第七話 関川の戦(後)
「……来たか」
川向こうに姿を現した黒一色の騎馬部隊を見て、俺は顔を引き締める。
多大な被害を出した奇襲から一夜あけた今日、俺は再び柿崎勢と対峙した。
時刻は間もなく昼を迎える。
俺たちが奇襲をしかけたのが昨日の夕方だったから、半日以上が経過した計算になる。
勢いに乗って進軍してきた柿崎勢がどうして半日以上も動かなかったのか。
後続の足軽部隊を待っていた――にしては敵足軽の姿が見えない。
こちらの奇襲が予想以上に効いた結果だと判断したいところだが、どう考えても痛手をこうむったのは俺たちの方だ。
弥太郎は帰ってきてくれたものの、古参の兵士たちが殿として戦場に散った。猿鳶も戻ってきていない。死んだとは思いたくないが、半日以上経過してなお戻ってこないということは、そういうことだろう。
それ以外にも奇襲部隊の半分、五十名近い兵士が死者の列に加わっている。痛すぎる被害であった。
それでも、ここで白旗をあげるわけにはいかない。
反省も後悔もあとまわし。今は眼前の柿崎勢との戦いに集中する。
空を見上げれば、昨日から降り続いていた雨は止み、雲の合間からかすかに陽光が差し込んでいる。
こころもち関川の水勢も緩やかだ。急ごしらえの堰が役に立ったのだとすれば、堰つくりの部隊には褒美をはずまねばなるまい。
なお、その彼らは今朝の段階で柿崎の別働隊に発見され、命からがら逃げ帰っている。
俺たちが水計を用いる可能性に思い至った景家が、上流に偵察の兵を差し向けたのだろう。
今、川向こうに勢ぞろいした柿崎勢が恐れる色もなく次々と濁流に馬を進めているのは、こちらの水計を阻止したという確信あってのことに違いなかった。
「――なら、こちらもせいぜいそれらしく振舞ってやるさ」
俺は晴景様からあずかった采配を高く掲げる。
昨夜、傷だらけで戻ってきた弥太郎から伝えられた言葉が脳裏をよぎった。
守護代様を頼む――それが俺たちを逃がすために散った古参兵たちの最後の言葉だったそうだ。
その言葉に背くことは許されない。
その言伝をつたえてくれた弥太郎も、すでにここにはいない。
俺が撤退した後、柿崎勢を相手に相当暴れまわったらしく、合流したときの弥太郎は痛々しいまでに傷だらけであった。
なので、他の負傷兵と一緒に朝一番で春日山に帰らせた。
あくまで戦うと言い張る彼らを説得するのは大変だったが、俺は誠心誠意説いて納得させた。
『その傷ではもう戦えないだろう? 皆がここで出来ることは何もない。だが、春日山にはある。そちらをやってほしいから帰ってもらうんだよ』
『それは、あの、何でしょうか、加倉様?』
弥太郎が口惜しげに問うてくる。たぶん、俺がおためごかしを言っていると思ったのだろう。
実際、その通りではあった。
だが、それを正直に言ったら台無しなので、弥太郎たちが納得する理由をでっちあげることにする。
『勝利した後は宴がつきものだろう? 帰ってから準備するのは面倒だからな。先に帰って、準備しといてくれ。そうそう、晴景様が先に酒樽を空にしないよう注意してくれよ。これはな任務だから君に任せるんだ。頼んだぞ、弥太郎!』
『は、はいィッ! ……て、え? はあ……え、晴景様って、あの、加倉様……ええええッ!?』
俺の命令に反射的に従いつつ、そのあまりの内容に目を白黒させる弥太郎。
そんな弥太郎を見て、周囲の兵士たちからも楽しげな笑い声が起こる。
笑声に囲まれた弥太郎は顔を赤らめ、穴があったら入りたいとばかりに大柄な身体を縮こまらせる。その姿には小動物めいた愛らしさがあった。
結局、その後いくつかのやり取りを経て、弥太郎たちは不承不承春日山へと帰っていった。
彼らと別れたときの光景を思い起こし、口の端を吊り上げる。負けられない理由というのは、探せば結構見つかるものだ。
そんなことを思いながら、俺は掲げた采配を振り下ろした。
「放てェッ!!」
号令と同時に敵めがけて猛然と弓を射かける長尾勢。
