第七十六話 敵に塩を送る
今川氏真の使者 庵原忠縁が、敵地信濃を潜り抜けて春日山城に到着したとき、春日山城下はおおいに沸き立っていた。
いまだ日は高いというのに、明らかに酔っているとわかる者たちがそこかしこにたむろしている。
その数は城に近づくにつれて増えていき、笛や太鼓の音まで聞こえてくる。
伝え聞く質実剛健な越後人の気性からは考えられない有様に、忠縁は訝しさを禁じえなかった。
祭りでも行われているのだろうか。
忠縁は近くを通りがかった足軽風の男に声をかけ、この騒ぎの理由を訊ねる。
すると、酒精で顔を赤くした男は得々と事情を語りだした。
すなわち――つい先日、京の将軍家から上杉家に使者が訪れ、景虎が先代定実の後を継いで越後上杉家の当主となることが正式に認められたのである。
さらに朝廷からの詔によって、景虎は従五位下 弾正少弼に任じられた。
景虎の父 為景は従五位下信濃守であったことから、これらの知らせは景虎が越後の支配者であることを、朝廷と幕府が正式に承認したことを意味する。
さらに、吉報はそれだけにとどまらなかった。
将軍足利義輝は、先の上洛における上杉軍の忠功と、その後も周辺諸国の秩序を守るべく奮闘する景虎の武烈を称え、自らの一字である『輝』の字を与えた。
ゆえに今、越後守護の座に就いている者は、もはや上杉景虎ではない。
「我らが御館様は、今や上杉弾正少弼輝虎様というわけだ! これが祝わずにいられようか! 酒も踊りも、まだまだこれからよ。あんたも旅の人なら、良いところにきなすった! 今なら振る舞い酒も飲み放題。なんでも夕方にはどこぞの一座が催しものをするとも聞いたぞ!」
男は忠縁にそう言うと、ばんばんと肩を叩き、あぶなっかしい足取りで立ち去っていく。
事態を把握した忠縁は唇を噛む。
不穏を極める故国駿河とはあまりに異なる平和な様相。今の春日山城下は、義元が生きていた頃の駿府の賑わいを彷彿とさせる。
ほんの数ヶ月前まで、今川家が確かに手にしていたはずの繁栄はいったいどこに消えてしまったのか。
重い足取りで春日山城へ向かいながら、忠縁は小さくため息を吐いた。
◆◆◆
上杉弾正少弼輝虎。
景虎様がその名乗りを許されたことは上杉家にとって非常に大きな出来事だった。
衰えたりといえど、将軍はやはり将軍であり、朝廷はやはり朝廷である。
この知らせを聞き、多くの家臣が景虎様改め輝虎様への忠誠を新たにしたに違いない。
普段は冷静で感情を波立たせることの少ない輝虎様であるが、さすがにこれには喜びを隠し切れない様子で、その瞳はかすかに潤んでいるように見えた。
直江景綱、宇佐美定満、本庄実乃といった景虎様の側近がたは欣喜雀躍し、実乃などは栃尾城からすっ飛んできて、涙ながらに輝虎様に祝辞を述べていた。
幼少の頃から輝虎様を支え続けてきた彼らほどではないにせよ、俺にとっても今回のことは感慨深いものがある。
晴景様に後事を託されてから一年あまり。
輝虎様の名は近隣諸国に鳴り響き、将軍家や朝廷も天下静謐の貢献大なりと認めるに至った。
俺もできるかぎり輝虎様のために尽くしてきたつもりである。きっと泉下の晴景様も喜んでくれているだろう――あ、でも京での体たらくもあったしなあ……もっとしっかりせよと目を三角にしているかもしんない。精進しよう。
今思えば、京を発つ折、義輝様が「後で土産を届ける」的なことを言っていたのは、きっとこれのことだったのだろう。
遠方の国人たちはこの機にすこしでも輝虎様らと面識を深めようと、祝い言上のためと称して春日山にやってくる。おかげで個人的な知り合いも増えた。
本庄繁長や、新発田長敦・重家兄弟なんかは、いずれ色々と関わりあうことになるだろう。
なにせ彼らは揚北衆の一員で、以前に俺が景虎様と戦ったおり、勝負を決めた北からの援軍五千を率いていた面子だからな、こんちくしょう!
もちろん今では同じ上杉家の一員、あの時の恨みを引きずるつもりはありませんけどね!
