第六十一話 桶狭間の戦い
先刻まで晴れ渡っていた空は群がり起こる黒雲に覆われつつある。
稜線の彼方には稲光が瞬き、吹き付ける風は蒸すような湿気に満ちて不快な汗を滲ませた。
今川軍の本陣目指して馬を駆けさせる太原雪斎は、間もなく嵐がやってくることを確信して小さくかぶりを振る。
――天は織田に味方するか。
脳裏によぎったその思いを振り払うための動作であった。
「義元様!」
「お、おお、雪斎! 戻ったか。すまぬ、このような……」
「経緯は使者より聞いておりまする。しかし、氏真様は何故にここまでお越しになったのですか?」
初陣を望むあまり、駿府の留守居役を放棄して前線まで駆けつけた――その可能性はない、と雪斎は断じている。
氏真はそこまで愚かでもなければ、無責任でもない。
何か理由があるはずだ、と雪斎は道中で考えていた。
と、ここでようやく雪斎は、義元の隣で申し訳なさそうに地にひれ伏している男の姿に気付く。
「――信虎殿。氏真様を駿府よりお連れしたのは貴殿か」
「も、申し訳ござらぬ。駿府にて一大事が出来しまして、若君おひとりではいかんともしがたく……」
「一大事とは……いや、それよりも氏真様はいずこにおわす?」
雪斎は氏真の姿を探す。
いつもは「師よ、師よ」と自分を慕ってくれる氏真はどこにも姿が見えない。
雪斎の視線に気付いた信虎が、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「若君は陣屋の奥でお休みになっております。実は駿府を立つ以前より体調を崩され、熱が下がらず、飯も咽喉を通らぬ有様で……」
「そのような状態の氏真様を、ここまで連れて来たと申されるか!?」
さすがに声を高める雪斎に対し、信虎は額を地面にこすりつけた、
「申し訳ござらぬ! し、しかし、事が事なれば使者を差し向けるわけにもいかず、考えあぐねてのことなのでござる……」
「事が事? 一大事が出来したと聞こえたが、いったい駿府で何が起きたと――」
「雪斎、それはわしから説明しよう」
すでに信虎から事情を聞いていたらしい義元が沈痛な顔で言った。
「北条より嫁いできた氏真の奥がな、何者かにかどわかされたらしいのじゃ」
「……なんですと?」
雪斎の顔に凍えるような怒気が浮かび上がった。
氏真の妻は三国同盟に先立ち、北条家から輿入れしてきた。北条家の長老 北条幻庵が手塩にかけて育てたというだけあり、美貌と教養を兼ね備え、明るく気立ても良い。
妻に迎えた氏真はもちろん、義元も可愛い義理の娘ができたことをおおいに喜んだものであった。
三国同盟のために奔走した雪斎にとっても大いに関わりのある女性だ。
その彼女がかどわかされたと聞けば、雪斎とて平静ではいられない。
「かどわかされたとは、駿府城から姿を消したということでござるか?」
「信虎殿の話によればそうなる。日にちを聞くと、わしらが遠江から三河に入った頃のことだな」
「下手人は?」
「それがわからぬらしい――そうだな、信虎殿?」
義元と雪斎に睨むように見据えられ、信虎は再び地に頭をこすりつけた。大柄な身体が無様なほどに震えている。
「さ、さようでござる。若君の奥方は白昼、こつぜんと城内から姿が消え失せまして……奇怪なことに、城内の者は奥方の姿も、下手人の姿も誰ひとり見かけていないのです。奥方の部屋を改めましても争った形跡はなく、お付きの侍女もまったく気づかなかったと青ざめるばかりで……」
手がかり一つない状態では捜索のしようもない。
そもそも捜索といっても大規模に動くことはできないのだ。白昼堂々、北条家から嫁してきた妻をさらわれました、などと公表できるものではない。
そんなことをすれば今川家の威信はすたれ、氏真の名誉は地に落ちる。
北条家の耳に入れば同盟関係にもひびが入ってしまうだろう。
そういった事情もあり、氏真は重臣にも事情を隠し、ひそかに捜索を続けていたのだが、一日経っても二日経っても手がかりは手に入らなかった。
事情を知らない家臣たちには妻は病気に伏せっていると伝えたものの、いつまでも今の状態が続けば怪しむ者も出てくるだろう。