弓弦の音が連鎖し、矢羽が空を裂く音が響き渡る。百を超える矢の雨が、渡河中の柿崎勢に容赦なく襲いかかった。
「続けて投石! はじめェッ!」
弓を扱えない者たちには拳ほどもある石を投げさせる。場所が川原なので補給も簡単だ。
渡河中の柿崎勢は人も馬も思うように動けない。降りしきる数百の矢石は確実に敵兵を捉えていた。
だが、当然のように柿崎勢もこちらの反撃は予測済み。
馬上の武者たちは兜を深くかぶり、小手をかざして矢石の雨を退ける。さらに柿崎勢は馬にも専用の鎧をつけているため、馬の被害もほとんど出ていなかった。
くわえて、川向こうに留まったままの敵の後陣五十騎あまりが、お返しとばかりに激しく矢を射かけてくる。
さすがに精鋭だけあって弓勢の強さはこちらとは比較にならない。
こちらも矢よけの木板や盾などをこしらえておいたが、攻撃しようと思えばどうしても身を晒さねばならない。攻撃しようとして、運悪く敵の矢の直撃をうけた兵士がもんどりうって倒れこんだ。
そうして矢石の応酬が続く中、川に飛び込んだ敵主力はゆっくりと、しかし確実にこちらの岸に迫りつつあった。
喊声一つあげず、矢を受けた味方が水中に没しても見向きもしない。粛々と川を渡ってくる黒備えの姿は不気味の一語に尽きる。
川を渡らせてはならじと味方が攻撃を集中させるが、敵の動きは止まらない。止められない。
そして、ついにその時がきた。
川面から水しぶきをあげて姿をあらわす黒の騎兵。水の重しから解き放たれた軍馬が興奮したようにいななきをあげ、鞍上の兵士が雄たけびをあげる。その数は五人、十人とみるみるうちに増えていき、たちまち三十騎を超えた。
それを見て、それまでは弓による援護に徹していた後陣の五十騎も馬をあおって濁流に飛び込んでいく。
もはや援護は不要と見て取り、一気に勝負を決するつもりなのだろう。
その瞬間、俺は会心の笑みをうかべた。
「狼煙をあげろッ」
即座に命令に従った兵士の手で、川岸に細く長く煙がたちのぼっていく。
それを確認した俺は、その場にいるすべての兵士に届けとばかりに声を張り上げた。
「我が策、成れり! 天も照覧あれ。非道の謀反人を討ち果たすべく、我ら長尾の軍がここに正義の鉄槌を下す! 全員、矢石を捨てて槍を取れ! 春日山の興廃この一戦にあり!!」
力のかぎり叫んだ俺は、自ら槍をとって足を踏み出した。ここから先は策などいらない。
全滅するか、全滅させるか、二つに一つだ。
そんな俺の勁烈な命令に真っ先に応じたのは――
「応! 小島弥太郎、参る!!」
今朝、春日山に帰したはずの弥太郎だった。俺のすぐそばを駆け抜け、一直線に柿崎勢に挑みかかっていく。
なんでここにいる。
「……ええと……ええい、まあいいやッ!! 全員、弥太郎に続けェッ!!」
驚愕を飲み下して突撃を命じる。
直後、爆発するような喊声が越後の天地を震わせた。
◆◆◆
柿崎景家にとって、今回の戦は戦と呼ぶにも値しないものであるはずだった。
同時に、越後における自らの地位をさらに高めるきっかけともなるはずだった。
景家は騒乱の絶えない越後の現状を憂えている。これは嘘ではない。
戦場で刀槍を振るう昂揚感を愛しているのは事実だが、だからといって戦狂いというわけではないのだ。領内の整備や治安の維持にも意を用いている。
そんな景家であったが、近年は慢性的な不快感を覚える日々が続いていた。
不快感の源は現在の越後の状況。
端的にいって守護代 長尾晴景が気に食わないのである。
先代為景は時に強引であり、時に非情であり、地位や権力に固執する一面をもっていたが、武将としてはやはり図抜けた存在であった。
どちらかといえば為景と敵対していた時代の方が長い景家であるが、それでも武将として、守護代としての為景は認めていた。
だが、晴景は駄目だ。
まず女という点が気に食わない。女は男に従うものだ。その逆であってはならない。
それでも、晴景が武将として優れた面を持ち合わせているのなら我慢しないでもなかったが、晴景にはそれもない。
