第七十四話 悲劇の幕開け
相模北条家の居城 小田原城。
城下町を土塁防壁で囲い込む総構えをもって知られる関東一の大城郭。
北条家は初代早雲、二代氏綱、三代氏康、いずれも名君として名高く、小田原の町の賑わいは東国一とうたわれる。
相模、伊豆、武蔵と三国にまたがる巨領は関東随一であり、先ごろは関東管領を破って遠く越後に敗走せしめた。
今や北条家が関東一の勢力であることは誰もが認めるところである。
だが今、小田原城の一室に集まった北条一族の表情には暗い影が差し、その影は容易にはがれそうもなかった。
理由の一つは、一向にあがらない気温である。すでに季節は夏を迎えているというのに、時に日中に肌寒さを覚えるような気候が続いている。
これを「過ごしやすくて快適だ」と思うようでは為政者は務まらない。
冷夏は飢饉の前触れなのだ。
北条家の蔵には米穀がうなっており、一度や二度の飢饉で家が倒れることはない。
だが、楽観は許されない。
いざ飢饉が発生すれば、周辺諸国から飢えた流民が殺到してくるだろうし、北条家の食料を狙った侵略も頻発するに違いない。今からそういった事態に備えておく必要があった。
北条一族の顔を曇らせるもう一つの理由は、隣国駿河の現況である。
桶狭間において当主義元を失った今川家は、諸国の予想に反して凋落をまぬがれ、それどころか勢力を強めて威権を確立させつつある。
人々はこれを今川氏真の功績と見なし、この点、氏真に一族を嫁がせた北条家としては嬉しい誤算だったのだが――
「あまりに手つきが荒々しい。あれでは長続きせぬぞ、婿殿は」
手に持った扇を盛んに開閉させながら、苛立たしげに言ったのは北条幻庵。
初代早雲の末娘。父の創業の時代から北条家を守り続けてきた重鎮である。
かつて関東一をうたわれた婵娟たる美貌は、年齢の深みを帯びて秀麗さを増し、父譲りの明敏な知性は年を追うごとにますます冴え渡っている。
自他ともに認める北条家の長老は、尖った感情を顔に貼り付けながら言葉を続けた。
「偉大な父を失い、焦る気持ちは分からんでもない。重臣たちは若年の当主を案じるか、さもなくば侮って、事あるごとに口をさしはさんでこようしな。はよう一人前にならねばとの思いが高じた結果なのであろうが、それにしても短絡に過ぎる。まったく雪斎め、さっさとくたばりおって! こういうときに若年の当主を補佐するのが貴様の役割であろうに!」
べしべし、と持っている扇で畳のへりを叩く。
そんな幻庵を見て、当主の氏康も不安げに口を開いた。
「刀自。義元殿が討死なされてから、お早から文が届いておりません。一度、様子を見に行かせましょうか?」
「そうじゃな。誰ぞ適当な者を選んで差し向けよ。可能ならば、今川家が落ち着きを取り戻すまでお早は小田原に戻したいところであるが……それでは北条家が婿殿を見限ったという噂が立とう。婿殿も承知すまい。だが、顔を見に行く程度ならば拒まれることもあるまいよ」
幻庵がうなずくと、北条綱成が膝をすすめる。
そして、勢いこんで口を開いた。
「それでは刀自、私が駿府に行ってお早の様子を見てまいります。事と次第によっては力ずくで早を連れ戻します!」
北条家の一門は、幼少期のある時期、幻庵のもとに預けられて行儀作法や読み書きの習練、さらに早雲以来の北条家の歴史、一門としての心構えなどを徹底的に叩き込まれる。
氏康と綱成、そして氏真に嫁いだお早はこの時期が重なっており、姉妹同然に仲が良い。綱成が進み出たのは当然のことであった。
だが、幻庵はかぶりを振って綱成の言葉を退ける。