内心でぶつくさつぶやく俺。
今川家の使者 庵原忠縁がやってきたのはそんな時だった。
今川氏真から輝虎様に宛てられた書状は、越後から甲信地方への塩の供給停止を要請するものだった。
塩止め、というやつだ。
くわえて、かなうならば北信濃の武田領へ侵攻してほしいとも言ってきた。
駿河の今川、相模の北条、越後の上杉から成る武田包囲網の結成。
すでに今川家は甲斐へ侵攻を開始しているという。これは俺の知る歴史にはなかった出来事だったから、内心でかなり驚いた。
義元の死で三国同盟が崩れることは予想できたが、まさか今川の方から武田に侵攻するとは。
今川が南から武田領に侵攻している隙に、上杉軍が手薄な北を突く。
驚きを排して考えれば、これは武田家を叩く大きな好機だ。向こうの言うことが本当なら、北信濃はたやすく手に入るだろう。
軍議の間に集まった家臣たちも大いに盛り上がっている。
ただ、いささかならず上杉に都合が良すぎるのも事実だった。
ともすれば、上杉家を誘い込む武田の策略ではないかと疑いたくなるほどに。
そんな疑いを見抜いたわけでもあるまいが、使者は憤りを隠そうともせず、今川家が甲斐に攻め込んだ理由を述べ立てた。
いわく、武田晴信は三国同盟締結時に定められていた婚姻の履行を拒否し、義元亡き後の今川家を手ひどく侮辱したという。
これに衝撃を受けた氏真の妹は、心労と傷心の果てに亡くなったそうだ。
これに激怒した氏真は武田との手切れを決意。三万以上の大軍を動員して甲斐に攻め込んだ――そこまで述べた庵原忠縁は、輝虎様に対して深々と頭を垂れた。
「すでに北条家にも使者を差し向け、同様の要請を行っております。輝虎様におかれましては、なにとぞ甲斐の梟雄を打ち倒すべくご協力いただきたく、忠縁、伏してお願い申し上げます……!」
輝虎様は疲労困憊の忠縁をいったん別室で休ませると、あらためて家臣たちに意見を求めた。
群臣の意見は大きく侵攻に傾いている。
氏真の甲斐攻めの理由は、はっきりいって女々しいものだったが、それは上杉家が関与するところではない。
重要なのは氏真が軍を動かしたことで、武田家を追い詰める千載一遇の機会が到来したという事実である。
武田晴信は甲斐を守るために身動きがとれない。重臣の多くも甲斐に配置されていることだろう。
上杉軍が総力を挙げて攻め込めば信濃を手に入れることはたやすい。
そして、信濃を失えば武田の国力は半減する。今川、北条と歩調をあわせて攻め込めば甲斐の一部を攻め取ることも可能であろう。
もちろん武田の策略の可能性もある。
なので、まずは塩を止めて武田を弱らせ、その間に今川軍が本当に甲斐に出兵しているかを確かめる。
その後で兵を動かしても遅すぎるということはない。
考えれば考えるほど美味しい話だった。
ローリスク&ハイリターン。氏真はよほど武田晴信を恨んでいるのだろう、上杉に巨利を食らわせても武田を追い詰めるという覚悟のほどが感じられる。
ほとんどの家臣が乗り気であるのも当然であった。
――だからこそ、俺はこの空気に呑まれてはいけない。
「あいや、お待ちいただきたい、皆様がた」
俺は声をあげて発言する。
これまでは重臣や国人衆のやり取りに口を挟むのは無礼にあたったので、基本的に誰かに訊ねられるか、あるいは景虎様や政景様に諮問されるまでは口をつぐんでいたのだが、今の俺はれっきとした鮫ヶ尾城主。
おおやけの場で声をあげても無礼をとがめられることはないのである。えっへん。
「それがし、こたびの出兵には断固として反対いたします」
俺が言うと軍議の間が水を打ったようになる。
盛んに気勢をあげていた者たちがうろんげな顔で俺を見据える。
最初に口を開いたのは本庄繁長――先ほど少し触れた揚北衆の若き青年武将だった。
「ほう。それは何ゆえだ、加倉? 因縁かさなる甲斐の武田を潰すにはまたとない好機であろう」
本庄城の主である繁長は俺と同じ二十歳。
骨肉相食む苛烈な幼少期を過ごしたせいか、言動に攻撃的な色がちらつくが、決して無能でも無思慮でもない。
俺を見る右の目には猛々しさが、左の目には冷静さが宿り、こちらがどんな反応を見せるのか愉快そうに待ち受けている。
「むろん、信濃に攻め入る名分がないからです、本庄殿」
「名分、理由、か――ふむ、足利将軍家の連枝たる今川家から協力を求められた。これは十分な名分になると思うが?」
「その足利将軍家の仲介で武田家と和睦を結んだのは先年のことです。その折、公方様は信濃における武田の統治権をお認めになりました。いま信濃を侵すのは公方様のご決定に背くも同然と心得ます」
繁長がそれに応じようとしたとき、繁長のすぐ近くに座っていた人物が口を開いた。
新発田城主 新発田長敦。
屈強な体格に比して、物腰のやわらかさが目立つこの青年は繁長より二つ年上である。
「加倉殿。お言葉はまことにもっともと存ずるが、いささか愚直に過ぎはすまいか。生き馬の目を射抜く戦乱の世、隣国に隙あらばこれを取る。恥じるべきことではござるまい」
「兄者の言うとおりじゃ! そういうのを宋襄の仁という!」
「これ重家、若輩者が口を挟むでない」