どうしてそんな相手に柿崎和泉が頭を下げねばならないのか。景家はそう思った。
だから先年の黒田秀忠の謀反にくみしたのである。
だが、黒田は新鋭の長尾景虎に敗れ、黒滝城は陥落してしまう。
本来であれば、黒田にくみした景家は重い処罰をうけるはずであったが、柿崎の図抜けた戦働きを惜しんだ晴景は景家を寛大に扱い、ほとんど無償で長尾家への帰参を許した。
景家に再び背かれることを恐れての措置とはいえ、晴景としては柿崎家に恩を売ったつもりであった。
だが、この寛大な処遇も景家にとっては不満の種となる。
背いた景家が言うのもなんだが、謀反にくみした人間を易々と帰参させるとは何を考えているのか。謀反の罪さえ許されるとわかれば、春日山の律令に従う国人衆は一人もいなくなる。その程度のことさえ晴景には分からないらしい。
あらためて晴景は己が主君たりえずと判断した景家は、越後の勢力図を見据え、誰が最終的な勝者となるかを考えた。
そうして景家が選んだのが栃尾の長尾景虎である。
景虎が黒田を攻めた際、自らの居城にいた景家は景虎と直接矛を交えてはいない。それでも、あとから伝え聞いた景虎の戦ぶりは小気味良く、見事というしかなかった。
景虎が女であることは気に入らなかったが、武将としての稟質を備えた者であるなら、頭を下げることも許容しよう。少なくとも晴景に頭を下げるよりはずっとマシだ。
そう考えた景家は秘密裏に栃尾に使者を出した。
――幾度か使者を往復させた末、景家は自室で考え込む。
それとなくすすめた春日山への謀反を、景虎ははっきりと拒絶してきたのである。
正義を尊ぶ景虎の人となりは噂に聞いていたが、実物は噂よりもさらに厄介であるらしい。
景家は酒盃をあおりながら、なおも考えに沈む。
義を重んじ、不正を憎むのは結構なことだが、大名ともなれば奇麗事ばかり言ってはいられない。時に清濁あわせ飲む器量が必要となることもある。
しかし、今の景虎は若年ゆえに理想に引っ張られているようだ。このままでは、景虎は春日山にしたがって越後の戦乱を治めるという立場を崩すまい。
それは景家にとってあまりに歯がゆいことであった。このまま晴景の好きなようにさせていては、遠からず越後は立ち行かなくなる。そうなれば他国の侵入を招くのは火を見るより明らかではないか。
噂では、隣国信濃は甲斐の武田晴信の猛攻を受けて全土が戦火に晒されているという。
越後をそうさせてはならない。そのためにも晴景は除くべきなのだ。なぜ景虎にはそれがわからないのか。
他人の目にどう映るかは知らず、景家は景家なりに越後の将来を考えていたのである。
今回、景家が強引に長尾景虎を舞台に上げた背景にはそういった事情がある。
今や春日山と栃尾は敵対状態。仮に景虎が頭を下げたとしても晴景は許すまい。
なにより、景家が晴景を討ち取ってしまえば、もう許すも許さないもないのだ。景虎は望むと望まざるとにかかわらず守護代に就かねばならなくなる。
一時的に景虎の不興を買うことは免れないが、その景虎とて景家の武勇を無視し続けることは出来ぬ。
遠からず景家は許され、重用されるようになるだろう。
景虎の指揮下であれば己が武勇を思う存分ふるうことができる。柿崎景家の武名は越後を越えて他国まで轟き渡り、柿崎家は越後の雄なる一族となるに違いない――いや、違いない、ではない。必ずそうなる。そうしてみせる。
それこそ景家が望む越後の未来であった。
この戦いはそこに到るための雑事に等しい。
春日山の弱兵ごとき、蹴散らすことは造作もない――そう考えていた景家にとって、今回の春日山勢の戦い方は苛立ちを禁じえないものばかりだった。
まさか惰弱な晴景が篭城ではなく野戦を選び、さらに川を越えて進軍してくるとは。
不意を打たれた柿崎勢は自慢の黒備えの一割を失った。
態勢を立て直した後はしたたかに反撃をくれてやったものの、結果として敵部隊の半数を逃がしてしまう体たらく。景家の自尊心は深く傷ついた。
景家の苛立ちはそれだけにとどまらない。
今、景家は身体の二箇所に傷を負っている。
