第八十話 投獄
塩を運んで 諏訪湖通って
明日は甲斐だと 富士を見る
死んだはずだよ お登美さん
街道を歩く荷駄の先頭で馬を歩かせながら、遠からん者は音に聞けとばかりに声を張り上げて歌をうたう。最後のえっさおー信州路までしっかりと。
あ、別に気が触れたわけではありません。
某猿楽師からの命令です。
人前で芝居をするのが恥ずかしい? よろしい、それなら恥ずかしくなくなるまで特訓だ、とのこと。
うまい下手は関係なく、とにかく人前で大声を出しても動じない心を養うのが目的だそうです。
無茶言うなと思ったが、率先して当人が実行するものだから文句も言えない。
ええい、やってやらあ!
「あの、あの、相馬様」
「おう、どうした、弥太郎?」
「あの、どうしていきなり死んだはずの人が出てきたんですか?」
それはね、歌詞を考えるのが面倒になって、原曲の歌詞を拝借したからだよ。
こういう形の未来知識なら誰にも迷惑はかけまい。念のため、著作権に配慮して名前も変えておいたしな!
ふ、我ながら完璧だぜ。
「……ふむ、主。今の旋律はとても良かった」
「そうですね、不思議と心が浮き立ちました」
「実際に公演で使えそうだ。次は僕も笛で合わせよう。もう一度頼む」
「それでは私も」
長安と段蔵が当たり前のように懐から笛を取り出す。なんで笛を常備してるんですかね、二人とも。
それを見た弥太郎はあせったように左右を見回した後、良いことを思いついた、というようにぽんと手を叩いた。
「それなら私は手拍子でお付き合いします!」
「それではこちらも。小鼓がないのが悔やまれますね」
なんか秀綱殿まで乗ってきたぞ。
ええい、こうなれば何度でも歌ってやらあ! 正直、大声で歌うのはちょっと気持ちよかったしな!
結果、なんやかんやで他の護衛や人足たちも加わって、たいそう賑やかな騒ぎになりました。
そこの虚無僧様、尺八で合わせるとはやりますね。
――と、まあそんなこんなで信州路を平和に歩いている越後一行だった。
はい、ぶっちゃけ暇なんです。
虎綱が付けてくれた案内人のおかげで関所はフリーパスだし、道中で野武士や山賊に襲われるということもなかった。
この分なら問題なく甲斐まで行けそうだ。
俺はそう思って小さく息を吐き出した。
――後から思えば、これがフラグというやつだったのだろう。
それから半刻(一時間)と経たないうちに、俺たちは上原城をめぐる騒乱に巻き込まれることになる。
そして、その騒乱こそ、上杉、武田、今川、さらには北条までも巻き込んだ東国擾乱のさきがけであった。
◆◆
虎綱がつけてくれた案内人の名は小池主計、いかにも実直で物堅そうな三十歳くらいの男性である。
正確にはもうちょっと長い名前があるそうだが、虎綱や周囲の人間からはもっぱら「主計」と呼ばれるそうで、俺たちにもそのように呼んでほしいと笑いながら言っていた。
はじめに異変に気づいたのは、この主計だった。
案内人として先頭に立っていた主計は、不意に眉間にしわを寄せて馬を止める。
それに気づいた俺たちが何事ぞと主計の視線を追ってみると、山間の向こうで幾筋もの煙が立ち上っているのが見えた。
時刻は未の刻(午後二時前後)、夕餉の時間にはまだ早い。
くわえて言えば、木霊のように山肌を反射して響いてくるのは悲鳴、絶叫、雄たけび等、明らかに戦の物音であると思われた。
「あと半刻(一時間)も歩けば上原城です。こんな場所で賊が出るとは思えませんが……」
主計がいぶかしげに呟く。
だが、そう言っている間にも風に乗って悲痛な叫びが聞こえてくる。
「手前が様子を見て参ります。申し訳ござらぬが、しばしお待ちくだされ」
その主計の言葉に俺は異論を挟まなかった。
武田領内で上杉家の人間が勝手な振る舞いをすれば、自分たちのみならず虎綱や主計にも迷惑が及ぶだろう。
この地では君子危うきに近寄らずを実践しなくてはならない。
――そう思っていたのだが。
山向こうから街道沿いに逃げてくる人々の姿が目に映る。
着の身着のままで逃げてきたのだろう、見るからに慌てた様子でこちらへ向かってくる。
