第六十六話 戦い終わって
太田康資の討死によって北条軍右翼は潰走する。
北条軍左翼も長尾政景、大胡秀綱の挟撃によって散々に打ち崩され、敗走をはじめていた。
この両翼の戦いは中軍同士の激突にも影響を及ぼさずにはおかず、太田資正は勢いに乗った長野業正の猛攻を受けて後退に後退を重ねていった。
声を嗄らして兵を励まし、かろうじて陣形を維持していた資正であったが、敵の両翼が退路を断つ動きを見せたことで抵抗を断念する。
自軍に倍する敵に包囲され、それでも勝ちを得られると考えるほど資正は傲慢ではなかった。
通常、戦において最大の被害が出るのは追撃戦である。
このため、殿を務める者は「十のうち九まで死す」といわれるほど過酷な戦いを強いられる。
資正はみずからこの殿を指揮し、敵の猛追を幾度もさえぎった。
のみならず、敗勢の中でも高々と軍旗を掲げて、太田資正健在なりと敵味方に誇示してみせる。これは逃げ崩れる北条兵の目印とするためでもあった。
実際、少なからぬ兵が軍旗を目印にして資正の陣に逃げ込んできた。
資正はそれらの敗兵を巧みに統御し、時には激しい逆撃を行いながら後退を重ねていく。
敗走の中でも秩序を失わない殿軍に対し、上杉、長野両軍はこれまで以上に激しい攻勢を仕掛けた。このまま資正に平井城に逃げ込まれてしまうと、厄介な事態になるのは目に見えている。なんとか城に帰着するまでに資正を討ち取っておきたかったのだ。
だが、資正はそれらすべてを退け、多数の配下と共に平井城に帰還する。
見事というしかない退却戦であった。
◆◆◆
北条軍を取り逃がした形の上杉軍であったが、野戦自体は間違いなくこちらの勝利である。
俺は長野軍や上野国人衆の陣にも足を運び、戦の後始末に努めていた。
戦に勝ったのはめでたいことだが、勝った勝ったと浮かれてばかりはいられない。
負傷者の治療、戦死者の埋葬。進軍を再開するにあたって、被害が大きい部隊は再編成を行う必要もある。
やらねばならないことは山積していた。
とはいえ、負けてそれらを行うよりも、勝って行う方が士気が高いのもまた当然。
周囲の将兵の顔は勝利の喜びに満ち満ちており、北条軍何するものぞと意気軒昂な叫びが各処からあがっている。
そんな将兵を横目に見ながら戦後処理を終わらせた俺は、こっそり陣を離れ、敵味方の死者が並べられている場所に向かった。
やがてたどり着いた死体置き場。
敵の死者と味方の死者とを問わず、並べられた遺体は異様なものが多かった。
首がない死体はまだ理解できるが、鼻や耳が削がれている者が多いのはどうしてなのか。
戦での手柄を示す最もわかりやすい手段は、相手の首級をあげることである。
だが、乱戦の中でいちいち敵兵の首をとっていたら命がいくつあっても足りない。そのため、鼻や耳をそぎとって手柄を評価する方法もある。
俺の前に並ぶ死屍の異様さは、これが原因であった。
ただ、異様とは言ったが、別段めずらしいものではない。
これまでの戦でも似たような遺体は大勢見てきた。
間もなく、この死者たちは鎧兜をはぎとられ、身一つで地面に埋められることになる。近くの寺から僧を呼んであるとはいえ、念仏一つですべての無念が晴れるわけでもないだろう。
ここで横たわっている者たちの一人一人に、一体どれだけの可能性が眠っていたことか。みな親がいて、子がいて、妻がいて、守るべき誇りを抱えていたであろうに、たった一度の戦いによって、本来かけがえのないはずのそれらがことごとく刈り取られてしまった。
この戦を望み、采配をふるった俺はその罪業を背負わなければならない。
それを自覚したところで自己満足以上のものにはなりえないが、勝利の影に広がるこの寂寞とした光景から目をそむけてはならない。
それはたぶん、景虎様の下で戦う将として、何よりも先にわきまえておかねばならないことであるはずだった。