一つは左腕の刺し傷。これは昨日、殿をつとめた春日山の雑兵に槍をつけられたときの傷だった。その兵士は景家自ら斬り捨てたが、雑兵に手傷を負わされた不快さはたとえようもない。
手綱を握る左腕からは、今もじくじくとした痛みが断続的に伝わってくる。
そしてもう一つの傷が――
「……ぬ、ぐぅ……」
右の肩が激痛を発し、景家は短くうめいた。
これは昨夕落馬した折の負傷である。
実のところ、昨日の段階で景家は夜を徹して戦うつもりだった。逃げた奇襲部隊を追いかけて全滅させ、さらに川向こうで待ち構えている敵の本隊をも撃滅する。
日没後の渡河は危険であるが、それで春日山の死命を制することができると思えば、あえてやらない理由はなかった。
そうして柿崎隊が追撃を開始したとき、それは起こった。
景家の愛馬が走行中に突然つんのめり、頭から地面に倒れこんだのである。鞍上の景家はとっさに手綱を掴もうとしたものの、左腕の傷のせいで一瞬反応が遅れた。
そのまま空中に投げ出され、右の肩口から地面に激突してしまう。
大柄な景家の身体、身に着けている具足、愛用の豪槍、それらすべての重量を受け止めた右肩から鈍い音がした。
折れた右肩は激痛と高熱を発して景家を苦しめ、結局、これのせいで追撃は中止を余儀なくされてしまう。
もしこの出来事がなければ、景家は今頃とうに関川を渡っていたに違いない。
負傷の原因となった景家の愛馬であるが、地面に倒れ込んだ後、血の泡を吹いて絶命した。
死因は馬の眼球に深々と突き刺さった鉄の棒。むろんただの棒ではなく、先端を鋭く尖らせて殺傷力を高めてある。
それは飛苦無と呼ばれる投擲用の武器であった。
刀や槍、弓といったまっとうな武器ではなく暗器(暗殺用の武器)に近い。
おそらく、暗がりに潜んだ何者かが街道を疾駆する馬めがけてこれを投げ、見事に命中させたのだろう。
夜闇で視界が制限される中、走る馬の目を狙うなど常人にできることではない。しかも、二百以上の騎馬隊の中から正確に指揮官の馬を狙ってのことだ。
景家の部下は血眼になって下手人を捜したが、空に昇ったか、地にもぐったか、ついに一つの手がかりも見つけられなかった。
「ええい、晴景め、忌々しい!」
景家の口から呪詛めいた罵声が発される。
手がかりが見つからなかったとはいえ、状況を考えれば襲撃者の正体は晴景の命を受けた忍び以外にありえない。
柿崎勢の進発が遅れに遅れた原因もこの傷だ。
手綱を握る左腕の動きは鈍く、槍を抱える右腕は動かすたびに激痛が走る。景家でなければ馬に乗ることはおろか立って歩くことさえ出来ないだろう。
景家なればこそ、馬を駆り、部隊を指揮することができるのである。それでも、さすがにみずから先陣を切ることは断念せざるを得なかった。
将として晴景にしてやられ、武人として雑兵にしてやられ、あげくに忍びのごとき下賎の者に半身ともいうべき愛馬を殺された。
自らの武に絶対の自信を持つ景家にとって、目を覆わんばかりの失態が続いている。
この屈辱を雪ぐためにも、この戦いで何としても春日山勢を打ち砕く。
その一念が景家を支えていた。
これまでも柿崎勢は策を弄する敵の軍勢を力で打ち破ってきた実績がある。
景家が越後国内で恐れる策士といえば宇佐美定満ただ一人。それ以外の小策士など柿崎勢の猛勇をもってすれば敵ではない。
春日山勢は上流でなにやら企んでいたようだが、それも未然に潰している。
事ここにいたれば、もはや小細工のしようもあるまい――そんな景家の推測の正しさを証明するように、対岸では春日山勢が突撃に移ろうとしている。
それを見て景家はにやりと笑った。
力と力の激突になれば万に一つの敗北もない。すでに春日山城は景家の掌中にあった。
「はっはは! 先代が生きていた頃は、まさか春日山を陥とす日が来ようとは思わなんだがな。くだらぬ悪あがきをしたこと、悔いながら地獄に落ちるがいい、長尾晴景!」
すでに川も半ばまで渡り終えた。後すこしで恨み重なる春日山勢を斬り散らすことができる――景家が嗜虐の笑みを浮かべてそう考えたときだった。