三十人はいるだろう集団の足取りは決して速いとは言えない。半分以上が女性に子供、老人では当然だ。
そんな彼らを追うように、あらたに十あまりの騎兵が姿を見せたとき、俺の胸は激しくざわついた。
世に嫌な予感というものが存在するなら、これこそそれに違いないと確信できる不快な感覚。
不幸なことに、予感は次の瞬間に現実のものとなる。
馬上、弓を番えた騎兵が、鏃の先を逃げ惑う人たちに向けたのだ。
ざわり、と全身の毛が逆立つ。
とっさに叫ぼうと口を開いた時には、すでに矢は放たれた後だった。
さえぎる物とてない街道に複数の悲鳴が響き渡る。
無防備な背中を至近から射られたのだ、避けられるはずがない。
悲鳴は男性のものもあれば女性のものもあり、子供のものもあれば老人のものもあった。
視界の中で、赤子を抱えた女性の背に矢が突き立っているのを見た瞬間、俺は我知らず叫んでいた。
「弥太ァ!!!」
たった四文字の名前を口にするのももどかしく、俺は一の部下に命令を下す。
そして弥太郎は、怒声に等しい二文字の呼びかけに込めた命令を正確に汲み取ってくれた。
「はい!!」
返事をしたときには、弥太郎の姿はすでに鞍上にあって前方に駆け出している。
弥太郎の横には段蔵がおり、他の部下たちもすぐさま二人に続いた。
百点満点の動きを見せてくれた直臣たちのおかげで、俺が少しだけ冷静さを取り戻した、そのとき。
後方から馬蹄の音が轟き、二つの騎影が風のような速さで俺の横を駆け抜けていった。
何事だとその二騎に目を向けた俺は、鞍上の人物を認めて目をひん剥く。
何故といって、そこには黒髪も麗しい剣聖と、網笠も眩い虚無僧様が並んで駆けていたからである。
虚無僧様がやや先行しているあたり、はじめに虚無僧様が飛び出し、それを見た秀綱が続いた、という感じだろう。虚無僧様がいた位置を考えると、俺が弥太郎に命じるより早く動き出していたに違いない。
――って、冷静に分析してる場合じゃなかった!?
「長安は荷駄を下がらせろ! あと人足たちをまとめておいてくれ。それと傷薬の用意!」
「承知した。主、武運を」
長安は申を肩に乗せてすばやく下がっていく。荷駄は長安に任せておけば大丈夫だろう。
俺は視線を前方に戻し、遅ればせながら馬腹を蹴った。
弥太郎たちのように敵中に飛び込んで戦うことはできないが、敵と農民の間に割って入ることくらいはできる。
向こうも逃げ惑う農民よりは馬に乗っている俺を狙うに違いない。
――まあ、鬼小島と飛び加藤、それに剣聖と虚無僧様に肉迫されて、なお他を狙う余裕があればの話であるが。
最初に敵に躍りかかったのは弥太郎だった。
鉄の八尺棒を小枝のように振り回し、振り回し、降り注ぐ矢をはねのけてひたすら突き進んでいく。
はじめ、敵兵は女の身で突っ込んでくる弥太郎を嘲り、矢を当てられない仲間たちを囃し立てていた。まさか弥太郎が振り回しているのが、岩をも砕く金棒であるとは思わなかったのだろう。
だが、どれだけ矢を射掛けても怯まず、止まらず、一直線に突っ込んでくる弥太郎を見て、ようやくこの相手が尋常ではないことに気づいたらしい。
慌てて全員が弥太郎に狙いを定めたが、時すでに遅く、弥太郎は先頭の敵兵を間合いに捉えていた。
大喝一声、振り下ろされた八尺棒は兜ごと敵武者の頭部を粉砕する。あまりの衝撃に眼球が飛び出し、ころころと地面を転がった。後を追うように兵士の身体が鞍から地面に落下する。
その頃には、弥太郎はすでに隣の兵に狙いを定めていた。
弥太郎と八尺棒の組み合わせの前では具足も兜も意味を為さない。
兜の上から、具足の上から、骨や関節をへし折ってくる攻撃をどのように避けろというのか。
敵はたちまち二人、三人と馬上から叩き落とされ、そうこうしているうちに後続の兵たちが到着する。
段蔵が飛苦無で、秀綱が刀で、虚無僧様が尺八で、たちまち敵を鞍上から突き落とした。
ほとんど一瞬で半数以下に討ち減らされた敵集団は、慌てて馬首を返したが、ここまで来て退却など許すはずもない。敵集団の全員が地を這うまで、さして時間はかからなかった。
