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聖将記  作者: 玉兎
第七章 蠢動
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第五十八話 関東の兵火



 三国同盟の締結によって後顧の憂いを絶った北条氏康は、一万二千の大軍を率いて小田原城を出陣。

 各地からの援軍を吸収して二万に膨れ上がった北条軍は、武蔵国忍城(おしじょう)の成田長泰(ながやす)を急襲する。

 山内やまのうち上杉家に属する成田長泰は勇猛な武将として知られており、忍城も堅城として名高かった。



 だが彼我の圧倒的な兵力差の前では、多少の武勇など意味を持たない。

 また、この時の攻め手は『相模の獅子』あるいは『相模の黒真珠』――恥ずかしいですと本人は苦笑している――と称えられる氏康本人であり、麾下には北条軍の中核たる五色備えが勢ぞろいしていた。



 赤備え北条綱高。白備え遠山景綱。青備え笠原美作守。黒備え多目氏聡。

 そして『地黄八幡じきはちまん』黄備え北条綱成。

 兵数、士気、錬度、そのすべてにおいて成田勢を圧倒した北条軍は猛攻に猛攻を重ね、忍城はたちまち落城寸前まで追い込まれた。



 成田長泰は悲鳴をあげて当主上杉憲政に救援を求める。

 当初、急報を受けとった憲政は物憂げに報告を聞き流すだけだった。

 過日の河越夜戦で北条軍に大敗を喫した憲政は、それ以降、政務の意欲を失って歌舞音曲にふけるようになっていたのである。



 しかし、忍城に攻め寄せた敵軍の総大将が北条氏康であると知るや、憲政は目の色を変えた。

 こたびこそ宿敵氏康を撃破し、北条を膝下にねじ伏せん。

 そんな決意を秘めて立ち上がった憲政は各地に檄を飛ばし、北条に優る大軍を編成する。

 上野、武蔵の国人衆を中心とした山内上杉軍三万は憲政の居城 平井城を進発。名将と名高い長野業正を先鋒として怒涛のごとく忍城を目指した。



 一方の氏康は風魔忍軍の諜報によって憲政の動きを察知し、すぐさま部隊を動かす。

 忍城攻めは各地から参集した援軍に委ね、直属の一万二千のみを率いて山内上杉軍を迎え撃ったのである。

 かくて、関東の覇権をめぐる北条軍と山内上杉軍の熾烈な戦いが始まる――かと思われた。



 しかし、氏康率いる北条軍一万二千に対し、山内上杉軍の総兵力は一万に達しなかった。

 平井城を進発した際は三万を数えた将兵はどこに消えたのか。

 正確にいえば、彼らはこの戦場にいることはいた。ただし、外縁部にとどまってそれ以上動こうとしなかった。憲政の召集に応じた軍勢の、実に半数以上が日和見の姿勢を示したのである。



 当然、憲政も麾下の将兵も狼狽した。

 そして事態はさらに悪化する。

 甲斐の武田晴信が六千の兵を率いて上野に侵攻を開始したのである。

 武田軍は山内上杉家に属する城を次々と陥落させながら、憲政の居城である平井城を目指しているという。



 山内上杉軍の中核をなす上野の国人衆はこの報せに動揺を禁じえなかった。

 むろん、憲政も例外ではない、憲政は三国同盟の情報は掴んでいたが、武田は越後上杉家や北信濃の村上家を警戒して動くことができまいと楽観していた。

 その楽観をあっさりと崩された格好であった。



 武田軍の進撃速度は凄まじく、このままでは北条家と対峙している間に平井城が落とされる恐れがある。

 そう判断した憲政は急きょ長野業正を上野防衛に戻す決断を下した。

 業正の居城である箕輪城は西上野の要衝であり、業正自身も歴戦の武将として知られている。業正がいれば、これ以上武田の侵攻を許すことはないだろうとの憲政の判断は間違っていなかった。



 だが、決して正解ともいえなかった。

 なぜなら、業正が軍を離れれば、北条家の精鋭とまともに戦いえる武将など山内上杉軍には存在しなかったからである。



 北条勢の容易ならざるを知る業正は、主君である憲政に対して上野の諸城に残した守備兵すべてを平井城に集結させるよう求めた。他のすべての城を失っても、平井城だけは守らなければならない。あそこには憲政の幼い息子もいるのである。

 同時に、業正自身は北条との決戦に参加すべきとも進言した。

 業正の居城である箕輪城には息子業盛(なりもり)が立てこもり、こうしている今も武田軍と激しく矛を交えているだろう。業正の進言は自身の居城と嫡子を捨てると言ったに等しかった。