景家の目が敵陣から立ち上る不審な煙をとらえた。
「狼煙……か?」
われ知らず景家の声が低くなる。
その瞬間、景家の背筋をはいのぼった悪寒ははたして冷たい川の水のせいだったのか。
あれは何を、誰に伝える狼煙なのか。
柿崎勢の襲来を城に伝えた? それはない。柿崎勢は半日以上も進軍を止めていたのだ。景家が騎馬のみ率いて急進してきた知らせはとっくに春日山に届いているはず。
では、援軍を求める狼煙であろうか? それもない。この戦況で兵力を温存しておく理由はない。敵ははじめからありったけの兵力を動員しているはず。今さら援軍を求めるはずがない。
ならば、あれは何のための狼煙なのか。
景家がいぶかしげに目を細めたとき、後方から狼狽した声があがった。
「と、殿ッ! あ、あれをごらんください! 火です、上流より火が流れてきますッ!?」
「火ィ!?」
何をばかな。胸中で配下の妄言を罵りながら、景家は視線を敵陣から上流に移す。
川とは水が流れるもの。火が流れてくるのなら、それはもう川ではない。
そのはずなのに。
それはまさしく火であった。
川面を覆うように火が流れてくる。
川に油を投入したのか。いや、あれだけの火勢を維持するには相当量の油を流し込まねばならぬ。たとえ越後全土から油をかき集めたとしても不可能だ。
幻術、妖術のたぐいとしか思えなかったが、盛んに煙を吐き出しながら関川を駆けくだる猛火の迫力は本物だ。
いったい何が起きているのか。
じっと目を凝らしていた景家が不意にうなり声をあげる。
火のからくりに気づいたのだ。
用いられているのは川舟と急きょ作成した木の筏。
その上に油をたっぷりと染み込ませた干草を積んでいるのだ。
それらに火をつけたら、後は濁流にのせて川下に流すだけで『火の川』が現出する。
「おのれ、猪口才なッ!」
先に敵の水計を阻止した別働隊は舟や筏について言及しなかった。
むろん、故意に黙っていたはずがない。別働隊が上流に向かったときには、火計を匂わせるものは隠されていたと見るべきだ。
堰つくりをしていた部隊は真の狙いから目をそらすための囮。
敵は景家が「水計に気づくこと」に気づき、思考を誘導した。
水計を見破ったつもりの景家が躊躇なく渡河にかかったとき、敵の指揮官は胸中でせせら笑っていたに違いない。
「おのれ、おのれェ!! 者ども、はよう川を渡るのだ!」
咆哮した景家はみずからも馬をあおった。
だが、景家がいるのは川の真ん中。進むも戻るも遠く、おまけに水深がもっとも深い場所でもある。
景家の替え馬は以前の愛馬に劣らぬ駿馬であったが、川面から首だけを出した状態では、いかに駿馬といえども速度をあげられない。
川の水は見えざる鎖となって人馬を縛りつけていた。
それでも常の景家であれば間に合ったかもしれない。だが、腕と肩の負傷が景家の動きを鈍らせた。
周囲を守る馬廻りの精鋭の中には、逃げようと思えば逃げられる者もいたが、彼らは主君である景家が遅れているのを見ると、たちまち馬首を転じて戻ってくる。
それを見た景家が怒声をあげようとした、その寸前。
関川を馳せ下ってきた火船が容赦なく柿崎主従に襲いかかった。
「ばかな! なぜ、なぜ俺がこんなところで……!」
越後随一の武勇を誇り、生きてあれば諸国の大名を震撼させ、遠く九州にまでその武名を伝えたに違いない稀代の猛将 柿崎和泉守景家。
そんなありえたはずの可能性を、轟然たる水火の咆哮が飲み込んでいく。
時間にすればほんの数秒。
その数秒が過ぎ去った後、景家も、馬廻りの精鋭たちも川面から姿を消していた。
その光景を目の当たりにした兵たちは、長尾と柿崎とを問わず、みな呆然としてなすところを知らなかった。
ややあって、ようやく状況を理解した長尾勢の間から歓喜の雄たけびがわきおこる。
一方の柿崎勢は眼前の光景の意味がどうしても理解できず、呆けたようにその場に立ち尽くすばかりであった……
◆◆◆
「何とか勝った、か……」
