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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第六十四話 越相激突



 当初、俺が考えた布陣は以下のとおりだった。


 左翼 長尾政景 上杉軍四千五百

 中央 長野業正 上野国人衆&長野軍四千

 右翼 加倉相馬 上杉軍五百

 遊撃 長野業盛 長野軍一千


 参考までに北条軍太田資正の布陣はこんな感じである。


 左翼 太田氏資 二千五百

 中央 太田資正 四千

 右翼 太田康資 二千五百



 俺の狙うところは単純。兵力的に弱小の右翼は敵の攻勢を誘う釣り餌だ。

 北条軍の左翼兵力は二千五百だから、一時的に五倍以上の敵を相手にすることになるが、このくらいしないと太田資正の堅牢な布陣は崩せないだろう。



 もし、敵軍が罠を警戒して動かなかったとしたら?

 それはそれで構わないのだ。その場合、こちらの右翼五百で敵の左翼二千五百を釘付けにしている計算になる。その分、兵力にまさる味方左翼の戦いが有利に運べるのは自明の理であった。



 ――というような説明を軍議でしたところ、長野業正から異論があがった。

 反対、というわけではなく、配置転換の要望である。

 いわく、この戦いは山内上杉家の所領を取り戻すためのもの。その戦で援軍の越後兵に最も危険な役目を強いたとなれば山内上杉家ならびに長野家の恥となる。

 ゆえに右翼は是非ともわしにお任せいただきたい、というのが業正の言い分だった。



 この主張は理解できたが、俺としてもはいわかりましたとうなずくわけにはいかなかった。

 というのも、業正を中央に据えたのは上野国人衆の目付け役という意味もあったからである。反覆はんぷくつねない関東諸侯も、すぐ後ろに長野業正が控えていれば、そうそう裏切ろうとは思うまい。この役割はまだ若い業盛では務まらないだろう。



 とはいえ、まさか軍議に列席している国人衆の前で「こいつらが裏切るかもしれないから駄目です」とは言えない。

 そんな俺の様子を見て察するところがあったのか、業正は何やら考え込む。

 そして次に業正が出した案が「長野十六槍」と呼ばれる自家の精鋭を右翼に配する案であった。



 十六槍といっても別に十六人の槍部隊というわけではなく、長野家でも雄なる者たちが列座する称号みたいなものだ。四天王と八魔将とか十二神将とか、そんな感じのやつである。

 結局、この十六槍を含めた長野軍五百を右翼部隊に組み込むということで軍議は落着した。これだと結局右翼が千人を超えてしまうので、今ひとつ囮の役目を果たせないのだが、長野業正に是非にと言われては断れない。



 そうして軍議の後に引き合わされた十六槍の代表者が大胡おおご秀綱ひでつなであった。



「十六槍の末席に名を連ねる大胡武蔵守(むさしのかみ)秀綱と申します。よしなに、越後の方々」



 簡略に名乗って会釈した秀綱は例によって例のごとく女性であった。

 涼しげな目元に伸びた鼻筋。頬からあごにかけての曲線は彫像のように研ぎ澄まされ、唇は意志の強さを示すように一文字に引き結ばれている。

 身長は俺と同程度だから、女性としてはかなり高身長である。すらりとした体躯は鍛え上げられた剣士のそれだが、同時に女性らしい丸みも帯びており、傍らに立つと薫るような芳香が鼻先をくすぐる。

 俗な言い方をすると、モデルみたいな美人さんだった。



 長い黒髪を無造作に頭の後ろで束ねていたり、脚衣がかなり短かったり、すそを大胆にあけていたりと、けっこう粗野な格好をしているのだが、そういう姿も不思議と似合う。

 聞けば、先の箕輪城篭城戦と武田追撃戦においても抜群の功績をあげたという。特に追撃戦においては先頭に立って槍を振るい、武田信繁の馬廻うままわり衆をほぼ単騎で蹴散らしたというのだから尋常ではない。

 景虎様だってそこまで武田の武将を追い詰めたことはないのだ。



 ただ、この人物ならばさもあらん、と俺は深く納得した。

 大胡秀綱はこの後、姓を変えるだろう。そのことを俺は知っている。その姓とは上泉かみいずみ

 すなわち、眼前にいるこの人物こそ、後に『剣聖』と謳われる上泉秀綱その人なのだ……!

