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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第七十八話 予期せぬ援軍



 甲斐へと向かう街道にずらりと並ぶ荷駄の列。これすべて塩、塩、塩である。

 数十頭の馬が、汗をかきかき荷車を引いて進む光景はどこか牧歌的だ。

 虎綱の家臣が案内に立ってくれていることもあり、トラブルらしいトラブルもない。

 この分なら問題なく躑躅ヶ崎館まで行けそうだ――と言えればよかったのだが。



 街道を進んでいると、伝令らしき騎馬武者が甲斐から信濃へ、信濃から甲斐へ、盛んに行き来しているのが分かる。

 いずれの顔も厳しく引き締まっており、戦況の厳しさをうかがわせた。

 くわえて言えば、俺たちに先立って海津城を進発した春日虎綱の軍勢を見たかぎり、北信濃の武田軍の全力出撃といった感じだった。あれでは各地の城砦には最低限の兵しか残っていないだろう。



 上杉軍が動かないことを約したとはいえ、大胆なことである。

 なにせ今の状況、反武田の信濃国人あたりが蜂起してもまったくおかしくないのだ。俺が悪辣な軍師であれば、ひそかに野武士や国人衆、あるいは旧村上領の民衆を扇動して信濃を徹底的に混乱させるだろう。

 俺が約束したのは「上杉軍を動かさない」ことであって、信濃衆を扇動しないとは言っていませんからねにやり。



 もちろん冗談である。本当にする気はない。

 ただ、そういった反乱が起きても不思議はない状況、というのは事実である。

 その手の連中が俺たちの荷駄を見て、手ごろな獲物だと思って襲ってこないことを祈りたい――俺のためではなく彼らのために。



 なにせこの荷駄の護衛は、わずか三十なりといえど精強さでいえば東国随一。そこいらの武士では相手にもならぬ。

 鬼小島に飛び加藤、おまけに剣聖がいますからね!

 いっそ日ノ本随一といってもいいくらいである!



 ……うん、前二人がいるのは当然として、最後の一人はなんでしれっとした顔で荷駄の護衛に加わっているのでしょうか?



 最初に彼女の姿を見たときは目が点になり、開いた口が塞がらなかった。

 長野業正配下 大胡おおご武蔵守秀綱(ひでつな)。後の剣聖 上泉秀綱。

 上野こうずけで共に北条軍と戦った記憶は新しいが、その彼女がここにいる理由は何なのか。

 話を聞いてみたところ、なんでも秀綱は輝虎様の越後守護就任を祝うため、長野家から遣わされてきた使者なのだという。正確にいえば、正使は業正の嫡子の長野業盛であり、秀綱はその護衛。



 タイミングとしては俺が海津城に向かった直後だったらしい。

 そこで輝虎様から状況を聞いた業盛が、それならばと秀綱を遣わしてくれたそうだ。



 ……いや、ありがたいのだけど、なんで他家の一家臣のために剣聖を――まだこの世界では剣聖ではないのだが、それでも長野十六槍の一角。先の戦いの武功で名声はうなぎのぼりと聞く。ほいほいと他家に貸していい戦力ではない。

 加倉家でたとえれば、弥太郎や段蔵を他家にあずけるような人事であろう。

 俺なら絶対にしない。



 俺が長野家の過ぎた厚意を訝しく思ったのは当然であったろう。

 その疑問に対する秀綱の答えは以下のとおりだった。



「未来の義弟おとうとのために一肌脱ぐのは義兄あにの務め。どうかよろしく頼む、と業盛様に頭を下げられては断れません」

「……義弟おとうとというのはそれがしのことですかね?」

「はい。義兄あにというのは業盛様のことですね」

「…………ええと、何がどうなると俺と業盛殿が義兄弟になるんです?」

「業正様の末の姫 さや様が加倉殿に輿入れなさる予定だとうかがいました」

「ええぇ……?」



 今あかされる衝撃の真実。いつの間にか婚約者が出来ていたようです、俺。

 冗談だと思いたいところだが、業盛がわざわざこの冗談を言うために秀綱を差し向けてきたのだとしたら、それはそれで頭が痛い話である。

 俺はこめかみを揉みほぐしながら記憶を探る。

 なぜか鞘という名前の子には聞き覚えがあったのだ。どこで聞いたのだったか――って、ああ! そういえば関東での戦勝の宴のときに業正が口にしてたっけ! 輿入れがどうとかも言っていた気がする。冗談だと思って完全に聞き流していたが。