実際、氏真の直臣たちが慌しく動き回っていることに疑念を抱く者も出始めていた。なにより氏真自身が、ろくに眠れず、食事ものどを通らずで憔悴しきっている。
事情が外に漏れるのは時間の問題だった。
そうして三日目になり、事態は大きく進展する。
その日の朝、氏真のもとに一本の筒が届けられる。厳重に封をされたそれは、北条家の使者を名乗る者が氏真の妻にと持ってきたものだという。
これまでも北条家から贈り物が届くことはあった。本来ならば、夫だとて妻あての荷を勝手に改めることは非礼にあたる。
だが、状況が状況だ。中身を確認しないわけにはいかなかった。
軽く筒を振ってみると、かさかさと紙のこすれる音に混じって、何か硬いものがころころとはねる音がした。小石を筒にいれて振ってみれば、似た音が聞けるだろう。
――そう思った瞬間、何故だか氏真の背に悪寒がはしる。
何か、途方もなく不吉な出来事が近づいている。そんな予感がした。
この筒を開けてはいけないと、誰かが胸の奥で叫んでいる。
だが、氏真の手は心と切り離されたように封を切っていた。
筒を傾けた氏真の手に、赤く粘つく物体が転がり落ちてくる。
それが何なのかを悟った瞬間、氏真の口から甲高い絶叫がほとばしった……
「――入っていたのは、中ほどから断ち切られた人間の小指でした。小さく、細く……子供でなければ女性のものに違いありませぬ」
「なんという……!」
信虎の言葉に、雪斎はきつく奥歯をかみ締める。
世に悪謀のたぐいは数あれど、女子供を贄としたものほど残酷なものは他にない。
信虎はさらに言葉を続ける。
「中に収まっていた文の文字は奥方のものにて、駿河譜代の重臣方の処刑を求める旨が記されておりました。そして最後に、従わずんば次を送る、と震える文字で……」
もはや雪斎も義元も声もなく押し黙るしかなかった。
氏真はこの脅迫に従わなかったが、一日ごとに送られてくる筒の数が五本を超える頃には、目は落ちくぼみ、頬はこけ、皮膚は土気色に変じて死者のごとき形相となり果てていた。
このままでは北条姫を助け出す前に氏真が倒れてしまう。そう考えた信虎は一計を案じ、氏真を連れて駿府城を出た。
氏真が駿府の留守居であるから脅迫者は北条姫を狙ったのだ。
であれば、氏真が駿府を離れてしまえばよい。脅迫する相手がいなくなれば、脅迫のしようもなくなる。
……この案は代償として北条姫が殺される可能性を含んでいるが、今川家にとって氏真と北条姫のどちらが大切かは比べるまでもなかった。
「……以上が若君がこの地に参った理由でござる。なにとぞご寛恕を賜りたい」
「そういうわけだ、雪斎。これでは氏真に駿府に戻れとは言えぬ。それ以前に、氏真は疲労と心痛がきわまったのか、まったく目を覚ます気配がなくてな。この地に陣を構えざるをえなかった」
釈明する義元に雪斎は静かに口を開く。
「義元様、そのように悠長なことを仰っている場合ではございませぬ。ここが兵法で言うところの死地にあたること、お分かりでしょう」
「う、うむ、それはわかっておるが……ようやく休めた氏真をすぐに動かすのは忍びない。せめて今宵一晩なりと、ゆっくり休ませてやりたいのだ」
「今、申し上げました。悠長なことを仰っている場合ではござらぬ、と」
雪斎の言葉に何かを悟ったのか、義元が親ではなく将としての顔になる。
そんな義元に向け、雪斎は続けた。
「尾張の織田信長、直属の精鋭を率い、清洲を出た由にございます。いずこに向かったかまではつかめませぬが、間違いなく狙いは義元様の御首級でございましょう。織田には忍、野武士のたぐいも多いと聞きまする。義元様がこの地に陣をとどめれば、その情報は瞬く間に信長の耳に達するはず。早急に陣を動かさねば、今川の将兵、ことごとく尾張の土と化しましょう」
いかに氏真大事の義元といえど、この雪斎の言葉には反駁することができなかった。
それに、いつ織田勢に襲われるとも知れぬ野外では休むに休めない。ここは無理をしてでも大高城を目指すべきであろう。
「で、ではそれがし、若君の様子を見て参りましょう……」
信虎はそう言って立ち上がると、陣屋の方へ歩き去る。
それを見送った義元が再び口を開こうとした、その矢先だった。
