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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第六十七話 村上家滅亡



 信濃 飯山城


 今、この城には村上家の楽巌寺がくがんじ雅方まさかたが入っている。

 その雅方のもとに一通の密書が届けられたのは、武田軍が箕輪城から兵を退いた翌日のことであった。

 差出人は信濃 内山城の大井貞清。内山城は佐久郡(甲斐と上野に隣接する地域)にある城で、大井貞清は先の信濃侵攻戦で武田晴信に降った武将である。

 もっとも、それは表面上のこと。裏では村上家に気脈を通じ、ひそかに武田方の内情を流していた。



 密書の内容は驚くべきものだった。

 上野こうずけに侵攻した武田軍が長野軍に敗れ、ほうほうの体で退却しているというのだ。

 その理由についても貞清は明記していた。

 今川義元が桶狭間で敗死し、これを受けて退却しようとした時に敵の猛追を受けたという。



 これを読んだ雅方まさかたは思わずその場で立ち上がり、千載一遇の好機が到来したと勇み立った。

 先に将軍家の仲介で和睦したとはいえ、いずれ武田が北進を開始することは誰の目にも明らかであった。

 三国同盟の締結によって武田は後顧の憂いを断ち切っている。次の侵攻は以前にまさる大軍が動員されるであろうと思われていた。

 その矢先の出来事である。

 これを好機と言わずして何を好機というのだろう。



 雅方の飯山城から佐久郡まではかなりの距離があるが、村上家の武将にとって北信濃は庭も同然。

 武田には知られていない軍道も獣道も把握している。山野を突っ切って晴信を補足することは可能であると雅方は考えた。

 問題は兵力であるが、先の戦で武田家に降った者たちの中には大井貞清のように村上家に通じている者もいる。特に佐久郡はそういった者が多い地域であった。



 これには理由がある。

 かつて佐久郡には笠原清繁(きよしげ)という武将がおり、志賀城にあって四隣に勇名を轟かせていた。

 この清繁と激しく敵対したのが北信濃進出を目論む武田の先代 信虎である。

 清繁は善戦したものの衆寡敵せず敗北。城は炎上、城主である清繁は首を斬られ、清繁の妻は信虎によって甲府に連れ去られた。

 武田軍に果敢に抵抗した笠原領では苛烈な乱取り(略奪)が行われ、住民の多くは奴隷として売り飛ばされるという憂き目にあう。



 この清繁と大井貞清は縁が深かった。

 そんな背景があったから、貞清から送られてきた義元敗死、武田退却の報を雅方は信じて疑わなかったのである。

 その貞清が「今こそ亡き朋輩ほうばい清繁の無念を晴らすとき、願わくば一臂のお力添えを」と書状に記してきたのだ。雅方は矢も盾もたまらず動き始めた。



 当然ながら、兵を出すには主君である義清の許可を得なければならない。

 だが、今から旭山城の義清のもとまで出向き、事情を説明し、派兵の許可を得て――と手順を踏んでいると、間違いなく武田軍を取り逃がしてしまう。

 それに最近の義清は越後上杉家に臣下のごとく付き従っている。上杉の許可がなければ兵は出せない、などと言いかねなかった。



 そうなれば貞清は村上家に恨みを残して討死うちじにし、佐久郡周辺の国人衆は村上家を見限るだろう。

 上杉の意向など気にする必要はない、と雅方は考える。

 先の戦いでは、向こうも村上家にうかがいを立てずに和睦を結んだではないか。

 それを仕方ないことだと言うのなら、今回のこともまったく同じだ。とがめられる筋合いはない。



 雅方は事情をしたためた書状を義清に届けさせると、手勢をかき集め、深夜ひそかに飯山城を出撃した。

 そうして勝手知ったる北信濃の山野を疾駆し、数日後、ついに甲斐への帰路を急ぐ武田軍を捕捉する。

 大井貞清の情報によって晴信の本陣を突き止めた雅方は、目に戦意を充溢じゅういつさせ、自ら馬を駆って武田軍に突っ込んでいった……






 楽巌寺雅方、戦死。

 報告を受け取った村上義清は、無言で拳を卓に叩き付けた。

 驚きはない。雅方からの書状を受け取った時点で覚悟していたことである。



「雅方ともあろう者が、なんという軽挙を。義元公の戦死に浮き足立ってしまったか」



 武田本陣を急襲した雅方は、待ち構えていた晴信の反撃を受けて壊滅。

 大井貞清によって退路を塞がれた楽巌寺勢は文字どおり全滅した。

 すべてが晴信の手のひらの上であったことは疑うべくもなかったが、雅方亡き今、証明のしようはない。

 反対に、村上家が一方的に破約を招いた事実は瞬く間に周辺諸国に知れ渡った。



 言うまでもなく、喧伝したのは武田家である。

 晴信はただちに村上家に対して宣戦を布告。

 さらに越後上杉家にも使者を差し向け、この戦いに手出し無用と通告したという。



 村上家は足利将軍の仲介で結んだ和睦を一方的に破棄して奇襲を仕掛けてきた。もし貴家が村上家に一兵でも援軍を送れば、わが武田家は貴家がこの卑劣な破約を肯定したものと見なし、東国全土にその事実を知らしめる。二度と正義を口にすることはできぬものとおぼしめされよ――武田の使者は上杉景虎にそう告げると、討ち取った楽巌寺雅方の首級を破約の証拠として残していったらしい。