 ――しばし、その場で考え込んだ末、俺はこの件を後回しにすることに決めた。

 あの酔っ払い爺さんとはいずれしっかり話し合うとして、今は長野家からの援軍を喜ぼう。正直、秀綱が来てくれたのはありがたい。

 戦闘をする予定はないが、戦闘に遭遇する確率は低くないからな。

 少しずつ既成事実が積み上げられている気もするが、たぶん気のせいだろう、うん!



「それよりも、もう一つの問題の方が重要だ」

「?」



 俺の独り言を耳にし、不思議そうに首を傾げる秀綱。

 何か他に問題があるのか、と問いたそうな顔をしているが、むしろ問いたいのはこちらである。



 そう――あなたの右斜め後ろに立っている、露骨に怪しい虚無僧は誰なのか、と。



 ゆったりとした藍色の法衣は性別を隠し、深い編笠をかぶっているせいで顔は全く見えない。手には尺八、背には袈裟、立ち居振る舞いに不審な点は感じない。どこからどうみても立派な虚無僧。町や街道ですれ違う分には怪しくない。

 だがしかし。

 その虚無僧が上杉軍の一行に混じり、しかも先刻から一言も喋らないとくれば、誰が見ても怪しさ満点であった。



 俺の疑問は百も承知しているであろうに、秀綱はくすりと微笑むのみ。

 弥太郎と段蔵に視線を向けたら露骨に目をそらされた。荷駄を宰領している長安はあいかわらずの無表情――その肩で、仔猿のさるが両手で口を覆うジェスチャーをしている。

 秀綱が笑いをこらえながら口を開いた。



「私たちに害をなす人でないことは確かです。お気になさらぬがよろしいかと」

「そういうわけにはいきません――と、言いたいところなのですが」



 俺は深く、深くため息を吐いた。



「状況が状況なので、ここで時間をかけるわけにもいきません。仕方ありませんので、秀綱殿のご友人ということで武田家には説明させてもらいます。よろしいか?」

「ええ、結構です」

「あえて名前は問いませんが、そちらの方もよろしいですな?」



 編笠が縦に揺れたのは承諾したということなのだろう。

 俺はもう一度、ため息を吐いた。

 まったく、何をしているのだろうか、()()()()()()()。あとで輝虎様にきつく叱ってもらわなければなるまい!



 そんなことを考えながら南へ続く街道に目を向ける。

 前途の苦難を暗示するように、信濃の空は薄暗い黒雲で覆われていた。




◆◆◆




「なんだと!?」



 その報告を聞くや、それまで書状を書いていた氏真は激昂して立ち上がり、持っていた筆を報告者に叩きつけた。

 筆先についていた墨が激しく飛び散り、報告者だけでなく氏真の衣服をも汚す。

 小姓の一人が慌てて墨を拭おうとするも、氏真は苛立たしげにその小姓を押しのけ、平伏する庵原いはら忠縁ただよりを睨み付けた。



「上杉が武田に付いただと!? 忠縁、うぬはそれを聞いて、はいそうですかと引き下がってきたのか!!」



 駿府からはるばる越後までおもむき、今また危険を潜り抜けて氏真のもとまで帰ってきた忠縁は、吉田城の床に額をすりつけながら口を開いた。



「い、いえ、上杉殿は今川の要請には応じられぬが、武田に兵を送る意思もないと仰せでした。決して武田に付くなどとは……」

「たわけェ! 塩止めには応じぬ、信濃にも兵を出さぬでは武田に付いたも同然であろうが!!」

「も、申し訳ございません! そ、それがしも武田の暴虐を繰り返し申し伝えたのですが、上杉殿は武士とは弓矢もて戦う者、塩をもて戦うは上杉の軍法にあらずとおっしゃるばかりで……いかんともしがたく……」



