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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第六十八話 侵食



「おお、戻ったか、泰朝、元信!」



 駿府城に入城した朝比奈泰朝と岡部元信を真っ先に出迎えたのは、なんと今川氏真本人だった。

 まったく予想していなかった二将は大きく目を瞠る。そして、すぐに我にかえって慌てて膝をついた。

 泰朝らの側近たちも同様にその場でひざまずく。



 それを見た氏真は快活に笑い、全員に立つように促した。



「膝をつかずともよい。みな、立って顔を見せてくれ。朝比奈隊、岡部隊の奮戦がなければ今川家は今よりもずっと苦境に立たされていたであろう。御家を救った英雄たちの顔を、しっかと私に見せてくれ」



 そう言って氏真は泰朝、元信だけに留まらず、二人の配下にまで親しく声をかけ、労をねぎらっていった。

 それは確かに彼らが知る今川氏真の姿であり、今日まで苦闘に苦闘を重ねてきた者の中には感極まって涙ぐむ者もいた。

 それは泰朝、元信も同様である。

 二人は胸の奥からこみあげてくるものを懸命にこらえなければならなかった。



 氏真に肩を抱かれるようにして大広間に案内された二将は、そこで留守居の者や桶狭間から生還した者たちと再会を果たし、再び涙腺の強度を試されることになる。

 それらが一段落した後、泰朝と元信は氏真の前にひざまずき、額を畳にこすりつけるようにして敗軍の罪を謝した。

 主君 義元とは戦場をことにしていたとはいえ、織田信長の動きを掴みえず、本陣急襲を許してしまったことは二人にとって痛恨の出来事だったのである。

 頭を垂れる臣下に対し、氏真は真摯な声で語りかけた。



「泰朝、面をあげよ。元信もだ」

「しかし、若……」

「面をあげよ。その方らに何の罪があろうぞ。父君が尾張で散ったのは私のせいだ」

「何をおっしゃいますか。駿府にいた若に責任のあろうはずが……」



 泰朝が言うと、氏真は表情を歪めた。



「そうか、二人はまだ知らぬか。私はな、あの戦いが起きたとき、父君のすぐ近くにいたのだよ」

「なんですと!?」

「駿府城を飛び出し、夜を徹して領内を駆け抜けて父君の陣までたどり着いた。軟弱な私は倒れ伏し、父君は陣を止めざるをえなくなった。そこに織田の奇襲を受けたのだ。繰り返して言う。その方らに敗戦の責はない。仮になにがしかの責があったとしても、それは私を超えるものではありえない。ゆえに私に罪を謝す必要はないのだ」



 自嘲するように唇を歪める氏真を見て、二将はひそかに視線を交わした。

 ややあって、今度は元信が口を開く。



「氏真様が駿府を離れたとは知りませなんだが……いったい何ゆえそのようなことに?」

「……我が妻がな、この城からかどわかされた」

「な……!」

「賊は妻のふみをもって、私に命じてきた。留守居の重臣どもを誅殺せよ。さもなくば妻の四肢を削いで送りつける、とな。文が収められた筒には、女性にょしょうの小指が入っていたよ……」

「馬鹿な――あ、いや、し、失礼いたしました! し、しかし、そのような卑劣な脅迫をいったい何者が……」

「わからぬ――いや、正確にいえば、あのときはわからなかった。むろん、ゆえなく家臣を誅するような真似はできぬ。私は不埒者の言うことに従わなかったが、そうしているとな、数日を経ずして次なる書簡が届けられるのだ。城外から投げ込まれたこともあった。無人の一室にいつの間にか置かれていたこともあった。なんとか送り主を突き止めようとしたが果たせず……書簡の数が五つを超え、形の違う五本の指がそろったとき、私は耐えかねて父君のもとへ向かったのだ。もう、どうしたらいいのか分からなかったから……まさか、それが父君の死を招くとは……!」



