第八十一話 干沢城の戦い(前)
実を言うと、俺は上原城の城代である長坂光堅に関して、あまり良い印象を抱いていない。
これまで一度も会ったこともなければ、噂らしい噂を聞いたこともない相手に、どうしてマイナスのイメージを持っているかというと、これは元の時代の知識による。
長坂光堅。後に出家して釣閑斎。
そう。長坂光堅とは、跡部勝資と共に武田滅亡の引き金となった奸臣 長坂釣閑斎その人なのである。
長篠の戦いでは山県昌景らの慎重論を退け、勝頼に積極的攻勢を勧めて大敗を招いたとか、越後の御館の乱では上杉景勝から賄賂を受け取って上杉景虎(氏康の子)への援助を中止させ、北条離反の原因をつくったとか、武田家が滅びた天目山の戦いでは勝頼を捨てて逃亡しながら、結局逃げ切れずに捕まって殺されたとか、およそ良いエピソードを聞いた記憶がない。
なので良い印象を抱きようがないのである。
――まあ、実際は長篠の戦いには出陣しておらず、上杉との外交を担当していたのは別人であり、武田滅亡時には最後まで勝頼に従って自刃したらしいのだが。
つまり、俺の知っている奸臣エピソードは多くが偽りか、さもなければ脚色の産物であるということだ。
このあたりは専門家ではないので詳しいことはわからない。が、一つ確実に言えることがある。
それは、俺の知識とこの世界の長坂光堅とはまったくの無関係である、ということ。
それが分かっていたから、光堅の子である昌国と対面したとき、俺は内心の思考が面に出ないよう細心の注意を払った。
だが、ひょっとしたら表情や声のどこかに、光堅への軽侮の気持ちが混じってしまったかもしれない。
そんな俺を見た息子の昌国はどう思っただろう。
俺が未来から来たなんてことを知らない昌国にとって、俺の態度はおめおめ敵に捕まった父親を馬鹿にしているとしか思えなかったのではないか。
こうして考えてみると、牢屋に叩き込まれた原因の一部は俺にあるのかもしんない。
反省しなければなるまい。
ともあれ、今の俺は干沢城の牢屋に閉じ込められている。
鍵はかかっているが見張りはいない。こんなところに人を割いている余裕はないのだろう。
無用心と言いたいところだが、そもそも罪人が俺の他に一人しかおらず、牢屋は開店休業状態だ。
どうもこの城、諏訪家滅亡からこちら、ほとんど使われていなかったっぽい。上原城が奪われた後、長坂昌国が慌てて手をくわえ、反抗の拠点に仕立て上げたようであった。
ちなみに、虎綱からつけられた案内人である小池主計は、こまめに顔を見せては不自由はないか、欲しいものはないかと訊ねてくる。
はじめに俺が牢に入れられたとき、主計は顔面を蒼白にして平身低頭し、俺が止めなければそのまま腹をかっさばく勢いだった。
俺は繰り返し「気にしないでいい」と伝え、何とか切腹を思いとどまらせたのだが、牢屋に入れられたことより、こっちの方がはるかに神経をつかった気がする。
それ以後、主計は外との連絡係を務めてくれていた。
昌国としても俺を処刑する意思はなく、晴信に差し向けた使者が戻ってくるまでの間、そこで大人しくしていろ、という意味の措置であるらしい。
こうして主計がたずねてくることを黙認しているのだから、俺に対する悪意や殺意がないことは確かであった。
まあ、それならそれで牢屋ではなく、城の一室にでも閉じ込めておけと思うのだが、さっきも言ったように俺への見張りに貴重な人手を割きたくなかったのだろう。
向こうに害意がない以上、暴れたり脱走したりする理由もない。
できれば板垣信憲を討つ一角を担いたかったが、ここは我慢するしかないだろう。ここで脱走をはかれば、本格的に昌国を敵にまわし、ひいては武田家と敵対することになりかねないからな。
今頃、弥太郎たちは荷駄を率いて上川と宮川を渡り、この城に向かっているはず。
主計を通して俺の状況を伝え、力ずくでの奪還とか、そういう荒事はくれぐれも慎むように伝えておく。
これでやるべきことは終わり。後は晴信の動きを待つだけだ。
諏訪地方の重要性からみて、おそらく虎綱がとんぼ返りしてきて上原城を落とすだろうし、そうなれば俺も無事釈放されるであろう。
さて、そうなると当面の問題は、いかにして時間を潰すかである。
主計は城内でさまざまに奔走しているらしく、無駄話に付き合わせるわけにはいかない。となると、必然的に会話の相手はもう一人の牢仲間に限られる。
その男性は牢屋に入れられているにもかかわらず、ひどく落ち着いていた。
年齢は若い。たぶん俺より年下だろう。顔だけ見れば少年といってもよさそうだ。
だが、牢の中でピンと背筋を伸ばして座る姿は、俺などよりよっぽど大人びて見えた。
日に焼けた赤銅色の肌、鷹が羽根を広げたような眉、切れ長の目はいかにも涼しげで、生成りの衣服から伸びた手足は獣のように長くしなやかだ。
獣の皮をなめして作った上衣を羽織っており、おそらくは猟師か何かなのだろう。
身長は俺よりやや低く、決して大柄とは言えないが、身のうちに蓄えた力は俺などではとうてい測れそうになかった。