勢いよく俺に歯を見せて威嚇し、すぐさま兄にたしなめられ、しょぼんとしているのは新発田重家。年齢は十三、四歳くらいだろうか。生意気盛りといった感じだが、ハキハキとした言動のせいか嫌な感じは受けない。
俺の知っている歴史だと、この重家や本庄繁長は後に大きな反乱を起こすことになるのだが――ま、今はいいか。
あ、念のためにいっておくと三人とも男性です。
申し訳なさそうにこちらに頭を下げる長敦に対し、俺は気にしていないと伝えるために軽くかぶりを振った。
そうして、こほんと咳払いしてから口を開く。
「いま重家殿が申された宋襄の仁、それがしはここに学ぶべきことが多くあると存ずる。宋の襄公は、たとえ敵であっても、他者の苦難に付け込むことは君子のせざるところであると言い、敵陣の乱れをあえて見逃しました。他者の目にどれだけ愚かしく映ろうと、それが君主としての襄公の誇りだったのです。そして、宋の将兵は主の誇りに殉じた。今、我らは隣国の不幸に乗じるか否かを話し合っていますが、それを話し合う前にかえりみるべきことがあるのではありますまいか」
越後上杉家が将軍家の信頼を得たのは利に聡いからではない。
越後上杉家が朝廷から称えられたのは他者の不幸に乗じてきたからではない。
すべては輝虎様が愚直なまでにまっすぐに、己の信じるところを成してきたからだ。
一時の利益に目が眩む者たちが、どうして上杉輝虎の臣下たりえようか。
言葉に出して言いはせぬ。
だが、俺が言わんとするところは確実に繁長に、長敦に、重家に、そして他の諸将に伝わったであろう。
虎の威を借る狐と思われたかも知れないが、それならそれでかまわない。
独立性の高い揚北衆の面々に、まずは主君を立てろと注意しておくことは、今後のことを考えても必要なことであった。
ただ、そういったことを抜きにしても、今回の件で上杉が介入する余地はないと思うのだ。
確かに今川の姫が亡くなったことは気の毒だと思うが、武田が刃をもって命を奪ったわけでもあるまい。上杉家が正義を唱えて今川に味方するのはおかしな話だろう。
かといって、武田にくみすることもできない。間接的とはいえ、晴信の決断が姫の命を縮めたのは事実なのだから、今川家の怒りは正当――とは言わないまでも、十分に理解はできる。氏真が報復として甲斐を攻めるのもわからないではない。
上杉家が強いて武田家を助ける理由はなかった。
それでも無理にこの件に介入すれば、世評は上杉家をどう見るか。
他者の不幸に乗じた漁夫。空き巣狙いの偸盗。そんなところだろう。
いずれにせよ、我利をもって世を乱した輩とそしられる。
信濃侵攻?
ないない。これまで積み重ねたものをどぶに捨ててどうするという話である。
と、ここで政景様が口を開いた。
それまで黙って俺たちの話に聞き入っていた守護代様が鋭い視線が俺を見る。
「今川にくみする理由はない。かといって、武田にくみする理由はさらにない。つまり傍観するというのがあんたの結論?」
「いえ、それはあまりにもったいない。この機会をみすみす見逃すのは下策と存じます。取れる利はのこらず取っておきましょう」
けろっとした顔で言い放つと、政景様および揚北三人衆(命名)の顔が面白いことになった。
政景様がとんとんとこめかみを指で叩きながら言う。
「……あたしの記憶が確かなら、あんたは今しがた、他国の不幸に乗じて利を漁るのは輝虎様の御意志に背くと言ったはずなんだけど? 宋の襄公がなんたらっていうご高説まで垂れて」
「兵を差し向けるのはいけません。ですが、兵を差し向けるばかりが戦ではございません」
「具体的に」
「武田に塩を売りましょう」
それを聞いた政景様はかすかに目を見開き、ふむ、と腕組みをする。
ここで直江景綱が口を開いた。
「相馬。それはつまり武田に味方するということではないのか? 今川家の塩止めの依頼を蹴ることになるのだから」
「今川家にはこう申しましょう。武士の武士たるゆえんは弓矢もて敵と戦うことにあり、塩もて敵を苦しめることにあらず、と。塩を止めて苦しむのは兵だけではありません。甲信の民のための介入であれば、世評の非難も避けられましょう」
「しかし、今そなたは塩を売ると申したはず。隣国の不幸に付け込んでいることにかわりはないぞ。ここは無償で塩を渡した方がよいのではないか?」
「それも一つの手ではございますが、無料より高いものはないと申します。おそらく、無償の譲渡は武田晴信に拒絶されるかと。なに、塩の値段をこれまでと同額におさえれば、暴利をむさぼったと後ろ指さされることはありますまい」
これまでと同じ――それだけで今の武田家にはありがたいはずだ。
対価を払っているのだから、後々恩を着せられる筋合いもない。
上杉側にも利点はある。これまで駿河や相模の商人がおさえていた塩の交易ルートを奪うことができるので、今回だけでなく今後の交易拡大をはかることができるのだ。
もちろん、武田と上杉がふたたび敵対しないかぎりは、という条件付きであるが。
それともう一つ。
「今回の今川と武田の戦、解せぬところがございます。輝虎様、どうかそれがしを甲斐にお遣わしください。塩を運ぶついでに、かの地の真相をさぐってきたいと存じます」