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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第六十五話 一騎当千



 上杉軍が喊声をあげて前進を開始した。

 四千の軍勢が雄たけびをあげて一斉に攻めかかってくる様は、怒涛どとうが押し寄せてくるにも似て、対峙する者たちを戦慄せしめる。

 そこらの軍であれば鎧袖一触、蹴散らされたであろう。

 だが、北条軍とて歴戦の精鋭。この程度で崩れ去るような脆弱さは持ち合わせていなかった。



「射よ!」

「ッてェッ!」



 矢頃に近づくや、無数の弓弦が鳴って雨のような矢が両軍に降り注ぐ。

 幾人もの兵士が苦痛の声をあげて倒れたが、敵も味方も負傷者に構っている暇はなかった。

 騎兵は身を低くして篭手をかざし、足軽は陣笠を盾代わりにして矢を防ぎ、ひたすら敵陣へと突き進む。

 三度目の雨が降り終えた頃、両軍は敵兵の顔を目視できる距離まで近づいていた。



 上杉軍の先陣を切ったのは小島弥太郎である。

 弥太郎は頭上で長槍を旋回させながら北条軍の陣列に突っ込んだ。



「ああああッ!!」



 咆哮と共に弥太郎が槍を一閃させると、四人の北条兵がまとめて吹き飛ばされた。

 弥太郎の勢いは止まらない。さらに二度、三度と槍を振り回して北条軍の陣列に穴を開けていく。

 これが屈強な男兵士の仕業であれば、北条兵はその剛勇に驚きはしても混乱することはなかったに違いない。



 実際、弥太郎の上背うわぜいとたくましい具足姿を見た北条軍は、弥太郎が男性であると何の疑いもなく信じていた。

 ところが、弥太郎が発する声を聞き、至近で身体つきを見て、徐々に疑念が膨れ上がっていく。乱戦の最中、敵兵の穂先で兜を弾かれ、素顔があらわになったことが決定打となった。



 汗と泥でよごれながら、なお柔らかさを失わない少女の顔。

 今の今まで弥太郎のことを上杉の大剛の武士と思い込んでいた北条軍は、あまりの意外さに戦の最中にもかかわらず呆然としてしまう。

 むろんというべきか、当の弥太郎はそんな敵兵の驚愕にまで気がまわっていない。

 北条兵の動きが止まったのを見ても好機としか思わず、遠慮など一切なしに槍を振るい、敵兵の身体をかなたまで弾き飛ばした。



 それを見た上杉兵たちが顔を見合わせて低声こごえで語り合う。



「……お前、人が空飛ぶところ見たことあるか?」

「あるわけねえだろ……今この目で見るまでは、な」

「うむ、おれもじゃ。しかも縦に回転しとらんかったか?」

「さすがは上杉のいまともえ様じゃあ……!」

「相変わらずの平家物語好きじゃの、そなた……」

「加倉様のおそばにいる時は、あんなにしとやかなのになあ」

「始まる前から散る恋というのも哀れよな」

「やかましいわいッ」



 何気に余裕のある後続の兵士たちであった。

 見方をかえれば、それだけ弥太郎の剛勇が衆を圧していたということでもある。



 これもむろんというべきか、弥太郎はそんな味方の声に気づいていない。

 弥太郎は弥太郎なりに覚悟を決めてこの戦いに臨んでおり、余計なことに気を割いている余裕はなかったのだ。



 当初、弥太郎は加倉のそばから離れて前線に行くことに難色を示していた。

 忠義に厚い弥太郎のこと、はっきりと反対を唱えたわけではなかったが、できればこれまで通り加倉の傍らで戦いたいと目顔で訴えた。

 だが、加倉はそれを承知しつつ弥太郎を説得する。

 この戦において、加倉は自ら名乗り出る形で左翼部隊を率いることになった。後方で戦を支えるのではなく、前線で矢石の雨にさらされることを望んだのである。

 それは加倉なりの熟慮の結果であり、名乗り出た以上は勝算もあった。そして、その勝算を現実のものとするためには、弥太郎の武勇が最前線で発揮されることが不可欠だったのである。



