第六十九話 城主への道
平井城が陥落し、上野から北条勢力が一掃されたのを確認した上杉軍は、長居は無用とばかりにさっさと越後に帰還した。
関東管領の救援および上野奪還という任務は完遂した。兵糧も底をつく寸前。村上家と武田家の戦火が越後にまで飛び火する可能性もある。
関東に長居する理由はどこにもなかった。
……まあ本音をいえば、これ以上関東に留まり、またぞろ新たな戦いに巻き込まれてはかなわない、と考えたのである。
今の関東情勢はきわめて不安定だ。北条色に染められていた地域が、桶狭間の敗戦と北条軍の退却によって次々と空白地に変わっている。
これからしばらく関東は荒れるだろう。あそこに留まっていたら関東諸侯にいいように使われる可能性が大。
実際、平井城を落とした宴席では、大勢の関東諸侯が政景様に擦り寄っていた。
何を考えたのか、俺に対してもあれこれ話しかけてくる者が多かった。下心が透けて見えるわ、たわけども。
酔っ払った長野業正が、俺に末娘を嫁がせたいと言い出したのは、さすがに冗談だと分かったから笑ったけれども。なにせお相手は八歳ですからね! あと、俺は別に上杉一族とかじゃないので、娘を嫁がせても良いことなんて何もありません!
酔いどれじいちゃんは息子さん(業盛)に引き渡してお引取りいただいた。
繰り返して言うが、俺は関東での戦いは上杉家にとって意義が薄いと考えている。優先順位が低い、と言いかえてもいい。
そんなわけで政景様に進言し、さっさと兵を退いたのである。
なお、政景様は思う存分関東で暴れることができて、えらくすっきりしたお顔をなさっていた。
「いやあ、やっぱり強敵との戦いは心が躍るわね! 利根川で北条氏康と向かい合ったときなんて、肌がひりひりして最高だったわ!」
輝くばかりの笑顔で述べる越後の守護代様。どうやら上洛に加われなかったのが相当のストレスになっていたようだ。
あの氏康との戦い、桶狭間が起きていなかったら大苦戦必至だったんだけどなあ……いやまあ、主目的は箕輪城から敵軍を引き剥がすことにあったので、いざとなったら厩橋城を捨ててスタコラ逃げるつもりだったのだけど。
ともあれ、春日山城に戻った俺たちは景虎様に一連の経緯を報告した。
その際、村上家の経緯も教えてもらった。
楽巌寺雅方の顔と名前は覚えている。俺が和睦の報告をもって飯山城におもむいた際、もっとも強く反発していた人物だ。
直情的かつ武断的な武将だったが、決して嫌いな人ではなかった。彼の言動は基本的に主家である村上家を思ってのことだとわかっていたからである。
もうちょっと正確にいえば、自分の利害と主家の利害を同一視していた。
だから、雅方の反発には嫌味が感じられなかったのだ。
生きていれば良き朋輩となれたかもしれない相手に向け、俺は心中で手を合わせた。
その雅方を討った武田軍であるが、どうやら村上領の接収に全力を注いでいるようで、越後をうかがう気配はないという。
武田家へ使いした宇佐美定満は「上杉家の信義ある行動に感謝する」との晴信の言葉をもらってきた。
晴信にしては大人しく、また嫌味のない言い方である。おそらく、向こうとしても信濃全域を武田領に組み込むまでもう少し時間が欲しい、というのが本音なのだろう。
上野で受けた痛手もすぐには癒えず、今川義元が戦死したことで駿河、相模との関係も大きく変化する。
当分の間、武田は越後から手を引くだろう。
これは上杉家にとってもありがたいことだった。
上洛に関東遠征と、立て続けに大きな軍事行動を行った後だ。将兵の疲労的な意味でも、府庫の残り資金的な意味でも、しばらく大きな行動は控えたい。