 忠縁が懸命に弁明すると、氏真の目がすっと細まった。

 とたん、ぞっとするほど酷薄な表情が忠縁に向けられる。

 血走った目、落ち窪んだ眼窩、こけた頬、とがったあご先――かつては柔和だった外見は見る影もなく、今の氏真の顔はどこか髑髏どくろを思わせる陰惨いんさんさに満ちていた。



「……なるほど。上杉めはこの氏真が武士にあらずとぬかしたのか。それで、忠縁よ。うぬはそれに対して何と答えた? まさか、仰せごもっともとうなずき、すごすご引き返してきたわけではあるまいな……?」

「も、もちろんでございます! 兵糧攻めはれっきとした武略の一つ。ならば塩止めもまた武略であり、恥じるべきことは何もない旨をはっきりと上杉殿に伝えました!」

「……それでも上杉は聞く耳をもたなかったのか?」



 忠縁が懸命にうなずくと、氏真は苛立たしげに床を蹴った。



「ふん。信濃一国、そっくり奪う機会をくれてやったというのにな。無私無欲でけっこうなことだ、上杉。だがな、真に欲のない人間ならば当主の席さえ不要なはず。当主として立っている時点で、貴様の無欲さは名声目当てのまがいもの。人はそれを偽善と言うのだ!」



 氏真はその後も口をきわめて上杉を罵り、濁流のごとき罵声はしばらく止まらなかった。

 これには理由がある。

 当初こそ破竹の勢いで進軍していた今川軍であったが、武田軍が本格的に防衛戦をはじめてからというもの、その進軍速度は極端に鈍化していたのである。



 朝比奈、岡部の部隊はいまだに下山城を落とすことができず、氏真の本隊も甲斐東部の攻略に苦戦している。南信濃の飯田城を攻めている小野政次も、堅牢な飯田城にこもった敵の抵抗に苦戦しているとの報告が入っていた。



 朝比奈 岡部には山県昌景、馬場信春が。

 甲斐東部の防衛には山本勘助が。

 そして南信濃の防衛には内藤昌豊がそれぞれ当たっており、今川軍は彼らの抵抗を打ち破ることができない。

 そう、いまだに武田晴信を躑躅ヶ崎館から引きずり出すことさえ出来ていないのである。



 おそらく、晴信と信繁の姉弟は武田の本隊を率いて躑躅ヶ崎館にとどまり、いずれかの戦線が破れたとき、その穴埋めをするために出撃するつもりであろう。

 氏真は頃合を見計らって御坂峠を越えるつもりであったが、武田の本隊が動いていない状況では、躑躅ヶ崎館を攻めても返り討ちに遭うだけだ。



 そんな戦況であったから、氏真は北で上杉軍が動くことを大いに期待していたのである。

 宿敵たる上杉軍が動けば晴信も動かざるを得ない。

 その間隙を突いて一気に敵の本丸に躍り込むつもりであった。



 だというのに、上杉は動かないという。それどころか甲信の民を救うと称して塩を送る手配までしているという。

 これでは武田軍を崩せない。それどころか、上杉に備えていた北信濃の春日虎綱が今川との戦いに合流し、武田の防備が今よりもさらに固くなってしまう。

 氏真としては、上杉に罵声の十や二十浴びせても当然という心境であった。



 気がかりはそれだけではない。

 北条がいつまで経っても動かないのだ。

 塩止めを実行した気配もなければ、甲斐に援軍を派遣してくれる様子もない。

 吉田城を落としてから、氏真は何度も小田原に使者を差し向けているのだが、反応は芳しいものではなかった。上杉のように明確な拒否を突きつけてくるわけではなかったが、氏真にくみするとも言ってくれない。