 氏真は唇を噛み、両の手をきつく握り締めた。

 元信も、そして泰朝も呆然として話に聞き入るしかない。

 と、ここで二人の脳裏に城外で晒されていた無数の生首が浮かび上がった。

 中でも重臣葛山氏元の首が。

 まさか、と元信がうめく。



「そのまさかだよ、元信。妻は氏元めに捕らえられていたのだ! 山中に築かれた隠し砦に閉じ込められ、脅迫のふみを書かされていた! 幸い、筒に入れられた指は妻のものではなかったが……よほど酷い目に遭わされたのであろう。ひどく怯えて、今もってろくに話もできない有様。このような非道をなした葛山は、九族ことごとく殺しつくすしかあるまい」

「し、しかし、氏真様。氏元殿は我らと共に織田攻めの先鋒を務めておりました。どうして駿府で奥方をかどわかす真似ができましょうか。いえ、それ以前に――」



 どうして葛山氏元が今川家に背く必要があるのか。

 葛山家は代々駿河東部を治める名門だ。その所領は相模、甲斐と接しており、いわば今川家にとって東の最前線にあたる。

 今川家の被官となる以前は足利将軍の直臣だった家柄で、今川家に仕えるようになった後も、領内統治における裁量権を認められている。家臣というよりは、今川家に従属した小大名といった方が実情に近い。



 義元の信頼も厚く、だからこそ上洛戦では清洲攻めの先鋒を任されたのである。

 その氏元が今川家に背くことさえ信じがたくあるに、氏真の奥方をかどわかして脅迫する?

 とうていありえない、と判断せざるを得なかった。

 奥方は葛山領の山中に捕らえられていたというが、氏元の失脚を目論む何者かが奥方をその山中に連れ去った可能性もあるだろう。居城の一室に閉じ込めていたというなら言い訳のしようもないが、人気ひとけのない山中など入ろうと思えばどこからでも入れるのだから。



 ――すでに氏元らが誅戮ちゅうりくされた今となっては、言ってもせんないことである。

 だが、元信は言わずにはいられなかった。



 元信の言葉を聞いた氏真は気色をななめにして言い返す。



「前線にいた氏元に妻をかどわかせるはずがない? 元信にしては浅い言だな。そんなもの、家臣にやらせたに決まっているではないか。それに、今川家への忠誠といったところで……元信。そなたとて知っていよう。氏元の父、氏広は北条早雲の子ぞ」

「ならばなおさら、氏元殿が北条姫をかどわかす理由がございますまい」

「ふん、氏元は養子として葛山を継いだ身。北条ともなんらかの確執があったのだろうさ。それにな、元信。もっとわかりやすい証拠もあるぞ」



 興奮した様子の氏真がまくし立てるように言う。

 元信は落ち着いた面差しで問いかけた。



「証拠とは何でございましょうか」

「桶狭間における氏元の動きよ。彼奴は五千の兵を率いて清洲に向かっていた。誰よりも信長に近いところにいたわけだ。だというのに、彼奴は信長が城を出たことを掴めなかった。それだけではないぞ。あのとき、清洲から桶狭間に向けて何百という織田軍が動いていたはずだ。氏元めはそれを一兵も発見できなかったのだ」



 そう言うと、氏真は乱暴に膝をたたいた。



「よいか、元信。氏元めはな、これから攻めようとしている城から出撃した何百という敵軍を、ただの一兵も発見できずに通過させたのだ! 織田の兵は風か、かすみか!? いくら嵐だからとて、こんなことが起こるはずがあるまい! 氏元めがあえて織田兵を見逃さぬかぎりはな!」

「氏真様。信長が奇襲を目論んでいた以上、我が方に見つからないために細心の注意を払ったに違いありませぬ。地の利は敵にありますれば、不覚をとることは戦場では十分にありえるのです」



 いまだ戦場を知らぬ氏真にその機微が通じるかどうか。元信はそんな危惧を覚えながら氏真に説明する。

 氏真がかっと頬を赤くしたのは、みずからの戦場経験の無さを侮られたと思ったためであった。



「ほう! ならば父君が討ち取られ、我が軍が総崩れになった後、そなたや泰朝のように踏みとどまることをせず、真っ先に駿府に逃げ帰ったことも織田上総に不覚をとったゆえのやむをえぬ所業と申すか!?」

「そうは申しませぬ。ですが、もし氏元殿が織田と内通していたのなら、どうして逃げる必要がありましょうか。氏元殿がその気になれば、織田と共に我らを壊滅させることもできたはず。それをしなかった――この一事を、どうかよくよくご考慮くださいますよう」