そして、案内人である小池主計は、口と目で三つの0(ゼロ)をつくりながらその光景を見つめていた。
その後、俺たちは襲われた村に駆けつけ、残っていた敵兵を蹴散らした。
どうやら少人数での襲撃だったようで、主力は先の十騎。村に残っていたのは奴らの部下の足軽が二十ばかりで、俺たちだけであっさり制圧することができた。
近くに本隊がいないとも限らないので、敵兵は決して逃がさず、確実に殺すように指示する。
ただ、一部の足軽は武器を捨てて降伏してきたので、殺さずに取り押さえるに留めた。連中は縛り上げた上で生き残った村人に渡しておく。煮るなり焼くなり埋めるなり、ご自由にどうぞ。
生き残った村人たちが捕虜を取り囲んでいる間、俺たちは生き残りの騎馬武者を尋問した。
上原城が陥落したことや、その顛末を知ったのはこの時である。
聞けば、板垣信憲に捕らえられた長坂光堅に代わり、子の昌国が武田軍を指揮しているらしい。
上原城の南に位置する干沢城に立てこもり、信憲と対峙しているのだそうだ。
まあ、対峙といっても上原城と干沢城の間には宮川、上川という二本の川が流れているので、事実上、上原城周辺を信憲に明け渡したも同然である。
信憲はこれ幸いと周辺の村々に略奪の手を伸ばし、そのひとつが俺たちの眼前に飛び込んできた、というわけだ。
俺は思わず舌打ちする。
長坂昌国の弱腰な対応に言いたいこともあるが、それ以上に敵将の板垣信憲の蛮行が度し難い。
これから支配しようとする領地を略奪で荒らしてどうするのか。
あるいは、諏訪地方を恒久的に支配するつもりなど初めからなく、単なる後方撹乱のつもりか。
敵の領内に少数の兵を送り込み、後方で暴れさせて補給を乱し、士気を殺ぐ。その手法は理解できないでもない。
だが、見過ごせないことがあった。
信憲らが田畑に塩を撒いていたことである。
実際、こいつらはこの村でもそれをやっていた。
塩を撒けばその土地は長く使えなくなる。
敵にダメージを与えるという意味では効果的かもしれないが、まっとうな大名、まっとうな武将のやることではない。
今川の戦術的な指示か。板垣の私怨を込めた命令か。
「は、そんなの両方に決まっているだろうが! 氏真様の指示であり、信憲様の命令よ! 甲斐も信濃も、好きなだけ奪い、焼き、殺し、壊せってな!」
がんじがらめに縛り上げられた敵武者が捨て鉢になったように叫ぶ。
もう助からないと覚悟しているのか、挑発するように俺を睨め上げた。
「どこのばか共か知らねえが、商人風情が信憲様に逆らって、ただで済むと思うなよ!」
「その商人風情に手もなく捻られた奴が吠えるな、阿呆」
俺が嘲りを返すと、敵は目を怒らせて唾を吐きかけてきた。
避けなかったため、腰のあたりにぺちゃりと唾がつく。俺がそれをぬぐうのと同時に、弥太郎の部下が敵の横っ面を殴り飛ばして地面に這わせた。
殺すなよと命じてから、俺は小池主計に問いかける。
「主計殿、板垣信憲が、重臣筆頭だった信方の嫡子だというのはまことですか?」
「は。信方様が討死なされた後、不行跡が理由で甲斐を追放されたと聞いております」
「それで駿河に行って今川家に仕えた? 不行跡で追放された家臣を、今川が簡単に受け入れるとも思えないが……まあ、そのあたりは本人から聞き出せばいいか」
「本人からと言いますと、もしや……?」
「武田領内のことに口をさしはさむつもりはありませんが、このままでは甲斐に行くこともできませんのでね」
このまま街道を使えば、思いっきり信憲の勢力圏を横断することになる。
多くの荷駄を引き連れている以上、隠れて通過する、あるいは強引に突破することは難しい。
荷駄を捨てれば何とでもなるが、越後の大切な産物をほいほい捨てるなど許されないことだ。
それに、塩をばら撒く敵がいるとわかった今、大量の塩を捨てていくのはいかにも不安だ。敵に利用されたりしたら目も当てられない。
結論。
自力で障害を排除するにしかず。
普通に街道を逸れて、干沢城を経由して甲斐に入ればいいという気がしなくもないが、きっと気のせいである!