 さもなくばこの決戦には勝てない。

 日和見をしている諸侯も、山内上杉軍有利と見れば後難をおそれて参戦してくるだろう。

 そうして北条を破ってしまえば、同盟国の敗退を知った武田軍は退却する。奪われた領土は戻ってくるのである。



 そう主張した業正であるが、憲政はただ箕輪城を守れ、西上野を守れと命じるばかり。業正の進言は通らなかった。

 当初こそ日和見する国人衆の多さに愕然とした憲政であったが、業正の作戦を聞いているうち、腹の中にふつふつと怒りが湧きあがってきたのである。



 どうして関東管領たる己が、たかだか六千の武田軍に上野をくれてやらねばならぬのか。

 業正の「自分がいなければ北条軍とは戦えぬ」と言わんばかりの論調も気に喰わぬ。自分とて本気を出せば業正におさおさ劣らない。

 たしかに日和見の諸侯は多いが、関東管領と相模の一大名を比べてどちらが上かなど幼子おさなごでもわかること。戦が始まれば国人衆も自分たちの過ちに気がつき、きそって参戦してくるに違いないのだ――



 そういった内容で業正の進言を却下する憲政。

 業正は内心で深々とため息を吐くしかなかった。



「ならば北信の村上家と、越後の上杉家に使者を差し向けるべきかと。彼らに武田の背後を突いてもらえば、武田の進軍速度も緩むはず。西上野の諸城も一息つけましょう」

「何を言うか、業正! 村上も上杉も関東管領に逆らいし憎き奴輩やつばら、そのような者たちに助けを請うて何とする!? もうよい、貴様ははよう箕輪城に戻り、武田を防げ。北条はわしみずから撃滅してくれん!」



 北条軍を打ち破り、相模の黒真珠を我が腕で撫抱ぶほうしてくれる。

 そう豪語した憲政は追い払うように業正を箕輪城に戻すと、あふれんばかりの自信をもって北条軍との決戦に臨んだ。

 この当主の意気に押されるように山内上杉軍は猛々しく戦い、惨敗した。



 戦況の推移はただ一行で説明できる。

 突撃してくる山内上杉軍を氏康の本隊が受け止め、その間に左右両翼が山内上杉軍を包囲してこれを殲滅する。

 それだけである。

 要した時間は一刻(二時間)あまり。異論の余地なき北条軍の完勝であった。



 この敗北によって忍城の成田長泰は北条家に降伏。

 勝者の尻馬に乗ろうとしていた関東諸侯も慌てて北条氏康に膝をついた。

 氏康は彼らの罪をとがめることなく、その軍勢を吸収してさらに北へと軍を進める。



 目指すは山内上杉家の居城 平井城。

 氏康はこの遠征で関東管領の息の根を止めるつもりであった。

 そして、氏康が上野侵攻の先鋒を命じたのは、先ごろ降伏したばかりの国人衆であった。

 当然、彼らは新しい主家に忠誠を示すべく懸命に奮闘する。このあたりの老獪ろうかいさは相模の獅子の面目躍如というものであったろう。



 後にこれを聞いた小田原城留守居の北条幻庵は「ますますわらわの若い頃に似てきておるなあ」と氏康の成長に目を細めたという。



 ともあれ、北条軍の北進は苛烈をきわめた。

 北条軍は虎が卵を踏み砕くかのごとく山内上杉家の諸城を次々と陥落させ、たちまちのうちに平井城を重囲の下におく。

 この時、平井城を囲む北条軍は四万を越える大軍勢となっており、関東管領の命運は尽きたと誰もが考えていた。




◆◆ 




 その頃、北条の友軍である武田勢は箕輪城で長野業正、業盛なりもり父子と対峙していた。



 上野侵攻後、破竹の勢いで進軍を続けていた武田軍を止めたのは、父業正にかわって箕輪城にたてこもった長野業盛であった。

 業盛はわずか五百の留守兵で武田軍の猛攻を実に六度まではねのける。

 ただ、当然無傷というわけにはいかず、撃退しても撃退しても波濤はとうのごとく攻め寄せてくる武田軍の前に矢尽き刀折れ、ついに落城は免れないものと思われた。



 ここで現れたのが、忍城から引き返してきた長野業正率いる二千の軍勢である。

 城主の帰還を知った長野兵が歓呼の声をあげる一方、城攻めを行っていた武田軍は緊張の色を隠せなかった。

 武田軍は六千。長野勢は城内、城外の兵士をあわせても二千五百。互いに死傷者を考慮すればもう少し数は減るが、いずれにせよ武田軍有利は動かない。



 だが、長野業正の令名は武田軍もよく知るところ。

 城の内外から挟撃されれば被害も増える。今日までの将兵の疲労も軽視できない。

 そう考えた武田晴信――正確にいえば晴信にかわって指揮をとっていた武田信繁――はいったん攻囲を解いて兵を退くことにした。



 ――実のところ、上杉憲政は業正に上野防衛のための軍勢を与えておらず、業正率いる二千の軍勢のうち、長野家直属の五百人を除いた千五百人は道々の農民をかき集めてこしらえた偽兵であった。