 元信が言うと、氏真の目元を暗い陰が覆った。

 平伏する元信を見る目に陰惨な光がともる。



「……なるほど、なるほど。つまり元信、おぬしはこう言いたいのだな? 葛山氏元は私の妻をかどわかしてもいなければ、織田に通じてもいない。今川氏真は父の死に錯乱し、疑心暗鬼の末に忠実な家臣とその一族を殺しつくした暗君である、と」

「氏真様! 何をおっしゃいますか!」

「今、そなたが申したことはそういうことだ。泰朝、そちも元信と同じ考えか?」

「……氏元殿が叛意を抱いていたという確たる証拠はございましょうか、若?」

「確たる証拠――その言い方では、氏元めが領内で妻を捕らえていたことも証拠とならぬようだな。泰朝、試みに問うが、確たる証拠とは何ぞ? 『わたくし葛山氏元は今川家に対して間違いなく叛意を抱いております』という氏元直筆の書状があれば、そなたは納得するのか?」



 ち、と舌打ちした氏真はさめた眼差しで眼前の二将を見る。

 つい今の今まで感謝と親愛にあふれていた双眸は、冬の枯れ野のように寒々としたものに一変していた。



「ああ、ああ、そうよな。そなたらはあの大敗戦の渦中にあって織田勢をふせぎとめ、主君の首級を取り戻し、敵将の信長からも忠勇を称えられた古今無双の名将たちだ。父君が討たれ、雪斎師も身罷みまかられた今、私のような若輩に主君(づら)されるいわれはなかろう。私が錯乱したと言い立てて僧院に追い込み、そなたたちの手で今川の実権を握るのが望みなのだな」



 それを聞いた二将は顔色をかえて氏真に詰め寄った。



「若、おたわむれはほどほどになさいませ!」

「さようです。そのようなお言葉は氏真様ご自身を貶めるものになりましょう」

「……ふん。たわむれ、か」



 二人の視線の圧力に押されたように、氏真は視線をそらした。

 その口から独り言のような呟きがもれる。



「……私はそなたらに氏元の所領を二分して与えるつもりだった。そうして、今後とも今川の柱石として私を補佐してほしいと頼むつもりだった。だが、無実の罪で家臣を殺す暗君からの褒美など、そなたらの名声を汚すだけのもの。まして補佐など引き受けてくれるはずもなかったな。許せ、この暗君はそなたらと共に今川家を再興する夢を見ていた」



 言って、氏真は力なく立ち上がる。

 改めて二人に向けた視線には、もう何の感情もこもっていなかった。



「両名とも、こたびの働きまことに大儀であった。そなたらがこの後、いかなる道を選ぶかは知らぬ。だが、たとえ今川に背こうとも、両名の今日までの忠誠には深く感謝している。父義元になりかわって礼を言おう」

「若、何をおっしゃいますか! 我らはこれまでも、これからも今川家の忠実なる家臣ですぞ!」

「無理をするな、朝比奈。ゆえなく家臣を殺す者についてくれば、そなたのみならず、そなたの一族郎党を求めて地獄に落とすことになるぞ。氏元のようにな」



 氏真はそう言うと、黙りこくっている周囲の家臣たちに向けてはっきりと言った。



「皆にも申しておく。私は氏元と一族を誅したことをいささかも悔いていない。間違ったことをしたとも思っていない。それが誤りであると思う者は、織田なり武田なり北条なり、好きな家に従うがいい。追いもせぬし、止めもせぬ。なんなら独立して大名になるのもよいな。私の首を挙げ、駿河を制して乱世に躍り出る絶好の機会だぞ」

「氏真様、おやめください! そのようなことを……言葉には、神霊が宿るのです。滅亡を口にした者には滅亡が忍び寄ってまいりましょう!」

「言わせたのは誰だ、岡部? 人を暗君呼ばわりしたそなたが、さかしらに忠言を――いや、そうか。こうすることでますますそなたの忠義は輝き、私の悪名は広がるという寸法なのだな? はは、なかなかに策士ではないか。案外、そなたこそすべての黒幕なのかもしれぬな」

