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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第七十七話 虎綱の不安


 武田家に塩を送ると決めたはいいが、前触れもなしに何十もの荷駄を連ねて武田領に入るわけにはいかない。

 怪しまれるに決まっているからだ。逆の立場なら俺だって怪しむ。

 というわけで、まずは武田家内部の伝手つてを使って入国の許可を求めることにした。



 伝手とは海津城主 春日虎綱のことである。

 海津城は北信濃における武田軍の重要拠点であり、虎綱はこの城にあって日夜越後に睨みをきかせている。

 一朝いっちょう事あらば真っ先に矛を交える相手であるが、俺と虎綱は上洛行ではくつわを並べた仲であるし、関東出兵の前日には、虎綱を慕って京から付いてきた二百人を送り届けてもいる。

 こちらの提案を呑んでくれるかは分からないが、少なくとも門前払いされることはないだろう。



 そんなわけで荷駄部隊を整える間、海津城に使者を出して虎綱との交渉にあたる。

 使者は俺。状況が状況なので、変に武田を挑発したり、警戒させたりすることのないようにしたかったのだ。



 とはいえ、いきなり訪ねても虎綱も困るだろうから、最初に書状を出しておおよそのことを伝えておく。

 そうして海津城に到着したとき、上空は厚い雲に覆われていた。夏の暑気が全身にじんわりと汗を滲ませ、肌着を不快に湿らせていく。

 顔をしかめるのをこらえながら城内に入った俺は、そこでひどく驚いた。武田の将兵が恐ろしいまでに殺気立っていたからだ。一瞬、虎綱に罠にはめられたかと疑ったくらいである。



 幸い、その疑いは杞憂であったが、武田兵がピリピリしているのは間違いない。

 まさか俺を警戒してのことではあるまいから、おそらく甲斐の戦況が逼迫ひっぱくしているのだろう。

 ただ、あの晴信がそうそう危機に陥るとも思えない。今川軍がいかに大軍であっても武田軍の敵ではないと考えていた俺にとって、この海津城の雰囲気は予想外だった。

 内心、首をかしげつつ虎綱と対面する。



 最後に顔を合わせてから二ヶ月も経っていない。凛々しくも淑やかな虎綱の装いは変わっていなかったが、こちらを見る眼差しは鋭く尖り、両の目には偽りを許さない勁烈けいれつな光が浮かんでいた。

 この瞬間、俺は緩んでいた心の兜の緒を締め直す。

 必要とあらばこの場で俺を切り捨てることも辞さない――今の虎綱は、そして虎綱の左右に居並ぶ家臣たちはそんな目をしていた。




「先触れの使者より事の次第は聞きました。上杉は今川の要請を断り、武田に助力してくれるとか」



 かつて聞いたことのない虎綱の冷たい声音。

 そこには此方こなたへの親愛など一かけらも存在せず、ただ不審と警戒が氷のごとく凝り固まっている。

 虎綱はその声と表情を保ったまま、切り込むように詰問してきた。



「率直に聞く。何が狙いか? 上杉にとっては武田を討つ絶好の機会であろう?」

「愚問、と申し上げましょう」



 言葉遣いさえ様変わりしている虎綱に対し、俺は努めて平静な声で応じた。

 虎綱の左右の臣が殺気立つが、虎綱はさっと右手をあげて家臣たちを制する。



「塩ではなく喧嘩を売りに来たか、加倉相馬?」

「あいにくと、主を侮辱されてへらへら笑う性根は持ち合わせておりませぬ。我が上杉は武門であって偸盗ちゅうとうにあらず。主 輝虎の泰平を願う志は将軍、朝廷も知るところ。その上杉がどうして他国の不幸に付け込む真似をいたしましょうや。我が主は、弓矢ではなく塩を用いる今川の戦ぶりは道にかなわずと申して、この身を遣わしたのです」



 そう言った俺は、相手に劣らぬ険しい眼差しで武田家臣を睥睨へいげいした。



「これは貴家への助力にあらず、ただ甲信の民が苦しむのをよしとせぬ義侠の行い。武田が無用と仰られるのなら、それがしはただちに越後へたち帰りましょう。武田家におかれてはどうか心置きなく今川家と戦われたい。こたびの戦において、上杉が信濃に兵を入れることはありませぬ。そのことは我が身命にかけてお約束いたしましょう」



 宣言した俺は、言葉どおりさっさと立ち上がってきびすを返す。

 短気というなかれ。

 好意から差し出した手を手厳しく打ち据えられた場合、普通の人間はたいてい怒る。少なくとも不快にはなるだろう。

 もしそこで怒りを見せず、あまつさえ相手におもねろうとする者がいたら、それは「私は陰謀を企んでいます」と宣言するようなものだ。

 よって、ここは怒らなければいけない場面なのである。



 たぶん、虎綱もそれを望んでこんな態度をとっているのではないだろうか?

