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聖将記  作者: 玉兎
第七章 蠢動
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第六十話 関東越境


 それは松平元康がまだ丸根の砦に攻めかかる前のこと。



 悠々たる舞。朗々たる声。

 尾張平野を照らす灼熱の陽光さえ、この気迫の前では木洩れ日か。

 誰ひとり見る者のない清洲城の一室で、織田信長はただ無心に舞っていた。



 人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり

 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか



 舞うほどに意識が研ぎ澄まされ、澄んだ意識がさらに舞を高みに押し上げる。

 信長の長い髪が踊るように宙にひらめき、豊麗な肢体が熱を帯びて床を蹴る。

 迫り来る今川の大軍も今この時は些事となる。

 その胸中に思い描くははるか彼方の天下のみ。

 篭城降伏を唱える家臣たちには思いも及ばぬその悲願、夢幻では終わらせぬ。




「――信長様」

「む、猿か」

「ははッ」



 信長が敦盛を舞い終えるのを見計らっていたように、外から控えめに呼びかける声がする。

 襖を開くと、そこには猿――木下籐吉郎の姿があった。

 針売りから転じて信長の家臣となった赤ら顔の小男は、地べたにひれ伏しながら信長に報告した。



「例の者がまた接触してまいりました。それによれば、丸根を攻めるのは松平元康、鷲津を攻めるは朝比奈泰朝。いずれも兵力は二千を越えるとか」

「そうか――もたぬな」

「……残念ながら。砦に立てこもる兵は二百たらずです」

「で、その方のことじゃ。知らせを鵜呑みにしたわけではあるまい。小六あたりを使って確認したのであろう?」

「は、はい! この知らせに間違いはありませんです! だけども……」



 藤吉郎の顔がかすかに曇る。その危惧を悟った信長は薄く笑った。



「案ずるな、裏切り者を信用などせぬよ。しかし、雪斎坊主の薫陶が行き届いた今川軍は付け入る隙がまるでない。利用できるものは利用しなければなるまいて――本当にあの坊主は織田家にたたるわ」



 忌々しげに、それでいて楽しげに、信長は口の端を吊りあげた。

 父信秀の代から織田家は今川家と争い続けてきたが、ここ一番というところで太原雪斎が出てくると、決まって敗れた。

 かつて松平竹千代(元康)を解放せざるを得なくなったのも、雪斎に庶兄の信広を捕らえられたからである。竹千代を失ったことで松平は今川に完全に服属することになり、織田家は三河を失った。



 それ以外にも雪斎に煮え湯を飲まされた例は枚挙にいとまがない。

 今回の上洛戦でも雪斎の能力はいかんなく発揮されている。信長は勝利のために可能なかぎりの布石を打っていたが、今川軍は小憎らしいほど手堅く進軍してくる。あたかも巍巍ぎぎたる城壁が迫ってくるようだ。

 もちろん、そこには当主である義元の力も大きく作用していることだろう。



 今川義元と太原雪斎。

 この組み合わせを崩さないかぎり織田家に勝機はない。

 案外、正体不明の裏切り者も同じことを考えているのではないか。ふと信長はそんな気がした。



「こうも正確な情報を送ってくるとなると、向こうは今川の中枢にいる者ということになる。あるいは初めは正しい情報を送ることでこちらを信用させ、最後の一手に偽報を用いてこの信長を引きずり出すつもりやも知れぬな」

「もしや雪斎みずから情報を流しているのではありますまいか?」

「ああ、それはない」



 藤吉郎の懸念に信長はあっさりかぶりを振った。



「猿、あの坊主の厄介な点はな、ひたすらに定石を突き詰めることよ。相手より多くの兵をそろえ、相手より多くの糧食を用意し、相手より多くの情報をかき集める。それができぬとき、はじめて雪斎は策を弄するのだ。いま、今川はすべての面で織田に勝っている。この状況で奇策に走る雪斎ではあるまい」