「な……」



 氏真の言葉に岡部元信は絶句する。

 朝比奈泰朝も同様だった。

 二人の前にいるのは確かに今川氏真だった。外見も、声も、駿府を発つ前と何もかわっていない――つい先ほどまで二人はそう思っていた。

 だが、違う。この氏真は以前と同じではない。中身が、心が大きく様変わりしている。

 二人が知っている氏真はこんな目で他者を見ない。こんな声で他者と話さないのに……




 と、その時だった。

 しんと静まり返った駿府城の大広間に、場違いなほど朗らかな声がとどろいた。



「氏真様! ただいま戻りましたぞ!」



 そう言ってドタドタと足音荒く大広間に入ってきた人物を見たとき、泰朝と元信の二人はそれが誰なのか分からなかった。

 戦場から帰ってきたばかりとおぼしき甲冑姿の大男。どこかで見たような気はしたが、その感覚が記憶と結びつかない。

 二人がこの人物の名前を思い出したのは、次の氏真の声を聞いたときだった。



「おお、武田の爺! 戻ったか!」



 今しがたの虚ろな声とは似ても似つかぬ氏真の生気に満ちた声に二人は驚き、次いで現れたのが武田の爺――武田信虎であることに気づいて二重の驚きを覚えた。

 背を丸め、肩を縮めて氏真の後ろをついて歩いていた武田の隠居の面影はみじんもない。雲をつくような巨躯、堂々と胸を張った歩き方、張りのある声、いずれも歴戦の武人を思わせる。

 驚きに固まる泰朝、元信らの前で、信虎は気遣わしそうに氏真に語りかけた。



「氏真様、ご気分が悪いようですが、なんぞありましたか?」

「はは、爺には隠せぬな。実はつい先刻、朝比奈と岡部が帰還してな。その二人が言うのだよ。氏元めを誅殺したのは誤りであったと。私は証拠なくして家臣を誅した愚か者であると」

「なんと!? 彼奴の領内で奥方が発見されたことを伝えなかったのですか?」

「二人はそれを知った上で言ったのだ。葛山城の一室に閉じ込められていたのならともかく、領内の山の中など誰でも入り込むことができる。それでは氏元の罪を証し立てたことにはならぬ、と」

「……なるほど、なるほど。氏真様のお苦しみを知らぬ者どもが申しそうなことでござる。承知つかまつった! この爺めにお任せくだされ。お二方にしっかと言い聞かせてみせましょうぞ。氏真様は、ささ、どうか奥方様のおそばにお戻りくださいませ」



 信虎が言うと、氏真は明らかに安堵したようにうなずき、そのまま城の中へと消えていった。



◆◆



 その後、信虎は家臣たちを解散させ、朝比奈、岡部の両名だけを別室に誘った。

 無人の部屋に入った信虎は、がちゃりと甲冑を鳴らしてその場に腰をおろす。

 そして、無造作に言った。



「この阿呆あほうどもが。貴様らは、少しは理非をわきまえていると思ったのだがな、朝比奈、岡部」

「な……!? 甲斐の隠居ごときが、何のゆえをもって我らに雑言を浴びせるか!」

「理非、とは何のことか、武田殿」



 泰朝が激昂し、元信は顔をしかめつつも信虎に言葉の意味をたずねる。

 信虎は鼻毛を抜きながら言った。



「今の氏真様に正論を突きつけるなと言っておるのだ。おのれの独行で父君を死に追いやったばかりの若者だぞ。しかも、愛する奥方は悪漢の手でかどわかされ、ようやく助けたというのに己の顔さえ覚えておらぬ。どれだけ気丈に振舞おうと、気力がもつものかよ」

「……待て。奥方のことはうかがったが、氏真様の顔もわからぬとは何のことだ?」

「だから阿呆だというのだ、おのれらは。女をかどわかす輩が、山中に監禁している間に何もしておらぬと思っておったのか?」

「……武田殿。それは……」



 信虎の言わんとしていることを察した二人は顔を青ざめさせた。

 そんな二人に信虎は、こちらも顔を苦渋に歪めてうなずいてみせる。



「想像のとおりよ。奥方を救出したのはわしであるが、ひどい有様じゃった。どうやら付近の村娘もかどわかしておったようでな。送られてきた手指はそちらの娘たちのものであったが……奥方殿は手指を切られる娘たちの苦悶を見せ付けられながら、氏真様への文を書かされていたのじゃ」

