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聖将記  作者: 玉兎
序章 前夜
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第六話 関川の戦(中)



 草むらから飛び出した長尾勢が落馬した騎兵に殺到する。

 重い甲冑を着て地面に叩きつけられた彼らはすでに手負い。一斉に斬りかかり、突きかかる長尾勢の手で、たちまち十を超える敵兵が討ち取られた。

 槍で腹を突かれた兵士の一人が無念の声をあげて土を掴む。

 腹からあふれでた兵士の血が、たちまち地面を赤黒く染めていった。



 長尾勢の奇襲は成功したかに思われたが、柿崎勢も黙ってやられてはくれなかった。

 罠を逃れた兵たちは怒号をあげ、馬をあおって長尾勢に突きかかる。

 味方は俺の指示どおり三人一組で敵兵と戦っていたが、向こうは数の不利をものともせず縦横無尽に暴れまわる。

 馬蹄に蹴られ、槍先にかけられ、たちまち敵に倍する味方が死傷者の列に加わった。



 怒号、悲鳴、ときの声が交互に耳朶を打ち、脚を折った軍馬の悲痛ないななきが鼓膜を震わせる。

 死者の身体からこぼれ出た臓物の悪臭が鼻腔を犯す中、敵も味方も嘘のようにばたばたと倒れていく。

 指揮官である俺は乱戦に参加していないが、もし参加していたら何の役にも立たずに斬り殺されていただろう。



 敵意と殺意のぶつかりあい。殺さなければ殺されるという戦場の理。

 あまりにも悲惨だった。あまりにも無残だった。人間がこんな簡単に死んでいいはずがない。

 だが、この悲惨で無残な戦闘を演出したのは俺なのである。

 その事実に全身の震えが止まらない。正直なところ、逃げ出したくてたまらなかった。





 そんな俺の怖気心おじけごころが味方に伝わったわけでもあるまいが、戦況は急速に悪化しつつあった。

 一時の混乱から立ち直れば、やはり柿崎勢は強い。

 双方の被害を見比べると、敵を一騎倒すごとに味方は五人、六人と倒れている計算になる。

 罠で討ち取った最初の十騎が健在であったら、と考えるとぞっとした。



 今は数の差でかろうじて長尾勢が優勢を保っているが、それでもすでに味方の半数近くが死傷している。このままいけば先手の三十騎は討ちとれそうだが、その頃には味方の被害はさらに増えているだろう。

 いったん退くべきか。

 だが、敵の生き残りから景家に情報が伝わるのはまずい。戦闘が起こったことはもはや隠しようがないが、こちらの兵力が分からなければ、景家は伏兵を警戒して進軍を躊躇するに違いないのだ。