「でしたら、次に向こうが接触してきたとき、後をつけさせましょうッ」

「よい、放っておけ」



 信長の言葉に藤吉郎は驚いた。

 他者に踊らされるのを何よりも嫌う信長のこと、何かしら考えがあるのだろうとは思ったが、それでもつい口を動かしてしまう。



「よろしいのですか?」

「かまわん。この信長を操れると思うておるなら思わせておけ。いずれ報いはくれてやる。それよりも今は義元の動向を探ることに全力を挙げよ。彼奴のいかなる動きも見逃してはならぬ!」

「承知!」



 藤吉郎が勇んで出て行った後、信長は遠く南東の方角を見据えた。

 恐るべき勢いで殺到する今川の大軍はいまだ影さえ見えぬ。しかし、ほどなく尾張はその猛威に飲み込まれよう。

 それは織田家の家督を継いだときから、いや、その以前からわかりきっていたことだ。今さらじたばたするつもりはない。



 天下布武への第一歩。

 迫る海嘯かいしょうの先を見据える信長の目は、恒星のごとく爛々と輝いていた。



  

◆◆◆




 上野の国、平井城。



 北条氏康との決戦に敗れ、命からがら居城に逃げ帰った関東管領上杉憲政。

 その憲政を追うように上野へ侵攻した北条軍は、一路平井城を目指して北進を開始した。

 事ここにいたり、ようやく自らの命運危うきを悟った憲政は悲鳴をあげて各地に救援を求める。

 その中には越後上杉家も含まれていた。



 先の戦いでは、越後との連携を説いた長野業正の進言を聞き捨てにした憲政であったが、今はおぼれる者がわらを掴む心境であり、仇敵に使者を差し向けることに抵抗はなかった。