じっくりと内政に専念する良い機会になるだろうと思われた。
◆◆
さて、越後に平和がやってくると、上洛に関東遠征にと多忙を極めていた俺は一転して暇になった。
基本的に俺の仕事は軍事に特化しているので、政治だの経済だのではあまりやることがないのである。
大きな声では言えないが、新参の俺が内政にまで出しゃばれば、上杉家の家臣たちが快く思わないだろう。そういう配慮もあった。
景虎様や直江景綱、宇佐美定満などからは良くしてもらっているが、晴景様の重臣だった俺に向けられる反感や警戒は確かに存在する。
それだけではない。
現状、景虎様と政景様の信頼を得ている俺は、事実上の軍師として自分の考えをダイレクトにお二人に伝えられる特権的立場にいる。
当然、軍功も立てやすいわけで、関東での戦などはこの典型だった。嫉視されるには十分な理由だといえる。
出る杭は打たれる。
このあたりは段蔵からもたびたび注意を受けている。
そんなわけで春日山城に戻った俺は、大人しく自室に引きこもって毎日のんべんだらりと過ごしていた。
弥太郎と稽古をしたり、段蔵に読み書きを習ったり、豊弘とお茶を飲んだり、岩鶴たちと遊んだりといった風に。
そんなある日、俺はちょっとキレ気味な守護代様と、苦笑気味な守護様に呼び出された。
「よしよし、来たわね、この物ぐさ太郎!」
俺の顔を見るや、政景様が目を吊り上げて文句を言ってくる。
当然、俺は抗議した。
「これは心外な! 守護代様におかれては、何ゆえそれがしを誹謗なさるのか!」
「人がうんうん唸って政務に励んでいるすぐ横で、のんきに配下と遊んでいる奴がいたら文句のひとつも言いたくなるでしょうがッ」
「人心を収攬するのもまた将たる者の務め。それがしは深遠なる思慮をもって配下の者たちと遊んでいたのでござる!」
「遊ぶのに深遠もクソもあるか!」
俺と政景様がぎゃあぎゃあ言い合っていると、頃合を見計らって景虎様が口を開いた。
「政景、そのあたりで」
「……まだちょっと言い足りないけど、ま、時間もあんまりないことだし、いいでしょう」
不承不承、政景様が口を閉ざす。
なお、景虎様は基本的に政景様のことを「政景殿」と呼ぶのだが、守護になってからは家臣たちの手前「政景」と呼び捨てるようになった。
これは政景様から言い出したことで、当人も「景虎」から「景虎様」へと呼び方を改めている。
ちなみに私的な話し合いの際はごく自然に「政景殿」「景虎」に呼び方が戻るあたり、二人ともなかなかに器用である。
で、公的な呼びかけをしていることからもわかるとおり、この場に呼び出されたのは俺だけではなかった。
栃尾城の本庄実乃と、箕冠城の大熊朝秀の二人がいたのである。
本庄実乃については説明の必要はないだろう。景虎様の側近中の側近だ。
ただ、景虎様が春日山城に入ってからは、城主として栃尾城に詰めているため、俺との接点はあまりない。
大熊朝秀については、以前に信濃に出陣した折に少し触れた。
春日山城の南にある箕冠城の主であり、段銭方(税の徴収をつかさどる役職)として晴景様、定実様、景虎様に仕えてきた。
箕冠城は越後と信濃をつなぐ北国街道の要衝であり、いってみれば春日山城の南の盾である。
ここを守る朝秀は、経理の才の他、優れた武勇の持ち主としても知られていた。
……しかし、俺の知る歴史だとこの朝秀、上杉家中の勢力争いやら何やらで謀反を起こし、武田家に寝返ってしまう人物だったりする。
しかも、その勢力争いの相手はたしか本庄実乃じゃなかったっけ?
