第五十九話 尾張侵攻
尾張の国、丸根砦は血泥飛びかう狂騒のただ中にあった。
無数の矢が飛び交い、刀槍が絡み合って激しく火花を散らす。
上洛を目指す今川軍と、上洛を阻む織田軍との戦いが始まってから、すでに一刻(二時間)あまりが経過していた。
今川軍の先鋒を務める松平勢は二千五百、対する丸根砦には佐久間盛重率いる二百が立てこもる。
戦力差は歴然としていたが、織田軍は寡兵よく砦を守り通していた。
櫓の上から盛んに矢をいかけては今川兵を射抜き、砦壁を乗り越えてきた敵に対しては槍先をそろえて突きかかり、壁外に押し戻す。
夜半から降り続く雨に地面はぬかるみ、守る織田兵も攻め寄せる今川兵も泥だらけになっている。
砦に突入せんと斜面をかけあがる今川兵の中には、泥に足をとられて横転する者もいた。
そんな間抜けな兵には容赦なく織田方の矢が降り注ぎ、その兵士は全身を朱に染めて泥中に没する。
だが、織田兵から歓声があがることはなかった。息つく暇もなく砦に取り付いてくる敵を押し返すのに精一杯だったからである。
矢を射れば当たる状態であったが、肝心の矢が底を尽きかけている。
守将である佐久間盛重は十分以上の備蓄を用意したつもりであったが、今川軍松平勢の攻勢は、その備蓄をすべて吐き出してなお押し留めることができない苛烈なものであった。
「押すでござる! 敵は寡兵、城に篭るしかない臆病者どもに我ら松平勢を止めることはできもうさん!」
声変わりもしていない甲高い少年の声が戦場にこだまする。
その少年は松平勢の先頭に躍り出るや、長大な槍を縦横に振り回して矢を切り払り、織田兵の攻撃から後続の味方を守った。
その間に梯子を背負った足軽が砦壁に取り付く。
それを見た少年は軽やかな身ごなしで梯子をかけのぼり、そのままひらりと宙を飛んでついに砦壁を越えた。
「三河松平家が家臣、本多平八郎忠勝、推参! この蜻蛉切と渡りあおうという剛の者はおらぬでござるかッ!」
丸根砦に降り立った忠勝は昂然と叫びながら織田兵を蹴散らしていく。
弱冠十二歳とは思えぬ大柄な体躯。そして、その忠勝の身長の倍以上の長さを持つ蜻蛉切。
刀で受ければ刃が砕け、槍で止めれば柄がへしおられ、鎧や兜は紙でつくった玩具のように千切れ飛ぶ。
この人為的竜巻を前に織田軍はなだれをうって後退する。その顔には先夜からの防戦の疲労と、忠勝の剛勇への怖れがはっきりと浮かび上がっていた。
「皆、忠勝に続けェ! 突撃、突撃ッ!!」
忠勝の侵入を見届けた松平元康は直属の馬廻を戦場に投入し、決着をはかる。
これに勢いづいた松平勢はさらに攻勢を強め、ついに丸根砦の門は破られた。
これまで懸命に砦を支えてきた佐久間盛重ももはやこれまでと抗戦を断念し、配下の兵に退却の命令を下す。
その姿を見咎めたのが砦深くに入り込んでいた本多忠勝だった。
「名のある織田の将とお見受けする! 拙者、松平元康が家臣にて本多平八郎忠勝と申す者。こたびの初陣の勲として、その首級、頂戴つかまつる!」
「ふ、あいにく初陣の小童にくれてやる首級は持ち合わせておらぬ。そのたいそうな槍を叩き折られたくなければ、退け、小童!」
「問答無用! 参るでござる!」
猛烈な勢いで突きかかる忠勝と、これを受け止める盛重。
盛重はこの戦ではじめて、忠勝の蜻蛉切を五度まで防いでのけた。
万全の状態であれば、あるいはさらに十、二十と防ぐこともできたかもしれない。しかし、このとき盛重の背には二本の矢が深々と突き立っており、とうていまともに戦える状態ではなかった。
六度目の激突で盛重の手から刀が飛ぶ。
このとき、ようやく盛重の背に刺さった矢に気付いた忠勝がはっと息を呑んだ。
が、当の盛重はさして気にする風もなくあっさりと言う。
「見事。さあ首級をとって手柄とせよ。わしは織田上総介が臣、佐久間大学盛重じゃ」
「……何か言い残すことはござるか」
「そうさな。では小童――本多忠勝と申したか。せいぜい名をあげて、世に武名を轟かしてくれよ。そなたは佐久間大学を討ったのだ。そなたの武名がかげれば、そなたに討たれたわしの名もかげってしまうでな」