 越後だけではない。常陸の佐竹、安房の里見といった遠国の大名にも使者を差し向け、救援ないし北条への牽制を依頼したのである。



 憲政は祈るように使者の帰りを待ったが、そんな憲政の前に現れたのは関東諸侯を吸収して膨れ上がった北条の大軍であった。

 たちまちのうちに重囲に陥る平井城。

 もはや憲政に抗戦の意思はなく、ただ城内の一室で震えるばかりであった。



 総大将がこのありさまでは戦に勝てるはずもなく、まもなく平井城は陥落する。

 憲政はかろうじて城からの脱出に成功したものの、その顔は土気色に変じ、震える唇は一向に言葉をつむごうとしなかった。

 家臣たちが何を言っても頷くばかりで、以前のような傲岸ごうがんさはかけらもない。

 打ち続く敗北と、燃え落ちる居城の光景がよほどに憲政の心をうちのめしたのだろう。



 関東管領の城が一大名の手で陥落するなど、本来ならありえない。

 そのありえない出来事が現実となってしまったのだ。

 これまでは戦に敗れても帰る場所があった。平井城に戻れば家臣たちから関東管領として敬わる。宴を催して憂さを晴らすこともできたのである。



 だが、今や平井城はなく、憲政もわずかな家臣と共に他国へ落ち延びようとしている。

 このとき、憲政がどれだけ動転していたかは、可愛がっていた嫡子の龍若丸たつわかまるを城に置き去りにした一事からも推し量ることができた。

 城を出た憲政は息子がいないことに気づいて悲嘆に暮れたが、燃え盛る城内に取って返すだけの気概はなく、泣く泣く越後へ向かう。

 実はこのとき、龍若丸は乳母や少数の家臣の手で救い出され、憲政の後を追うように北へ向かっていたのだが、憲政は知る由もなかった。




 一方、平井城を落とした北条軍の陣中では、逃げた上杉憲政および龍若丸を捕らえるべく大規模な追っ手が組織されていた。

 関東管領の居城を落としたのは快挙であるが、当の関東管領と嫡子を逃してしまえば画竜点睛を欠くというもの。

 すでに上野の西は武田がおさえている。東は北条の治下に入った。となれば、憲政が逃げ込める先は北の越後しかない。



 北条軍の主だった武将たちはそれぞれの馬廻うままわりを率いて憲政を猛追した。

 その先頭を駆けるのは上杉憲政に遺恨を抱く北条綱成である。



 と、黄備えを率いて北へ疾駆していた綱成の前に、白旗を掲げた武将がまろび出てきた。

 おおかた憲政の配下が命おしさに降伏してきたのだろう。

 かまわず馬蹄で蹴り殺そうかと考えた綱成であるが、白旗を掲げた者を馬蹄にかけては北条軍の武威に傷がつく。戦場を離れれば心優しい氏康も悲しむだろう。



 苛立たしげに馬を止めた綱成が問いただすと、その人物は妻鹿田ぬかだ新助しんすけと名乗った。

 綱成の推測どおり憲政の配下で、憲政の嫡子 龍若丸付きの武将であるという。

 妻鹿田の求めるところは単純であった。龍若丸の居場所を教えるので、自分と妻を助けてほしいのだという。

 妻鹿田の妻は龍若丸の乳母であり、夫である新助がいくら説き伏せようとも龍若丸から離れようとしない。このままでは夫婦ともども殺されるだけだと判断した妻鹿田はひそかに龍若丸の一行から離れ、こうして綱成の前に姿を見せたのである。



 それを聞いた綱成は内心で顔をしかめたものの、表面上は機嫌よさげに妻鹿田の申し出を受け入れた。

 主家の嫡子を差し出して命乞いをする輩に好意は持てないが、ここで妻鹿田を殺した挙句、龍若丸に逃げられたら目もあてられない。

 まずは龍若丸の身柄をおさえる。裏切り者の処断はその後のことだ。



 あるいは、すべては妻鹿田の献身であり、裏切り者を装って龍若丸を別の方向に逃がそうとしているのではないか――そんな不安ないし期待を綱成は抱いたのだが、妻鹿田の案内する先に少数の山内上杉兵を発見したことで、その可能性も潰える。

 綱成が舌打ちするのと、龍若丸たちが追っ手に気づくのは同時だった。



「……あなた! いったい何のつもりですかッ!?」



 慌てふためく一団から一人の女性が進み出て、目をつりあげて妻鹿田を睨んでいる。

 それが妻鹿田の妻、龍若丸の乳母であることは問うまでもなく明らかであった。



「……見てのとおりだ。わしらは十分に主家に尽くした。わしらを見捨て、ひとり逃げ延びた憲政殿のために命を捨てるのは愚かなこと。ゆき、わしと共に北条に降ろうぞ」

「わたしたちが憲政様に捨てられたことと、あなたが龍若丸様を売り渡すことに何の関係があるのですか!」



 正面から詰問され、妻鹿田は目をそらす。

 そんな夫の姿を見て、ゆきと呼ばれた細君さいくんはたまらず顔を覆った。



「……ああ、情けない! 北条に降ったところで先などないことがわからないのですか? 主君の子を売り渡すような人間を、いったい誰が信用するというのです? 不義不忠の罪を問われて処刑されるのが関の山でしょうにッ」