 加倉にこんこんと諭されれば首を横に振ることはできぬ。

 それでも、京での出来事を知る弥太郎は、加倉の身辺の守りが薄くなることに不安を隠せずにいた。

 だが。



『天道を行く我ら上杉の武を坂東ばんどう武者むしゃに知らしめよ! 最強なるは我ら上杉であることを東国全土に知らしめよ! 関東を斬り従える先陣たるの誇りをもって、我らこれより北条軍を撃滅する!!』



 凛冽たる気概をもって将兵を鼓舞した加倉の声が、今も弥太郎の脳裏にこだましている。

 死にたがりの病などどこにもない。あれは勝利を望む将帥の声そのものだ。

 そして、自分がその先鋒たるを望まれた事実に弥太郎は感奮する。全軍に向けた突撃の号令が、己ひとりに向けられたもののように聞こえたのはさすがに気のせいであったろうが、それでも弥太郎はかつてないほどの心身の昂ぶりを覚え、その全てを眼前の北条軍に叩きつけていた。



 猛犬のごとく暴れまわる弥太郎によって右翼の北条軍は陣列を噛み裂かれ、上杉軍に陣形内部への突入を許してしまう。

 その後も小島弥太郎を先頭とした上杉軍に押しに押された北条軍は、開戦から半刻も経たないうちに五町(五百四十メートル)近くも後退を強いられた。



 並の軍ならば、これを皮切りに一気に崩れたかもしれない。

 だが、さすがに北条軍は精強であり、太田資正は優れた将であった。

 資正は右翼が押され気味であると見るや、ただちに中軍から一千の援軍を差し向けて右翼を援護する。

 同時に資正は左翼に対して攻勢を指示した。



 上杉軍右翼の極端な備えの薄さが罠であることはわかっている。

 だが、罠を恐れて動かないのは愚の骨頂。敵が奇策に出た――出ざるを得なかったということが敵軍の苦境を言外に物語っている。

 越後上杉家と山内上杉家は仇敵の間柄、これにくわえて短い間に所属を二転三転させた国人衆の連合軍ともなれば、指揮系統が確立されているかさえ怪しいものだ。

 敵を恐れず、さりとて軽んぜず、ひた押しに押していけば奇策など意に介する必要はない。

 それが資正の考えであった。



 かくて、主将の命令を受けた北条軍左翼は猛然と攻撃を開始する。

 左翼を率いるのは太田資正の嫡子氏資(うじすけ)、兵数は二千五百。

 迎え撃つは大胡秀綱率いる長野軍五百。


  

 接敵した当初、大胡秀綱は自軍を巧みに統御し、数に優る敵軍と互角の戦いを演じる。

 秀綱は長野十六槍の一角として武勇こそ知られていたが、指揮官としての能力は未知数であったから、この統率力は諸人を驚かせた。

 もっとも、五倍近い兵力差がある以上、いかに秀綱がすぐれた指揮をとろうとも敵の攻勢を食い止めることは難しい。



 北条軍は長野軍の頑強な抵抗を力ずくで破砕していき、ついに本陣の秀綱を捉えた。

 秀綱は自ら刀を抜いて北条兵を迎え撃つ。

 指揮官がじかに敵兵と刃を交えるなど、それだけで負け戦といってよい。



 ――だが、今回の戦においてこの認識は誤りとなる。



 十数人の北条兵が大胡隊の本陣に駆け込んできたとき、そこには馬から下りて刀を手にした秀綱の姿があった。

 秀綱は最低限の具足しか身に着けておらず、北条兵は秀綱が指揮官であるのか、それとも指揮官を逃がすために本陣に踏みとどまっているのかの判断に迷った。

 後者であれば、秀綱など無視して敵指揮官を追わねばならぬ。

 そんな敵兵に向かって、秀綱は静かに名乗りをあげた。



「右翼を任された大胡おおご武蔵むさしである。手柄を欲する者はかかって参られよ」



 敵兵を前にしてたけるでもなく、はやるでもなく、双眸には敵意も戦意も浮かんでいない。

 にもかかわらず、北条兵は怯んだように動きを止めた。 

 圧倒的な自信と自負に裏打ちされた強者の威を、本能的に感じ取ったのであろう。

 だが、ここまで来て敵将を見逃すなどありえない。北条兵の先頭に立って突入してきたことからも分かるとおり、この場にいるのは北条軍の精鋭部隊。その彼らにしてみれば大胡秀綱など無名の将、長野十六槍など田舎武士の背比べ。