そういって呵呵と笑うと、盛重はしずかに目を閉じた。
「……御免」
言うや、忠勝は腰の刀を抜き放つ。
次の瞬間、盛重の首は放物線を描いて宙を飛んでいた。
◆◆◆
丸根砦を占拠した元康は、ただちに本陣の義元に勝利の報告を送ると共に砦の復旧にとりかかった。
丸根と鷲津は織田方の重要拠点である。いつ信長の軍勢が奪還しに来るとも限らない。
もっとも、斥候によれば信長はいまだ清洲城から動いていないというから、これは無用の心配かもしれなかったが。
少なくとも、松平の家臣たちはそのように考える者が多かった。
「……さて、あの吉法師殿がおとなしく篭城するとは思えぬが、さりとて無思慮に飛び出す人でもなし。せんずるところ、奇襲の機をうかがっているといったところか」
そんなことを考えながら砦の修復作業を見て回っていた元康は、その途中、ふと思い立って櫓の一つにのぼり、彼方に広がる尾張の大地を眺めた。
織田家と松平家は父祖以来たびたび矛を交えてきた間柄。幼い元康も人質としてこの地で暮らしていたことがある。尾張は因縁深い土地であった。
もっとも、織田家自体にさして恨みはない。祖父清康、父広忠、いずれも弑したのは家臣でなければ三河の国人である。たとえその背後に織田の使嗾があったにせよ、裏切りを断行したのは同郷の者たちなのだ。
元康にしてみれば、彼らの方がよほど恨めしく、疎ましい。
織田の人質となっていた時代も、さして礼遇されたわけではなかったが、むごい扱いを受けたわけでもない――
「……いや、冬の最中に幼子を川に放り込む吉法師殿の扱いは、むごいといえばむごかったな」
謹直な元康の口から、めずらしくくつくつと笑いがこぼれた。
元康は織田信長を好いているわけではない。ただ、あのあふれんばかりの行動力と常軌を逸した(と元康は思っている)着想力は尊敬に値するものだった。
己では決してああはなれぬ、と思う。
それに幼少時代の元康にああもあけすけに接してくれた人は、後にも先にも吉法師ひとりだけだった。
そこまで考えて、元康は再度苦笑する。
――ああ、そうだ。訂正しよう。自分は、松平元康は織田信長を好いている。好いているが、それを言動に結び付けないようにしているだけだ。
自分の好悪など論ずるに値しない。
どれだけ好意を抱く相手でも討ち取ろう。どれだけ恨み重なる相手にも従おう。
岡崎を、三河を、松平を取り戻す、そのためならば。
「――殿」
「……半蔵か」
ひとり考えにふけっていた元康の耳に、誰もいないはずの櫓から声がかかる。
元康は即座に相手の正体を察し、問いを向けた。
「織田軍の動きはどうか」
「いまだ清洲から動かず。道々の砦から頻々に援軍を求める使者が出ておりますが、これに応じる気配もなし」
「臆病風にふかれたともとれるし、出撃する際の兵を惜しんでいるともとれるな。他に何かあるか?」
「雪斎和尚が小荷駄隊をともなって沓掛城を出立。まもなく姿を見せる頃合」
それを聞いて元康はわずかに眉根を寄せた。
丸根砦の西には大高城があり、今川家の鵜殿長照が立てこもっている。
大高城は今川軍の最前線であり、丸根、鷲津をはじめとした織田方の砦に補給線を寸断され、兵糧の枯渇に喘いでいた。
今回、元康が丸根砦を攻撃した理由の一つは大高城を救援するためであった。
ゆえに義元が小荷駄(輜重隊)を差し向けるのはわかるのだが、どうして雪斎ほどの人物がその役目を任されたのか。
少し不可解だったが、前線を視察するためであろうと考え、元康は自らを納得させた。
その後、半蔵の言葉どおり雪斎率いる小荷駄隊が到着した。
彼らを砦内に招き入れた元康は雪斎に丁重に頭を下げる。
そんな元康に向けて、雪斎は義元からの伝言を伝えた。
「松平勢の速やかな勝利、まことに見事である。元康殿はこのままわしと共に大高城に入り、本隊の到着を待つように、とのことだ」
「かしこまりました。しかし、どうして雪斎師がわざわざこのようなところへ?」
「なに、清洲から動かぬ上総殿が、兵糧の匂いに誘われて出てこぬものか、と思うてな。それに我が弟子の戦果を確認するためでもある」