義元の頬に大粒の雨滴が弾ける。
と、見る間に雨は勢いを増していき、たちまち滝のような豪雨に変じた。急速に発達した雨雲が陽光をさえぎり、あたりを夜のような暗がりが覆う。
急激な天候の変化に、今川軍の各処から狼狽の声が立ちのぼった。
「まずいな。この雨の中、軍を動かすのは危なかろう」
義元の言葉に雪斎も頷かざるをえなかった。
「御意。この雨が止むまでは動かぬ方がよろしかろうと存ずる。ただちに奇襲への備えをいたしましょう」
「この雨に、この暗さだ。織田の軍とて動くこともままなるまい。雨の中を働かせるのは兵士たちに酷ではないか」
「備えあれば憂いなしと申します。兵には苦労をかけますが、この陣には今川の当主と跡継ぎがいらっしゃるのです。万に一つも間違いがあってはなりませぬ」
「そ、そうだな、そのとおりだ。早急に歩哨をたてて警戒にあたらせよう」
「御意。では――」
雪斎が指揮をとるや、突然の豪雨に混乱していた今川軍はたちまち平静を取り戻し、指示に従って動き始めた。
雨の中を警戒にあてられた兵士たちは愚痴を禁じ得なかったが、織田軍が奇襲してくる恐れがあると聞かされれば否やはなかった。
「うあ、まるで滝じゃな、こりゃあ」
「通り雨だろうが、しっかし、こんな雨じゃあ敵も動けねえんじゃねえか。しかも相手は尾張のうつけ殿だろ?」
「そうそう。今頃、清洲で雷におびえて震えとるんでねえか」
「ばか、太原様のおっしゃることに間違いがあったためしはねえだよ」
「んだな、太原様に従っておれば、生きて国に帰ることも出来るってもんよ」
「おお、また始まったぞ。茂介の『国に帰りたい』が。ぺっぴんの嫁さん置いてきたことがそんなに心残りかよ」
「おお、心残りよ。悪いかッ」
「お、からかわれすぎて、開き直りおったぞこやつ」
ひときわ若い男性をとり囲み、周囲の男たちが笑い声をあげる。
ややあって、年嵩の兵士が口の端に笑いのかけらを残しながら言った。
「まあ、あまり騒ぐと侍に文句言われるじゃろ、きちんと見張りを――」
不意に年嵩の兵士が言葉を止めた。そのまま何者かにひざまずくように正面から地面に倒れこむ。
何かの余興かと思った周囲の兵士が笑い声をあげたが、近くにいた者が異常に気がついた。
「おい、どうした。こんなところで寝たら……って、おい、大丈夫かッ!?」
倒れた兵士を抱え起こそうとした者の手に、ぬるりと赤色の液体がへばりつく。
液体はすぐに雨で洗い流されたが、兵士の背中に突き立った矢は消えようがなかった。
「て、敵しゅ――ぎあああッ!?」
「お、おい、くそ、なんだ、誰だよ畜生!」
「馬鹿! 早く身を低くしろ、兜をかぶらねえか、そんでもって敵だ敵だ大声で騒げ!」
「ヒィ!? わ、わかったッ」
国に妻を残してきたと言っていた若い兵士が悲鳴まじりに応じた。
そんな今川兵をあざ笑うように、雨滴の向こうから馬蹄の轟きが聞こえてくる。
嵐を裂いて現れたのは剽悍無比の騎馬部隊。
はじめ数十と思われていた総数は、瞬く間に数百へと膨れ上がっていく。
掲げる旗印は尾張織田家の家紋『五つ木瓜』。
これまでひたすら粛然と今川本陣に忍び寄っていた織田軍は、今こそその枷から解き放たれ、猛々しい雄たけびをあげる。
その先頭に立ち、高々と愛刀を掲げて今川軍に突入していく女性こそ、尾張のうつけ織田上総介信長であった。
「狙うは今川義元の首ただ一つ! 他の首など褒美にならん。ただ義元の首級だけが今日の手柄ぞ! 全軍、かかれェッ!!」
嵐を裂いて轟きわたる信長の号令。
天を衝く織田兵の喊声が尾張の大地を震わせた。
◆◆
速い。
織田軍の襲撃を知った雪斎は驚嘆した。
そして、疑念を確信へと変えた。
清洲から桶狭間までの距離を考えれば、雨滴を裂いて現れた織田軍が今川本隊の場所を把握していたことは明らかだ。
そうでなければ、この短時日で織田軍が桶狭間にやってこられるはずがない。
情報が漏れている。それは確実だった。
だが、今はそのことに思いを及ばせている時間はなかった。
織田の逞兵は凄まじい勢いで今川軍を蹂躙しつつある。どれだけ将が声をからして叫んでも、闇と雨音と織田軍の喊声がその叱咤を打ち消してしまう。おびえた今川兵は悲鳴をあげて逃げ惑うばかり。中には味方同士で斬り合う者さえいた。
