つい先日、至急援軍をと使者を寄越してきた長坂昌国が、瞬く間に城を奪還し、敵将を討ち、人質を解放した、という報告を鵜呑みにすることはできない。
何かの罠ではないか、と考えるのが自然であろう。
ところが、晴信にしても、虎綱にしても、この疑いを抱く必要はなかった。
なぜといって、報告者が小池主計――虎綱の腹心だったからである。
「……………………虎綱」
「は、はい、御館様」
「こういうとき、武田の当主たる者はどのような顔をするべきなのでしょうね?」
晴信はより詳しい話を聞くために主計を政務部屋に招き、虎綱も同席させた。
その席で語られた干沢城の戦いの顛末。
目尻をピクピクと震わせながら問いかけてくる主君に対し、虎綱はなんと応じるべきか考えあぐねた末、無理やり言葉をひねり出した。
「え、ええと……す、諏訪は取り戻せたのですから、お笑いになればいいのではないかな、と……」
「笑う、笑うですか。ふふ、たしかに笑ってしまいそうになります。領内の通行を許可した人間を牢に放り込んだだけでも笑い種ですが……その牢に放り込んだ人間が戦で殊勲を立てた? 武田の兵は人か案山子か。笑うしかないとは正にこのこと」
あああ、と虎綱は内心で頭を抱える。
怒っている。とても怒っている。
虎綱が忠誠を誓う主君は、今めったに見ないくらいの怒りに駆られて全身を震わせていた。
だが、晴信が怒るのも無理はない、と虎綱は思う。
なんだかんだ言いつつも、晴信が上杉に感謝していたのは間違いない。渋ることなく上杉勢の領内通過を許したのはその証左であろう。
長坂昌国はその上杉勢の指揮官を――加倉相馬を牢に放り込んだのだ。これだけで晴信の面目は丸つぶれである。
おまけに、いかなる偶然か、同じ日に板垣信憲が――かつての武田家の家臣が干沢城に攻め込み、加倉を戦に巻き込んだのである。
ここまでくると、もう天を仰ぐしかない。
下げる頭がいくつあっても足りない大失態であった。
牢から脱した加倉は武田側の無体な振る舞いを恨みとせず、防戦に協力してめざましい功績を立てた。板垣信憲を討ち取ったのも加倉の手勢であるという。
干沢城防衛のみならず、上原城奪還に関しても上杉勢は一働きしてくれたそうだ。
武田から見れば、借りの上に借りを重ね、その上にもう一つ借りを乗せたようなものである。借りの豪華三段重ね。笑うしかないという晴信の言葉はまさに剴切だった。
しかも――
「あの粗忽者……よりにもよって上杉の前で信虎の名前を出すとは……!」
晴信が吐き捨てるように言う。粗忽者とは、言うまでもなく板垣信憲のことである。
主計が躑躅ヶ崎館に急行してきた主な理由はこれだった。
今回の戦いの裏で蠢動しているのは武田信虎。極秘であったその情報を上杉に掴まれてしまったのだ。
加倉がこの情報を公開すれば、武田家中は今回の戦いが「武田対今川」ではなく「第二次躑躅ヶ崎の乱」であることに気づき、激しく動揺する。諸国が武田を見る目もかわってこよう。
晴信は上杉に弱みを握られたに等しいのである。
――もっとも、もし加倉にそのような意図があるのだとしたら、情報を握った事実そのものを伏せておくだろう。
それゆえ、晴信としても本気で加倉が情報をばらまくと思っているわけではない。
極秘情報であることをわきまえ、主計を通じて晴信に報告してきたのも誠意のあらわれであると理解できる。
だがしかし。
それはそれとして、上杉に弱みを握られた事実にかわりはないのである。
面白くない。とてもとても面白くない。
今川の一件といい、これでは武田の一人負けではないか。上杉が何を要求してきても拒めない。
……いや、対価を要求してきてくれるのならまだいい。領土なり金銭なりで購えば、宿敵に情けをかけられたと唇を噛む必要もなくなる。
問題なのは、上杉が対価を要求してこない場合である。
そして、上杉の場合、高確率で要求してこないことが予測されるのだ。