 雅方の首級を丁重に送ってきた上杉家の使者 宇佐美定満から、義清はそのことを知らされた。

 義清としては汗顔のいたりであり、一言もなく平伏するしかない。

 そんな義清に向けて、定満は景虎の言葉を伝えた。

 すなわち、北信濃を放棄して越後領に移られよ、と提案したのである。



 この戦に上杉家が助力することはできない。

 そして、上杉家の助力なくして村上家が武田勢を撃退することもできないであろう。

 以前の村上家ならばいざ知らず、今の村上領は武田のそれと比すれば猫の額ほどしかない。武勇や知略で覆せる差ではないのだ。



 村上家の破約が知れ渡った今となっては、敗れた義清を再び越後に迎え入れることも難しい。

 であるならば、いっそ戦に先んじて北信を手放してしまえばよい。

 配下の暴走の責任をとる姿勢を示せば、今回の一件における影響を最小限にとどめることができる。上杉家としても義清を迎え入れやすい。



 越後移住後の所領については、信濃に近い上杉直轄領を割き与える、というのが景虎の申し出だった。

 これを受け入れれば義清は完全に景虎の配下となり、大名としての村上家は滅亡する。

 当然のことながら、義清がこの提案を軍議にかけたとき、反対を唱えた重臣は多かった。



 だが、拒絶したところで滅亡は避けられない。それどころか一族郎党、ことごとく武田の手にかかって信濃の土になりはてるだろう。

 利害を見れば結論は明らか。ゆえにここから先は感情の問題だった。

 義清は長時間の軍議で多くの家臣たちに思うところを語らせた。

 すると、武田のみならず、上杉への不満、恨みも数多く噴出した。世評などかえりみず、ひたむきに我らに助力してくれてもいいではないか、そんな風に声を荒げる村上家臣は少なくなかった。

 家同士の信義とはそういうものであろう――彼らは口々に言い立て、何が正義の家だと上杉家の薄情さをあしざまに罵った。



 ……むろん、彼らとてわかっていた。自分たちが無茶を言っているのだ、ということは。

 だが、言わずにはいれなかったのだ。



 そうして、腹の中に押し込めた負の念を吐き出せば、少なくとも不満を溜め込むストレスからは解放される。

 ストレスがなくなれば感情の荒波もしずまってくる。感情がしずまれば、自分たちの言葉が理不尽なものであると納得することもできる。



 そうやって家臣たちの腹に溜まったものを吐き出せるだけ吐き出させた後、義清は景虎の案に従うことを宣言した。

 もとより義清は先の一件で景虎に心服している。今回の村上家の不始末についても、直轄領を割く配慮までしてくれた。義清の心はとうに決まっていたのである。

 この軍議は決断のためのものではなく、ただ配下を納得させるためのものであった。



 かくて村上家は破約の責任をとって飯山、旭山の両城を武田家に譲渡し、一族郎党を引き連れて越後領へと向かう。

 飄々とした風情で武田晴信のもとへ赴いた宇佐美定満は、村上家の決断を晴信に伝える。そして、もし村上勢に追撃をかければ上杉軍が相手となることも通告した。

 これを受けた武田晴信は北信の諸将に追撃を禁じる。

 無血で手に入るものを、わざわざ血もて購う必要もない。



 ほどなくして武田軍は無人となった飯山、旭山両城を占領。これにより武田晴信は信濃全域の制覇を達成し、改めてその卓抜とした智勇を周辺諸国に知らしめることになる。

 一方の上杉家は武田、村上両家に対して信義を貫き「戦乱の世にめずらしき」との世評をさらに高めることになった。

 大名として滅亡した村上家は上杉の麾下に加わり、以後、忠実な配下として活躍することになる。

 




 その頃、平井城をめぐる関東での戦いも決着がついていた。



 野戦で北条軍を打ち破った上杉、長野両軍は太田資正が立てこもる平井城を取り囲む。

 北条軍の敗北が知れ渡ったことで、それまで戦況を静観していた幾人かの国人衆が新たに陣列に加わり、攻撃側の兵力は一万三千にまで膨れ上がっていた。

 一方、城内の北条軍は六千を大きく下回っている。

 敗戦直後とあって士気も低く、また城郭の修復が終わっていない箇所もある。攻め寄せる敵軍を前に、太田資正は苦戦を強いられることになった。



 このとき、攻城を指揮する長野業正の采配は精妙を極め、的確に北条兵を削りつつ、着実に防備の薄い箇所を攻略していった。

 老体に甲冑をまとった業正が前線で采配を揮えば、将兵はいやおうなしに士気を高める。

 城攻め開始後十日で三の丸が陥落。三日後には二の丸も落とされ、ついに北条軍は本丸に追い詰められた。



 長野業正は本丸に立てこもる太田資正に降伏を勧告するが、資正はこれを拒否。

 すると業正は、これまでの戦で捕虜となっていた北条の将兵を集め、彼らを解き放ちながら言った。



「主家への忠誠を抗戦によって示したそなたらに敬意を表し、虜囚の身から解き放つことにする。本丸に戻るも、武蔵の国に退くも随意である。危害を加えぬことを証し立てるため、我らはこれよりすべての門を開け放ち、城の外に出る」