俺は戦いの後始末を眺めながら、ほうっとため息を吐いた。
視線の先では、まだ呆然自失から立ち直れない黒備えの生き残りが、幽鬼のような足取りで長尾兵にひきずられていく。
主を失った柿崎勢は完全に戦意を喪失しており、反抗の素振りさえ見せない。それだけで、いかに景家が配下の士心を得ていたかがわかる。
そんな傷心の兵たちを殺すわけにもいかず、俺は彼らを捕虜として春日山城に連れて行くことにした。
彼らの処分は晴景様が決めるだろう。というか、決めてほしい。
本気で疲れた。今は何も考えたくない。
歴史に名を残す武将を、こんな早い段階で退場させたことによる影響も考えたくなかった。
「まあ、なるようになるだろ。どのみち自分の命には代えられないんだからな」
胸にきざした不安にあえてふたをする。
繰り返すが今は何も考えたくない。それが許されるくらいの働きはして見せたはずだ。
ただ、言いたいことがないわけではなかった。
「――ところで、さっきからこそこそ隠れている小島さんちの弥太郎さんや。ちょっと俺とお話しようか?」
「は、はいィッ! な、なんでしょうか、加倉様ァ!」
弥太郎が直立不動の姿勢をとる。
神妙な顔を見るかぎり、何を言われるかはわかっているようである。
春日山城に戻れと命じたはずなのに、こっそり残って戦いに参加した弥太郎。俺はこの命令違反者の頭をなでようとして――彼我の身長差のせいで果たせず、仕方なくいつかのように彼女の二の腕を叩いた。
健闘を称える意味で。
「なに、弥太郎のおかげで助かった、ありがとうと言いたかっただけだよ」
「ふえッ!? と、とと、とんでもないです! 私は、ただ加倉様の家臣として命令に従っただけで、でもその命令にも背いちゃったし、だから、そんなお褒めいただくようなことは、何にも――あうううッ!」
瞬時に頬を真っ赤にして縮こまる鬼小島。
いかん、この子の反応を楽しんでいる自分がいる。戦で擦り切れた心の清涼剤ですわ、ほんと。
それはさておき。
「ところで、いつから俺の家臣になったんだ? そこは晴景様の家臣と言わないと」
「え゛!? い、いえ、そんなこと言いましたっけ?」
とぼけているのか、本当に無意識だったのかは分からないが、とにかく弥太郎には注意を促しておく。、
成り行きとはいえ、鬼小島を指揮できたのは俺にとって名誉なことだ。その鬼小島に主君扱いしてもらえるのも悪くない。
だが、晴景様が聞いたら機嫌を悪くするだろう。我が主君の猜疑心の強さは折り紙つきである――できればそんな紙はさっさととっぱらってほしいのだけど。
それを聞いた弥太郎は、顔を紅潮させたままコクコクと素直に頷いた。
その後、上流から戻ってきた工作部隊(火船を流した者たち)とも合流した長尾勢は、意気揚々と春日山城へ凱旋した。
途上、俺は今後のことを考える。
柿崎景家を討ち取った事実が知れ渡れば、失墜していた春日山の権威も持ち直すだろう。晴景様の名声も高まるはずだ。晴景様に心を寄せる国人衆も出てくるに違いない。
喫緊の課題は栃尾との関係修復。
今回、春日山と栃尾の間に直接の戦闘は発生していないので、晴景様と景虎様のお二人を和解させることは不可能ではあるまい。
俺としては長尾姉妹で越後の戦乱に当たる体制を築きたかった。それができあがれば、俺がふたたび戦に駆り出される事態は起こり得まい。
晴景様を説得するのは大変だろうが、まあ何とかなるだろう。少なくとも柿崎勢と矛を交えるよりはずっと楽だしな。
俺はあえて楽観的に考えることにした。
――この時、俺は気づいていなかった。
柿崎景家を討ち取ったことにより、俺自身の価値がこれまでと大きく変貌していることに。
越後随一の猛将を討ち取った者、それすなわち真の越後随一の将である。そんな風に目されることになる自分の立場に。
そんな配下を抱えた晴景様が、目の上のこぶたる景虎様に対してどのような態度をとるのかは明白である。
にもかかわらず、この時の俺はまだ、お二人が手を携える越後の姿を夢見ていたのである……