「綱成。関東の情勢が不穏な今、黄備えを率いるそなたを外に出すわけにはいかぬ。ああ、そこで『では私が』と言い出そうとしている当主殿は言うにおよばずである」
「あう」
「姉者……」
先読みされて主張を封じられた氏康ががくりとうつむき、綱成が呆れた顔でそんな氏康を見る。
幻庵は苦笑しつつ先を続けた。
「というわけで、三郎、駿河にはそなたに出向いてもらいたい」
そう言って幻庵が視線を向けたのは、それまで黙って三人の会話に耳を傾けていた四人目の北条一族である。
この場では唯一の男性であるその人物の名を、北条三郎長綱という。
幻庵の養子であり、前年に元服したばかりの十三歳。三郎長綱は幻庵の旧名でもある。
幻庵はかつての自分の名前をそのまま養子に名乗らせたのだ。
もっとも、北条家中における呼び名は「三郎」で統一されている。
旧名とはいえ、北条一門の長老と同じ名を軽々と口にするのははばかられる、というのがその理由だった。
「刀自の仰せとあらば参りますが、それがしに綱成姉のような荒事を期待するのはやめていただきたい。人は虎にはなれませぬゆえ」
長老幻庵、当主氏康をはじめ、北条一族は美貌で知られる者が多いが、三郎もその例外ではなく――というか、こと容姿に関しては氏康に匹敵する評価を得ており、城下の民には三国一の美少年などともてはやされている。
もっとも、当人はそういわれるたびに「武士たる者が容色をもって褒められて何条喜ぼうか」と口をへの字に曲げているのだが。
そんな三郎に綱成が頬をひきつらせて尖った声を向けた。
「三郎。その物言いでは私が人ではなく、虎の仲間だと言っているように聞こえるが?」
「おお、失礼いたしました。つい本音がぽろりとこぼれ出てしまいまして。決して幼少のおり、早雲寺における綱成姉の稽古で毎度毎度叩きのめされ、泣き暮らしていたことを根に持っているわけではございません。あまつさえ、あんな馬鹿力を出せる綱成姉こそ今李徴(人から虎にかわった伝説がある)と呼ぶに相応しいと考えていたなど、決してありえぬことでございます」
「ほとんど全部白状しているではないか! あいもかわらず、くるくると良く回る舌だな! 何なら今から稽古をつけてやってもよいのだぞ!?」
「願ってもない。あの頃の自分とは一味違うところをお見せいたしましょう。あらかじめ申し上げておきますが、その無駄に大きくなった胸の膨らみのせいで負けた、などという言い訳は受け付けませぬのであしからず」
「よし、遠慮はいらぬということだな!」
綱成が立ち上がると、それに応じて三郎も立ち上がり、二人は本当に部屋を出て行ってしまう。
目をぱちくりとさせた氏康が、おそるおそる幻庵の顔をうかがった。
「あの、刀自、よろしいのですか?」
「かまわんであろ。今の駿河はきな臭いでな。綱成なりに三郎を案じてのことであろうし、三郎もそれは心得ておるよ」
それよりも、と幻庵は真剣な眼差しで氏康を見た。
「婿殿の変化が訝しい。雪斎のことじゃ、義元殿が倒れて婿殿が後を継いだとき、己が命数を使い果たしている可能性は考えておったはず。当然、その折にとるべき行動も伝授したはずじゃ。しかし、今の駿河の乱脈が雪斎の意図であるとはどうしても思えぬ」
「……氏真殿があえて師である雪斎和尚の教えを捨てるとは思えません。であれば、守りたくとも守れぬ状況にある、と考えるのが妥当でしょう」
「しかりじゃ、氏康。今の婿殿の周囲には奸臣がおる、と妾は見ておる」
そう言った後、幻庵は忌々しげにため息を吐いた。