 日和見を決め込んでいるのか。

 それとも何かを企んでいるのか。



 この時期、氏真の疑心暗鬼は己の妻の実家にも及んでいた。

 そして、この感情は氏真自身の罪悪感に起因するものだった。

 氏真は北条姫の身に起こった出来事を――自分が妻を守れなかったという事実を北条家に伝えていない。

 その後ろめたさが猜疑心に形をかえ、氏真の心にささやくのである。



 ――自分は北条家に伝えなければいけないことを伝えていない。

 北条家にとっては裏切り者に等しいだろう。

 であれば、北条家が自分を裏切ったところで何の不思議があるだろう、と。



「くそ……ッ!」



 かつては決して口にしなかった言葉を吐き出す氏真。

 平伏する忠縁も、周囲の家臣たちも、そんな氏真に対して何も言わない。言うことができない。

 氏真の機嫌を損じて誅殺された人間は十指に余る。余計なことを口にすれば首が飛ぶと思えば、自然と口は機能を失った。



 ただ、すべての人間が口をかんしていたわけではない。こんな状況でも氏真に忠義を尽くそうとする者はいた。

 庵原いはら忠胤ただたね。上杉家に使いした忠縁ただよりの義兄にあたり、今は亡き太原雪斎の義理の叔父にあたる人物である。

 忠胤は厳しい表情を浮かべながら氏真の前に進み出た。



「氏真様。戦況に利あらざる時は退くも一策。それに、間もなく刈り入れの季節でござる。兵たちを田畑に帰さねば今後の難儀を招きましょう。ご賢察を願わしゅう存じます」

「晴信めを討たずに退けと申すか、忠胤!? それでは何のかんばせあって泉下の妹に報告できようかッ」

「こたびの戦いで甲斐には大きな損害を与えました。甲斐の収穫の二割、いえ、三割は失われたでしょう。焼き働きとしては十分すぎる数字かと存じます」

「忠胤、きさま! 我が妹の命が甲斐の収穫の三割程度と引き換えにできると、そうぬかすのか!?」

「そうではございませぬ! ですが、このまま漫然と時を浪費しても武田の守りは破れますまい。それでは妹君の仇を討つこともできませぬ! どうか明日の本懐のために、今日の屈辱に耐えるご決断を!」



 忠胤が声を張り上げて詰め寄ると、氏真は苦々しげに頬をひきつらせた。

 一喝して退けたいところだが、戦線が膠着していることは氏真も認めざるを得ない。これを打ち破る妙案があるわけでもない。

 それに、実をいえば、今川軍の兵糧はひどく乏しく、今回の侵略は武田領での略奪を前提に入れたものだった。今の戦況ではこれ以上の略奪は難しく、遠からず今川軍は餓え始めるだろう。

 そうなる前に退け、という忠胤の言には一理も二里もある。

 一瞬、氏真は忠胤の顔に亡き雪斎の面影を見た気がした。



 だが、ここで退くなど出来はしない。ここで退ける程度の怒りなら、最初から甲斐を攻めたりしなかった。

 感情と理性がせめぎ合い、氏真の顔が苦悶に歪む。

 それを見た忠胤がさらに言葉を重ねようとしたとき、弾けるような笑い声がその場にいる人々の鼓膜を揺さぶった。



「くははは! 明日の本懐のために今日の屈辱に耐えよとは片腹痛い! 人の口とは便利なものでござるな、庵原殿。貴殿の臆病さも、ちょいとひねれば主君を思う忠言に早変わりじゃわい」



