第六十二話 狂王再燃
――今川義元は目を開けた。
いつの間に眠りについたのか、記憶が定かではない。
桶狭間の戦いで織田軍から逃れ、後方の沓掛城を目指していたのは覚えている。
だが、その後はどうしたのであったか。
奇妙に濁った意識が思考の集中を妨げる。
と、そのとき。
「お目覚めですかな、義元様」
その声に促され、義元はけだるげに顔を上げる。
視線の先にいる人物を見て、義元は重い口を開こうとした。だが、口から出たのはくぐもったうめき声だけ。
ここにおいてようやく、義元は自身が猿轡を噛まされていることを知る。それだけではない。義元の大柄な身体は縄で柱に縛り付けられ、身動きできない状態に置かれていた。
義元はその縛めを解こうと激しく身体を動かすが、よほど巧妙に結ばれているらしく、束縛はまったく緩まない。ただ一つ自由な口を使って、猿轡を噛み千切ろうとするが、これも無駄だった。
そんな義元の足掻きを見ていた人物――はじめに義元に声をかけた男は、控え目な笑い声をあげた。
「義元様、常の優雅さが消えうせておりますぞ? かりにも海道一の弓取りと呼ばれた御方。最期を潔くする程度の誇りは見せていただきたいものですな」
それを聞いた義元が目を怒らせ、ひときわ大きなうなり声を発する。
義元を縛める柱がぎしぎしと音をたてて軋んだ。
「はて、何を仰っておられるのやら、まるでわからぬ。仕方ない、猿轡だけは解いてさしあげよう」
言うや、男は持っていた刀を一閃させ、頬の肉ごと猿轡の紐を叩き切った。
ぱっと血が弾け、義元の顔に一条の傷跡が刻まれる。
それに構わず、義元は自由になった口を激しく動かした。
「どういうつもりか、貴様!?」
「はて、どういうつもり、とは? この状況でわしが何を考えているのか、本気でわからないと仰る?」
「当たり前だ! これまで長く面倒を見てきたわしに何の遺恨があって、このような真似をする――」
義元は大声で眼前の男の名を叫んだ。
「武田信虎ッ!!」
常の信虎ならば、義元の一喝を受ければ悄然と平伏したであろう。
しかし今の信虎は、義元の怒号をそよ風のごとく受け流し、不敵な笑みを浮かべたまま悠然とたたずんでいる。
その姿に義元はかすかな悪寒を覚えた。
「困りましたな。どうもわしと義元様の間には誤解があるようじゃ」
「誤解だとッ!? これまでの恩を忘れ、このようにわしを縛り上げておきながら遺恨も叛意もないとでもぬかすつもりか!」
「それ、そこが誤解なのですよ、義元様」
「なんだと!?」
「いつ、わしが今川に恩をこうむった? 面倒を見てきたじゃと? くはは、望まぬ首輪をはめておきながら、なにを恩着せがましいことを!」
信虎はそう言うと、巌のごとき拳を握り締めて、無造作に義元の頬に叩き付けた。
義元の顔がぐらりと大きく揺れ、口から血と欠けた歯がこぼれ落ちる。
かなりの衝撃と痛みだったはずだが、義元は怯んだ様子を見せず、鋭い眼差しで信虎を睨みつけた。
「下郎め。ずっと本性を隠していたか……!」
「往古、越王勾践は呉王夫差に敗れた後、奴隷となって夫差にひれ伏し、命を拾ったという。時には故事も役に立つものよ。しかし、元とはいえ甲斐守護たるわしを下郎呼ばわりか。さすがは駿遠三、三カ国の太守たる今川義元、わしなどとは格が違うわい。だが、それも今日までのことよ」
そういって信虎はにたりと笑う。
枯れ木のように生気に欠けていた顔には今、ぬめるような覇気と野心がへばりつき、唇の隙間からのぞく歯は信虎の性根を示すように黄色く汚れていた。
「貴様と雪斎が築いた今川は、ビタ銭一枚残らずわしが頂戴しよう。あの世とやらで歯軋りしながら眺めておるがよい」
「……ふ、我が子に背かれ、甲斐を逐われたそなたに今川が盗めるものかよ。わしがおらずとも雪斎がおる。氏真がおる。元信(岡部)、泰朝(朝比奈)、元康(松平)、他にも多くの将が今川を守るであろう。繰り返して言う。貴様ごときに我が家が盗めるものか!」
「雪斎ならば死んだぞ」
咆哮する義元に対し、信虎はあっさりと告げた。
「………………なに?」
「雪斎ならば死んだと言うた。桶狭間で織田のうつけに敗れてな。岡部は鳴海城で織田に囲まれて動けぬ。鷲津を落とした朝比奈は、これも織田の猛追を受けて命からがら逃げている最中じゃ。松平にいたっては、桶狭間の敗報を聞くや、即座に大高城を捨てて岡崎城に入ったそうじゃぞ。そも、氏真がわしの手の中にある以上、今川の将兵にわしを止めることはできぬて」
きひ、と信虎は嗜虐的な笑みを浮かべた。
「そのために今日まで臥薪嘗胆、貴様らに従い続けておったのだからな。ああ、言うまでもないが北条の姫をかどわかしたのはわしよ。父を失った氏真は、せめて妻だけは助けようと懸命に足掻くであろう。そんな氏真が頼れる者はわししかおらぬ。貴様と雪斎亡き後は、今川の一族としておおいに重用もしてくれような。なにせほれ、わしは『武田の爺』じゃからな?』