 恐れる必要など何もない。北条兵は意を決し、雄たけびをあげて秀綱に斬りかかっていく。



 ――雷光のごとき剣閃が北条兵を迎え撃った。



「ぐああああ!」

「おのれ――ぐひィ!?」



 秀綱の刀が左右に閃くつど、必ず鮮血が散った。



「あああ、腕が、腕がああッ」

「…………あ、ひ?」



 槍で突きかかれば柄ごと腕を断ち切られた。

 刀を交えれば本人ですら気付かないうちに首が飛んだ。



「あひゃあああッ!?」

「お、ぐ、な、なんだこやつはァ!?」

「ばか、下がるな! 一斉に突きかかれば――があああああ!!」



 本陣にわけいってきた十数人の北条兵は、秀綱一人の手によって瞬く間に半減した。

 長野兵はあらかじめ秀綱に命じられていたとおり、乱戦には加わらずに指揮官の援護に徹している。そのため、傍から見れば秀綱は常に前後左右を敵兵に取り囲まれている状態だった。



 だというのに、北条兵の誰一人として秀綱にかすり傷一つ付けられぬ。

 その姿は人間ならず、風かかすみかと北条兵をおののかせるに十分であった。

 しかもこの風はひとたび攻撃に移ったならば、荒れ狂う撃斬の旋風と化して立ちふさがる者どもを血祭りにあげるのだ。

 ついに残り数人となった北条兵は悲鳴をあげて逃げ出そうとする。そんな彼らを周囲の長野兵が確実にしとめ、大胡隊は危機を脱した。



 ――いや、そもそも今のは本当に危機とよべる事態だったのか。



 長野兵の中にはそんな疑惑に駆られる者もいた。

 右翼の大胡隊を構成するのは長野業正直属の兵士である。当然、長野十六槍の一角たる大胡秀綱の存在は知っていた。先の武田相手の戦いで秀綱が武功をあげたことも知っていた。

 だが、秀綱の武術が単独で北条の一小隊を蹴散らし得るものであったと知る者はいなかった。



 戦が始まる前、長野兵のごく一部ではこんな囁きが交わされていた。

 長野十六槍は個人の「武術」を称えた称号ではなく、その者が独自に動員し得る兵力まで含めた「武力」を考慮した称号である。上席の中にはろくに刀を振るえない老人もいる。

 秀綱もまた、かつては上州八家の一つに数えられた大胡家の出だ。若く、しかも女性である秀綱が十六槍に名を連ねたのも、そのあたりが関係しているのだろう。今回の抜擢もその流れにそってのことに違いない、と。



 若くして出世した者に毀誉褒貶きよほうへんが集中するのは世の常だ。

 実際は業正に秀綱を抜擢する意思はなく、加倉相馬が長尾政景を強引に説き伏せて秀綱を指揮官に据えたに過ぎないのだが、そんな情報が兵士たちに知らされるはずもない。

 不満を持つ者たちは唇を曲げて秀綱を見ていた。



 だが、今の戦いぶりを見れば、そんな疑いは邪推もいいところ。

 単純に個人の武術だけを見れば、間違いなく秀綱は上席に名を連ねる。へたをすれば最上位に位置するかもしれない。

 そんな風に興奮気味に囁き交わす長野兵のもとに、北条軍の第二波、第三波が襲いかかってきた。



 いずれも第一波の兵と同様、先鋒を任される敵の精鋭である。

 長野軍はたちまち激戦の渦に飲み込まれた――が、決して崩れることはなかった。

 繰り返される先刻の光景。積み重なる北条兵の死屍。

 秀綱は刀の切れ味が鈍るや、従者から新たな刀を受け取り、それでも間に合わなくなると、ついには戦っている敵の武器さえ奪いとって北条兵をほふり続けた。



 敵の返り血を全身に浴びた秀綱は、地獄の羅刹らせつもかくやというような凄惨な姿となっている。

 それでも秀綱は止まらない。止まるどころか、戦場のただ中で舞うように敵を斬り倒す動きは、時間を追うごとに冴え渡る一方だ。北条兵の中にはその舞に魅入られたように立ち尽くし、無抵抗のまま斬られる者さえいた。