 そうして大きな身体を揺らしながら現れたのは武田信虎だった。

 その姿を見た瞬間、氏真の顔がぱっとほころぶ。



「おお、武田の爺! 戻ったのか!」

「は、遅くなりまして申し訳ござらぬ、氏真様」

「よい。それで、御坂峠は越えられそうであったか?」

「御意。ためしに登ってみたところ、山腹、山頂にのろし小屋を見つけました。したが、それは本道のみ。それがしの知る獣道には見張りの兵ひとりおりませなんだ。行けますぞ、氏真様!」



 氏真をあおるように吼える信虎を見て、忠胤が忌々しげな顔をする。

 そして、明らかに乗り気な氏真を見て、慌てて声を張り上げた。



「氏真様、なりませぬぞ! 今川家の当主が自ら奇襲を指揮するなど危険きわまりのうござる! それに、今の躑躅ヶ崎館には武田の本隊が詰めているはず。少数での奇襲が通じるとはとうてい――」

「黙れ、忠胤! この不忠者が!」



 一喝したのは氏真――ではなく、信虎であった。

 今川家における信虎の立場は掛人かかりゅうど以上のものではない。どれだけ氏真の信を得ようと、他の家臣を睥睨へいげいするような真似が許されるはずもない。

 信虎もそれをわきまえ、周囲の家臣たちには腰を低くして当たってきた。

 だが、今、信虎はそういった遠慮をすべてかなぐり捨てていた。

 忠胤は一瞬相手の威迫に怯み――だが、すぐに立ち直って厳しい眼差しで信虎を見据えた。



「わしが不忠者であると? いかに氏真様のご信頼を得ている武田殿であろうと、その暴言は聞き捨てならぬ!」

「吼えるな。亡き妹君の無念を思えば、ここで退くなどという言葉が吐けるはずもないわ! おっと、皆まで申すな。どうせ貴様はこの後、こう言うのであろう。妹君の無念は承知、だがここで氏真様のお命を危うくするわけには参らぬ、とな」

「ぬ……」

「はっは、古来より臆病者は主君を思うふりをして己の命を惜しむものよ。忠胤、貴様が真に今川に忠誠を誓い、また妹君の無念をかみ締めているのならこう言うはずじゃ。どうか氏真様は駿府にお引きください。代わりにこの忠胤が乾坤一擲の覚悟をもって御坂峠を攻め上り、我が命にかえても武田晴信を討ち果たしてご覧に入れましょう、とな。氏真様をお助けし、妹君の無念を晴らすにはこれしかない」



 信虎はそう言うと、思い切り口を捻じ曲げる。



「だが、貴様はそれを言わぬ。言えぬ。何故なら、命をかけて戦うつもりなど、てんからないからじゃ。氏真様、御覧なされよ。この忠胤の虚をつかれた顔を。命を捨てるつもりなど初めからない者の顔じゃ。氏真様と共に退却して当然と、そう思っておった者の顔じゃ!」

「……忠胤、そちは……」

「お、お待ちくだされ、氏真様! それがしは……!」

「くかかか、ほれ、図星を指されて青ざめておる。まわりの家臣も忠胤と同じでござるよ。氏真様の怒りも嘆きも理解せず、しようともせず、ただ己の命と財だけを案じておる者ども。これを不忠者と言わずして、なんと言えばよいのやら!」



 声高に今川家臣たちを嘲弄する信虎。

 それを聞いた忠胤と忠縁、その他数名が腰の刀に手をかける。

 そんな彼らを見た信虎はくつくつと笑っておおげさに両手をあげた。



「おお、おお、不忠者どもが猛りたっておるわ。その刀、本来なら氏真様のために戦場で抜くべきものであろうに、こんなところで抜いてよいのか?」

「ぐ……貴様!」

「ふん、氏真様のために戦に出る気概はなくとも、よってたかって一人を斬り殺すことはできるか。不忠者の上に卑怯者よな! なんともまあ、さもしい奴らよ。ここでわしを斬ったとて、それがいったい何になる? 不忠者の汚名を晴らしたいのなら、ここでわしを斬るのではなく、進んで戦におもむくべきであろうが! そうして晴信めを打ち破り、氏真様に勝利を献じてこそ汚名は拭われるのじゃ! その程度のこともわからんか、このたわけ者どもがッ!!」