 それを聞いて綱成は思わず、ほう、と感心した。

 夫はともかく、こちらの細君はなかなかの見識の持ち主だ。そういう人物であればこそ、憲政もこの女性を乳母に任じたのだろうか。

 そんなことを考えながらも、綱成は前に進み出る。

 夫を激しく糾弾している細君が、その実、龍若丸を逃がすために時間稼ぎをしていることを綱成は見抜いていた。



「その忠義と機転には感心するが、あいにくこちらも関東管領の血筋を見逃すわけにはいかない。覚悟していただこう」

「……関東の覇者たらんと欲する大名が、元服も済ませていない子供を恐れるのですか?」

「あなたと問答するつもりはない。が、一つだけ言わせてもらおう。もし関東管領が北条を滅ぼしていたなら、あの男は北条の血を引く子供に温情をかけたかな?」



 そう言って槍を構える綱成に対し、相手は覚悟を決めた様子で懐剣を構えた。

 それまで口をつぐんでいた妻鹿田が慌てたように進み出る。



「お、お待ちくだされ! 約束が違いまするぞ!? わしと妻の命は助けると……」

「黙れ。主君の子を売り渡した者に信義を問われる筋合いはない」



 綱成があごで妻鹿田を指すと、心得た黄備えの男たちがたちまち妻鹿田を縛り上げた。

 妻鹿田はなおも何かをわめいていたが、綱成の耳には虫の鳴き声ほども響かない。

 と、そのとき、綱成の視界にさらに一人の人物が飛び出してきた。

 おそらく十歳かそこらの子供だ。見るからに仕立ての良い服を着ており、目鼻立ちにも品がある。

 もしや、という綱成の予想は、次の妻鹿田の妻の言葉で正答だと判明した。



「龍若丸様! どうして!?」

「すまぬ、ゆき。だが、ゆきたちを捨てて、一人で逃げるなんていやだ」



 そう言うと、龍若丸は綱成をじっと見つめた。



「朽葉色の陣羽織。北条軍、黄備えの北条綱成殿と見受けるが、如何いかん?」

「……いかにも。そういうそちらは憲政殿の嫡子、龍若丸殿か?」

「いかにも、そのとおりだ――いや、そのとおりです」



 龍若丸は丁寧に応じる。

 だが、その声はわずかに震えていた。両の拳は血がにじむほどに強く握りしめられている。

 懸命に恐怖を押し殺しながら綱成と対峙しているのだろう。



「北条軍の目的は父とぼくの命にあるはず。この身は貴殿にあずけましょう。そのかわり、ここまでわたしに従ってくれた者たちには、どうか情けをかけてもらいたい」

「見逃せ、とおっしゃるか。念のためにうかがうが、この裏切り者もですかな?」

「……新助も今日まで忠実に仕えてくれたぼくの家臣だ。かなうならば目こぼしを願いたい。このとおり、お願いする」



 そう言って龍若丸は頭を垂れた。

 綱成は驚きを禁じえない。

 あの無道な関東管領から、どうしてこんな道理のわきまえた子供が生まれたのかと不思議に思う。



 同時に、危険だ、とも思った。

 この嫡子、長ずれば北条家の大敵となりかねない。芽のうちに摘んでおくにしかず。そう考えた綱成は即座に行動に移った――いや、移ろうとした。

 そのとき。



 北の方角から轟く馬蹄の音。

 もうもうと立ち上る土煙を裂いて現れたのは二百を超える騎馬部隊だった。



「何者か、貴様ら!」



 問いつつ、しかし綱成は答えなど気にしていない。

 誰であれ、関東管領の与党であることは疑いない。蹴散らす以外の選択肢があろうはずもないのだ。

 綱成率いる黄備えは追撃を優先していたために百騎あまりしかいないが、関東管領の手勢など二百が三百でも負けはせぬ。綱成はそう考えた。ところが――



「越後守護 上杉景虎が家臣、加倉相馬」



 甲冑をまとわずに綱成の前に現れた敵将は、自らを越後上杉家の人間だと語った。

 それを聞いた綱成はすっと目を細めた。恐れたわけではない。越後勢がはや関東に入っていた事実に警戒の念を覚えたのである。

 敵の人数次第では、憲政の追撃にとりかかった北条諸将が各個撃破されてしまう可能性がある。



「主君の命により、関東管領殿とそのご子息をお助けいたす。北条家の方々におかれては、ただちに兵を退かれるがよろしかろう」



 そうすれば追撃はしない。

 加倉と名乗った将は音高く鉄扇を広げると、悠然と言葉を続けた。



「むろん、我が上杉の力、確かめたいと仰るのであればお相手いたす。戦うか、退くか。お選びあれ、地黄八幡」




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