「もっとも、それが誰であるかが分からぬのじゃがな。婿殿は朝比奈泰朝と岡部元信を重用しておるが、この二人は使い走りに過ぎぬ。葛山、松井、朝比奈、飯尾、井伊、天野……多くの家が取り潰されたが、領地はすべて婿殿が我が物としている。誰ぞ、臣下の中で巨領を与えられた者がいれば、その者が婿殿を使嗾していると判断することもできるのじゃがのう」
あるいは本当に氏真は暴虐の性質であり、当主となったことで隠されていた本性があらわになったのかもしれぬ。
それならそれで、北条家としては対今川政策を根本から見直さなければならない。
自領を収奪の対象と見なす暴君が、他家である北条領を例外とするはずもないのだから。
「三郎の供には風魔衆の精鋭をつける。駿府をさぐり、場合によっては力ずくでもお早を取り戻す。氏康、目立たぬよう箱根の関に兵を送り込んでおけい」
「かしこまりました、刀自」
「いざとなれば妾も出る――問題は武田がどう出るかじゃ」
「義元殿が亡くなられた後、三郎と甲斐の姫の婚姻の話は完全に止まってしまっていますからね……晴信殿の中で三国同盟に対する考えが変わっているのは間違いないと存じます」
「同じように今川と武田の婚姻も進んでおらぬと聞く。義元も雪斎もいない今川家はたのむに足りぬという判断かの。越後と戦う以上、後顧の憂いを断っておくに越したことはないはずじゃが……あるいは越後と結んで北の憂いを断ち切り、南の攻略に全力を注ぐつもりか?」
幻庵の言葉に氏康が眉をひそめる。
反覆常ない外交は乱世の宿命とはいえ、敵と味方を軽々しく取り替える振る舞いは好ましいものではない。
もちろん、今の段階では単なる推測に過ぎず、武田晴信に反感を覚えるのは間違っている。
氏康はこほんと咳払いして、己と長老の先走りを制した。
「刀自、いささか先走りが過ぎるかと」
「……む、それもそうじゃな。仮定に仮定を重ねても建設的な結論は出せぬか」
「はい。武田家に関しては更なる情報が必要です。氏真殿と同様、晴信殿にも使者を差し向けましょう。もし破約を考えているのであれば、表面をどれだけ取り繕っても、透けて見えるものがあるはず。いっそここは私みずから赴き、晴信殿の心底を探ってまいりたく存じます。もし晴信殿に誠意が見えましたら、そのまま三郎のお嫁さんを連れて帰ってこられるかも――」
「却下じゃ! どうしてそちは、軍事でも内政でも外交でも自分で動きたがるのか。関東を治めんとする北条の当主が腰軽く動き回るものではないわッ」
「刀自も私の年齢の頃は方々を駆け回り、ご両親を大いにてこずらせたと母から聞き及んでおりますが?」
「妾は当主ではないので問題ない!」
ふん、と鼻息を荒く吐き出した幻庵と、あ、ずるいと言いたげに口を尖らせる氏康。
二人がさらに言葉を続けようとしたとき、外から慌しい足音が聞こえてきた。
現れた近習は緊張した面持ちで膝をつき、当主と長老に告げた。
「申し上げます! 箱根の関より急報! 駿河の今川軍が興国寺城に大軍を集結させているとのことです。その数、およそ一万!」
「なんじゃと!?」
幻庵がすっくと立ち上がって近習を見据える。
興国寺城は駿河、相模、甲斐の三ヶ国に接する重要な城だ。その城に一万もの兵を集めれば、北条と武田を刺激することは分かりきっている。
だが、氏真はあえてそれをした。
目的が奈辺にあるかは定かではないが、兵を催した以上、その目論見が血臭を放っていることは疑いない。
「まったく、近頃の当主は誰も彼も腰が軽いわ! おぬし、急ぎ綱成と三郎を連れてまいれ。稽古場でやり合うているはずじゃ」
「は、承知仕りました!」
「氏康、五色備えの将を召集せよ! 婿殿の狙いがいずこにあるか知らぬが、もはや事態は血を見ずには収まるまい」
「ただちに、刀自」