 戦うか、退くか。俺は判断に迷った。

 しかし、結論からいえばこの迷いに意味はなかった。

 俺は遅すぎたのだ。

 敵の後続――無傷の黒備え本隊が雄たけびをあげて戦場に躍りこんできたのは、それから五つ数えた後のことであった。



 敵の増援を見た長尾勢の間に無音の動揺が走る。

 兵士たちの視線の先にはひときわ雄偉な体格をした敵将の姿があった。

 その将のかたわらで高々とひるがえるは「かぶ」の紋――上杉家の先陣に幾度となく翻り、諸国の大名を恐怖せしめた柿崎景家の旗印だ。

 であれば、あの敵将こそ柿崎景家その人なのだろう。



 遠目からでもわかるほど旺盛おうせいな精気を放ち、戦場に立って俺の百分の一も動揺していない毅然たる馬上姿。

 越後七郡にかなう者なしとの評もうなずけるものであった。



◆◆



 ――しくじった。



 内心でうめいた俺は、ぎりっと奥歯を噛んだ。

 柿崎勢は大将である景家の指揮の下、完全に混乱から立ち直っていた。陣形を整え、槍先をそろえ、草を刈るがごとく味方を蹴散らしていく。

 俺はなんとか劣勢を挽回せんと声をからしたが、効果はないに等しい。

 それどころか、声を張り上げたせいで敵の注意を引いてしまう始末だ。



 柿崎勢がいる方向から焼けつくような敵意が吹き付けてくる。

 風に乗って運ばれてくる鉄錆てつさびの臭いが、敵の槍先にかかって果てた味方の血の臭いだと気づいたとき、俺は我知らず後ずさっていた。



 失敗した。もっと早くに退却するべきだった。

 おそらく、無事に撤退する唯一の機会は初撃に成功した直後。

 敵の先頭を罠にしかけ、落馬した敵兵を討ち取り――そこで満足して退くべきだった。

 この奇襲の目的は敵の足を止めること。相手の鼻面を叩いた時点で退いていれば、こちらの被害は最小限で済んだに違いない。



 だが、撤退の機はすでに去っている。

 いま俺たちがきびすを返せば、柿崎勢は猛然と追撃してくるだろう。

 徒歩の兵士が騎馬の足にかなう道理はない。殲滅されてしまうのは火を見るより明らかであった。



 とはいえ、このまま戦場に留まっても殲滅されるという結果は変わらない。

 ゆえに、ここは退く。被害は甚大なものになるが、それ以外に手段はない。

 判断を誤った自分の無能に歯噛みしながら、俺は退却の命令を下そうとした。



 ――高らかな乙女の名乗りが戦場に響き渡ったのは、その時であった。



「やあやあ、そこにいるのは敵将柿崎和泉(いずみ)殿とお見受けいたす! それがし、加倉相馬が臣にて小島弥太郎と申す者! いざいざ、尋常に勝負されたしッ!」



 勢いよく進み出た弥太郎が、りゅうりゅうと槍をしごいて柿崎景家に挑みかかる。

 戦場において武功を示すために名乗りを挙げるのはめずらしいことではない。

 だが、弥太郎は体格こそ優れていたが、高く澄んだ声音は男性のそれとは聞き違いようがない。

 柿崎勢の間から女兵士の無謀さを嘲笑う声がわきあがった。




 もし弥太郎がはじめから戦闘に加わっていたら、また違った反応が返ってきたに違いない。

 これまで弥太郎の武芸が目立たなかったのは、俺の護衛をしてくれていたからだ。戦に先立つ宣言を忠実に守ってくれていたのだろう。

 俺の安全を確保した上で周囲の戦いに気を配り、不利な味方を見つければただちに駆けつけて豪槍で救い出す。弥太郎自身が討ち取った兵の数は少なかったが、弥太郎に救われた兵の数は五人や六人ではない。