 信虎の一喝は、先に忠胤に浴びせたそれとは比較にならぬ威と迫力をもって、対峙する者たちの心を心底から寒からしめた。

 忠胤たちにとっては雷に打たれたようなもの。

 柄にかかった手はなまりのように重く、喉はひりついて動かず、足はおこりのように震えが止まらない。

 忠胤たちは彫像のように声もなく立ち尽くす。信虎はもはやそんな彼らにかまわず、氏真の方を向いて頭を垂れた。

 


「氏真様、ご案じなさいますな。甲斐は我が故郷にして、かつての支配地。わしの配下どもは各地に潜んで今日の日を待ちわびておりました。すでに命令は下しておりますれば、間もなく下山城も岩殿城も陥落するでござろう」

「おお、まことか、爺!?」

「むろん、まことであります。それに、さきほどちらと聞こえてきましたが、上杉は動かなかったとか。ですが、こちらも心配無用。すでに我が配下の一人を諏訪の上原城に差し向けております。上原城は甲斐と信濃を結ぶ要衝。あそこを取れば信濃からの援兵を防ぐことができまする」



 次々と語られていく信虎の策。

 いかぬ、ならぬ、失敗したと並べ立てる庵原兄弟とは比べるべくもない頼もしさに、氏真は目を輝かせる。

 だが、疑問もあった。



「爺、何故に今の今まで黙っていたのだ?」

「申し訳ござらぬ。ですが、氏真様は今川家の当主。そばには必ず側近どもの目があり申した。そして、こやつらの心底は今しがたご覧になったとおりでござる」

「……そうか。こやつらが命惜しさに晴信めに情報を流すことを案じたのだな」

「御意。かなうならば側近どもの浅ましさ、氏真様にはもそっとはようお伝えしたかったのですが……証拠なき訴えは讒言ざんげんと変わりありませぬ。また、爺の目が狂っている恐れもござった。ゆえに、今日まで口をかんしていた次第でござる」

「そうか。すまぬな、爺。いらぬ心労を強いた」

「なんの。すべては氏真様の御為。この爺には疲労も心労もござらぬて!」



 かかと笑う信虎を見て、氏真は久しぶりに破顔する。

 だが、すぐに表情を改めると、凍り付いたように動かない側近たちを疎ましげに見やった。



「爺、こやつらの処遇はどうしようか」

「即座に首を斬る――と申したいところですが、今日まで氏真様を支えてきた者ども。命まで奪うのは氏真様の御意にかないますまい。よって、駿府への帰還を命じればよろしいかと」

「……よいのか?」

「は。命が惜しいというなら生き長らえさせてやるが情けと申すもの。味方としては頼むに足らず、敵としては恐れるに足らず。素直に駿府に戻ればよし。仮に晴信めに寝返ったところで大した害にはなりませぬ」



 信虎はここで庵原忠胤、忠縁らを見て唇の端を吊り上げた。



「この者どもが朝比奈殿や岡部殿のように、真に忠誠篤き者たちならば、当主が戦陣に留まっているのに臣下だけが退却するなど決してうべなわず、むしろそのような命令を受けたことを恥として、進んで敵陣に向かって命を散らすでござろう。それをせず、主君を戦場においてのこのこ駿府に戻るようなら、不忠者、臆病者というわしの言葉を自ら認めたと同じこと。さて、義元様と氏真様の大恩をこうむったこの者どもは、いかなる道を選ぶのでしょうな。もし、氏真様やわしと共に御坂峠越えに挑むのならば、これまでの無礼な発言の数々を詫びねばなりますまいが――くく、そんなことは万に一つもござるまいて」




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