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聖将記  作者: 玉兎
序章 前夜
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第八話 その生涯でただ一度



「も、申し上げます!」



 春日山に向けて進軍を続ける栃尾とちお勢。

 先頭を駆ける長尾景虎の前に膝をついた伝令は、荒い息を吐きながら驚くべき報告をもたらした。

 それを聞くや、景虎の後ろに控えていた本庄実乃(さねより)は、思わずという風に声を高める。



「か、柿崎殿が討たれたと!? 弟の弥三郎やさぶろう殿ではなく、当主の和泉守いずみのかみ殿がか!?」

「は、はいッ! 柿崎勢は関川のほとりで春日山勢と激突。渡河の最中、上流から流れてきた無数の火舟によって柿崎殿はじめ多くの将が火に焼かれ、あるいは水に飲まれ、川辺に屍を晒したとのことでございます!」

「……なんと」



 実乃は絶句した。時に敵として、時に味方として幾度も戦場でまみえた相手である。ことさら親しい間柄ではなかったが、その死を聞けば平静ではいられない。

 しかし、実乃の主君である景虎は小さく頷いたのみで、それ以上柿崎の死について問おうとはしなかった。

 景虎が問うたのは別のことである。



「して、春日山勢は戦に勝利した後、どのように動いたのだ? 春日山へ退いたか、柿崎へ討手を遣わしたか」

「は。降伏した柿崎勢を捕虜とし、春日山へ引き返したとのことです」

「ふむ……」



 兵士の報告を聞いた景虎は考えをまとめるように、一瞬、視線を空に向けた。

 ややあって、景虎は側近である直江景綱の名を呼ぶ。



「景綱」

「はッ」

「進路を柿崎城へ。敗兵を収容しつつ柿崎城に入る。まだ応諾したわけではないとはいえ、柿崎は正式に臣従の礼をとってきた。討たれたとあらば、その後の混乱は収めねばなるまい」

「御意にございます」



 次いで、景虎は本庄実乃に命じる。

「実乃はこのまま春日山へ。姉上の勝利を寿ことほぐと共に、栃尾は春日山に弓引くつもりはないと申し上げてくれ。我らが柿崎城に入るのも、自分の勢力を肥え太らせるためではない。姉上のお指図があれば、いつでも栃尾に引き上げる心積もりである、とな」

「は、承知(つかまつ)りました」



 そして、最後に景虎は、一人残った宇佐美に問う眼差しを向けた。

「定満」

「なんでござろう」

「柿崎景家を討ち取ったとあらば、春日山に心を寄せる国人衆も出てこよう。さすれば姉上のこと、柿崎を徹底的に叩こうとするに違いない。定満はどう考える?」

「……おそらく、そうなりましょう。過日の謀反をゆるした晴景様に対し、景家殿は再びの謀反で応じました。晴景様が柿崎に容赦をする理由はございませぬ」



 景虎の軍略の師である定満は静かに述べた。

 表情が気遣わしげなものになっているのは、景虎の言わんとすることを察したためであろう。

 景家に対して恨み骨髄に徹している晴景が、残された一族や家臣、領民を寛大に扱うはずがない。そのことは柿崎家も理解していようから、晴景が攻めてくれば景虎を頼るであろう。