ふと、背後に気配を感じる。
弥太郎か、あるいは段蔵か、と思いながら振り向いた俺は、そこに予期せぬ顔を見出して目を瞠る。
大胡秀綱であった。
「……ここで他者と会うとは驚きました」
あまり驚いてもいない様子ながら、そう言って秀綱はこちらに会釈してくる。
戦の直後に姿を見かけたときは、敵兵の返り血で全身を朱に染めていた秀綱も、今は落ち着いた装いをしていた。
戦場の両端に位置していたため、俺は自分の目で秀綱の奮戦を見ることはできなかったが、秀綱の戦いの凄まじさは政景様の口から聞いている。
最も危険な右翼を押し付けた責任もある。俺が改めて礼を述べると、秀綱はゆっくりと首を横に振った。
「本来、この戦は山内上杉家が行うべきものでした。頭を下げるべきは私たちであって、あなた方ではありません」
そう言って秀綱が頭を下げると、その後を追うように黒髪が滝のように肩口からすべり落ちた。
今の秀綱は結い上げていた髪を下ろしており、どことなく上品というか、気品のようなものが感じられる。服装が大人しやかになっていることもあり、どこぞの姫君と言われても違和感がない。
そんな秀綱につい目を奪われてしまった俺は、慌ててぺしぺしと頬を叩いた。今の今まで死者の前で覚悟の据えていたというのに、美人が現れたとたんに鼻の下を伸ばしていては、さすがに節操がなさすぎる。
と、顔をあげた秀綱が、そんな俺を不思議そうに見つめていた。
その姿に既視感を覚えて、ふと思い出す。そういえば初対面のときもじっと見つめて不思議そうな顔をされたっけ。
このままだと秀綱の俺への印象が「変な人」で固定されてしまいそうだった。
その後、秀綱は幾十、幾百とも知れぬ戦死者の列に向かって、しばし瞑目していた。
それが死者を悼むためなのか、あるいは己が手にかけた者たちへの礼儀なのかはわからない。
先ほどの言葉から察するに、戦が終わった後、いつも秀綱はこうしているのだろう。
声をかけるなど論外、この場でとどまって秀綱を眺めているのも非礼であろう。そう考えた俺は、なるべく足音を殺して立ち去ろうとする。
そのとたん、秀綱の瞼がぱちりと開かれ、黒曜石のような瞳が俺の方を向いた。
「――少し、時間をいただけますか?」
燦燦と降り注ぐ陽光が上野の沃野を明るく照らし出している。
死体置き場から離れた俺と秀綱は、その足で小高い丘の上にのぼった。
関東山脈から吹き降ろしてくる風が優しく頬を撫ぜていく。
俺と向かい合った秀綱は開口一番、次のように問うてきた。
「こたびの抜擢、どのような意図があってのことですか?」
抜擢という言葉が意味するところでは明白で、他に人もあろうに大胡秀綱を右翼指揮官の座に据えたことを指しているのだろう。
俺としては、後に剣聖と謳われる人物を最大限に生かせる手段を模索した結果であったが、当の秀綱や周囲の人間にしてみれば、色々と不審が残る人事だったことは想像に難くない。
頭の中で相手を煙に巻く言葉を思い浮かべたが、秀綱相手では通じないだろう。ただでさえ不審を抱かれている状態だ、ここは素直に本心を述べよう。
「勝つための最善手。それ以外の意図はありません。繰り返しになりますが、最も危険な戦場を押し付けたことは申し訳なく思っています」
「勝敗を左右する戦場を任されることは武人の誉れ。先ほども申しましたが、それについてはいささかの意趣もありません。ですが――」
ここでふっと息を吐き出した秀綱は、軽く頬を叩き、改めて俺に視線を向けた。
桜色の唇がゆっくりと開かれる。
「言葉を飾らずに言いましょう。あなたはいったい私の何を信頼したのですか? 顔を合わせたのも、言葉を交わしたのも箕輪城がはじめて。武田戦の勲功を考慮したのかと思いましたが、それならば兵卒として戦った私ではなく、指揮をとった業盛様を選ぶのが自然です。田畑の一つも持たない私に恩を売るためとも思えない」