「信虎、貴様ァッ!!」
「はっは! ようやく澄ました顔が崩れてきたわい!」
吼えるように笑う信虎はいかにも愉しげだ。
そこにかつての気弱げな姿を見出すことは不可能だった。丸められていた背はまっすぐに伸び、縮こまっていた身体は二倍にも三倍にも膨れ上がったように見える。
駿府の甘露で牙が丸くなったなどありえない。そこにいるのは猛々しい野心を抱え、旺盛な精気を放つ剛勇の武人であった。
「さて、積年にわたる恨み、もう少し愉しみたいところであるが、今川はあくまで前座に過ぎぬ。あまり時間もかけていられん」
そう言うと、信虎は無造作に持っていた刀を義元の膝に突き立てた。
次いで脇差を抜き放ち、義元の手足の指を一本ずつ切断していく。
「本来ならば、貴様の母、妻、娘を目の前に並べて片端から犯し抜き、苦悶の末の死を味あわせてやるところじゃが、今も言うたように時間がない。芸のないことじゃが、貴様は千切り殺すとしよう。指を断ち切り、四肢を殺ぎ落とし、臓腑を引き抜き――くく、海道一の弓取り殿はどこまで耐えることができるかのう?」
「おのれ、信と――がああああ!?」
「妻子眷属を目の前で犯し抜く愉しみは氏真に取っておく。遠からず貴様の一族すべて同じところに送ってやるゆえ、さびしがらずに待っているがよい」
「き、鬼畜めが……今川の一族には、貴様と同じ血が流れておるのだぞ!」
「はっははは! だからこそ滾るのではないか!」
狂ったように笑う信虎を見て、義元は目を絶望に染めた。
この狂気にどうして気づかなかったのかと己の不明を呪う。
「わしは甲斐にいた頃より、多くの女子を抱き、汚し、壊してきた。土臭い農民も、口うるさい武士も、抹香くさい尼も、お高くとまった公家も、そして小ざかしい実の娘もじゃ! 貴様の一族もその列に加わるだけのこと! おお、恨めしければわしの枕元に立ってもよいぞ? そうすれば一族が泣き叫ぶ様を見せつけてやることができるでな」
「信虎…………ッ」
「最も邪魔な雪斎は死んだ。貴様はここで死ぬ。残った氏真はわしの手のひらの上。今日をもって今川家は滅亡する。雪斎と共に身命を賭して作り上げた家が、わしに使い潰される光景を地獄からよう見ておけい」
「信虎……ッ」
「では、そろそろしまいにしようか。最後まで壊れなんだは、さすがと褒めておこう。達者でな、今川義元」
「信虎アアアアアッ!!!!」
吼えるような絶叫が、虚しく山間に消えた。
しばし後。
信虎が一抱えほどもある布袋を持って外に出ると、そこには甲斐時代から信虎に仕えている家臣が平伏していた。
信虎はその家臣に短く問う。
「どうであった?」
「は。今川軍はなだれをうって退却しております。もはや織田の勝利は動きますまい。ですが、鳴海の岡部元信をはじめ、一部の軍はいまだ抵抗を。どうやら義元が討たれたとは信じておらぬ様子です」
「ふん、首級がなければそうもなろう。では、これを――何と申したか、織田の某に渡しておけい」
そう言って信虎がどさりと放り投げた布袋は、ちょうど人の頭がすっぽり包めるほどの大きさであった。
「御意」
「義元の首をとったとあらば、かなりの手柄じゃ。今後、何かあったときにはまた手蔓になってくれよう」
「……御館様。あの木下なる者、こたびこそ協力しましたが、主君への忠誠は確かなもの。あまりあてにされない方がよろしいかと」
「かまわん。どのみち尾張なんぞに用はない。いずれ役に立てばよいという程度のことよ」
「かしこまりました。では、ただちにこれを木下へ」
「ずいぶんと汚いものゆえ、主君に渡す前にきちんと清めておけと言うておけ」
「……御意にございます」
家臣が立ち去ると、信虎はくつくつと笑いながら二度、三度と首をまわした。
長年の雌伏がようやく終わったのだ。感慨があるに決まっている。
「ふん、休息にしては長すぎたが、まあよかろう。この身に滾る熱は、余すところなくそなたに注いでやればよいのだからな。あのときは不忠者どもに邪魔されたが、こたびはそうはいかん」
そう言って信虎は東の方角に目を向けた。
今は木々に邪魔されて視界に入らないが、そちらの方角には富士の山が悠然と聳え立っている。
その麓の国こそ信虎がかつて統べた国。これから統べる国だ。
今、その国を治めている大名も、国土と同様、信虎が支配する対象であった。
「ふ、ふふ、くく、くあっははははッ!! 聞こえておるか、晴信! 待っておれよ、この父が、再びそなたの前に立つ日をな!! もう、すぐそこまで迫っておるぞ! 備えておれよ、待ち受けておれよ、その全てを砕いて貴様の前に立つ日が、わしは待ち遠しくて仕方ないぞ!!」