 ただし、と業正は続けた。



「明朝、全ての門は閉ざされるであろう。その後、城内に残った者の行く先は黄泉のみである。このこと、しかと資正殿に伝えてくれい」



 そう言って北条兵を解放した業正は、宣言どおりに二の丸、三の丸を放棄。すべての兵を城の外に出し、一舎(いっしゃ 軍隊が一日で移動できる距離)の距離を置いて布陣する。

 これには上杉軍のみならず、上野こうずけの国人衆も驚いたが、業正麾下の大胡秀綱などは、主の行動に慣れていたために特に動じる風もなく、明日の城内の様子に思いを馳せているようであった。


 


 あけて翌日。

 城に踏み込んだ将兵は、塵一つ残さずに掃き清められた本丸を見て、感嘆の声をあげることになる。




◆◆◆




 駿河国 駿府城。



 上洛に参加した今川家の諸将の中で、駿河への帰還がもっとも遅くなったのは朝比奈泰朝と岡部元信の二人であった。

 これにはれっきとした理由がある。

 朝比奈泰朝に関していえば、義元が桶狭間で倒れたとき、鷲津砦の守備についていた。織田との戦いの最前線に赴いていた泰朝は、退却する今川軍の殿しんがりを務め、熾烈な織田軍の追撃を防ぎ続けた。



 一方の岡部元信は、これも前線に位置する鳴海城の守備を任されており、敗兵を城内に収容しつつ、勝勢にのって攻め込んでくる織田軍を次々に撃退。東に伸びようとする織田家の勢力浸透を阻止することに成功する。

 この二人の働きがなければ、今川軍の被害は倍以上に膨れ上がっていたかもしれない。

 ことに岡部元信は、鳴海城を明け渡す条件として信長に主君義元の首級返還を要求し、見事にこれを果たしている。

 その武勇と忠誠は敵将である信長からも賞賛され、敗軍の中でもおおいに面目をほどこすこととなった。



 その後、二人は東三河にとどまって織田家の勢力伸張を警戒していたのだが、桶狭間の敗戦で動揺する将兵を統御することは困難を極めた。

 徴用された農民兵は五人、六人と徒党を組んで脱走し、三河や遠江の国人衆は寝返りや独立をもくろんで蠢動する。

 特に岡崎城の松平元康は、合流を求める泰朝や元信の要請に応じようとせず、完全に独自の動きを始めていた。



 このままでは敵地で孤立することになりかねぬ。

 そう判断した二人はやむをえずに帰国の途についた。

 ともかく一度駿府に戻って態勢を立て直さねば、裏切り者を討つことさえままならない。



 どうやら松平元康は義元と雪斎を失った今川家を恐れるに足らずと判断したようだが、今川にはまだ氏真がいる。

 一刻も早く後継者である氏真を中心として家中をまとめ、今川家いまだ健在なりと諸国に知らしめる必要がある。

 幸い、氏真は文武に優れた才を示し、その気性も凛然としたものがある。群臣がこれを盛り立てていけば、往時に迫る繁栄を築くことも可能であろう。

 そのときになって元康は軽率な判断を後悔するに違いない。



 道中、泰朝と元信はそのように語り合いながら駿河へと帰り着いた。

 つい数十日前、二人はこの道を通って威風堂々と征路についた。まさか敗残者として帰還することになろうとは夢にも思わなかった。

 胸奥を焦がす屈辱の炎は燃え盛るばかり。二人は奥歯をかみ締め。次は負けぬとの決意を新たにした。



 今川家が名実ともに立ち直るためには、織田信長との再戦が不可避である。

 その時こそ、この無念を晴らしてくれよう――そんなことを考える二人の耳に、不意に兵士たちの悲鳴が飛び込んできた。

 見れば先頭を歩く兵士が何かを指差して騒ぎ立てている。

 つられてそちらを見やった二将は次の瞬間、息を呑んだ。



 そこには無数とも思える生首が並べられていた。

 駿府城へと続く道の両脇に並べられた首の数は百や二百ではない。

 しかも、その中には明らかに女性や子供の首も含まれていた。



 近づいてよくよく見れば、いずれも見覚えのある顔ばかり。

 ほとんどが今川家の家臣の首だ。

 泰朝らと同じく最前線に立ちながら、いち早く駿府へ逃げ帰った葛山氏元の首まであるではないか。

 その氏元の隣には、氏元の妻と幼い息子の首が置かれ、恨めしげに泰朝たちを睨んでいる。



 一体、何事が起きたのか。

 朝比奈泰朝と岡部元信は呆然としながら顔を見合わせた。



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