第七十三話 遠州錯乱
父の喪もあけないうちに、駿河今川家 第十代当主に就任した今川氏真。
生前、義元が望んでいた空前の規模の儀式を行う余裕があろうはずもなかったが、それでも現状の今川家がなしえる最大級の盛儀が取り行われた。
駿河、遠江、三河各地に参集を命じる使者が派遣され、多くの者が駿府城に集う。
だが、その多くは今川家の直臣であり、特に遠江、三河の国人衆の姿はほとんど見かけない。肝心の直臣たちでさえ、全員が集まったわけではない。
今川家の衰退は誰の目にも明らかであった。
これを見て、多くの家臣たちは考えた。
義元公の後継者として、今の若はまだまだ力不足。そんな未熟な当主を支えることこそ臣たる者の務めであり、ひいては亡き義元公に対する供養となろう、と。
だが、そんな家臣たちの予想に反し、当主となった氏真は精力的に活動した。
中でも氏真が真っ先に、そして最も熱心に取り組んだのが兵制改革である。
兵士を五人一組にまとめ、伍と称する。この伍を今川軍の基本単位とし、厳格な軍法を敷いた。
伍は戦いごとに必ず定められた敵兵の首級を挙げなければならない。これを果たせなかった場合、伍を構成する五人すべてが処罰される。
また、兵士が逃亡した場合、逃げた当人だけでなく、逃がした他の四人も逃亡者と同じ罰を課せられた。伍を構成する全員が逃亡した場合は郷里の家族が処罰の対象となる。
武運つたなく戦死した兵は丁重に葬られ、家族にも弔慰金が支払われるが、これには条件がある。死ぬまでに手柄を立てていた兵に限る、という条件が。
敵兵の首を取らないで死んだ兵は無駄死にとされ、残された家族が罪に問われることになる。何の罪にあたるのか? 今川家に勝利をもたらす義務を果たせなかった罪だ。
この場合、戦死した兵の家に男手があれば、その者が新たな兵士として徴用される。男手がなければ物資(金銭、米穀、牛馬)の供出を命じられる。
それさえない一家は奴婢として扱われ、手柄を立てた兵士への褒美として分配されることになる。
また、戦死者を出した伍は同輩を救わなかった罪に問われ、より重い処罰を課せられる。
ゆえに、今川軍は敵兵の首をとることに必死になると同時に、味方を救うことにも懸命になった。ならざるをえなかった。
厳格を通り越して過酷の域に達した軍法は、当初、当然のように猛反発を受けるが、氏真は厳然とこれを押し通した。
義元の死で動揺する今川領の秩序を回復させるためには強い軍が不可欠である。そして、強い軍とは厳格な法で統率された部隊のことを指す。
それが氏真の考えであった。
氏真は朝比奈泰朝、岡部元信の両名を登用して改革に着手したが、計画自体はすべて氏真の手によるものであり、実行するにおいても氏真麾下の目付け役が目を光らせていた。 したがって、朝比奈たちは現場の責任者に過ぎず、改革は氏真主導で行われた。
こうして自軍をつくりかえていく一方、氏真は家中における粛清も断行していく。
駿河の持船城主 関口親永、同じく駿河の庵原城主 朝比奈元長を謀反の罪で一族もろとも処刑、すべての所領を没収した。
関口は松平元康の義父(妻の父)であり、朝比奈元長は関口と共に元康の後見人を務めた。
この時期、岡崎城で自立した松平元康は、織田信長と通じて今川家への叛意を明確にしている。二人はこの元康と通謀した疑いで処刑されたのである。
元長の子である朝比奈信置は優れた軍略の持ち主として将来を嘱望されており、同族の朝比奈泰朝らは助命を嘆願したが、結局、父に連座する形で命を奪われることになった。
先に処刑した葛山氏元もあわせ、重臣三家を取り潰したことで、駿河における氏真の直轄領は父義元を上回るものとなる。