――今しがた秀綱に不審を抱かれていると言ったが、訂正しよう。
問いかけてくる秀綱の態度に、不審に背中を押されて、という印象はまったくない。
ただ純粋に不思議に思っているだけらしい。俺を見る視線に険はなかった。
「何を……ううむ、強いて言うなら、すべてを、でしょうか。この方なら大丈夫だと直感したんです」
「……ふむ」
秀綱はじぃっと俺を見つめてくる。
明らかに訝しんでいる目つきだった。
まあ、仕方ないといえば仕方ない。
事実をそのまま述べると「未来知識で剣聖であるあなたのことを知っていたから」というトンデモ回答になってしまうので、精一杯誠実に答えてみたが、これはこれで「一面識もない相手だったが、初対面で一軍を預けられると判断しました」というトンデモ回答になってしまう。
もういっそ、美人に恩を着せるためにやりました、とか言った方が怪しまれずに済むような気さえしてきた。
次に何を言われるかと内心ビクビクしていると、秀綱はこくりとうなずいて言った。
「なるほど、わかりました」
「…………え、今のでわかったんですか!?」
思わず聞き返してしまう。
すると、秀綱はそっと目元をやわらげた。
「嘘はついていない。それが分かれば十分です。それに――」
「それに?」
「武人として信じていただけたのは、私としても嬉しいことなのですよ。私が敗れれば上杉軍とて大きな被害を受けていたでしょう。その危険を承知してなお私を推してくださったこと、深く感謝しております」
そう言ってにこりと微笑む剣聖様。
どきり、と自然と胸が高鳴るくらい魅力的な表情で、かあっと頬が熱くなるのを感じる。
反射的にそっぽを向いたものの、なんだか微笑ましいものでも見るような眼差しが頬のあたりにひしひしと……!
なんだ、このちょっと大人びた同級生にからかわれているようなこっぱずかしい感覚は……!
ちょうどこのとき、遠くから俺の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
見れば、弥太郎と段蔵がこちらに向かってくるところだった。一向に戻ってこない俺を心配して探しに来てくれたのだろう。
気恥ずかしい空間を打破してくれた二人に、俺は内心で深甚たる感謝の意を捧げた……
とか暢気なことを考えていたのだが、やってきた二人の顔は真剣そのものだった。
俺の様子にかわりがないのを見て、はっきりと安堵の表情をうかべている。
顔に出やすい弥太郎はもとより、段蔵までが同じ表情を浮かべるあたり、どうやら京での出来事はいまだに二人の心に根ざしているらしい。
今さらながら、本当に申し訳ないことをしてしまった。
「そう思うなら、余計な心配をかけないでほしいものです」
「そうですそうです。そ、その、大胡様とお話があるのであれば、せめて一言なりと伝えてからにしてくれれば……」
段蔵と、そしてめずらしく弥太郎も唇を尖らせて文句を言ってくる。
すみません、ほんとすみません、とぺこぺこ頭を下げたのだが、その軽さが「真剣みに欠ける」と映ったらしく、弥太郎がぐぐいっと顔を近づけてきた。
「……本当に反省してますか?」
訊ねてくる弥太郎。
かすかに潤んだ目を間近に見てしまえば、首を縦に振る以外の選択肢があろうはずもなく。
「もちろんです。今後は気をつけます、はい」
「ならばよし、です」
そう言って弥太郎はにこりと微笑む。
弥太郎と出会ってからもう一年近く経つ。朴訥で野暮ったかった(ごめん)女の子も、ずいぶんと凛々しく、垢抜けてきた。最近では、豊弘にくっついて越後に来た遊女さんたちから化粧の仕方を習っているらしい。
この前まではそういうことをほとんど気にしなかったのになあ……その成長が嬉しいような、寂しいような、複雑な心地である。
ともあれ、何が言いたいかというと、いきなり顔を近づけて、目の前で笑うのはやめておくれ。