雪斎は自身の直属の兵と、本営近くにいた兵力を何とか手元でまとめると、盛大に篝火を焚くように命じる。
大粒の雨はいまだに降り続いている。戸惑う兵に対し、雪斎はあるだけの油を投じて火を絶やさぬように告げた。
「まずは闇を払う。周囲の兵に炎を目印として集まるよう呼びかけよ。しかる後、陣を組んで織田軍を迎え撃つ」
敵の勢いは激烈であり、備えが間に合うかどうかは三分七分というところか。
雪斎は冷静に判断し、義元に向き直った。
「雪斎」
「義元様は氏真様を連れて後方の沓掛城までお退きくだされ。この場は拙僧が引き受けもうす」
「しかし、織田のうつけなどに――」
「急がれよ。たとえここで敗れようと、義元様と氏真様が健在であれば、今川家は何度でも立ち上がれるのです。逆にお二人の身に万一のことあらば、全軍が無事だとて虚しいというもの」
「む……」
義元が黙り込むと、その後ろから遠慮がちな声が割り込んできた。
氏真を背負った信虎が戻ってきたのである。
「義元様、ここは雪斎殿の申されるとおりに。時遅れれば、織田の軍が乱入して参りましょう」
「信虎殿……」
「ご安心くだされ、雪斎殿。これ、このように氏真様はそれがしがしっかとお守りいたしますゆえな。心置きなく織田軍と戦ってくだされぃ」
そう言うと信虎はいつもの気弱げな顔で笑った。
「それがしは雪斎殿と異なり、かようなことでしかお役に立てませぬ。それでも、どのような形であっても、今川家のご恩に報いることが出来るのは幸運と申すべきでござろうな」
雪斎の視線と信虎の視線が正面からぶつかり合う。
不意に。
雪斎の全身を悪寒が襲った。
目の前にいる男の眼差しの奥。気弱げな眼差しのその奥に、何かが見えた気がした。何故かそれが、脳裏の戦略図を汚していた黒い染みと一致する。
だが、雪斎が再び口を開こうとしたとき、織田軍はすでに指呼の間にまで迫っていた。
響き渡る喊声に信虎が慌しく口を開く。
「おお、もう織田の喊声がすぐそこまで! 義元様、これ以上のためらいは雪斎殿のお志を無にしてしまいますぞ! それに若君の容態も心配でござる。どうやらまたお熱が上がっているように思われます」
「お、おお、そうじゃな! すまぬ、雪斎、ここは任せた。だが、死んではならぬ。よいな、死んではならぬぞ!」
そういって義元と信虎、そして氏真は慌しく去っていく。
呼び止めることはできなかった。織田軍が間近まで迫っていることは事実であったからだ。
この状況で確証のない疑念にこだわるのは愚かというものであった。
鬼神のごとき強さで暴れまわる織田勢の前に寡兵で壁をつくりながら、雪斎は義元たちが去った方角に一度だけ目を向ける。
「……この身はすでに老残。命を惜しむつもりはない。されど主家のためにも、ここで散るわけにはいかぬ。上総殿、我が全てをもってお相手させていただこう」
しばし後。
「ほう、寡兵にしては妙に手ごわいと思うたが、なるほど、うぬであったか、太原雪斎」
「……そういうそちらは、織田上総介殿か……」
雪斎はすでに首、腹、足の三箇所に傷を負っている。いずれも深手。戦うことも、逃げることも、もはや不可能だった。
「ぐ、ぬ……見事な戦ぶり。じゃが、この皺首、そう簡単にくれてやるわけにはいかぬでな。お相手願おう……ッ」
「そのような身体で何をぬかす。おとなしう降るがよい。こうみえて、そなたには感謝しておるのだ、私は。家督を継いでから今日まで、貴様は私の前に立ちはだかり続けた大いなる壁であった。父や平手の爺と同じほどにそなたには学ばせてもらった。殺すには惜しい」
「ふふ、お言葉、ありがたく……だが、この身は今川に捧げておりましてな。貴殿をこの先に通すわけにはいきもうさぬ……」
「……そうか。ならばその皺首、この織田信長が頂戴しよう!」
「遠慮はいらぬ。参られよ……!」
緋色の雨が桶狭間に降った。
◆◆◆
「我が上杉の力、確かめたいと仰るのであればお相手いたす。戦うか、退くか。お選びあれ、地黄八幡――だって、く、ぷく、く」