うわあ、すっごい嫌な予感。
俺がおそるおそる景虎様の顔をうかがうと、我が主は若干申し訳なさそうな顔をしながらも次のように述べた。
「相馬を呼んだのは他でもない。上野家成と下平吉長の領地争いの件だ」
予想どおりの内容に俺は顔を引きつらせた。
節黒城主の上野家成と、千手城主の下平吉長の両名が領土争いを起こしたのは去年の冬、俺たちが上洛していたときのこと。
当時存命だった上杉定実様は、本庄実乃と大熊朝秀の両名に仲裁を命じた。
以降、実乃たちはこの問題の解決に取り組んでいるのだが、半年以上経った今になってもまだ解決には至っていなかった。
――正確に言えば、年明け前に一旦は解決したのだが、上野家成の側が裁定に問題ありとしてやり直しを要求したことで、事態がいっそう紛糾してしまったのである。
国人衆同士の領土争いというのは、実のところそれほどめずらしいことではない。
もともと守護や守護代の主な役割は、そういった国人同士の争いを調停し、国内の平穏を保つことにあった。
調停に失敗すれば国人衆の信望が失われる。そのため、双方が納得いく裁きをしなければならないのだが、この手の問題は往々にして双方に言い分があり、双方に理があるため、調停するといっても一筋縄ではいかない。
一方の主張を認めれば、一方は必ず反発する。
猫の額ほどの土地であっても、当事者にとっては譲れぬ領土であり、取るに足らない小競り合いだと思って問題を放置すれば、一国を揺るがす大火になる可能性さえあった。
本庄実乃は景虎様の旗揚げ当初から、一貫して忠誠を捧げてきた硬骨の武人である。
景綱や定満のような図抜けた力量こそなかったが、文武に堅実な手腕を有し、景虎様が去った後の栃尾城を大過なく治めてきた。
そんな実乃であったから、上野と下平の調停も真剣に取り組んだ。
実乃は上野家成側と親交があり、今回の訴えでも尽力を頼まれていたのだが、実乃はあくまで公正を心がけ、双方の言い分や提出された証拠を綿密に調査した。
共に調停の任にあたった大熊朝秀と幾度も話し合った結果、実乃は下平側に理ありとの裁定を下す。
ただ、上野側にも一定の理はあったので、問題の土地はおおよそ八対二の割合で分割された。
これでは上野側が納得しないと考えた実乃は、定実様の許可を得て春日山の府庫から幾ばくかの黄金を引き出し、これを上野側に与える。
訴えを退けられた形の上野家成は不服の塊となったが、これ以上騒ぎ立てれば守護への反抗と見なされかねない。そう考えて渋々ながら春日山の裁きに服することを肯った。
かくて問題は解決したかに思われたのだが――今になって上野側が蒸し返してきたわけだ。
これを受けて下平側も態度を硬化させており、このままでは双方が兵を交えることになりかねない。
それが現在の上下問題(仮称)の情勢であった。
「わしはすぐに家成殿のもとに赴いて諭したのだが、頑固に裁定のやり直しを要求するのみでらちがあかぬ。ほとほと困り果てているところでな」
実乃が眉尻を下げると、朝秀も小さくかぶりを振って口を開いた。
「吉長殿も、ですな。本来はこちらが十のところを、定実様ならびに本庄殿のご尽力に免じて上野側にも二を認めたというに、恥知らずの上野側が再度争いを起こすというなら、もはや二を認めることもせぬ。我が方が十すべてを得るまでとことんまで争う、と申しております」
二人の話を聞いた俺は、なるほど、とうなずいた。
――どこからどう見ても泥沼じゃないですかやだー!
「……それで、それがしに何とかせよ、というご命令で?」
思わずじと目で景虎様たちを見る。
すると、景虎様が口を開くより早く、政景様がない胸を張ってのたまった。
「そのとおり! あんた得意の口八丁手八丁で何とかしなさい!」
「血を流す解決策はありですか?」
「もちろん、なし!」
「……政景様。さっきから勢いで押し切ろうとしてませんかね?」
「あ、ばれた? 正直めんどくさいから、手の空いているあんたに押し付けて楽したいのよね」
あっけらかんと言い放つ政景様を見て、俺はため息を吐く。
「正直は美徳と言いますが、政景様を見ているとその言葉に疑問が芽生えますね。いやまあ、やれと言われればやりますが」
それを聞いた景虎様が意外そうに目を瞬かせた。
「……よいのか、相馬? 確かにそなたにやってもらえれば私としても助かるのだが」
そう言う景虎様の目元にはかすかに隈が浮かんでいる。
新たな越後守護として、内治に外征にと寝る間も惜しんで奔走している景虎様にとって、わずかな所領をめぐって角つきあわせる家臣たちの存在はやりきれないものがあるのだろう。