 その弥太郎がいきなり柿崎景家に挑みかかったことに、俺は驚きを隠せなかった。

 と、横合いから何者かが俺の肩を引っつかむ。



「加倉殿、急ぎ撤退の下知を」



 一瞬、猿鳶さるとびかと思ったが違った。

 肩を掴んできたのは、弥太郎の武芸に感嘆していた古参兵である。

 おそらく五十近い年齢だと思われる古参兵の身体には、今日の奮戦を物語るように大量の血がこびりつき、むせ返るような血臭を放っている。

 俺は反射的に彼の進言を退けようとした。ここで撤退するということは、つまり弥太郎を見捨てるということであったから。



 だが。

 弥太郎の行動。眼前の兵士の提言。その意味するところは俺にもわかった。

 時ならぬ女兵士の登場で戦場には思わぬ空白が生じている。

 退却するには絶好の機会だ。

 ここで俺がいらぬ抗弁をして時を費やせば、せっかく生じた好機を再び失ってしまう。



 過ちを繰り返す、それこそが過ちなのだとは誰の言であったか。

 理性と感情が頭の中で激しくぶつかりあっている。

 理性は撤退を肯定している。感情は撤退を否定している。決断の苦しみが、物理的な圧迫感さえともなって全身にのしかかってくる。

 晴景様から采配をあずかったことを心底悔やんだ。

 だが、それでも。



「――全軍、弥太郎を殿しんがりとして撤退せよッ!」



 しなければいけないことは俺にもわかっていた。




◆◆◆




女子おなご殿しんがりとして退くか。春日山の指揮官は武士の風上にもおけない輩のようだな」



 慌しく退却していく敵兵を見やって柿崎景家はひとりごちた。

 泰然とした物言いはいかにも歴戦の武将らしい風格に満ちており、無様に逃げていく敵将とは比べるべくもない。

 だが、実のところ、景家の内心では憤懣ふんまんが渦を巻いていた。



 今回の戦闘、結果だけを見れば柿崎勢の圧勝だ。こちらの死傷者は三十たらず、敵には三倍近い損害を与えている。

 だが、惰弱な守護代相手の戦で被害を出した。この一点で景家は平静ではいられない。見方をかえれば、春日山の弱兵相手に騎馬部隊の一割を失ってしまったことになる。

 数々の戦いで勇名を馳せてきた景家は、蟷螂とうろうの斧で傷つけられた苛立ちを何とか噛み殺しているところだった。



 こうなれば、こしゃくな長尾勢を昼夜分かたず追いかけ、追い詰め、全員血祭りにあげて屈辱を雪いでやる。

 そうして連中の首を春日山城の門前に並べたてれば、晴景は腰を抜かして恐れおののくに違いない。

 手始めは小島(なにがし)とかいう身の程知らずの女兵士だ。

 そう思って景家は近習に蹴散らすよう命じたのだが――



「う、うわああッ!?」

「ひ、な、なんだ、こいつは!」

「ええい、ばか者ども! 女子おなご相手になんたる無様! 柿崎隊の勇名を汚すつもりか!」

「し、しかし……がああ!?」



 また一人、馬上から地面に叩き落とされる柿崎兵。

 小島弥太郎の持つ長槍が一閃するつど、柿崎勢の死傷者の数が増えていく。

 通常、馬上と徒歩では馬上の方がはるかに有利であるのだが、弥太郎の長槍と膂力の前では騎馬の利も意味をなさないようであった。



 大のおとなでも扱いに苦慮しそうな長槍を、小枝のように軽々と振るって鞍上の敵を叩き落とし、それがかなわなければ馬の首を強打して馬自体を叩き伏せる。

 弥太郎が名乗りをあげた当初、嘲笑を浮かべていた柿崎勢であったが、今や侮蔑の念は完全に拭い去られていた。暴風のごとき戦いぶりに気おされ、馬を後退させる者さえあらわれる。

 それを見た景家の眉がみるみるうちに吊りあがった。



「たわけッ! 戦いにじて、どうして柿崎の兵を名乗るつもりかッ!」



 景家は後ずさった配下を一刀の下に斬り捨てる。

 悲鳴をあげる間もなく落馬した兵士は、地面に落ちたときすでに事切れていた。

 見れば、その兵士は左の肩口から右の脇にかけて、鎧ごとばっさりと断ち割られている。剛力と刀技があわさった手練しゅれんの一刀であった。



「女相手に退くような臆病者はいらぬ! 一人で戦えぬなら囲んでつぶせい。槍で戦えぬなら弓で射殺せ。馬の蹄にかけてもよいッ」



 血塗れの刀を頭上で一閃させた景家は、吼えるように続けた。



「越後全土に臆病者の恥を晒すことは許さぬ! 敵の喉笛を食いちぎってでも前へ進め! 退いて相手の勇を称える必要なぞありはせん。卑劣とそしられようと、勝利をもぎとることこそ柿崎の陣法よ! そのためにこそ貴様らに高い禄を食ませているのだ! いざ奮い立て、柿崎が猛者もさたちよ!!」