「勝手に真似して、勝手にウケるのやめてくださいよ、政景様」
「いやいや、相馬があんまり格好良くてね。く、くく、ああ、お腹痛い」
蹴飛ばしてやろうか、ほんとに。
俺はむっつりと唇を引き結びながら、さっきから一人で笑いまくっている政景様を睨んだ。
ふと視線を感じて振り向くと、なにやら弥太郎が顔を赤くして俺を見ている。
「どうした、弥太郎?」
「…………へ? あ、い、いえ、何でもないないでございます!」
両の頬をおさえた弥太郎は「うわー、うわー、うわー」となにやらずっと呟いている。なんかのお呪いだろうか。
首をかしげていると、段蔵が近づいてきた。
「それでいかがでしたか、着込みの具合は」
「ん、やっぱり重いな。けど、それ以外に気になるところはなかった」
「そうですか。重さは着ているうちに慣れるでしょう。戦の時だけでなく、普段からも身に付けておくべきと進言いたします」
着込みとは、簡単に言えば服の下に着る防具である。鎖帷子と言えば想像しやすいかもしれない。
防刃に優れ、甲冑などよりもはるかに動きやすい。何より良いのが、これまでの俺と外見上はかわらずに見える点である。
これまでのように無防備に戦場に出ることは避けなければならない。だが、積み重なった虚名は利用したい。そんな虫の良いことを考えた俺が段蔵に相談してみた結果、たどりついた答えがこの着込みであった。
はじめて相談したとき、段蔵は深く深くため息を吐き「そういったことはもっと早く仰ってください」と言って席を立ち、五分と経たぬうちに何着もの着込みを持って戻ってきた。
なお、採寸するまでもなくサイズはぴったりでした。
ときおり、段蔵の用意の良さに戦慄せざるを得ない俺である。いつぞや傷の手当をしてもらった時とか、特訓してもらった後のマッサージとかで俺の体格を把握していたのだろう、たぶん。
ともあれ、俺は今回の上野出兵に先立ち、いつもよりも入念に準備をした。
さすがにこれまでどおりの戦い方をしたら、景虎様ほか皆様に申し訳が立たん。段蔵はいつもどおりだったが、弥太郎が終始ニコニコしていたのは、そういった俺の変化に気付いたからだと思う。
そうして政景様と共に関東にやってきた俺だったが――実をいえば、この出兵には消極的だった。
上杉憲政を保護すれば、必然的に北条家を敵に回さざるを得なくなる。
憲政が北条と戦うたび、俺たちは関東まで足をのばさなければならないのだ。それは上杉家の軍事費を大きく圧迫することになるだろう。もちろん将兵の疲労も軽視できない。
それでも憲政が助けがいのある人物ならやる気もでるのだが、関東管領に関して耳にするのは悪い噂ばかり。しかもそれがほとんど事実であるらしい。
こちらが援軍を出しても、関東管領を助けるのは当然だと嘯いて、感謝一つしないこともありえる。
いっそ北条家と結んで攻め潰した方が世のため、人のためではなかろうか、という気さえするのだ。
しかし、当然といえば当然ながら、景虎様は関東管領からの救援要請に迷わず応じた。
まあ予想通りといえば予想通りである。俺は苦笑しつつ準備にとりかかった。
なお、もう一つ予想通りだったのが、この遠征の指揮官に政景様が名乗りを挙げたことである。
当初、景虎様は自分が出るといったのだが、政景様がにやりと笑って「あんた守護でしょ」と言うと、がくりとうなだれて政景様を指揮官に命じた。二人のやりとりがちょっと面白かったのは内緒である。
急使の言によれば、北条軍の勢いは凄まじく、平井城が陥落するのは時間の問題であろうと思われた。
越後でのんびり兵を徴募していたら間に合わない。
したがって、上杉軍はまず集められるだけの騎兵を集め、機動力重視で関東へ侵入。
この間に景虎様が兵を徴募する。
関東に進入した俺たちは関東管領を保護し、いったん越後へ退却。しかる後、景虎様が徴募した兵士と合流して、再び関東入りを行うこととした。
戦況によっては越後に戻らず、そのまま関東で戦い続けてもいい。そのあたりは政景様が臨機応変に判断するだろう。
気になるのが武田軍だ。
上杉軍の主力が関東に向かえば、武田軍が北信濃に侵攻してくる可能性がある。