 古来、武闘はすなわち舞踏であったという。

 今の秀綱の姿は、見る者にそんな言葉を思い出させた。



 太田氏資率いる北条軍左翼二千五百は、わずか五百の大胡隊によって――いや、秀綱一人によって完全に勢いをせき止められた。

 それを感じ取った秀綱はボロボロになった刀を投げ捨てると、地面に転がっていた槍を拾い上げ、鞍上の人となる。



 秀綱とて人間だ。たった一人で二千を超える敵兵すべてを討てるはずがない。

 北条軍も時間をおけばそのことに思い至り、数にまかせて押し込んでくるだろう。多数の敵兵にかわるがわる襲い掛かられ、なおかつそこに弓矢や石つぶてといった飛び道具を混ぜられたら、さすがに秀綱も対処に困る。

 だから、秀綱は打って出る。北条軍に態勢を立て直す暇など与えない。五百対二千五百の戦いにおいて、五百の側が攻勢に出てはいけないなどという決まりはないのだから。



 大胡秀綱は長野十六槍のひとり。

 槍をもって敵陣を駆けることにためらいがあろうはずもなかった。



 かくて大胡隊は七度に渡る攻勢を退けた後、一転して攻勢にうつり、太田氏資の部隊に躍りかかった。

 いかにして大胡隊を打ち崩すかに腐心していた太田氏資は、予期せぬ敵の反撃に驚いた。この驚きはたちまち麾下の将兵に伝染し、左翼部隊は瞬く間に乱れ立つ。



 氏資は必死に将兵を鼓舞して部隊の崩壊を防ごうとするが、そんな氏資をあざ笑うように、戦場外縁部から突如として襲いかかってくる部隊があった。

 長尾政景率いる遊撃隊である。

 戦に長けた越後の守護代は、大胡隊の奮戦を横目に見ながら戦場を大回りし、北条軍の側背に回りこんでいたのである。



 大胡隊によって前進をさえぎられ、のみならず逆撃によって後退を強いられていた太田氏資の部隊に、この奇襲を防ぐ術は残っていなかった。

 無防備な横腹を切り裂かれて上杉兵の進入を許し、陣の内部を思う様に食い破られていく。

 苦悶にのたうつ北条軍に対し、大胡隊は槍先をそろえて突きかかり、さらに出血を強いていった。





 北条軍の総指揮官である太田資正は、左翼の戦況を遠望して表情を強張らせる。

 だが、さすがというべき沈着さを発揮して、すぐに顔から表情を消した。

 指揮官が顔色をかえれば部下が不安を覚える。資正は冷静さを保ったまま腕を組んだ。



 すぐにも左翼に援軍を派遣したいところだが、すでに右翼に一千の援軍を送った後。これ以上増援を送れば、肝心の中軍の陣容が薄くなってしまう。

 資正の正面に陣取るのは長野業正率いる四千五百。対する資正の中軍は三千。今でさえぎりぎりなのだ。これ以上陣容を薄くするわけにはいかない――そんな資正の思考を読み取ったかのように、業正率いる敵の中軍が動き始めた。



