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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第六十三話 箕輪城救援



 今川義元の死が伝わるまでの箕輪城の攻防は以下のとおりである。



 当初、箕輪城の救援に赴いた長尾政景率いる上杉軍は五千、城内の長野軍は二千五百。

 対する北条軍は四万、友軍である武田軍は六千。戦力差は歴然としていた。

 正面から戦えば勝機はない。

 武力によって箕輪城の包囲を打ち破ることは難しいと判断した上杉軍は、兵の損耗を嫌ったのか、一戦も交えることなく馬首を北へ転じる。



 箕輪城の西を流れる榛名白川の流れに沿って北上した上杉軍は、琴平山のふもとに陣を構えた。

 別の表現を用いれば、戦場の外縁部にとどまって箕輪城を遠巻きに眺める姿勢を示したのである。



 その様は先の戦いで日和見に走った関東諸侯を彷彿ほうふつとさせ、北条軍の中には上杉軍を取るに足らぬ相手と見なす者も少なくなかった。

 しかし、異なる見方をする者もいる。

 その一人、先の戦いでわずかではあるが上杉軍と接触した北条綱成は、上杉軍を放置しておくことの危険性を考え、氏康に攻撃の許可を求めた。

 氏康もまた上杉軍の動きに不審なものを感じており、綱成の求めに応じる。綱成は赤備えの北条綱高、白備えの笠原美作守らと共に上杉軍を急襲した。



 まさか北条軍が襲ってくるとは思っていなかったのだろう、上杉軍は算を乱して琴平山の陣を放棄し、さらに北にある鷹ノ巣山へと退却していった。

 物資を持っていく余裕もなかったようで、琴平山の麓には上杉軍の武具兵糧が山と積まれたまま残されていた。



 笠原美作守などはこれを機に上杉軍を撃滅すべしと唱え、更なる追撃を主張したが、北条綱高ならびに綱成はこれに反対した。

 特に綱成には不審の色が濃い。

 綱成は三国同盟が結ばれた善徳寺の会盟で、武田晴信の口から越後兵の精強さを聞いていた。

 今回の上杉軍の行動からは、その精強さの片鱗さえ感じとれない。兵糧や武器まで置き捨てて逃げていくその姿は、臆病というよりも、なにがしかの作為を感じさせた。

 綱成らを本隊から引き離した後、伏兵を用いて撃滅しようとはかっているのかも知れぬ。



 あらためて考えてみれば、越後軍がわずか五千というのも訝しい。

 調子にのって上杉軍を追撃すれば、手痛い反撃をくらう危険がある。ここは欲張らずに氏康の下へ引き返すべきであろう。

 綱成と北条綱高はそのように主張し、少しの時間をおいて笠原も同意した。ここまで言われてなお上杉軍に不審を感じないほどの凡将ではない。

 結局、北条軍は上杉軍が残していった物資を残らず鹵獲し、箕輪城を包囲する本隊に合流する。

 遠征中の北条軍にとって、上杉軍の残した物資は大変ありがたいものであった。



 一方、虎の子の物資を奪われて鷹ノ巣山へと退却した上杉軍はどうしていたか。

 三々五々、まとまりなく退却を続けていた上杉の各部隊は、鷹ノ巣山へ到着するや、ただちに木を切り倒して柵をつくりはじめた。

 険阻な山の地形を利用した堅陣をつくりあげ、北条軍に対抗しようとしているようだ。

 多くの旗指物を掲げ、少しでも北条の大軍に対抗しようとあがく姿は、傍から見ればひどく滑稽であったろう。



 実際、綱成らが放った斥候や風魔衆は、上杉軍が必死に鷹ノ巣山を要塞化しようとしている姿を見て憫笑びんしょうを誘われた。

 とうてい策を秘めた軍には見えない。追撃していれば一戦のもとに蹴散らすことができたろうに、と悔しがる者もいた。

 彼らは上杉軍に戦意なしと判断し、その報告をもって本隊へと帰還する。

 むろん、見張り役の者が数人残ったが、上杉軍は縮こまるばかりでまったく動きを見せない。

 夜に入るや、夜襲を恐れて昼間のようにかがり火をたく姿は、滑稽を通り越して哀れでさえあると見張りたちは笑いあった。



 ――だから、気づかなかった。