たしか史実で景虎様が出奔騒ぎを起こしたのも、こういう争いが頻発する国内状況に嫌気がさしたからではなかったか。
さっきからやたらとハイテンションな政景様にしても、お疲れ具合は景虎様と似たり寄ったりである。ここまでのやりとりも半分くらいは空元気というやつだろう。
そんなお二人を前にして「めんどくさいからお断りします」なんて言えるはずもない。
ただ、確認しておかなければならないことが一つあった。
「どうかお任せを、景虎様。ただ、一つお伺いしたい――いえ、お願いしたいのですが、それがしに裁定の全権をいただけましょうか。本庄殿や大熊殿の補佐ではなく」
俺の言葉を聞いた実乃、朝秀の両名が同時に右の眉を吊り上げた。
「加倉殿、それはどのような意図なのだ?」
「率直に申し上げれば、本庄殿に累が及ばぬようにするためです」
「ふむ?」
「若輩の身でこのようなことを申し上げるのはおこがましい限りですが、先の本庄殿の裁定は見事なものであったと存じます。それがしに本庄殿以上の裁きはできませぬ。が、上野殿はこれに異を唱えられた。双方を満足させることはもはや不可能、とそれがしは判断いたします」
双方を満足させようとした実乃の裁定は、結果として双方に不満を抱かせることになった。
であればもう割り切るしかあるまい。
俺がそう言うと、大熊朝秀がすっと目を細めた。
「加倉殿。それはつまり――」
「はい。問題の土地、下平殿に十を与えます。双方を満足させられないのなら、まずは片方を満足させましょう。こうすれば、考えるべきは上野殿の対処のみ。問題は半減したも同然です」
「たしかに吉長殿は満足しよう。だが、膨れ上がった家成殿の不満はいかにして抑えるのか?」
「上野殿には裁定のやり直しを行った結果として、先の裁定で得た二の土地の返上と、定実様から下賜された黄金の返還を求めます」
問いを放った朝秀は目を瞠り、聞いていた実乃はいやいやいやとあわただしく首を左右に振った。
「ま、待たれよ、加倉殿。それでは家成殿が納得するはずがあるまい!?」
「なに、かまわぬでしょう。『裁定のやり直し』は望みどおり行われたのです。結果として以前より損をこうむることになったとしても、それは仕方のないこと。その程度のことは上野殿も承知しておられるはずです」
俺はけらけら笑って言った後、次のように付け加えた。
「――以前の裁定は定実様ご存命の時のもの。景虎様が守護になられた今、景虎様と縁深き本庄殿を抱き込んで訴訟に及べば、今度は己に有利な裁定が下るはず……そんなくだらぬ打算を働かせていないかぎり、上野殿は納得するはずです」
逆にいえば、上野家成が納得しないのなら、それはくだらぬ打算を働かせた証である。
その上野にわずかなりと良い目を見せれば、過去に解決した領土問題が次々に再発することになりかねない。
そんなことになれば、それこそ景虎様が出奔――いや、悪くすると出家して尼になってしまうかも。
断固阻止。絶対阻止。
ここはもう上野家成を徹底的に叩きに叩いて、同じことを考える者が今後二度と出てこないようにするしかあるまい。
そして、そこまで強硬手段に出れば、叩かれた側の恨みを買うことは必然だった。
「――ゆえに全権をそれがしに、と願った次第です」
「……むう」
あらためて本庄実乃に視線を向けると、実乃は困惑したようにあごひげをこする。
まあ即答はできないだろう。
実乃にとっては、俺が厄介ごとを引き受けてくれてありがたい――とはならないのだ。
俺に全権を委ねれば、もう実乃はこの裁定に口出しできなくなる。俺も実乃の口出しを許す気はない。
そうなると、どうなるか。
実乃は上野家成の求めに応じられず、家成は本庄実乃頼むに足らずと判断して、他家に交誼を求めるようになるだろう。それは家成だけにとどまらず、家成の一族、縁戚にも波及する。
家同士の結びつきが深ければ深いほど、多ければ多いほど、その家は大きな勢力と影響力を有していることになる。
上野一族との結びつきを失った本庄家は、その分衰退してしまうのである。
先ほどからの態度を見てもわかるとおり、実乃当人は上野家成の行動に呆れ、欲深さに辟易している。家成と縁が切れたところで、さして気にしないだろう。
だが、実乃は景虎様の側近であると同時に、栃尾本庄家の当主でもある。
個人として家成と疎遠になるのはかまわないが、当主として上野家との繋がりを断ち切ることはできない立場なのだ。
だからこそ、こうして返答に迷っている。
公私の立場の違い。
景虎様に負担を強いることがわかっている分、実乃としては辛いところであろう。