「まったく! 雪斎よ、弟子をきちんと教育しておかぬから、ほれみよ、おぬしの外交の精華が――日ノ本の転機となりえたはずの三国同盟が、かように早く崩れてしもうたぞ!」
――この、ばか者め。
かつて駿河の地をめぐって激闘を繰り返した怨敵を小声で罵る幻庵。
だが、部屋を出る寸前、たまさか罵声を聞き取った氏康の耳には、幻庵が今は亡き好敵手を悼んでいるようにしか聞こえなかった。
今川氏真が一万の兵をもって興国寺城に入った――箱根の関から小田原城にその報告が届けられてから、およそ一刻後。
今川家の使者が箱根を越えて小田原城に入り、北条氏康の前に膝をつく。
使者が持参した氏真の書状には、前触れなく国境に大軍を展開させた無礼を謝する言辞が連ねられていた。
氏真には北条家と敵対する意思はなかったのだ。
その事実に氏康は素直に安堵する。
だが、北条が敵でないのなら、氏真が兵を向ける相手は武田しかいない。
事実、書状の中で氏真は武田家に対して全面的な攻勢を仕掛けることを明記していた。
その理由について、氏真は次のように述べていた。
――すべては武田晴信の卑劣な破約を討ち懲らしめんがため。
その文字はひどく歪み、ねじれ、震えていた。ともすれば紙を引き裂かんばかりに力んでしまう己の腕を、必死に御しながら書いたのであろう。
所々に落ちた水滴の跡は、こらえきれずに零れた涙であろうか。
ここまで感情を迸らせた書状を受け取った経験はついぞない。いったい氏真の身に何が起こったのか。
氏康は興国寺城のある西の方角に視線を向け、憂うように目を伏せた。
◆◆
今川氏真の出陣に先立つ事情は以下のとおりである。
遠江征伐が終わった後、氏真は武田晴信に使者を遣わし、三国同盟で締結された氏真の妹と武田信繁の婚姻を実行に移そうとした。
遠征や粛清が続いて殺伐とした家中の空気を、婚姻という慶事で一新しようと考えたのである。婚姻の実施により、義元亡き後も三国同盟が機能していることを家臣や近隣諸国に知らしめ、氏真の支配力をさらに強化する狙いもあった。
そしてもう一つ。
父亡き後、沈みきった様子の妹に笑顔を取り戻してやりたいという兄心もあった。
あれだけ信繁との婚姻を楽しみにし、毎日うるさいくらいに騒いでいた妹が、今では火が消えたように俯き、泣いてばかり。
父を殺され、妻を犯され、妹さえ救えぬとあっては、どうして胸を張って今川宗家の家長を名乗れようか。
誰よりも家族の慶事を望んでいたのは氏真本人だったのである。
だが、氏真が遣わした使者に対し、晴信は否を突きつける。
晴信としては当然の判断だった。
駿河における粛清、遠江における弾圧、いずれも氏真の悪名を伝えるものばかり。その氏真と婚姻を結べば、悪評は武田家にまで及んでしまう。
三国同盟を破棄するとは言わぬ。だが、氏真の今後を見極めてからでなければ、婚姻など結べるものではなかった。
戻ってきた使者から事の次第を聞いた氏真は、予期せぬ返答に衝撃を受ける。
義元の生前、今川家と武田家の盟約はしっかりと保たれており、それは自分の代でも変わっていないと氏真は信じていた。
だが、晴信からの乾いた返答は、それが思い込みに過ぎないことをはっきりと告げていた。
その氏真以上に衝撃を受けたのが妹である。
父の死後、泣き暮らしていた少女はただでさえ体調を崩していた。そこに兄から婚姻話の再開を伝えられ、希望を取り戻し、多少なりとも体調が持ち直したと思った途端、恋い慕う信繁から拒絶を突きつけられたのだ。
悲哀と落胆は筆舌に尽くしがたく、妹はそのまま病床に伏してしまう。
そうして、そのままろうそくの火が消えるようにはかなく世を去った。
まだ、わずか十三歳であった……