戦帷子をまとった雪斎はそう言うと、元康に促されるままに丸根砦へと足を踏み入れた。
砦内を歩く雪斎の動きはなめらかで、年による衰えをほとんど感じさせない。
一見すると線の細い文官のように見える雪斎であるが、その実、身体は老人とは思えぬほど引き締まり、日ごろの鍛錬を怠っていないことがうかがえる。
太原雪斎といえば今川家の大軍師として名高いが、元康から見れば雪斎は軍師ではなく武将、それもまぎれもない歴戦不敗の名将であった。
砦の奥まった一室に腰をおろした雪斎は、あらためて元康に向かって状況を説明した。
「上総殿は相変わらず清洲から動いておらぬ。報告では木下某という者が、戦に先立って大量の米や野菜を買い占め、篭城のためと触れ回っておったそうだが……うつけと呼ばれる者にしては、ちと動きが素直すぎる」
元康は背筋を伸ばして雪斎の言葉に聞き入っている。
情報の収集から思考の展開に至るまで、雪斎のすべてが元康にとって得難い教本であった。
「地の利は敵にある。ゆえに織田軍の動きには注意が必要だ。かというて、敵を警戒するばかりでこちらが動かぬは愚の骨頂よ。元康殿、敵地に踏み込んだ際、注意すべきことは何であろうか?」
「は! 兵力の分散を避けることと糧道を確保することであると心得ます」
元康は迷わず応じる。
雪斎は思慮深い眼差しでそんな元康を見やった。
これまで多くの子弟に軍略の手ほどきをしてきた雪斎であるが、元康はその中でも出色の人材だ。
教えたことを吸収する早さは砂地に水をまくにも似て、しかもどれだけ水を注いでもこぼれる気配がしない。
真摯で透徹したその姿勢が、松平家を取り戻すための努力であることは火を見るより明らかであった。
雪斎が義元に対し、元康を岡崎城へ戻すよう勧めたのは、何も弟子可愛さゆえではない。
元康の芯にあるのは岡崎城であり、三河の国であり、松平の家だ。
今、岡崎城は今川家の城代が入って治めているが、この状況が続けば、いずれ元康は今川家に対して叛意を抱く。
今川一門の妻を娶わせるとか、黄金を与えるとか、官職を授けるとか、そういったことで心を動かさないのが元康という人間である――雪斎はそう見ていた。
元康がそむいたとき、義元や雪斎が生きていれば対処のしようもあるが、すでに墓の下にいた場合、同世代の若者たちでは元康の相手にもならないだろう。
そんな人物を敵に回すのは愚かというものだった。
義元が雪斎の進言――尾張平定後、岡崎城を元康に返還する――を容れたことで、元康が離反する恐れはなくなった。
そんな雪斎にとって気がかりなのは、やはり当面の敵である織田信長だった。
あまりにも静か過ぎるのだ。
今川家と織田家の戦力差は隔絶している。篭城を選ぶことは不自然ではないし、むしろそのことに疑惑を抱く者の方が少数派である。
だが雪斎は、織田信長という人物が常識はずれの行動力の持ち主であることを知っている。
尾張の領民からも「うつけ」と呼ばれる奇抜な人物であるが、伝え聞くその所業は信長という人間の尋常ならざる思考を感じさせるに十分なものだった。
それは一言で言えば便利の追求。
因習、慣習を蹴飛ばして、ただ己が良いと思う方向に物事を押し進めていく破天荒。
凡才のそれはうつけで済むが、天才のそれは時に変革への端緒となる。
そして、雪斎の目には信長が後者であると映っていた。なぜならば、ただのうつけが今川家の勢力にあらがいながら尾張一国を統べるなどできるはずがないからである。
ゆえに、雪斎は主君義元に口をすっぱくして油断禁物を説いた。
どれだけ信長が特異な才能を持っていようとも、彼我の戦力比を逆転させることはできない。
今川家はあくまで堂々と、油断なく、正攻法で押し進んで行けばよい。
もっとも警戒するべきは地の利を持つ敵の奇襲である。
常に斥候を放ち、間違っても奇襲に適した窪地などに陣を止めないこと。野武士のたぐいに襲われても深追いしないこと。地元の民が酒や食べ物を献上してきても口にしないこと。
雪斎は全軍に細々とした訓示を与え、義元の本隊にもそれを徹底させた。