 景虎は晴景の指図に従う。今、実乃に言ったとおりに。

 だが、救いを求める柿崎家を見捨てられる景虎でもなかった。



 柿崎景家は死後も長尾姉妹の仲を裂く原因となり続ける。

 そのことに定満はあの猛将の執念を感じた。

 たとえ今回の件が決着しようと、いずれまたこういった事態は起きてしまうだろう。そのたびに景虎は苦悩することになる。そのことに定満はやりきれない思いを抱いた。



 正義を掲げる景虎の生き方は欲心うずまく乱世にあって異端ともいえるもの。されど、胸を張ってしかるべき誇り高い生き方でもある。

 だが現状は、そんな景虎の心を嘲笑うように政略が入り乱れ、人として、家臣として、貫き通す義さえ定かならぬ状況が続いている。

 苦悩する景虎の胸中を思って、定満は小さくため息を吐いた。



「景虎様」

「う、む。どうした、定満?」



 定満は景虎の頭に手をのせ、優しい手つきで撫でた。

 幼かった景虎にかつてそうしたように。



「む? さ、定満?」



 戸惑ったような、それでいてどこかほっとしたような景虎の顔。

 定満は静かに、けれど心を込めて言葉をつむいだ。



「景虎様の苦しみは乱世にあって尊きもの。姉君とのこと、お辛いとは存ずるが、景虎様の誠心が届く日はかならず参りましょう」



 頑張れ、とは言えない。景虎はもう十分すぎるくらい頑張っているから。

 しっかり、とも言えない。景虎はこれ以上ないくらいしっかりやっているから。

 言葉というのは存外ぞんがい不自由なものだ。だから、定満は慈しむように景虎の髪を撫で続けた。





「――ありがとう、定満。そなたの芳心ほうしん、伝わってくる。心配ばかりかけてすまないな」

「手のかかる子ほど可愛いものでござる。お気になさいますな」

 その定満の言葉に、めずらしく景虎は破顔した。

「はは、定満にかかっては、私はまだやんちゃな女童のようだな」



 しばしの間、景虎は笑い続けた。

 ややあって景虎は気負いの消えた表情で進軍再開を命じ、栃尾勢は整然と行軍を開始する。

 目指すは柿崎城。

 この決断が新たな戦火を呼ぶことを、景虎はまだ知らない。



◆◆◆



 柿崎城主 柿崎和泉守景家、討死。

 その報は越後の朝野を瞬く間に駆け抜けた。

 猛将と言えば真っ先に名を挙げられる景家の敗死は、民と兵とを問わず越後の住民に大きな驚きを与えた。

 何より人々を驚かせたのが、柿崎を討ち取ったのが守護代 長尾晴景の軍勢であったという事実である。



 守護代の地位にあるとはいえ、春日山長尾家が落日の時を迎えていたのは周知のこと。それゆえ、今回の戦で晴景の召集に応じた国人衆はいなかった。

 にもかかわらず、晴景は柿崎景家を打ち破った。自身の手勢だけで音に聞こえた黒備えを壊滅させたのである。

 春日山に見切りをつけていた国人衆はその知らせに戦慄する。



 彼らの多くは慌てて春日山に出仕した。

 召集の遅参を詫び、柿崎への勝利を祝い、そして自分たちが長尾家に忠勤を誓う者であることを繰り返し訴える。当然、申し開きには欠かせない金品宝物のたぐいをこれでもかと持参した上でのことであった。

 謀反を起こした柿崎家が帰参を許された前例もある。国人たちは晴景の歓心を買うべく懸命に美辞麗句を並べ立てた。



 晴景にしてみれば、今まで自分を軽んじていた者たちが蒼白になってひれ伏し、許しを乞うているのだ。これほど胸のすく光景はない。

 連日のように戦勝の宴が開かれ、夜が更けるまで続けられた。

 欲してやまなかった賞賛が雨のごとく降り注ぎ、望んでも得られなかった忠誠が金銀と共に差し出される。

 日々寄せられる甘言は耳に心地よく、勝利とはこれほど甘美なものなのかと晴景は陶然とした。



 一時いっとき消沈しょうちんの底をさまよっていた晴景の自尊心は、関川の勝利を契機として急速に肥大していく。

 勝利の味を知った晴景が更なる勝利を望むのは必然といってよく、一日いちじつ、主君の口から語られた言葉に、柿崎撃破の功臣 加倉相馬は唖然とすることになる。



◆◆



「……な、何と仰いましたか、晴景様?」

「む、相馬よ。主君の言葉を聞き逃すとは臣下にあるまじき失態ぞ。二度は言わぬからしっかと聞けい。これより我が軍は総力を挙げて栃尾の景虎めを討ち果たすのじゃッ!」



 昂然と胸を張って宣言する晴景様。その目は爛々と輝き、それが酒による妄言ではないことをはっきりと示している。

 だからこそ余計に性質たちが悪い。

 最悪の展開を明示され、俺は思わずうめき声をあげていた。



 どうしてこのような事態になってしまったのか。

 その発端となったのは柿崎城である。



 当主である景家を失った柿崎家では二つの問題が発生していた。

 一つ目の問題は、春日山との関係をどうするかについて家中の意思決定ができなかったこと。

 景家の意思を継いであくまで戦うのか、あるいは頭を下げて許しを乞うのか。

 生き残った家臣たちは侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を繰り広げたが、ついに結論を出すことはできなかった。