 業正から見れば、左右両翼は有利に戦いを進めている。ここで自分が資正の中軍を押さえつければ勝利はほぼ確定する、と判断したのだろう。

 実に正しい判断だ、と資正は思う。自分が業正の立場だったとしても、間違いなく同じことをする。

 そう考えた資正は左翼を単独で動かしたことをわずかに悔いた。

 中軍と左翼を同時に前進させ、歩調をあわせて敵軍に挑んでいれば、ここまでの不利を招くことはなかったに違いない。



 罠の存在を考慮しつつも大胡隊を寡兵と侮った、太田資正の致命的な失策だった。



 だが、この資正の判断を責めるのは酷というものであったろう。

 まさか大胡秀綱の武勇が孤軍よく五倍の敵を防ぎ止めるものであると、いったい誰が予測できようか。

 むしろ、秀綱が持ちこたえることを前提として作戦を編んだ上杉軍 加倉相馬の異常なまでの眼力をこそ、人々は不審に思うべきであった。



 だが、成功した作戦は全てを肯定する。

 加倉相馬の考案した戦術案はことごとく図にあたり、今や太田氏資率いる左翼は壊乱状態。

 中軍の資正は、兵力にまさる敵部隊との対決で他隊を援護することができない。

 残るのは太田康資(やすすけ)率いる右翼であるが、加倉と直接対峙するこの部隊もすでに潰走寸前の状態であった。






 太田康資は身の丈六尺(百八十センチ)以上の大剛の武士であり、三十人力ともうたわれる膂力の持ち主だった。

 康資が戦場に立って八尺(二百四十センチ)の鉄棒を振り回せば、敵兵は土でつくられた人形のように千切れ飛ぶ。

 その康資は開戦当初から数にまさる上杉軍相手に苦戦を強いられ、苛立ちを隠せずにいた。



 康資の視線の先には、戦場のただ中にあって平服をまとい、手に扇をもって兵士を指揮する敵将 加倉相馬の姿がある。

 並外れた指揮、というわけではなかった。

 康資が知る北条氏康や北条綱成に比すれば凡庸とさえ言える。



 だが、隙がない。防御にも、攻撃にもだ。

 決して無理をせず、やるべきことをぬかりなく行う周到さが随所に見て取れる。

 実にやりにくい相手だった。こちらが兵力でまさっていれば力ずくで打ち破ることもできようが、今は康資の方が兵数で劣っている。

 実際、敵陣に楔を打ち込もうとした康資の試みは、ことごとく加倉によって阻まれていた。



 それでも、敵将が加倉一人であれば互角の形勢を維持することくらいは出来たであろう。

 加倉の指揮は勝つことよりも負けないことに重きを置いている。

 敵陣を貫くきりのような鋭さに欠けるのだ。

 防戦に徹すれば持ちこたえることは難しくない。



 逆にいえば、加倉が錐を手にしたとき、康資では対応できない。

 そう。

 今まさにそうであるように。



 上杉軍の先頭で荒れ狂う鬼小島の武勇は、まさに加倉にとっての錐そのものだった。

 小島弥太郎は兵を指揮しているわけではなく、ただ個人的な武勇を存分に発揮して突き進むだけである。

 弥太郎の前進によって生じた空隙はすぐさま上杉兵によって埋められ、決して弥太郎を孤立させることはない。

 それを確認して――否、加倉を信じきった弥太郎は後ろを振り返ることさえなく、さらに前進し、北条軍の陣列に大穴をあけていく。そうして出来た空隙は、再び上杉兵によって埋められていく。



 単純なまでの、その繰り返し。

 だが、単純であるがゆえに挽回の策もまた限られる。これを何とかするためには鬼神のごとく荒れ狂う弥太郎を討つか、あるいは敵陣の奥で指揮をとる加倉を狙うしかない。

 どちらも簡単なことではないが、このまま手をつかねていては上杉軍の勢いに押し切られてしまう。



 康資は決断を下した。

 自ら馬廻うままわりを率いて加倉の本陣を突き崩すのだ。加倉さえ討ち取れば、弥太郎の突進は匹夫の勇に成り下がる。突出したところを押し包んで討ち取ってしまえばよい。

 逆に弥太郎を討とうとして不用意に軍を動かせば、その間隙を加倉は見逃さないであろう。



 資正からは「指揮官は軽々しく動かぬもの。決して猪突しないように」と言い含められていた康資であるが、事ここに至れば是非もない。

 康資は腹心の部下に右翼部隊の指揮を委ねると、自ら馬を駆って敵陣に突き進んでいった。

 敵味方が入り乱れる戦場にあっても康資の巨躯はおおいに目立つ。黒鉄くろがね色の鉄棒を振りかざし、味方を鼓舞しながら進む康資を見て、押されっぱなしだった北条兵は蘇生の思いで喊声をあげた。