「はい、気のせいですね!」
「そういうことにしておきましょう」
「……公演内容が増えるのは歓迎する」
直臣たちもこのように言っているので問題ない。
ええ、ないったらないのです。
さすがに目の前であんな醜行を見せ付けられたら黙ってはいられない。
幸い、格好の案内人もいるしな。
冷たい目で捕虜を見据えると、顔を腫れ上がらせた男は吐き捨てるように言った。
「阿呆が。商人に城が落とせるとでも思ってんのか?」
「正面からでは難しかろうが、お前に協力してもらえればできる。味方が戻ってきたら、上原城の城門も簡単に開くだろうしな。ああ、城内の案内役も頼むぞ。話を聞いたかぎり、息子の方は人質になっている父親を解放しないと動きそうにないからな」
「ふざけるな! 商人なんかに手を貸すつもりはねえよ! どうしても手を貸してほしけりゃ、せめて縄を解いて自由にしやがれ! その上でお前が頭を下げたら考えてやるよ!」
男は捨て鉢になっているように見えたが、両の目にはちらちらと狡猾そうな光が瞬いている。
助かる目が出てきた、とでも思っているのだろう。
「わかった、わかった。だが、その前に、と。おーい、ちょっと槍貸してくれ」
部下の槍を借り受け、穂先を男の足の甲にあてがう。
当然のように男は顔色をかえて怒鳴りつけた。
「お、おい、何しやがる!?」
「ん? 自由にする代わりに、両手両足の甲に穴をあけておくんだよ。必要なのはお前の顔と声、それに頭の中だけだ。手足は切り落としても問題ないが、それだと死んじまうかもしれない。甲に穴をあけておくくらいが妥当なところだ」
「ふ、ふざけんな! んなことしたら手を貸さねえぞ!?」
「そうか。まあ、それならそれでいいさ。お前らの具足をはぎとって、板垣兵に化けて城に入ればいい。城内の案内役については干沢城にいくらでもいる」
「ま――!」
制止しかけた男にかまわず、無造作に槍を突き立てる。
聞き苦しい絶叫があがったが、かまわずぐりぐりと押し込んでしっかりと傷を刻み付ける。
「あ、あああ、がああああああああッ!!」
「素直にこちらの言うことを聞いておけばよかったのにな。っと、おい、暴れるな」
配下に命じて男の身体を押さえつけ、もう片方の足にも同じことをする。
身動きがとれない人間を傷つけるのは中々に気が重かったが、だからこそ弥太郎たちにやらせるわけにもいかないからなあ。
さて、次は手だと槍を構えた俺を見て、男は涙と鼻水を撒き散らしながら裏返った声を発した。
「ま、待で、わがっだ、わがっだ、手を貸ずがら!」
「ふむ、物分りがよくて結構なことだ。わかった、手当てしてやろう。おおい、塩を持ってきてくれ」
「じ、塩……?」
「西の三好家には十河一存という武将がいてな。戦場で深手を負った際、傷口に直接塩を塗り込んで消毒し、そのまま戦場に取って返して敵と戦ったそうだ。人呼んで鬼十河という」
「…………ま、まざが」
「なに、地面に撒いて田畑を駄目にするよりはマシな使い方のはずだ。それに、武器を持たない人間を後ろから射掛けるより人道的な行いでもある。がんばって耐えてくれ」
その後、男の治療は速やかに実行された。
同性の悲鳴を聞く趣味はなかったので、口に布をつめこんで声を封じる。
結果、男が激しく身体を痙攣させながらも何とか生き残ったことは、まことにめでたいことであった。
こうして上原城に潜入する手段を得た俺は、小池主計と共に干沢城に赴く。
計画を説明して武田軍の助力を頼むためである。
まあ助力に関してはあまり期待していない。こちらの邪魔さえしなければ十分だ――俺としてはそんな気持ちであった。
だが、捕らわれた父親を思って日夜神経をすり減らしていた昌国の目には、そんな俺がひどく胡乱な人物に映ったらしい。
この危急のときに他国の人間にうろちょろされたくないと考えた昌国は、主計の反対を押し切って俺を牢屋に放り込む決定を下す。
干沢城の薄汚れた牢屋の中で、俺は天を仰ぐしかなかった。