 このとき柿崎家中がまとまらなかった理由が、すなわち問題の二つ目である。

 つまりは後継者問題だ。



 戦うにせよ、和するにせよ、当主がいなければ始まらない。

 平時であれば景家の長男が順当に父の後を継いだであろうが、長男はまだ幼く、この危急のときにあって当主の任に堪えられるか不安視された。

 代わりに名前があがったのが景家の弟 弥三郎である。兄に劣らぬ猛将として名を馳せる弥三郎であれば、戦であれ、交渉であれ、春日山相手に一歩も引かないであろうと期待されたのだ。



 むろん長男は――正確にいえば長男の周囲にいる者たちは弥三郎の跡目相続に反対し、柿崎家中は大きな混乱に見舞われる。

 この混乱をすみやかに収めたのが景虎様であった。



 栃尾勢を率いた景虎様が現れると柿崎家は喜んで城門を開けた。戦死した景家は、景虎様を主と仰いで兵を挙げた――すなわち柿崎にとって栃尾は味方である、と考えたからだ。

 実際は景虎様の許可を得ない無断蜂起であったのだが、景家は将兵の士気に悪影響を与えるその事実を誰にも明かしていなかったようだ。

 おそらくは弟の弥三郎にさえも。



 ゆえに柿崎家は景虎様を味方と信じて疑わず、ことに戦闘継続を主張していた主戦派は強力な援軍の到来を喜んだ。

 そんな彼らはその日のうちに残らず景虎様に拘禁されてしまう。

 主戦派は驚愕し、栃尾の裏切りであるとわめきたてたが、景虎様は眉一つ動かすことはなかったという。



 この後、自らが春日山と敵対する意思はないことを表明した景虎様は、柿崎家が取り潰されることのないよう尽力する旨をあわせて宣言することで城内の動揺を取り静めた。

 この電光石火の行動により、柿崎城は瞬く間に景虎様の治下に入る。

 そうして景虎様は側近の直江景綱を春日山城へ派遣し、一連の行動を詳細に説明した。

 俺が柿崎城内の様子を知っているのは景綱がもたらした情報による。



 ところで、この景綱の来訪に先立ち、同じく景虎様の側近である本庄実乃が春日山城にあらわれ、晴景様に謁見している。

 実乃さねよりは対柿崎の勝利を祝い、栃尾勢が春日山に対して弓を引くつもりがないことを繰り返し述べ立てた。

 これに対して晴景様は終始しゅうし皮肉と冷笑で応じ、けんもほろろに追い返した。実乃さねよりが悄然として退出した後、今さら何をほざきおるか、と苛立たしげに扇を開閉させる晴景様を俺は目撃している。



 次いで現れた景綱に対しても、晴景様は同じような態度をとった。

 それどころか、景虎様が柿崎家に寛大な処置を望んだときは目をいからせて景綱を睨みつけた。

 ところが、景綱の話が次の段階に及ぶと、晴景様はみるみるうちに機嫌を回復させる。

 今回の戦いで春日山が失った軍費に相当する金銀を献上すること、さらに栃尾領の一部を割譲すること、この二つを景虎様が申し入れてきたからである。



 おそらくは先に戻った実乃さねよりから晴景様の手厳しい対応を聞き、景虎様なりに姉の敵意をほぐす手段を模索したに違いない。

 その結果、導き出された答えが金と土地というのは即物的すぎやしないかと思うが……冷静に考えれば、この時代にあっては金も土地も殺し合いで奪うものだ。それを差し出すという行為が持つ意味は、俺が考えているよりずっと重いのかもしれない。

 なにより晴景様を見れば、景虎様の出した答えが正解であることは明らかだった。



 また、景虎様は柿崎家の主戦派を拘禁したこと、さらに柿崎家が後継者で問題を抱えていることを報告し、それらの混乱を静めるためにしかるべき者を城代(城主代理)として派遣してほしいと請うた。