 別段、俺は剣士でも何でもないのだが、剣聖とか剣匠とか聞けばどうしたって胸が高鳴ってしまうのが男の子。思わずきらきらした眼差しで秀綱を見つめてしまい、不思議そうな顔で首を傾げられた。




 ちなみに、なぜ業正が十六槍の末席にいる秀綱を寄越したかというと、十六槍の上席は大半が長野家の重臣であり、彼らの上に俺が立つのは色々と問題が生じてしまうからであった。

 なにせ俺は越後内部でこそ多少の名声はあれど、対外的には無位無官。何百(こく)、何千(ごく)、ことによったら一万(ごく)以上の知行持ちである他家の武将をあごで使うわけにはいかないのだ。



 その点、秀綱は十六槍の中では末席であり、どうやら知行持ちでもないらしく、そのあたりの軋轢あつれきが起こる心配はない。

 先の追撃戦でも、秀綱はあくまで業盛麾下の一兵として奮戦したに留まっているわけだ。秀綱につけられた五百の兵士も大半が業正直属の兵だった。



 この五百の長野兵を見た瞬間、俺は思った。

 あれ、これ囮どころか決戦兵力じゃね?




◆◆◆




 上野こうずけ国 平井城



 北条氏康から平井城を任された太田資正は、かの大田道灌(どうかん)の子孫にして、扇谷おうぎがやつ上杉家の重臣であった。

 扇谷上杉家の末期、資正は居城である岩付城に立てこもって最後まで善戦したものの、奮戦むなしく主家は北条家に滅ぼされてしまう。



 資正は主家滅亡後も降ることを潔しとせず、あくまで北条家と戦い続けた。

 しかし、援軍なき篭城戦ほど辛い戦いはない。資正はともかく、兵士や領民の士気は下がる一方であり、重臣の中からも降伏を求める声が相次いだ。

 このままでは岩付城の門は外から破られるよりも早く、内から開かれることになるだろう――ここにおいて資正は全面的に敗北を認め、ついに開城を決意する。

 頭を丸め、死に装束をまとって北条氏康の陣営に赴いた資正は、自らの命と引き換えに将兵の助命を請うた。



 この忠臣の降伏は北条氏康をおおいに喜ばせた。

 氏康はひざまずく資正の手を親しくとって立ち上がらせると、その場で北条家の重臣として迎えることを約し、岩付城主として城内に戻るよう命じた。



 氏康の度量を目の当たりにした資正は内心でため息を吐く。

 氏康と旧主では当主としての器が違いすぎる。自分は、扇谷上杉家は負けるべくして負けたのだと認めざるを得なかった。

 しかも、氏康はまだ若い。今後、どれほど伸びるかを考えると、資正でさえ空恐ろしくなるほどだ。

 氏康がこのまま正道を歩んでいけば、遠からず関東を――否、東国全土を席巻する英主が誕生するであろう。資正はそう考え、北条家と自身の未来を重ねあわせる覚悟を決めたのである。



 当然のように、今回の戦にかける資正の意気込みは凄まじかった。

 氏康の信頼に応えるためにも、絶対に平井城を守り通さねばならぬ。

 そう決意する一方で、それが決して簡単ではないことを資正はわきまえていた。



 資正にしても、今回の戦いの顛末てんまつは予想外といわざるを得ない。

 今川家の敗北は予測不可能であったから仕方ないにしても、問題はそこに到るまで、わずか五千の上杉勢にいいように翻弄されてしまったことだ。

 あれがなければ、桶狭間の敗報が届くまでに箕輪城を陥落させることができたはずなのである。



「越後守護代 長尾政景、か。氏康様や綱成殿もそうだが、どうして女将軍とはああも手ごわいのであろうか。ううむ、わしが妻に勝てぬ以上、これは考えるまでもないことなのか?」