 この景家のげきに周囲の兵士たちは勇み立った。

 この将あるかぎり、越後最強たる柿崎の地位はゆるぎなし。

 その確信が弥太郎に対する恐れを拭いとり、彼らは次々に刀槍を掲げて喊声をあげた。





 柿崎勢が立ち直っていく様を、弥太郎は眼前で見せ付けられる羽目になった。

 懸命に押し隠しているが、すでに息はかなり荒い。いくら弥太郎といえど、精強な柿崎兵を相手にするのは容易なことではなかったのである。

 このままではじきに力尽きてしまうだろう。



「……でも、加倉様が逃げられたから……よかった、かな」



 見れば、すでに長尾勢のほとんどは戦場を脱しつつある。

 だが、敵の主力が騎兵であることを考えれば、あともう少し時間を稼ぎたい。

 そのためには命を懸け――否、命を捨てる必要があるだろう。柿崎兵と矛を交えた弥太郎にはそれがわかった。



 むろん弥太郎は死にたくなんかない。

 けれど、味方が生き残るためならば仕方ないかな、と思う。

 それに、たとえ死んだとしても、のこった家族にはたくさんのお金が渡る。それを思えば未練も少しは薄くなった。



 弥太郎は出陣前の自宅の様子を思い起こす。

 出陣に先立って配られた金子きんすを持って返った弥太郎を見て、父と母はひっくり返ってしまった。

 二人は弥太郎が悪事を働いて金を奪ったと誤解したのである。

 弥太郎はそうではないことを口をすっぱくして説明したのだが、誤解はなかなか解けなかった。

 それも仕方のないこと。加倉から渡された褒賞はそれくらいありえない額だったのである。



 結局、弥太郎以外の志願兵からも同様の話を聞き、ようやく両親は納得してくれた。

 そのときの両親の顔と、久方ぶりに腹いっぱいご飯を食べられると知った弟妹たちの笑顔を弥太郎は胸に刻む。



「ごめんね。父ちゃん、母ちゃん、みんな」



 死屍の帰還になることは申し訳ないと思う。

 それでも、逃げようとは思わない自分自身の心を弥太郎は誇りに思うことができた。




 かくて、覚悟を定めた小島弥太郎は柿崎勢の前に立ちはだかる。

 持てる力の限りを尽くして柿崎勢を食い止めるために。

 春日山長尾家の勝利に必要な、ほんの一時の時間を稼ぐために。



 しかし。

 いざ敵陣に突撃せんとしたとき、予期せぬ声が弥太郎を引きとめた。



「いやいや、それはわしらの任よ。お主のような小娘に任せるわけにはいかんなあ」

「……え?」



 突然、背後からかけられた声に驚いて振り返る。

 そこには弥太郎の武芸を認めてくれた古参兵の他、数名の兵士がそろっていた。

 年の頃はみな古参兵と同じくらい。

 顔といわず、身体といわず、無数の戦傷が残る歴戦のつわものたちであった。

 その彼らは声をそろえて弥太郎に言った。早く逃げよ、と。



「で、でも、あの、それじゃあ、みなさんが……」



 戸惑いながらも老兵の身を案じる弥太郎に対し、古参兵は精神の骨太さを感じさせるおおらかな笑みで応じた。



「よう柿崎を食い止めてくれたの。ここよりはわしらの出番じゃ。たまの肌が傷つかぬうちに退くがよい」

「でも、でも!」

「お主はまだ若い。これからの春日山に必要なのは、お主や、あの加倉殿のような若き力であろう。お主らの力で守護代様を救うて差し上げてくれい」



 その言葉には、弥太郎が思わず身体を震わせるほどの強い意思が込められていた。

 この人たちは決して退くまい。

 弥太郎のような少女でも感じ取れてしまうほどに鮮鋭な決意が、そこにはあった。



「……わ、わ、わかりました! あの、ご、ご武運を、お祈りしていますッ!」

「うむ、達者でな。加倉殿にもそう伝えてくれい」

「はい、必ずッ!!」



 弥太郎はしっかり頷くと踵を返す。

 後ろを振り返ることはしない。

 ここで未練を見せるのは相手への侮辱に他ならない。それがわかっていたからである。



◆◆



「さてさて、先代様のご恩にかような形で報いることができようとは。やはり人生は面白い」

「んだな。これで、あの世で先代様にあっても申し開きはできるじゃろ」

「まあ、先代様なら、かえってあちらから謝って来られるかもしれんがの。後を継いだ守護代様の出来の悪さに」

「いやいや、はっきりと申すことよ」

「もうじき世を去る身じゃ。この程度のことは許していただきたいのう」



 その場に残った古参兵は仲間と共に大口をあけて笑い合う。

 いかにも楽しげなその表情は、柿崎勢が動きはじめるや、瞬く間に刃のごとく研ぎ澄まされていく。

 柿崎勢の馬蹄の轟きにも動じる様子を見せない。

 名にし負う越後の精兵、彼らは疑いなくその一角を占める者たちであった。



「さて、今生の別れだな。酒なしとはさびしいが、戦場で散れるは本望よ」

「うむ。相手は越後最強たる柿崎勢。我らが死に花を咲かせるに不足なき相手じゃ」

「おうとも。春日山にも咲く花はあったのだと先代様にお伝えしよう――では皆々、参ろうぞ!」

「おお!!」



 ある者は刀を掲げ、ある者は槍を掲げて、老兵たちは高らかに雄たけびをあげる。

 そうして彼らは、殺到してくる柿崎勢に正面から挑みかかっていった……




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