 昼間のように明るい陣の奥。かがり火が届かない闇の中で、ひそやかに上杉軍が集結しつつあることを。

 上杉兵は昼間とは表情を一変させていた。満々と戦意をたたえるその顔には、北条軍を恐れる色は微塵もない。音に聞こえた越後の精兵の姿がそこにあった。



 かくて、ひそかに鷹ノ巣山を離れた上杉軍が向かった先は、箕輪城のある南ではなく、東であった。

 少数の兵を鷹ノ巣山の陣に残した上杉軍主力は、夜を徹して駆けに駆け、上野の国を西から東へ横断する。

 そうしてたどりついたのは坂東太郎の名をもって知られる暴れ川――利根川である。

 危険をともなう夜の渡河に成功した上杉軍は、今度こそ陣頭を南へ向ける。

 目指すは箕輪城を守る支城の一つ、厩橋うまやばし城であった。




 厩橋城は箕輪城攻撃に先立ち、北条軍によって陥落させられている。

 城には黒備えを率いる多目氏聡が入り、城壁や城門の修復を行っている真っ最中であった。

 北条軍の主力である五色備えの一つを任されるだけあり、多目は油断とは縁のない慎重な武将であって、氏康の部下の中でも知略の人と目されていた。

 だが、その多目の眼力をもってしても、箕輪城の北に去った上杉軍が、暁闇を裂いて厩橋城に来襲してくると予測することはできなかった。



 上杉軍加倉相馬の考案した大規模な迂回攻撃はほぼ完璧な成功を収め、厩橋城を守る北条軍はたちまちのうちに混乱の渦に叩き込まれた。

 その混乱に乗じて全軍を叩き付けた長尾政景の猛攻の前に厩橋城はあえなく陥落、上杉軍に占領される。



 厩橋城を奪取した上杉軍はここに拠点をすえると、関東管領を保護したことを大々的に宣言し、いまだ関東管領に味方している者たちに集結を呼びかけた。

 そうして兵力の増強と城の修復を急ぐ一方で、二千ほどの兵を動かして南の金山城に攻めかかる。

 金山城主由良(ゆら)成繁なりしげは、北条家に従って箕輪城の攻囲に加わっていたが、この報告を受けて急きょ攻囲陣から離脱。自城に逃げ帰った。



 これにより関東、とくに上野東部に所領を持つ国人衆の間には深刻な動揺が広がり、北条家から離脱する者が相次いだ。

 この後方撹乱に対する北条氏康の反応は素早く、武田軍六千に箕輪城の攻撃を任せると、みずから北条全軍を率いて上杉の策源地となっている厩橋城奪還に乗り出した。



 この時、北条軍は多少の離脱者が出ていたものの、いまだ三万五千を超える大軍であった。

 一方の上杉軍は金山城攻めに差し向けていた二千を戻して、総兵力はかわらず五千。関東管領に味方する者たちが徐々に集まりつつあったが、その兵力は一千に満たず、とうてい戦力とは言いがたい。

 城の修復もまだ終わっておらず、当主が直接指揮する北条軍相手に篭城できる状態ではなかった。



 そのため、上杉軍は参集した関東国人衆に城の守りと修復をゆだね、利根川東岸に布陣。

 この暴れ川を防壁として北条の大軍と対峙した。

 これに対して北条氏康は全軍を二つに分け、一軍を北条綱成にあずけて上流へ向かわせる。渡河点を二つに分けることで、少数の上杉軍をさらに分散させようとはかったのである。



 かくて両軍は利根川のほとりで激突する――まさにその寸前、今川義元戦死の報が届けられたのである。



 報告を受けた北条氏康はただちに作戦行動を停止した。

 義元の死は三国同盟の根幹を揺るがすものになる。これを知った関東諸侯の向背も定かではなく、このまま戦闘を続ければ、上杉軍と戦っている背後から関東勢に襲われかねない。

 関東管領を裏切った彼らが、北条家を裏切ることをためらうはずがないのだ。



 幸い、対峙している上杉軍は川向こうにおり、追撃を避けることはたやすい。

 そう考えた氏康は退却を決断。武田にも使者を出して撤退を促すと、全軍を平井城に戻した。

 これを受けた武田軍も箕輪城から撤退を開始し、西上野の松井田城まで後退する。

 この際、武田の撤退を察知した長野勢の猛追をうけ、少なからぬ被害を出したものの、かろうじて敵の追撃を振り切ることに成功。松井田城に内藤昌豊を置くと、そのまま信濃へと退却していった。