 ここでいう城代は、柿崎家の監視役であると同時に事実上の城主といえる。なにせ肝心の城主たる柿崎の当主が不在なのだ。

 景虎様の真意はともかく、晴景様にしてみれば柿崎城をそっくりそのままお渡ししますと言われたも同然であったろう。殊勝なことである、とめずらしく景虎様の措置を褒めた。



 この時までお二人の仲は良い方向に進んでいたのだ。

 少なくとも俺はそう考え、安堵の息を吐いていた。



 ところが、つい先刻のこと。

 晴景様が柿崎城に差し向けた城代の一行が、なんと景虎様の軍勢に急襲されて皆殺しにされるという事態が起こる。



 この報に接した時、俺はちょうど春日山城の軍議に参加していた。

 越後国内の諸勢力の動きを見定め、春日山がどのように動くかを決する大事な軍議である。

 軍議の席には名のある将がずらりと居並んでいた。関川の戦の後、帰参してきた者たちである。

 そして、俺はそんな彼らを差し置いて上座――晴景様の一番近くに席を与えられていた。



 春日山長尾家の懐刀ふところがたな

 それが柿崎景家を討ち取った俺に与えられた声価であり、立場であった。

 ……弥太郎経由ではじめてその評価を耳にしたときは、その場で引っくり返ってしまったもんである。

 

 

 俺のような若造への処遇としては抜擢も抜擢、大抜擢であり、普通なら諸将の猛反対にあって引きずり下ろされるところだ。

 だが、この場にいる者たちは、落ち目の春日山に一度は見切りをつけたという引け目がある。

 あくまで春日山に従い、柿崎を撃破するという功績をたてた俺にけちをつければ、その声は即座に自分に返ってくる。

 それゆえ、集まった諸将は俺が上に立つことに異を唱えなかった――苦々しい表情を浮かべてはいたが。



 ただ、俺にとっては幸運なことに、全ての武将に敵視されているわけではなかった。

 あの過酷な戦況下にあって、あくまで守護代に忠節を尽くした俺に好意的に接してくれる人も少なくなかったのである。

 その筆頭は赤田城主 斎藤さいとう朝信とものぶだった。後に「越後の鍾馗しょうき」と呼ばれるあの斎藤朝信である。ちなみに男性でした。



 朝信は長尾家の争いに関しては中立を貫き、晴景様、景虎様、いずれとも等距離を保っていた。

 それがなぜ今になって春日山に出向いてきたのかというと――



「なに、落ち目の春日山に義理立てしてあの景家殿を討ち取った加倉なる者、いかなる将やと興味を覚えてな」



 そういって呵呵大笑かかたいしょうする朝信は、無骨な外見の下に広い度量を備えた人物であると思われた。

 ともあれ、集まった国人衆の数を見れば、晴景様が当面の危機を脱したことは確かである。

 そう思って胸をなでおろしていた俺にとって、柿崎城の件は晴天の霹靂へきれきであった。

 まさか景虎様がこのような詐謀を弄するとは思えない。誤報か。誤報でないにしても何者かの策略かもしれない。

 そう考え、突然の事態にうろたえているであろう晴景様に目を向けた俺は。



 ――そこに、微笑を浮かべる主君の顔を見つけてしまった。



 俺が凝視していることに気づいたのだろう、晴景様はすぐに表情を改めた。

 そのため、俺が晴景様の微笑を見たのは一瞬の半分にも満たない短い時間だけである。

 だというのに、そのときの晴景様の顔は俺の脳裏に深く刻み込まれた。表現しがたい悪寒と共に。



 どうしてこの時、この場で晴景様は笑っていたのか。笑うことができたのか。

 それを考えたとき、俺の脳裏に一つの推測が浮かび上がる。

 俺がそれについて青い顔で考えこんでいる間に軍議はさっさと終わってしまった。いや、正確にいえばそれは軍議ではなかった。晴景様は誰に相談することもなく、自分ひとりで決めたからだ。