 部下の手前、今の戦況で上杉の提案を軽々に受け入れるわけにはいかないのだろう。

 ……これがまったくの見当違いだったら目もあてられないが、まあそれならそれで武田と今川の潰し合いを高みで見物していればいい。

 事態がどう転ぼうとも上杉家に被害が及ぶことはない。そう考えれば多少は気が楽だった。



 ――なお、怒りを見せた俺の行動は吉と出て、きびすを返した俺の背で虎綱の声が弾けた。

 その瞬間、俺が内心で胸をなでおろしたことは、武田の家臣には気づかれなかったはずである。








「それで、改めて率直にうかがいますが、まことの狙いは何なのですか?」

「敵に塩を送るという美談で名声を博し、なおかつ甲信の地に大きな塩の販路を形成する。一挙両得というやつですね」



 場所をかえて虎綱と向かい合った俺は、今度は素直に狙いを吐露する。

 すると、虎綱はそっと目元を和らげた。



「事のついでに甲斐におもむき、両軍の動きを探る狙いはない、と? それに、上洛の折に我が軍は春日山を抜けて越後西部の地理を把握しました。それと同じことをする好機かと思いますが」

「正直なところ、ここに来るまではそれも考えていたのですが、それがしが推測していたよりも事態は差し迫っている様子。密偵の真似事は慎もうと思います――本当に斬られかねないですし」

「……まったくもう。そうあけすけに語られては、こちらが胸中を押し隠すのもためらわれるではありませんか」



 先刻とはうってかわって虎綱の表情はやわらかい。

 若干、表情に硬さが残っているのは情勢の悪さによるものか。どうやら本当に今川軍相手に苦戦を余儀なくされているらしい。

 気にはなったが、密偵の真似事を慎むといった舌の根も乾かないうちに探りを入れるわけにもいかない――などという思考が両目からこぼれ落ちていたのか、虎綱はくすりと微笑んで口を開いた。



「お察しのとおり、我が軍は苦戦を強いられています。今川兵は背に火を負うたように猛り狂い、家々を打ち壊し、田畑を焼いて進軍を続けているそうです。重臣筆頭の山県様、馬場様がこれを防いでおりますが、氏真自ら率いる本隊が別方向より侵入。すでに甲斐の東南は今川軍によって押さえられた、と御館様の書状には記されていました」

「……それはまた……あの、今のはけっこう重要な情報だと思うのですが、それがしに言ってもよろしかったので?」

「あ、そうですね。これはうっかりしていました。仕方ないので加倉殿の身柄を拘束して、越後に情報が伝わらないようにしなくてはいけません」



 わざとらしく、ぽんと手を叩く虎綱。

 く、わざと情報を漏らしておいてこちらを間諜扱いか! なんという悪辣さ! これからは滓日かすが悪綱わるつなとでも名乗るがいいわ!

 ぷんぷんと腹を立てていると、虎綱はじっと俺の顔を見つめてきた。その顔が思ったよりもずっと真剣だったので、俺は慌てて表情を改めた。今の台詞、ただの冗談だと思っていたのだが、虎綱は何やら言いたいことがあるらしかった。



「そうでもして、あなたの動きを縛らないと北の守りが不安で仕方ないのです。今正成殿は何をしてくるか分からないと、我が武田家ではもっぱらの評判なのですよ」



 もちろん私の家臣たちも――虎綱はささやくように付け加えた。

 俺としては首をひねらざるを得ない。



「むう? それがし、同盟や和睦を破るような真似はしていないはずですが?」

「だからこそ、と申しておきましょう。今日結ばれた同盟も明日には破られる戦国の世にあって、上杉家は決して約を違えない。その軍師であるあなたは、主のために己もろとも春日山城を焼き払おうとし、当主である景虎殿――今は輝虎殿でしたか、輝虎殿は隣国のために兵を出すことをためらわない。上杉家のあり方は清絶せいぜつに過ぎるのです。私たちのような凡物では理解が及ばず、そして人は理解できぬものに恐れを抱くもの」



 虎綱は言う。

 そんな人間が、北信濃を奪う絶好の機会にのこのこ現れて「混乱に乗じて国境を侵したりしませんよー」「不足している塩も売りますよー」などと申し出てきたら、凡物一同の目にどう映ると思いますか、と。



 ……うん、警戒せざるを得ませんね。長年の友好国というならともかく、将軍家が仲介するまではバッチバチにやり合っていた間柄なのだし。

 俺が言うと、虎綱はこくりとうなずいた。



「上洛の折、あなた方と行動を共にしていた私の家臣でさえそうなのです。それ以外の者たちにとっては、なおのこと越後上杉家は得体の知れない相手。そういう目であなた方を見る者がいることを、どうか覚えておいてください。ただでさえ今の武田家は殺気だっています。あなたを間諜扱いし、斬ろうとする者がいても不思議ではないのです」

「ご忠告感謝いたしま――ん? 春日殿、それはどういう?」

「これから躑躅ヶ崎館へ向かうのでしょう? 上杉が動かないのならば、遠慮なく北信の部隊を動かせます。ささやかな恩返しとして、御館様との謁見は私が責任をもって取り計らいましょう」

「……実は春日殿をあざむく演技という可能性も」

「その時は仕方ありません。我が命が尽きるまで、あなたを敵と見なして戦い続けましょう。手段を選ばず、相手を選ばず――ふふ、言っておきますが、私はけっこう残忍ですよ?」