なんでこんな人が武田家の牢獄に繋がれているのだろう。
内心でちょっとビビリつつも、俺はこの相手に話しかけてみることにした。いちおう牢と牢とは鉄柵で区切られているので、実は悪人でしたというオチでも襲い掛かられることはあるまい。
なお、結論からいえば、この心配は杞憂であった。
少年は俺の問いかけに対し、芯を感じさせる落ち着いた声音で応じてくれた。
それによれば、少年は白峰山(信濃、駿河、甲斐にまたがる大山脈)で活動する猟師であるという。
白峰山は標高二千メートルをゆうに超える山々が峰を成す山岳地帯。そこで猟師をしている少年の腕前は人後に落ちないであろう。
もっと人里に近い山で狩りをすればいいのに、と思うのは素人の浅はかさ。
里に近づくと、狩場の権利やら、他の猟師との縄張り争いやら、色々と面倒ごとが増えるらしい。その点、標高千や二千の高みに近づく猟師など滅多にいない。
実力さえあれば、高山の方がやりやすいのだろう。
で、そんなある日、少年は獲物を追って北へ北へと足を伸ばし、干沢城の近くにまでやってきたらしい。干沢城は標高八百メートルの山腹に築かれた山城だが、少年にとっては鼻歌交じりで行き来できる場所である。
これが他の城であれば、少年も用心して近づかなかっただろう。
だが、諏訪家が滅びてからこちら、干沢城が無人であることを知っていた少年は狩りを続行する。
そんな少年を見つけたのが長坂昌国である。
上原城を追われて干沢城に入ったばかりの昌国の目には、人里はなれた山の中を猿のごとく駆け回る猟師はひどく怪しげに見えたに違いない。
きっと信憲の間諜に違いない。捕らえろ――と、まあそんな経緯で少年は牢に入れられてしまったそうな。
……なんというか、つくづく間が悪いな、長坂昌国。
まあ、昌国の立場から見れば、少年や俺が怪しく見えるのは理解できるけれども。
「間諜の疑いについてはまもなく晴れたのですが、疑いのすべてが解けたわけではないとのことで、こうして牢に入れられている次第です」
思ったよりもはるかに丁寧な言葉遣いで少年が語る。
整った外見とあわせて、どこぞの良家の子弟といっても十分に通用しそうであった。
「それは災難でしたね。武田の重臣に伝手があるので、こちらが牢を出られた暁には釈放の口ぞえをいたしましょう」
「それはありがたい。粗衣粗食にはいくらでも耐えられるが、里の者たちを心配させるのは心苦しかったところです。しかし、武田の重臣に伝手とは……失礼ながら、武家の方には見えませぬ」
「はっは、よく言われます。しかし、これでもれっきとした越後上杉家の臣なのですよ。偽りを申し上げたわけではございません」
俺が言うと、少年は驚いたように目を見開いた。
ちなみに、さっきから俺が年下の少年に敬語で接しているのは位負けというやつである。
こうして話していても、なんというか、気迫みたいなものがビリビリ伝わってくるのだ。
明らかにただ者ではない少年は、なぜか懐かしそうな表情で言った。
「越後……上杉の家中の方でしたか。定実様がお亡くなりになったとは風の噂で聞いています」
えらく情報が古いなと思ったが、まあ山の中で生活している猟師が世情に疎いのは当たり前か。
それに古いとは言ったものの、冷静に考えると定実様が亡くなられてからまだ一年も経っていない。葬儀にいたってはついこの間のことだ。
まったく、日々の密度が濃すぎて時間の感覚がおかしくなっている。
「定実様亡き後、長尾景虎様が上杉家を継いで越後守護となりました。先ごろ、京の将軍家より正式に認められ、同時に景虎様は公方様の『輝』の一字を与えられ、輝虎様と名乗りを改めたのです」
「そうですか。世の有為転変はただならぬ。守護代に過ぎなかった長尾の一族が守護職に就き、それを公方様もお認めになるとは……」
どこか遠くを見据えながら、嘆じるようにつぶやく少年。
それを聞いた俺は眉根を寄せた。
なんとなくではあるが、今の言い方は長尾家に対して意趣があるように聞こえたのである。
「……もしや、長尾家と何か因縁でも?」
「因縁、と呼べるかものかは分かりませんが――私の曽祖父は長尾家に仕えていたのです。ですが、守護である上杉氏を上回ろうとする当主を諌めて勘気に触れ、越後を追放されました。諸方をさまよい歩き、最後に行き着いた場所が白峰の山だった、と父祖から伝え聞いています」
そこまで語った少年は、鋼を思わせる灰褐色の瞳を俺に向けると、非の打ち所のない所作で丁寧に一礼した。
「申し遅れました。私の名は長重。甘粕長重と申します」
思わず息を呑む。
少年が口にした名前は、上杉四天王の一人に数えられる勇将のそれと同じであった。
◆◆
さて、俺が知る上杉四天王の名前は次のとおりである。
柿崎景家
直江景綱
宇佐美定満
甘粕景持(長重)
二人はすでに輝虎様のもとにいる。一人は俺が討った。
残る一人はどこにいるやらまったく分からなかったのだが、まさかこんなところで出会うことになろうとは。
長坂昌国殿、色々言ってごめんなさい! 超グッジョブ!