 卑劣な策略を弄した景虎様を討ち果たす、と。



 そうして、はじめのやりとりにつながる。

 晴景様の命令はそれだけにとどまらなかった。



「相馬、お主が大将じゃ! 越後一の猛将 柿崎景家を討ち取ったそなたの武威、卑劣なる景虎めに知らしめてやるがよいッ!!」

「――ッ、し、しかし、晴景様。まだ真に景虎様の策謀なのかも判然としておりません。柿崎家の暴走によるものやも知れませぬし、短慮は禁物かと」

「何を言いやるッ! 越後守護代たる身をたばかろうとする者に猶予を与えてなんとするッ! もともと景虎めは柿崎と組んで、この晴景に歯向かった愚か者。頼みにしていた景家がそちに討ち取られたゆえ、方針をかえて詐謀さぼうを弄したに決まっておるわ!」



 晴景様の言葉には一理あった。たしかに表面だけを見ればそういう解釈も成り立とう。

 事実、晴景様の言葉に同意する国人もちらほらと見受けられる。



 だが。

 彼らは報告を受けたときの晴景様の表情を見てはいまい。

 俺は心に巣食った疑念を払うことができずにいた。

 あの長尾景虎と戦うことへの恐怖もある。だが、それ以上に――



 逡巡する俺の耳に、とろけるような晴景様の声がそっと注ぎ込まれた。



「……相馬、相馬よ。景虎との戦いをいとうというのであればそれもよい。じゃが、そのような自侭じままな行いをする者の頼みを、わらわが受け容れる理由もあるまいて。そうは思わぬかえ……?」



 奇妙に甘い声と白粉おしろいの匂いにめまいを覚える。

 晴景様が口にした俺の頼みというのは、先の戦で大功を立てた弥太郎らを士分に取り立てるというものである。それを反故ほごにしようか、と晴景様は言っているのだ。



 約束していた金銭の褒美と共に、そのことを伝えた時の弥太郎たちの感激の表情を思い起こす。

 みなの顔を失望にかえることはしたくなかった。

 何より、命の恩人の頼みを断ることなどできるはずもない――



「……もとよりこの身は晴景様の配下。命令とあらば否やはございません」

「ふふ、よう言うた。では、改めて命じる。加倉相馬、春日山の采配をそなたに預ける。不遜ふそんにも守護代に逆らいし謀反人 長尾景虎めの首級をすみやかに妾の前に持ってくるのじゃッ!」

「……かしこまりまして、ございます」



 まるで喜悦しているかのように声を弾ませる晴景様。

 俺は奇妙に重く感じる頭を床にこすりつけ、つつしんで命令を拝した。

 ややあって、頭を上げた俺の視界に晴景様の顔が映る。



 ――ふと。

 違和感を覚えた。



 何故か、晴景様の顔が奇妙に青白く見えたのだ。

 化粧のせいかとも思ったが、しかし、何かが違う。

 俺の怪訝そうな視線に気づいたのだろう、晴景様は睨むように俺を見て、ついと席を立つとそのまま退出してしまった。

 そのため、それ以上観察することはできなかったのだが。



「……何なんだ、いったい?」



 奇妙な胸騒ぎを覚えながらも、その原因がわからない。

 このとき、俺はただその場に座っていることしか出来なかった……




◆◆◆




 くすぶる疑念。見え隠れする謀略と妄念もうねんかげ

 それらの果てに越後最大の戦いの幕が開かれる。

 矛を交えるは守護代 長尾晴景。その妹、栃尾城主 長尾景虎。

 血を分けた姉妹の死闘は大地を血と屍で覆いつくす凄惨なものとなるであろうと思われ、民と兵とを問わず、越後の人々は恐怖に身を竦ませることになる。



 ――だが、しかし。



 ああ、誰が知ろう。

 この戦いこそ、後の戦乱の世に鮮やかな軌跡を刻みつけた聖将上杉謙信と、股肱ここうの臣たる加倉相馬が、その生涯でただ一度、ただ一度だけぶつかり合った戦となることを。

 戦国乱世を風靡ふうびせしめた両者の激突の前ではいかなる妄念も色あせる。

 それは規模としては越後一国におさまる小さなものながら、はるか後代にいたるまで、人々が誇りをもって語り伝えた戦絵巻いくさえまきたえなる一つ。



 今、常夜の時代を切り開く一筋の曙光が越後の地を照らそうとしていた。




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