そのおかげだろう、ここまでの今川軍の動きは実に整然としたもので、鬼神の目をもってしても付け入る隙を見出すことはできないだろうと思われた。
ここで元康が首を傾げて問いかける。
「こちらに付け入る隙がないから織田軍は動けない。そうではないのですか?」
「うむ。確かにそう考えるのが妥当なのだろう。だが、どうも腑に落ちぬ。この程度で呑まれる織田信長なのか、と」
「雪斎師は信長を高く評価しておられるのですね」
元康の言葉に雪斎は苦笑した。
年をとってからというもの、世俗の権勢よりも、優れた才能に惹かれるようになったことは、雪斎自身、自覚せざるをえないところである。
「たしかに、一度じかに言葉をかわしてみたいものとは思っておる。できれば今川に降ってほしいものだが……」
おそらく無理であろう。
それは元康の耳ではなく、心が聞きとった雪斎の嘆きであった。
「ともあれ、上総殿の反応を見るためにも前線に出てきたわけだが、丸根、鷲津が落ちても清洲に動きはない。それが気になるのだ」
信長の戦才に確信を抱いている雪斎だが、さすがにここまで攻め込まれながら、なおも静まり返っている清洲の様子には訝しさを感じていた。
居すくまっているわけではない。これは機を見計らっている静まり方である。
だが、その機とは何なのかが雪斎には見えてこない。奇襲を考えているのかとも思ったが、今川軍が奇襲に備えて進軍していることは織田軍とてわかっていよう。油断などどこにもない。
時機を見計らって出陣するにしても、丸根砦は元康が、鷲津砦は朝比奈泰朝がそれぞれ落としている。清洲への道を遮る要害はすでにない。このままでは織田軍が動くよりも早く、今川軍が清洲城に達してしまうであろう。
事実、葛山氏元率いる五千の軍勢はすでに清洲へ向かっている。これが城下へ到達すれば奇襲をかけることはもはや不可能だ。
それがわからぬ信長ではあるまいに、一体何を考え、何を待っているのか。
雪斎の顔にたゆたう感情を、あえて名づけるならば不審であろう。
雪斎の脳裏には今回の戦の詳細な絵図が描き出されている。その戦絵図にたった一つ、墨に塗りつぶされたように見えぬ箇所がある。
そこを見極めるために黒点を注視すればするほど、雪斎の胸中からは不審の念が溢れてくるのだ。
はたして、これは織田信長がもたらすものなのだろうか。雪斎は今ひとつそのことに確信をもてずにいた。
そして、そんな雪斎の様子を元康は静かにじっと見つめていた。
その後、元康は丸根の砦に五百の兵を残し、残りの二千を率いて雪斎と共に大高城に入城する。
明けて翌日、二つの急報が大高城に届けられた。
一つは清洲から。
夜半、織田信長みずから率いる精鋭部隊が城を飛び出し、一路国境に――すなわちこちらへ向かっているという。
譜代の家臣さえ置き去りにする神速の行軍であり、雪斎麾下の諜者も完全に行方を見失ってしまったらしい。
そしてもう一つの急報は後方からもたらされた。
本隊を率いる今川義元が全軍を桶狭間に展開。ここに陣を据えたというのだ。
桶狭間は山間に位置する窪地であり、雪斎が決して留まるなと全軍に訓示した地形であった。
雪斎は目を瞠る。
海道一の弓取りたる義元であれば、誰に言われずとも自身が死地にいることを承知していよう。
それでも義元が桶狭間に陣を構えたのは何故なのか、雪斎は急使に問いただした。
「何ゆえに義元様は桶狭間に陣をしかれた? 桶狭間から大高城までさほどの距離もない。にもかかわらず義元様が桶狭間に兵をとめたのは、何か理由あってのことであろう?」
「御意に、ございます……」
駆けつけたばかりで息が整わない急使は、懸命に唾を飲み込みながら続けた。
「氏真様が……」
「……なに?」
「……む?」
この場で出てくるはずのない人名を聞き、雪斎だけでなく元康の口からも驚きの声があがる。
「氏真様が、駿府城を飛び出し、この地まで……参られたために……!」
疲労にまみれた急使の声はひどく弱弱しい。
だが、その声は雪斎たちの耳に落雷さながらの轟音をともなって響き渡った。