「なんたることか! 外道どもめ!」

「……悪漢どもは許しがたい。だが、武田殿。それが氏元殿の指図であるという証拠はなかったのであろう?」

「そうじゃな。確たる証は何もなかった。だが、それがどうした?」



 信虎はうそぶくように言う。

 元信が目つきを険しくして信虎を睨んだ。



「……氏元殿たちを誅戮するように進言したのは、武田殿、おぬしだな?」

「いかにもわしが進言した。あるかも分からぬ『確たる証拠』など探していては、氏真様の気が狂うてしまうからな」

「……なに?」

「言うたであろう。父君の死、奥方の狂、今の氏真様は限界じゃ。己は何も為せず、誰も救えなんだと気が狂わんばかりに煩悶しておられる。だから、わしはせめて仇を討つようにと進言したのさ。葛山の一族は、氏真様の魂をこの世に留める尊い犠牲になったのよ」



 かかと笑う信虎を見て、元信は信じられぬと言いたげに目を見開いた。



「そのような理屈で、女子供の首まで晒したのか!?」

「はは、不満ならば氏真様に進言するがいい。あなた様のやったことは間違いですと。葛山一族を殺し尽くしたあなた様は義元様の足元にも及ばぬ暗君であらせられます、とな。ああ、いや、もうそなたたちはそれをしたのだったな。おかげで、ようやく持ち直してきた氏真様のお顔が、また以前のものに戻ってしもうたわい。余計なことをしてくれた」

「何が余計なことか!」



 元信にかわって泰朝が口を開く。

 その目は睨み殺さんばかりに信虎を強く見据えていた。



「余計なことをしたのは貴様だ! 貴様がくだらぬ進言をしなければ、氏真様は氏元殿らを手にかけようなどと夢にも思わなかったはずだ!」

「そう思うなら、今度は貴様が氏真様に進言するがよい、朝比奈。もっとも、先の氏真様の顔を見るかぎり、貴様は正論に正論を重ねて氏真様をつぶしてしまうのが関の山であろうがな。日のあたる道しか歩いてこなかった貴様らに、今の氏真様の御心がわかろうはずもない」

「……武田殿ならば、わかると?」

「当然よ、岡部。なにせわしは実の娘に国を放逐された身だからの。氏真様の悲嘆、絶望、すべて手に取るようにわかる。貴様らが戻ってきたとき、氏真様は以前とかわらぬお顔をなさっていたであろう? 今の貴様らに同じことができるか?」

「それは……」



 泰朝と元信は顔を見合わせた。

 二人の脳裏には先刻の大広間の光景が映し出されている。

 はじめは以前と変わらぬ振舞いを見せていた氏真。だが、泰朝らが言葉を重ねるたび、氏真の顔と声から活気が失われていった。



「今の氏真様に必要なのはな、己が今川にとって、そして奥方にとって必要な人間なのだという自信よ。正論でもなければ、阿諛あゆ追従ついしょうでもない。自信こそが氏真様の傷心を癒す特効薬であると知れ。わしは氏真様にそれを与えるためなら、いかなる暴虐でも為す覚悟があるぞ。結果として国が荒れようが、無実の家が滅びようが一向にかまわぬ。なぜなら、今の駿河にはもう義元公も雪斎和尚もおらぬからだ。氏真様なくば今川家は立ち行かぬ。氏真様に立ち直っていただくことがすべてに優先するのじゃ」



 そう言うと、信虎は虎のように荒々しい眼光を二将に向けた。



「朝比奈、岡部。そなたらがどのような道を選ぶのかは知らぬ。だが、ひとつだけ言うておこう。氏真様はな、そなたらが戻ってくるのを首をなごうして待ちわびておったぞ」



 信虎に言われた瞬間、二人の脳裏に先刻の氏真の声がよみがえった。



『許せ、この暗君はそなたらと共に今川家を再興する夢を見ていた』




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