三家の財産を押収し、新領から働き盛りの壮丁を徴用することで軍事力をさらに強化した氏真は、その対価として他の家臣団の不服と不審を買うことになった。
一日、遠江から急報がもたらされる。
曳馬城主 飯尾連龍が松平元康を通じて織田信長に寝返ったのである。
これを聞いた氏真は、そのとき手がけていた政務をすべて処理してからおもむろに立ち上がり、編成を完了した今川軍に出陣の命令を下したという。
朝比奈泰朝、岡部元信の両将を先手大将に任じた氏真は、みずから本隊を率いて駿府城を進発。
飯尾連龍の立てこもる曳馬城に攻め寄せる。
当初、飯尾連龍は戦況を楽観視していた。相手は義元を失い、雪斎のいない今川軍。しかも氏真は駿府で次々に重臣を粛清して家臣の恨みを買っている。
堅牢な曳馬城に立てこもって時を稼げば、すぐに攻めあぐねて駿府に引き返すであろう、と連龍は考えていた。
だが、予想に反して、攻め寄せた今川兵は悪鬼のごとき形相で城壁に殺到し、死に物狂いで攻めかかってきた。守備兵が唖然とするほどの常軌を逸した猛攻。
これには理由がある。
氏真は駿府を進発する前、多くの将兵が見守る中で一人の兵士を引き据えた。先ごろ取り潰された葛山領で徴兵された兵士で、まだ二十歳に満たない若者だった。
この若者は戦いを前に家に逃げ帰ろうとしたところを警備の兵士に見つかったのである。
猿轡をかまされた若者の前に、まず伍を構成する他の四人が引き出された。
いずれも若者の同郷であり、彼らは涙と鼻水を撒き散らしながら氏真に慈悲を請い、それが叶えられぬと分かると、原因となった若者をあしざまに罵った。
若者の前で、四人は次々に磔にかけられ、最後まで逃亡の罪を犯した若者を恨みながら死んでいった。
次に若者の前に引き出されたのは郷里の家族である。老いた父母、弟、妹、他家に嫁いだ姉とその夫もいる。
彼らは火あぶりにされた。泣き叫ぶ家族を前に、若者は猿轡を噛み千切らんばかりに暴れたが、氏真は若者の自害を許さず、友人家族が苦悶の果てに死んでいく様を最後まで見届けさせた。
しかる後、何一つ発言を許さずに首を斬ったのである。
死後に晒されたその首は、苦悶と絶望の果て、地獄の亡者のごとき歪んだ形相をしていたという。
曳馬城に攻めかかる今川兵の脳裏には、その光景が焼きついている。
自分と家族の首に刃を突きつけられた将兵は死兵と化し、繰り返し、繰り返し、ただひたすらに繰り返し城に攻めかかり、ついに敵の防備を食い破って城内に乱入する。
曳馬城はわずか二日の攻防で陥落した。
抗戦する者、降伏する者、あるいは裏切って味方に斬りかかる者、すべて等しく今川兵に首を取られ、城内は人血をもって朱に染まった。
飯尾連竜は妻子をみずから手にかけた後、切腹して果てたが、これは考えうる中で最も賢明な身の処し方であったろう。
生きて捕らえられた他の飯尾一族や重臣は、処刑場で阿鼻叫喚の渦に叩き込まれることになる。
血臭漂う曳馬城の城主の間に座った氏真は、まず朝比奈泰朝に命じて二俣城を攻撃させた。
二俣城主である松井宗親は飯尾連龍の姉婿であり、今回の曳馬城攻めでも松井家は援軍を送ろうとしなかった。それゆえの攻撃であった。
また、井伊谷城主の井伊直親に譴責の使者を差し向け、曳馬城に出頭を命じることもした。
井伊家の重臣である小野某からの密告で、直親が松平に内応していると知らされたからである。
井伊家も松井家と同じく曳馬城攻めには加わっておらず、叛意の有無はともかく、氏真に対する忠誠の念がないことは明白であった。
それゆえ氏真は出頭してきた直親に切腹を命じ、岡部元信に命じて井伊谷城を占領させる。