普通に顔が赤くなる。
ついさっき秀綱相手に似たような恥ずかし目(造語)を受けたばかりだというのに。
健康な男としては当然の反応なのだが、弥太郎をそういう目で見るのは、なんかこう抵抗があるのだ。仲の良かった女友達に「女性」を感じてしまった、みたいな。
そんな風に内心でもだえていると、段蔵がぼそりと呟いた。
「接吻はお済みですか、二人とも」
それを聞いた弥太郎は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに今しがたの行動を思い返したらしく、瞬時に耳たぶまで真っ赤に染め上げた。
「あ、あ、いあ、今のは、その、接吻とか、そういうのじゃあッ」
「冗談です」
「ふあ!? だ、段蔵、ひどいよッ!」
羞恥か憤慨かはわからないが、頬を赤らめて怒る弥太郎に、段蔵は淡々と指摘する。
「弥太郎、他家の方がいるのです。臣下が主をとがめるような真似をすれば、加倉様が恥をかきます。気持ちはわかりますが、今のはやりすぎです」
「あ……」
段蔵の視線が秀綱に向けられると、その意を悟った弥太郎の顔から赤みが急速に引いていった。
自分の失態に気付き、どうしようどうしようとうろたえる弥太郎。
俺は照れ、弥太郎は慌て、段蔵は冷静。なんだかよくわからない状況を収めてくれたのは、鈴を転がすような秀綱の笑い声だった。
「越後上杉家は義を重んじるともっぱらの評判です。村上家を再興し、将軍家をお守りし、今また関東管領家を救わんとしているあなた方の行動から、世評に偽りがないことは承知しておりました。ですが、ふふ、その臣下の方々がこんなにも楽しい方々であるとは思いもよりませんでした」
秀綱の言葉に真っ先に反応したのは段蔵だった。
「お言葉を返すようですが、私どもは上杉家にあっても稀少な君臣であると思います――おもに主様が」
だから参考にはならない、と口にする段蔵。
俺は小さくぼやいた。
「間違いなく褒めてないな、その言い方は」
「無論です」
「断言しちゃ駄目だよ、段蔵!? あ、あの大胡様、相馬様は、そのすごい良い御方で、あの、私、心から尊敬しておりますですッ!」
「…………ぉぉぅ」
黙り込む俺を見て、段蔵がぽつりと一言。
「主様。私も弥太郎のように内心を吐露いたしましょうか?」
「……勘弁してください」
「え、え、私、なんか変なこと言いましたか、相馬様!?」
返答の代わりに弥太郎の頭をぽんぽんと叩く、というか撫でる。
弥太郎はわけが分からないと言いたげに目を白黒させていたが、それでも嬉しげに頬を緩めた。
そこでふと開戦前の会話を思い出した俺は、弥太郎の次に段蔵の頭も撫でてみた。
まったく予期していなかったらしく、段蔵がぽかんとした顔で俺を見上げている。
一秒、二秒、三秒。
きっかり四秒後に再起動を果たした段蔵が、しゅざざざ、と音をたてて後ずさった。
「……な、な、何をなさるんですか!?」
「ほら、北条と戦う前に、勝ったら頭を撫でていいと言ってたじゃないか」
あれだよあれ、と告げると、憤然としていた段蔵の勢いが急速にしぼんだ。
自分の言葉を思い出したのだろう。
と、段蔵が無念そうに口を閉ざしたとき、兵の一人が慌てた様子で駆け寄ってきた。
政景様が俺たちを呼んでいるという。どうやら越後から急使が来たらしい。
たちまち場の空気が一変する。
急使というのは十のうち九くらいは凶報を運んでくるものだ。俺たちはすぐに本陣に向かった。
景虎様が越後守護になってまだ間もない。しかも今は政景様と五千の兵が関東まで遠征に出ている状況だ。どんな変事が起きても不思議はなかった。
凶報の内容を様々に推測しつつ、政景様の下へ赴く。
そこで俺たちは、先に甲斐に退却したはずの武田軍が、北信濃の村上領を攻撃したことを知らされたのである。