これを考慮して、景虎様が徴募する兵数もかなり抑え目にする予定であった。たぶん多くて五千くらいになるだろう。
たかだか五千程度では北条家の大軍とまともに戦えるはずもないが、かといって越後全軍をあげて関東に踏み出せるほど、国内も落ち着いていない。
正直、景虎様の守護職就任に関する国人衆の反応さえ不分明なのである。
そこまで考えて、俺はため息を吐いた。
晴景様の時もそうだったが、こうもいつもいつも国人衆の動向を気にしなければいけないのは正直やりづらい。
越後守護の座を国人衆の旗頭程度にしか考えていない者たちを排除ないし懐柔するにはどうするべきか。
これまで、俺は極力国体に関わることには口を出さないようにしてきた。
俺のように氏素性のわからない新参者が既得権益に踏み込めば、間違いなく暗殺の憂き目を見ると考えたからだ。
まあ、段蔵がいれば暗殺云々は大丈夫そうな気もするが、あえて平地に乱を起こす必要もないだろう。
現状を引っ掻き回すよりは、現状を認めた上で人と物の動かし方を考える。その方が精神的にも楽だ。
ただ、そろそろそちらの方面にも踏み込む時が来たのかもしれない。最近になってそう思うようになっていた。
ともあれ、今は目の前の北条軍である。
関東に入った俺たちは情報を集め、山内上杉家と北条家との戦いの趨勢を把握した。
憲政も書状でそれとなく触れていたが、思ったとおりこてんばんにのされているらしい。
というより、もう勝負はついたらしく、平井城はすでに落城したという。
いっそ上杉憲政が北条家に捕らえられていれば、とこっそり考えた俺だったが、運の強い関東管領殿は越後へ向かっていたところを俺たちと鉢合わせし、無事に保護されることになった。
ところが、いったん越後に戻るという段階になって、関東管領殿は息子がいないと騒ぎはじめた。
なんでも落城時にはぐれてしまったらしい。
無視するわけにもいかず、俺と政景様は兵を率いて平井城への道を駆けた。憲政に関しては護衛の兵をつけてさっさと越後に向かわせている。
――かくして、俺は北条綱成と遭遇することになった。
まさかいきなりこんな大物と鉢合わせるとは思わなかったが、見方をかえれば好機である。
ここで綱成を討ち取ることができれば、今後の北条家との戦いがかなり楽になる。
もういちいち驚くつもりもないが、北条綱成も女の子だった。
綺麗な黒髪と、額にまいた黄色い鉢巻、あと鎧越しでもわかるくらい大きい胸が特徴の。
三番目に関しては、別にじっと見たりしたわけではないのだが、ちらりと視線をはしらせたことに気付かれたらしい。
なんか真っ赤になって怒られた。戦の最中にふしだらだ、とか。
あの地黄八幡と戦う緊張と高揚に挟撃されていた俺は、予期せぬ相手の反応に呆気にとられた。
そんな俺の表情に気づいたのか、あるいは遅まきながら自分が武将らしからぬ言動をしていることに気づいたのか。綱成は顔を赤くしながら持っていた槍を構え直した。
応じて、こちらも弥太郎が進み出てりゅうりゅと槍をしごく。
かくて両軍の間に(やっと)緊張がはしったが、そうこうしている間に龍若丸たちは政景様がさっさと確保してしまう。
それを見た綱成は口惜しげな顔をしたが、機は去ったと判断したのだろう、攻撃ではなく退却を命じた。
追撃しようかと思った俺であるが、綱成の退き際には一切の隙がなく、無理に追えばこちらが手痛い被害を受けることは明らかだった。
綱成以外の北条軍がいつ現れぬとも限らない。
綱成の人となりにちょっと和んでしまったこともあり、こちらも退くことにした。龍若丸の救出という目的は果たしたのだから、無理に北条と戦う必要もない。
俺と政景様は龍若丸をともなって越後へ帰還。ここで十一の息子にしかられる関東管領というめずらしい見世物を見学した後、五千の兵が集まるのを待って再び関東に入った。
平井城は陥落したが、長野業正がたてこもる箕輪城がいまだに抗戦を続けていると知ったからである。
かくて箕輪城を巡る諸勢力の戦いが始まる――かと思われた。
だが、遠く東海地方からもたらされた一つの報告が、この戦いの趨勢を大きく変化させることになる。
桶狭間の戦いにおいて、今川義元が討ち死にしたのである。