このほか、見附端城の堀越氏延、犬居城の天野景泰ら、曳馬城攻めに参加しなかった遠江諸侯を氏真は次々に攻め滅ぼし、あるいは切腹を命じ、遠江の制圧を完了させた。
この一連の軍事行動において、氏真は「疑わしきは罰する」を繰り返し、敵対した当人のみならず、一族郎党を処刑して所領と財産をことごとく没収した。
この軍事行動が『遠州錯乱』と呼ばれるようになったのは、あたかも正気を失ったかのような苛烈に過ぎる氏真の処罰が、人々の恐怖と嫌悪感を刺激したからに他ならない。
駿府の狂将。
いつか人々はそんな名で氏真を呼ぶようになっていた……
◆◆◆
「くかかか! 思ったよりも頑張りよる。さすがは若君といったところかッ」
かつてのように氏真を「若君」と呼んだ信虎は楽しげに哄笑する。
駿府城の一室。かつて義元から与えられた部屋の中で、信虎は氏真から送られてきた書状を読んでいた。
粗末な燭台にともされた灯火が、かぼそい明かりで室内を照らし出している。
部屋は小さく、狭く、とても元甲斐守護が起居するに相応しい場所とは言えぬ。
この部屋を信虎に与えた義元の意図としては、あえて礼を失した環境を与えることで、覇気を失った信虎の変化が真実か否かを試そうとしたのであろう。
信虎はそんな義元の思惑をすり抜けたわけだが、義元が死んだ今も、この部屋を出ようとはしなかった。
氏真からはもっと良い部屋を与えると言われているし、さらにいえば葛山氏元の旧領すべてを与えるという言質も得ている。
だが、信虎はそれらを笑って謝絶した。
信虎は氏真を冷静に観察している。いかに信虎を頼りにしているといっても、当主になればこれまでとは異なる視点も備わるだろう。氏真の猜疑心が信虎のみを例外とする、と考えるのは様々な意味で危険だった。
「――ふん。まあ、ばれたらばれたで一向にかまわぬのだがな」
そうなれば氏真を捕らえ、堕とし、文字通りの傀儡に仕立てあげてしまえばよい。周囲には病気と触れ、氏真の代理として信虎が今川を動かすのだ。
ただ、そうなれば今川家臣、とくに朝比奈泰朝や岡部元信といった宿将たちが動かしにくくなるだろう。
氏真が思った以上に「使える」と分かった今、強いて氏真を排除する必要もなかった。
「駿河はおさえた。遠江は制した。三河では一向宗が暴れる手はず。これで松平は動けず、織田も東に介入できぬ。まずはこれでよし、というところじゃな」
背筋を伸ばし、顔中に精気をみなぎらせた信虎は今後の動きを再確認する。
甲斐守護時代から本願寺と親交のある信虎は、すでに三河一向一揆の準備を整えている。もっとも、信虎の指図一つで動く本願寺ではないので、これには別方向からの助力も加わっているのだが、どうあれ三河が騒乱地帯になるのは間違いない。
これで後顧の憂いは断ち切った。遠慮なく甲斐、信濃に侵攻できる。
最後の一手は氏真自身に甲斐侵攻を決意させること。
信虎が晴信の陰謀の証拠を差し出してもよいのだが、北条姫を発見したのも信虎だった。さすがに毎度毎度、同じ人間が陰謀の決定的な証拠を掴んできては氏真も不審に思うだろう。
駿河での兵制改革といい、今回の遠江制圧といい、当主になってからの氏真はなかなかに鋭いところを見せるようになっている。むろん、改革にしても侵攻にしても、計画の大本を司っているのは信虎であるが、氏真の成長を甘く見る愚は冒さない。
最後の一手こそ慎重に打つべきであった。
「さすがは義元公の嫡子。雪斎和尚の薫陶の賜物かのう」
くく、と喉を振るわせた信虎は氏真からの書状を懐にしまい込み、別の書状を取り出す。
そこに記された文字は氏真のそれに似ているが、かすかな丸みが別人であることを証し立てている。
氏真と似ているのも道理。それは氏真の妹にあたる姫が、他国の婚約者にあてて書いた恋文であった。