 坊主頭の資正はそんなことを呟きながら九千の兵を率いて平井城を進発した。

 資正は三十代半ば。まさに男盛りといえる年齢であり、充実した胆知の持ち主である。

 修復が完了していない平井城に立てこもるという選択肢は初めからない。

 それに、ここで関東管領にくみする敵を叩くことで、動揺する上野国人衆を北条方に引き止めるという狙いもあった。



 これらが決戦に先立つ両軍の状況であった。




◆◆◆




 翩翻へんぽんとひるがえる北条家の家紋『三つ鱗』と太田家の『太田桔梗』。

 旺盛な士気を示すように北条軍九千からはたえず喊声が湧き起こっている。それでいて過度にはやる気配はなく、部隊ごとの進退は一糸乱れぬ整然としたものだった。



 繰り返すが、北条軍の陣形は中央の本隊よりも左右両翼が進み出た鶴翼の陣。

 兵力は中央に四千、左右に二千五百と均等に分けられており、正攻法といってこれ以上の正攻法はない。

 だからこそ、奇策でこれを打ち破ることは困難を極めるだろう。



「――と言いつつ、しっかり奇策を用いているように思うのですが?」

「気のせいだと思うぞ」



 隣に立つ段蔵の指摘に、俺は視線を泳がせつつ応じる。

 ちなみに布陣は以下のように変更した。



 左翼 長尾政景 上杉軍四千五百 →加倉相馬 上杉軍四千


 中央 長野業正 上野国人衆&長野軍四千

   →長野業正および長野業盛 上野国人衆&長野軍四千五百


 右翼 加倉相馬 上杉軍五百 →大胡秀綱 長野軍五百


 遊撃 長野業盛 長野軍一千 →長尾政景 上杉軍一千



 奇策は弄していないという言葉に嘘はない。俺の中では右翼を秀綱に任せた采配は奇策ではないのだから。

 ――まあ、段蔵の指摘の方が多数の賛同を得ることは間違いないけれども。

 正攻法の北条軍に対し、こちらは左翼を分厚く、右翼を極薄にした変則陣形。奇策と見なされて当然だった。



 だが、そんな俺の考えを否定するように段蔵は小さくかぶりを振る。

 長くなった黒髪が左右に揺れた。



「そちらのことではありません。加倉様が左翼を、政景様が遊撃隊の指揮をとっていることを言っているのです――まさかとは思いますが、また死にたがりが顔を出していませんか?」



 段蔵の射るような視線を頬に感じる。

 なるほど、どうも先ほどから段蔵の表情が硬いと思っていたが、それを案じてくれていたのか。

 俺は相手の心配を払うべく、はっきりと首を左右に振った。



「安心してくれ……と俺が言っても、あまり説得力ないか。けど、我が身を犠牲にして勝とうなんて思ってないぞ。勝つためにこれが最善だと判断しただけだ」



 それを聞いた段蔵がどういう表情を浮かべたのかは、敵陣を見据えたままの俺にはわからなかった。

 わかったのは、頬に感じる視線の圧力が徐々に消えていったことだけである。



「……そうですか。ならば、私は御身の采配に従うだけです。今度の敵は佐渡の本間とはわけが違います。ご油断めされぬよう」

「承知した。段蔵の方もよろしく頼むぞ」

「戦場での影働きも忍の生業です。お任せください」



 そういった後、段蔵はためらうように言葉を切ってから、低声で続けた。



「……弥太郎も私もおそばにいないのです。くれぐれも無茶は慎んでください」



 その言葉を聞いた俺は、敵陣に向けていた視線を戻して段蔵を見た。

 自然、こちらを見ていた段蔵と目が合う。ふいっと視線を外した段蔵の口から、どこか怯んだような声が発された。



「な、なんですか。どうせまた私には似合わないとお思いに……」

「ありがとうな」

「にな、な、あの……」



 素直に感謝の言葉を述べると、段蔵は虚を突かれたように声を途切れさせ、かすかに頬を赤らめた。

 うむ、弥太郎ならともかく、段蔵がこんな表情をするとはめずらしい。普段の怜悧な印象がかげり、年頃の少女の顔がのぞいたような気がした――まあ、その少女はほんの一瞬で消えてしまったわけだが。