 武田晴信が松井田城を確保したように、北条氏康も占領した上野の領土すべてを捨てるつもりはなかった。

 氏康は平井城を中心とした地域を北条家の所領とすべく、太田資正(すけまさ)に武蔵国人衆を中心とした兵一万をつけて平井城主に任命する。



 太田資正は勇将として知られていたが、同時に、扇谷おうぎがやつ上杉家の家臣として長らく北条家と敵対してきた経歴の持ち主である。

 このため、氏康の人事に反対する者も多かったが、氏康はこれらの反対を一顧だにせず、当初の命令どおり平井城を資正に託して小田原城へと退却した。



 武田軍は信濃へと去り、北条軍主力も相模へと退いた。

 この好機を上杉、長野両軍が見過ごす理由はない。

 互いに使者を送って歩調をあわせた両軍は平井城外で合流。新たに参陣した上野国人衆の軍勢をあわせ、総兵力は一万に達した。



◆◆◆



「こたびの上杉家の救援、まことに感謝の念に堪えませぬ。心より御礼申し上げる」



 そう言って深々と下げられた頭は、雪のように白い頭髪で覆われていた。

 顔に刻まれた深い皺は、戦乱の世を卓抜と生き抜いてきた宿将の歴史を記す年輪。

 両の目は蒼穹を仰ぎみるような深みを帯びて見る者を惹きつけ、体躯は老いたりといえど頑健そのもの。矍鑠かくしゃくという言葉がこれほど似合うご老人もめずらしいだろう。

 上州の黄斑 長野業正その人である。



 その業正の背後には一人の若者が控えている。

 澄んだ双眸、血色の良い赤い頬、引き締まった手足は若さと俊敏さに溢れ、見るからに剽悍ひょうかんな若武者といった風体をしている。

 実際、今回の戦いにおけるこの若者の戦果は目覚ましく、業正不在の箕輪城を指揮して六度にわたって武田の攻撃を撃退。さらに桶狭間の敗報を受け取って退却する武田軍を追撃し、晴信の弟信繁をあわやというところまで追い詰めたという。

 長野業正の嫡子、長野業盛(なりもり)であった。



「及ばずながら我ら長野軍、越後の守護代殿に従って平井城を奪還する一助となる所存! どうか先鋒は我らにお任せいただきたい!」



 若々しい声を張り上げた業盛は、そう言って期待するように政景様を見る。戦意に満ち満ちた眼差しには、長きにわたる篭城の疲労などかけらも感じられなかった。

 そんな業盛に対して政景様が何かを口にしようとした寸前、ぱこん、とやけにコミカルな音が鳴り響く。

 業正が息子の頭を拳骨でぶっ叩いた音であった。



「出すぎたことを申すな、たわけ。先の戦功で増長しおったか」

「ぐおぉぉ……ち、父上、いつものこととは申せ、何も上杉の方々の前で打擲ちょうちゃくなさらずとも……」

「ふん。こうすればそなたの頭がいかに軽いかを、方々に説明する手間が省けよう。頭の中が空っぽだから、そのように思慮のないことを口にできるのじゃ」



 父親の容赦ない物言いに、業盛は悄然として口を閉ざした。

 ふむ、長野家はずいぶんと厳しい教育を施しているらしい。まあ当の業盛はあんまりこたえていないようで、父親が前を向くや、すぐにけろっとした顔に戻ったが。



「愚息が失礼をいたした。我が兵は長尾殿の指揮下に入り、いかなる命にも従う所存。なんなりとご命令くだされ」



 この業正の言葉が始まりの挨拶となり、上杉、長野両軍による軍議が始まった。

 現在、上野こうずけは様々な勢力が入り乱れる混沌とした状況になっている。

 簡単に言えば松井田城以西は武田、平井城以南は北条、箕輪城から厩橋城にかけては上杉長野連合、それ以外の地域は山内上杉家に従う国人衆と北条家に従う国人衆がほぼ半々といった分布状況だった。