 だが、康資が上杉軍と接敵するより早く、北条軍の喊声が一転して悲鳴にかわる。

 何事かと振り返れば、本陣に掲げられた『三つ鱗』と『太田桔梗』が引きずりおろされ、かわって上杉軍の軍旗が掲げられていた。

 加藤段蔵率いる一隊が、手薄になった本陣を急襲、制圧したのである。



「おのれ、こしゃくな真似を!」



 康資は忌々しげに声を荒げた。

 本陣を離れた判断を今になって悔やんだが、時すでに遅く、康資麾下の兵は次々に上杉軍に背を向けていく。

 康資がどれだけ声を励ましても止まらない。

 もはやこれまでと判断せざるを得なかった。



「やむをえぬ。本隊と合流し、態勢を立て直すしか――」



 あるまい、と続けてようとした康資の近くで立て続けに絶叫があがった。

 そちらを見れば、馬廻うままわりの者たちが次々に馬上から叩き落とされ、あるいは突き殺されていく。

 それを為したのは康資に迫る上背を持つ敵の将 小島弥太郎であった。



「ちィ! 調子に乗るでないぞ!」



 地面に立つ弥太郎に向け、康資は馬上から八尺棒を振り下ろす。

 当たれば兜ごと頭蓋を砕き割る剛撃だ。

 弥太郎はとっさに長槍を使ってこれを受け止めたものの、かつて味わったことのない衝撃に顔を歪めた。

 と、次の瞬間、弥太郎の槍の柄が音を立ててへし折れる。総鉄製の八尺棒の圧力に耐え切れなかったのだろう。

 思わず目を瞠る弥太郎に向けて、康資は再度八尺棒を振り下ろした。



「この太田康資に討たれることを名誉と思え、おんなァ!!」



 それを聞いた瞬間、攻撃をかわそうとしていた弥太郎の目に、これまでとは異なる光がともった。

 実のところ、弥太郎がここにいるのは太田康資を狙ってのことではない。そもそも目の前の戦いに集中していた弥太郎は、敵将の顔を見てもいないのだ。

 そんな弥太郎がここにいるのは、いかにも手ごわそうな騎馬部隊が加倉の下に向かうのを見て、慌てて駆けつけてきたからに過ぎない。



 だが今、弥太郎は敵将の名を知った。顔は知らずとも、軍議の際に加倉から聞いた名前はちゃんと覚えている。

 敵将太田康資。北条家中にあって剛力無双と称えられる人物であるという。

 この相手を倒せばこの戦いに勝てる。のみならず、剛力無双の勇士を失った北条軍は、上杉軍こそ最強であることを思い知るに違いない。



 ――勝たなきゃ!



 内心で叫んだ弥太郎は回避を中断。頭の上で両腕を交差させると、振り下ろされた八尺棒を真っ向から受け止めた。

 両手に装備した篭手こてを用いた捨て身の防御。一歩間違えば両手の骨を砕かれ、さらにそのまま頭蓋を割られていたかもしれない。



 危険極まりない賭けは、しかし、確かな勝算に基づくものだった。

 一撃目の威力からして、自分ならば受け止められると弥太郎は確信していたのである。

 その確信が正しかったことは、目を剥いて驚愕する康資の顔が証明している。

 弥太郎は即座に相手の鉄棒を掴み取り、そのまま奪い取ろうとした。



「……ぬッ!? こしゃくな、俺と力比べをするつもりか!」

「……ッ!!」



 なんとか弥太郎から武器を取り返そうとする康資と、言葉もなく相手の武器を奪おうとする弥太郎。

 二人の力比べは甲乙つけがたく、容易に決着がつかなかった。

 康資などは馬廻うままわりの兵に命じて弥太郎を討つこともできたろうが、なまじ自分の力に自信がある分、挑まれた勝負に背を向けることができなかった。

 ここで配下の力を頼れば、純粋な膂力で女に負けたと見なされるという恐れもあったろう。



 この力比べに最初に耐え切れなくなったのは、弥太郎でも康資でもなく、康資が乗っている馬だった。

 康資の巨躯を支えられる力強い駿馬であったが、三十人力の主と、その主に匹敵する力の持ち主との力比べに耐えられず、膝を折って地面に倒れてしまう。

 自然、鞍上の康資の体勢は大きく崩れた。その隙を逃さず、弥太郎は康資の手から八尺棒を奪い取る。



「しま――!?」

「えええええいッ!!」



 不覚の声を漏らす康資に向けて、弥太郎は力のかぎり八尺棒を叩きつける。

 今まさに鞍上から落ちようとしていた康資に、その攻撃を受け止めることはできなかった。



 ぐしゃり、と。

 鉄でつくられた兜がひしゃげる音がした。

 耳の良い者であれば、兜以外にも何か硬いものが砕けた音を聞き取ることができたかもしれない。

 自身の武器で側頭部を殴打された康資はぐるりと白目を剥き、そのまま地面に倒れこんだ。

 ぜいぜいと息を荒げる弥太郎と、地面に倒れこんだままぴくりとも動かない康資。



 上杉兵の口から歓声が、北条兵の口から悲鳴が、一斉にほとばしった。




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