確保、絶対確保、と心の中で誓う。
だが、ここまでの話を聞くかぎり、長重は長尾家に良い感情を覚えていない様子である。
猟師をしている上は立身出世に興味があるとも思えない。勧誘の手がかりがなくてちょっと厳しいが、長重の心に引っかかっているのは父祖の代の確執のようだし、今代の輝虎様の良いところを推していけば突破口は開けるはず。
急いては事を仕損じるのたとえどおり、時間をかけて口説き落とすことにしよう。
幸か不幸か時間だけはたっぷりあるしな!
……などと考えていたのだけれど。
どうやら長坂昌国はとことん間が悪い人間であるらしい。あるいは板垣信憲が嫌がらせに長じているというべきかもしれないが、とにかく、俺と長重が互いに名乗りあったその夜に事態は動いた。
夜半、何やら城内が騒がしいと思って目を開けると、小池主計が慌しく牢に駆け込んできた。
主計いわく、上原城から急進してきた板垣勢によって城門がこじ開けられたらしい。
どうやら信憲の手勢が城内に紛れ込んでいたらしく、内側から閂を外されてしまったそうだ。
……うん、たしかに人質をとって上原城に立てこもったからといって、出撃しないとは言ってませんよね。
昌国が干沢城に退いた後、周辺の村々に略奪の兵を派遣したのは武田軍の油断を誘う布石だったのかもしれない。
略奪に狂奔している板垣勢を見れば、まさかその日のうちに干沢城に攻めてくるとは思わない。
だとすれば、昌国は物の見事にそれに引っかかったことになる。
引っかかったのは昌国だけではない。俺もだ。正直、板垣信憲がここまで積極的に動くとは予想していなかった。予想していたら、干沢城を訪れたりはしなかっただろう。
まあ、今は過ぎたことを悔いても仕方ない。反省は後回しにして、眼前の事態を切り抜けなければならない。
主計によれば、すてに板垣勢は城内に入り込んできており、乱戦の様相を呈しているとのこと。
繰り返すが干沢城は山城だ。守りは堅固だが、一度城内に入り込まれてしまうと簡単には逃げ出せない。
逃げようと思えば、敵中を突破するか、視界のきかない夜の山をさまよい歩くか、二つに一つ。ああ、なんて魅惑的な二者択一。
「ま、逃げてやるつもりなんかないから関係ないが」
「か、加倉殿? 逃げないということは、もしや」
「むろん戦うのですよ。なに、見方をかえれば、敵将がわざわざ城から出てきてくれたわけです。むしろ好機というべきでしょう。信憲を討てばこの戦いは終わりです」
「それはそのとおりですが、討つといってもどのように? ここに上杉の手勢はおらず、昌国殿が加倉殿の言葉に耳を傾けるとも思えません」
「いなければ呼べばいいのですよ。幸い、弥太郎たちはこちらに向かっている最中です」
武田軍が城内で踏ん張れば、敵はより苛烈に攻撃してくるだろう。
その背を弥太郎たちが突き穿つ。成功すれば理想的な挟撃になるに違いない。
敵の総数がわからないのが不安だが、信憲が上原城を空っぽにしてくるとも思えない。城内に人質を残している以上、ある程度の守備兵は残すはずだ。
それに、奇襲をかけた信憲は、まさか自分たちが奇襲を受けるとは夢にも思っていないはず。少数でも引っ掻き回すことはできる。
そこで一気に城内から武田兵が押し返す――というのが理想的な展開であった。
この作戦は弥太郎たちが俺の動向を知らないとうまくいかない。
主計にはそれを知らせに行ってもらう。当然、城門は使えないから夜の山道の方だ。
幸い、ここには山のエキスパートがいる。
「長重殿。厚かましい願いだが、主計殿を麓まで案内してやってくれまいか。このとおり、お願いする」
「その程度、造作もありませんが……ここは加倉殿も共に城を出るべきではありませんか?」
「ご忠告かたじけない。ですが、大丈夫です。この程度の危難は慣れていますゆえ」
春日山城で、ひとり景虎様と対峙したときと比べれば、今の戦況は生ぬるいくらいだ。
何より、今も胸に刻まれている板垣信憲の醜行。
あれをした人間から逃げるなど冗談ではなかった。
「できればもう少し長重殿とは話がしたかった。それだけが残念ですね。いつか気が向いたら越後を訪ねてくださると嬉しいです」
そう言って、俺は主計と長重の二人を急かした。
「さあ、急がれよ。板垣勢が山に兵をまわしていないとも限りません。早く行動するにしくはなし、です」