 ただ、箕輪城にしても厩橋城にしても、今回の戦で大きな被害を受けており、再度北条家ないし武田家が侵攻してきた場合、これに対抗することは難しい。

 それゆえ、桶狭間の戦の影響で両家が遠征できない今こそ、上野奪還の千載一遇の好機といえた。

 とくに平井城を陥落させることができれば、上野国内の北条勢力を一掃することができるだろう。



 逆に平井城を陥落させることができなければ、北条家は外交と調略によってじわじわと勢力を広げてくるに違いない。

 先の敗戦と逃亡によって関東管領の威信が大きく衰えた今、北条家の調略を防ぎとめることは至難の業である――この点において上杉、長野両軍の思惑は一致した。



 なお、ここまでで両家が角突きあわせる場面はただの一度もなかった。

 越後上杉家と山内上杉家は決して良好な間柄ではなく、むしろ仇敵といってもよい関係にあった。景虎様の父である長尾為景が、時の関東管領の実弟(当時の越後守護)を殺害して越後を奪い取ったからである。

 くわえて政景様の上田長尾家は、実は関東管領の被官の家柄だったりする。



 その政景様が越後守護代として関東管領を助け、関東管領の配下を指揮しようというのだから、対立の一つ二つあっても不思議ではない。

 見た目小娘な政景様の外見も不安の種であった。



 ところが、普段は人をからかうのが大好きな政景様は非の打ち所のない振る舞いで関東諸将の反発を未然に防いだ。

 威あってたけからず、きょうにしていやしからず。

 あれ、これほんとに政景様? と俺が内心で唖然とするほどの完璧な対応で、業正はじめ関東の国人衆も感嘆しきりであった。これができるなら普段からそうして欲しい、いやマジで。



 業正も業正で、自身の名声や武名を誇るような真似はせず、主導権を政景様に渡しつつ、しかし指摘すべきことはきちんと指摘する、といった対応を貫いた。

 おかげで両軍の軍議は停滞のての字さえなく、驚くほどすみやかに進んでいく。

 そうして出された結論は「速戦即決」であった。



 北条勢が平井城を陥としてから、まださほどの日にちは経っていない。おそらく平井城の城郭は修復の真っ最中であろう。

 持久戦などという悠長なことをしていては敵の防備が固まるばかりだった

 くわえて、速戦を選ばなければならない理由がもう一つある。

 兵糧が心もとないのだ。それは何故かといえば、上杉軍が琴平山にわざと兵糧を置きすて、退却に真実味を持たせようとしたからであり、つまりは俺のせいだった。



 長野軍はといえば、篭城を耐え切った直後であるから備蓄に余裕があろうはずもない。

 新たに参陣してきた国人衆に供出を命じるという手段もないわけではないが、それではすすんで連中に弱みを見せるようなものだ。

 山内上杉家と北条家の間を行ったり来たりしている関東諸侯を、俺はまったく信用していなかった。おそらく連中の中にはひそかに北条に情報を流している者もいるだろう。



 そんなわけで、俺たちは可及的速やかに平井城を陥落させるべく動き出した。



 上杉軍の兵力は先の戦での傷病兵を除いてもまだ五千に届く。

 長野軍はおおよそ二千。

 上野の国人衆があわせて三千。

 この一万の軍勢をもって俺たちは平井城に攻め寄せた。



 対する平井城の太田資正は城に一千を残し、残り九千を率いて城外に打って出た。

 資正があえて篭城策をとらなかったのは、こちらの予想どおり城の修復が完了していないか、あるいは北条方も兵糧が不足していたか、そのいずれかであったろう。



 両軍は平井城北方の平野で対峙する。

 北条軍の陣形は鶴翼陣。中央に四千、左右両翼に二千五百を配する正攻法。

 対するこちらは三軍を斜めに配する雁行陣。最も突出する左翼が俺が率いる上杉軍四千。中央には長野業正および上野衆の四千五百。そして右翼には五百の寡兵を配置し、遊撃部隊として政景様率いる一千の騎馬部隊が控えていた。



 作戦の肝となるのは左翼でも中央でも遊撃でもなく右翼の五百。

 この右翼部隊を率いる者の名を大胡おおご秀綱ひでつなといった。



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