少し話がそれるが、以前から幾度か触れていた越後国内の国人衆問題は、こういった家同士の結びつきに真っ向からメスを入れることを意味する。
国人衆の権益に手を触れた瞬間、彼らは群れをなして抗議しに来るだろう。必要とあらば武力行使も辞さずに。
……いや、ほんと考えるだけで気が滅入る。
なので今は考えない。とりあえず目の前の上下問題(仮称)に集中しよう。
ただ、俺としても実乃と敵対したいわけではないので、語気をゆるめて付け加えた。
「もちろん、本庄殿が引き続き裁定の任を務められるのであればお任せいたします。それがしの案は今申したとおりですので、いかようにもご利用くださいませ」
◆◆◆
「さて、と。相馬はああ言っていたけど、実乃、どうするつもり?」
加倉相馬が退出した後、室内に残った政景は本庄実乃に問うた。
問われた実乃はしばし考えた末、かしこまって応じる。
「それがし、今いちど家成殿のもとへ参ろうと存ずる。このままでは調停不首尾の責を問われて解任される、と伝えることにいたしましょう」
「代わりの人選は加倉相馬。で、その相馬の案は家成から一切合財取り上げること。家成は慌てるでしょうね」
「さようです。余人ならばただの脅しと侮りましょうが、なにせ相手は春日山城もろとも景虎様を葬ろうとした今正成殿。上野殿の怒りや不満など歯牙にもかけず、裁きを断行いたしましょう」
政景は先刻の加倉をまねるようにけらけら笑ってうなずいた。
「いいわね。せいぜいそうやって追い詰めてやりなさい。結果として家成が折れて、最初の裁定に従うならそれでよし。それ以上ごねるようなら、本当に相馬を遣わしてやるわ。実乃、わかっているでしょうけど――」
「みなまで仰いますな。家臣を養う身なれば、領地を得ることに血道をあげるのは理解できまする。ですが、何事も限度というものがありますからな」
「そういうことよ。で、景虎様。それに朝秀。今回の件がうまく片付いたら、鮫ヶ尾城の五百貫、あいつに与えるってことで文句ないわよね?」
この場に加倉がいたら目を点にしたであろう政景の台詞であったが、言われた二人は驚く素振りも見せずにうなずいた。
鮫ヶ尾城は越後と信濃を結ぶ北国街道を扼す要衝である。位置的には大熊朝秀の箕冠城の北西に位置する。
景虎が口を開いた。
「武田が信濃全土を制した今、北国街道の重要性はこれまで以上に増している。早急に防備を固めなければならず、相馬ならば安心して任せられる」
「景虎様と政景様がお決めになったこと、この朝秀に異論があろうはずはございません」
そこで朝秀は小さく笑った。
「しかし、今正成殿の名声がすでに上野にまで及んでいたとは驚きました。長野業正殿が娘御を嫁がせようとしていたとは驚きいったことです」
「酒の席の冗談にまぎらわせていたけどね。あたしが見たところ、あれは本気よ。まあ、その娘がまだ八歳っていうのは笑い所だったけど」
「業正殿は武勇はもちろんのこと、十一人のご息女とたくみな婚姻政策で西上野をまとめあげたと聞き及んでおります。なんでもみな美人で知られ、婿からあぶれた者の中には、それを恨んで業正殿に戦を仕掛けた者もいたとか。大切な末姫の婿に擬されたということは、それほど加倉殿の才略を買われたということでしょうな」
「まったく、油断も隙もない爺様だこと。けどまあ、たしかにあいつの功績で知行なしの無位無官じゃあ、越後では冷遇されてると思われても仕方ないのよね」
加倉相馬の俸給は春日山からかなりの額が支払われているが、それとて弥太郎を筆頭とした農民あがりの十数人と、段蔵をはじめとした軒猿の人数への報酬で消える程度のものだ。
景虎へ臣従した後の功績を思えば、とうてい報いているとは言いがたい。
長野業正はそのあたりに引き抜きの可能性を感じたのだろう。もちろん、相手は恩人たる上杉家の人間。裏からひそかに手を回すような真似はせず、まずは本人や政景に切り出し、軽く反応を見てみたと言ったところに違いない。
景虎は遺憾であると言いたげに額に手をあてた。
「知行については何度か切り出してはみたのだが、そのたびに流されてしまってな。上杉家が強大になるには、なによりも直轄領を増やさねばならない。自分などに割き与えてはいけません、と」
「あはは。事あるごとに領地ふやせー領地ふやせーとうるさい上田の部下どもに聞かせてやりたいわ、ほんと――いや、本当にね……」
はあ、と二つのため息が見事に重なる。
それを見た実乃と朝秀は、笑うこともならず、さりとて賛同するのもためらわれ、居心地悪そうに肩を縮めるしかなかった。