「……どうも最近の加倉様は言動が読みにくいです。私をからかっているわけではないことはわかっているのですが」



 口を尖らせて文句を言う段蔵を可愛いと思ったことは、口に出さない方が賢明だろうな、うん。



「もちろん、いたって真面目だぞ。許してもらえるなら頭を撫でてやりたいくらいに感謝してる」

「弥太郎なら喜びそうですが、私はご遠慮させていただきます」

「それは残念」



 俺がそう言うと、段蔵は呆れたような、安堵したような、複雑な苦笑をもらした。

 その後、近づく開戦の気配を察して手勢に指示を下した段蔵は、去り際に真摯な眼差しを俺に向けてきた。



「……どうしてもというのであれば、勝利の暁に。ですから必ずご無事でいてください。加倉様を失えば、これまでの軒猿の献身がことごとく意味をなくしてしまいます」

「わかってるさ。段蔵も気をつけて。無理をするな、というのはそれこそ無理な話だが、互いに無事でまた会おう」

「御意」



 深く頭を下げた後、段蔵は配下の兵と共に姿を消した。

 すでに弥太郎は部隊を率いて前線に赴いている。今、俺の周囲に見慣れた顔は一つもない。

 あるのは政景様から託された四千の大軍と、それを指揮する緊張感だけだ。

 その俺の前に伝令が息せき切って飛び込んできた。



「申し上げます! 前方、敵右翼部隊が進撃を開始いたしました。敵将は太田資正が一族、康資やすすけと思われます!」



 伝令の報告どおり、前方からもうもうと土煙が立ちのぼり、北条軍の喊声が風にのってここまで届いてくる。

 去り際に段蔵が言ったように、この戦は佐渡で本間勢と戦ったときとは大きく異なっている。

 敵兵の練度も、敵将の能力も、戦の勝敗が及ぼす影響も、何もかも桁違いだ。

 だが、だからこそ、のしかかる緊張感が心地よい。

 知らず、俺の唇は笑みの形に歪んでいた。



「上杉全軍に告げる」



 静かな湖面を風が駆け抜けていくように、俺の声は左翼部隊全体に広がっていった。

 声を張り上げる必要はない。それほどに、戦を目前に控えた上杉の精鋭たちはしんと静まりかえっていた。



「この戦の勝利は上杉に寸土さえもたらさぬ。我らが勝ち取りしものは、すべて正当なる所有者に返還されるであろう」



 迫り来る北条軍の喊声がうるさいくらいに鼓膜を揺さぶる。

 だが、それでも上杉軍は動かない。



「それをもって戦うべき意味が失われると、わずかなりと感じる者は、ただちにこの場から去るがいい。我ら上杉が戦うは勝利をむさぼるためにあらず。我らはただ、主君が掲げる正義のために刀槍をふるい、敵を討つのだ」



 懐から取り出した鉄扇をそっと開く。そこにあるのは上杉の家紋ではなく、長尾家の家紋『九曜巴』である。

 だが、掲げる旗印がかわろうと、景虎様の志は寸毫すんごうも揺らぐことはない。

 この戦は景虎様の正義を関東の地に知らしめる第一歩。その先頭に自分が立つことの歓喜と誇りを、何と言い表すべきか。

 俺は胸奥から湧き上がる感情の高波を、そのまま声に乗せて解き放った。



「景虎様が望むものはこの乱世の終結なり! 我らは関東の地にそれを知らしめる第一陣、毘沙門天の剣の切っ先であると心得よ! 天道を行く我ら上杉の武を坂東ばんどう武者むしゃに知らしめよ! 最強なるは我ら上杉であることを東国全土に知らしめよ! 関東を斬り従える先陣たるの誇りをもって、我らこれより北条軍を撃滅する!!」



 俺の声に応じて、上杉軍がこれまで押し込めていた戦意が解き放たれていく。静かであった湖面がうねり、逆巻き、湖底のみずちが姿をのぞかせる。

 もはや北条勢の喊声は聞こえない。大地を揺さぶるように沸き起こった上杉兵の咆哮がすべての雑音を掻き消した。



 高々と鉄扇を掲げる。

 周囲の将兵から立ち上る溢れるほどの闘気が、物理的な圧力さえともなって俺の背中を後押しする。

 俺はまっすぐに鉄扇を振り下ろし、天に届けとばかりに声高こえたかく命じた。



「全軍、突撃ィ!!」



 直後、俺の号令さえ呑み込む大喊声が戦場を圧した。




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