 そう言って虎綱は笑ったが、目はぜんぜん笑っていなかった。

 光の加減か、両眼が墨で塗りつぶしたように真っ黒になっている。



 ――あ、いかん。これ、絶対に敵に回したらまずい人だ。

 いや、まっとうに戦場で戦う分には問題ない。そうではなく、恨みを買ったら駄目な人だ。間違いない。



 俺は深々と頭を下げて、今の台詞は冗談である旨を言上。

 上杉は決して動かないことを改めて虎綱に保障した。




◆◆◆




 春日虎綱は現在の武田家重臣の中で唯一の女性である。

 しかも農民の身から異例ともいえる抜擢を受けて重臣まで駆け上がった。

 そういった経緯もあいまって、下世話な噂の中には虎綱が晴信の寵愛を受けているというものも存在する。

 晴信が一向に婿を迎えようとしないことも、この噂の助長に一役買っていた



 実のところ、これは根も葉もないデタラメというわけではない。二人が夜を共にしたことがあるのは事実であった。

 ――まあ、別段睦言(むつごと)を囁いたり、囁かれたりしたわけではないのだが。

 強いて言えば、それは互いの傷を舐め合うような関係だった。



 虎綱は父亡き後、姉夫婦によってすべての財を奪われて家を追い出され、訴えを起こすもそれにも敗れ、寄る辺なく流離さすらった経験を持つ。

 このとき、流浪の身を救い上げてくれた晴信に対し、虎綱は心底から感謝し、忠誠を誓っている。

 同時に、年下の主君に対して姉のような感情を抱いてもいた。



 側役であるがゆえに、虎綱は晴信と信虎の相克そうこくを知っている。

 武田家を真っ二つに割った躑躅ヶ崎の乱の真相を知っている。

 晴信が世間で言われるほどに完璧ではないことを知っている。



 自然、守って差し上げたいという感情が湧いて出た。

 もちろん、それを口にしたことはない。甲斐武田家の当主にして甲州騎馬軍団の総帥である晴信に対し、農民あがりの成り上がり者が守って差し上げたいなどと、不敬であり、無礼でもある考えだ。

 だから、虎綱はその感情を誰にも明かさず、胸に秘めて生きてきた。



 この想いを邪魔する者に容赦するつもりはない。

 同時に、この想いを支える者に感謝を惜しむつもりもなかった。

 たとえそれが因縁重なる上杉家の人間であろうとも。






「――ありがたい。本当にありがたい」



 加倉相馬が去った後、虎綱は春日山城の方角に向かって深々と頭を垂れた。

 今川家侵攻の初報を聞いたときから胸を去らない嫌なざわめき。

 何度、海津城を飛び出して躑躅ヶ崎館に駆けつけようと思ったことか。

 だが、上杉家がこの絶好の機会に動かないはずがない。今、城を飛び出すことは、晴信から託された北信濃を投げ出すに等しい。できるはずがなかった。



 せめて可能な限りの援軍を、と考えたものの、敵は上杉だけではない。

 今川侵攻の報せが広がれば、武田に滅ぼされた信濃衆が一斉に動き出すだろう。

 甲斐にまとまった数の援軍を送れば、それらの敵に対処できなくなってしまう。そんな虎綱の焦慮を見抜いたように、晴信からの書状には「くれぐれも軽挙を慎むように」との一文が記されていた。



 そうして悶々と過ごしていたところに、加倉相馬はやってきた。

 先触れの使者の書状を読んだとき、これは夢ではないかと頬をつねったのは虎綱と側近しか知らない秘事である。



 罠ではないか、との疑いは不思議と湧かなかった。

 なにせ遠来の地で半年近い時日を過ごした相手だ。上杉軍は小細工などしない。攻めるなら攻めるで、堂々と宣戦布告してくる人たちだとわかっている。

 その思いは加倉相馬との対面で、より確固たるものになった。



 すでに虎綱は麾下の全部隊に動員を下している。

 上杉が動かないのであれば信濃衆も簡単には動けない。仮に動いたところで制圧することはたやすい。

 虎綱をこの地につなぎとめていたのはひとえに上杉家の存在であり、その脅威が除かれた今、海津城に留まる理由はただの一つも存在しなかった。



「御館様、いま参ります。どうかご無事で」



 春日山に向かって垂れていた頭を上げた虎綱は、立ち上がって小さく呟いた。

 ふと思う。

 すべては虎綱の杞憂であり、甲斐に入るや今川軍撃退の報告を聞けるかもしれない。そうして、勝手に任地を離れたことで晴信から叱責を受けるかもしれない、と。

 武田軍の精強をもってすれば、それは十分にありえる未来なのである。



 ――だが、決してそうはならないことを、何故だか虎綱は確信していた。

 海津城の上空を覆う雲は未だ去らず、外から吹き込んできた風は不快な湿り気を帯びて、蛇のように虎綱の首筋にまとわりついてくる。

 その風を振り払うように、虎綱は大きくかぶりを振った……  



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