だが、ここまでの働きを示されて何も報いぬでは武田晴信の名がすたる。なんとしても恩賞を受け取らせる必要があった。
「輝虎に忠誠を誓う者であれば、地位や金銀に転ぶとは考えにくいですね。ですが、城主として領民を豊かにできる利をくれてやれば食指を動かすはず。そういえば、虎綱の話ではまだ独り身ということでしたね。そちらから攻めるのも一手でしょう。他には……」
何やら思いつめた顔でぶつぶつ呟きはじめた晴信を見て、虎綱はおそるおそる口を開く。
「あの、御館様。加倉殿たちの処遇はどのようにいたしましょうか。このまま躑躅ヶ崎館にお招きしても……?」
「……本音を言えば、他領で好き勝手に動き回る厄介者などさっさと越後に帰れと言いたいところですが――ふん、そういうわけにもいかないでしょう。ただでさえこちらは不義理を重ねた身。その上でここまでの働きを見せられては歓迎するしかない。ここで加倉を追い返すような真似をすれば、武田は悪辣非道の家であり、私は邪智暴虐の主であると内外に喧伝するようなものです」
「かしこまりました。では主計、加倉殿に今のお言葉を伝えて、丁重に案内してきてください――言うまでもありませんが、伝えるのは『歓迎する』の部分だけですからね?」
「は、はい! かしこまりました!」
虎綱ににっこり笑って念を押された主計は慌てて平伏する。
以上のように多少の問題点は孕んでいたが、とにもかくにも諏訪の奪還は朗報である。、
躑躅ヶ崎館は久しぶりの吉報に生色を取り戻した。
だが、吉凶は背中合わせの双生児。
このとき、すでに躑躅ヶ崎館には次なる凶報が迫りつつあった。
およそ一千の今川軍が突如として甲府盆地に姿を現したのである。
おそらくは御坂峠を越えて来たと思われるその一団は、まっすぐ躑躅ヶ崎館に向かっていた……
◆◆◆
「――御館様。ご報告が二つ」
久方ぶりの甲府盆地を思うさまに駆け回っていた信虎のもとに、甲州忍びの長である出浦盛清が現れる。
信虎は右手を首にあて、ゴキゴキと二、三度動かしてから口を開いた。
「申せ」
「は。諏訪に差し向けた板垣は失敗。次に駿府の根津殿より鷹が参りました。かの地で怪しげな者どもがしきりに城内をうかがっている由」
「領内の様子を探るならともかく、氏真がおらぬと分かっている城内を探るか。城に残っているのは北条姫くらいのもの。であれば、間違いなく北条の手下であろう。ふん、女郎め、感づきおったな」
板垣の失敗については一言も触れず、信虎は女郎――相模の北条幻庵の動きにのみ注目した。
幻庵は早雲時代から北条家を守ってきた人物だ。北条と幾度も矛を交えた信虎は、当然のように幻庵のことを知っていた。若い頃は苦杯を舐めさせられたこともある。
早期に出てこられると面倒な相手ゆえ、これまで警戒を怠らずにいたのだが――
「鈍い、鈍いぞ、女郎。一族思いのうぬのことだ。嫁いだ養女も、婿の氏真もさぞ心配であったろうが、父を失ったばかりの氏真に北条が干渉すれば今川家臣の反発は避けられぬ。そう思って手出しを控えておったのだろうな」
通常ならば思慮深いと称えられこそすれ、問題になるような行動ではない。
だが、今回に限ってはその思慮深さが仇になる。幻庵は後先考えずに駿河に攻め込み、力ずくで養女を奪い返すべきだった。信虎はそう思う。
外聞を気にするから――ほれ見よ、助けられる者も助けられなくなる。
「根津に伝えよ。ただちに北条姫の首を切り、小田原に送りつけよとな。理由は北条家が今川を裏切り、武田にくみしたためである――いまだに塩を止めぬ、兵も送らぬでは、そう受け取られても仕方なかろうて、なあ女郎よ?」
実のところ、ここで北条姫を斬ることの戦略的な意義は薄い。強いていうなら今川と北条をかみ合わせ、互いの兵力を損耗させるためであるが、それは北条姫を斬らずとも為すことができる。
あえて北条姫を使うのは幻庵への嫌がらせ、過去に苦杯をなめさせられた相手への返礼だった。
愛娘の生首を送られたときの幻庵の顔を想像し、信虎はくつくつと喉を震わせた。