 その事実が判明していれば、武田信繁はまた違った選択をしたかもしれない。

 ここは業正の老練さが信繁の若さをしのいだ形となった。





「ふふ、信繁もまだまだといったところですか。いえ、ここは長野業正をほめるべきでしょう。さすが音に聞こえた上州の黄斑(虎の意)。見事なものです」



 武田晴信はそう言って彼方に見える箕輪城を見やった。

 今回の上野侵攻戦において、晴信は弟の信繁に全権を委ねており、自身は後方で弟の戦ぶりを見物するばかりだった。

 箕輪城攻めでも同様である。苦戦する信繁を叱咤するでもなく、助言を与えるでもなく、弟の指揮ぶりをじっと観察する。その口元にはかすかに微笑が浮かんでいた。



「前線に飛び出すことなく、指揮官たるの責務を果たして指揮統率に専念する。やればできるではありませんか、信繁。私が指揮を執っているときも、その自制心を発揮してくれれば戦のたびにやきもきすることもなくなるでしょうに」



 晴信がいつになく上機嫌なのは、ここに至るまでの信繁の指揮が晴信の予想を超えて秀逸だったからである。

 姉の教えを愚直に守り、実践するだけではこうはいかない。信繁なりに自修し、自得し、それを姉の教えにかけあわせて成果を出しているのだ。

 師として、姉として、これほど嬉しいことはない。



 長野父子を相手に苦戦した事実さえ、信繁は自らを高める材料とするだろう。

 良き敵は得がたいものだ。晴信としては長野父子に感謝の言葉を送りたいくらいであった。

 もちろん、戦いのたびに武田兵が犠牲になっていることを思えば、そんなのんきなことは言っていられないのであるが。



 いったん箕輪城から兵を退いた信繁は、城外で部隊を再編して再度の戦闘に備えた。

 対する長野業正は、城内に入って息子と合流すると思いきや、城外に布陣したまま動こうとしない。

 箕輪城に入ってしまえば、再び武田軍に取り囲まれて身動きがとれなくなってしまう。また、新たに二千の人間が加わることで兵糧が枯渇する恐れも出てくる。それを警戒したのだろう。



 となれば、信繁としては城内の業盛の押さえに千ばかりを残し、残る五千で城外の業正を打ち破ればよい。

 実際、信繁はそのように動いていた。晴信が指示を出すまでもなく。



「おかげで私は後方に専心できるというものです」



 後方とはつまり北信濃の再侵攻作戦である。

 上洛に先立ち、村上家に返還した犀川以北の地。あれをそのまま村上家にくれてやるつもりなどかけらもない。将軍家仲介の和睦を永遠のものと考えるほど、晴信は純真でも清廉でもなかった。



 すでに京都から戻ってきた春日虎綱を通じて、越後守護 上杉定実が死去したことは掴んでいる。

 今、上杉軍は大規模に軍を動かすことができない。その意味でも村上家を追い落とすには絶好の機会であった。

 ただ、ここで正面から村上家に攻めかかれば、あの武神きどりの正義女が声高に非難してくるだろう。虎綱と三千の兵を派遣してまで手にいれた「将軍家に忠実な武田家」という評価を無為に捨て去るのも芸がない。



「であれば、向こうから破約してもらえば良いだけのこと」



 武田家と村上家は幾度も矛を交えた間柄。一時的に和睦が成立したからといって、そう簡単に過去の怨讐を忘れられるものではない。

 晴信は山本勘助を動かして、飯山城の楽巌寺雅方に意図的に情報を漏らしていた。

 上野から撤退する武田軍の帰路を伝えれば、楽巌寺のごとき直情の武将を釣り上げるのは造作もない。その上でにっくき武田晴信の居場所を耳元で囁いてやれば、村上軍は辛抱たまらず飛び出してくるだろう。

 もし楽巌寺が自制したなら自制したで、武田軍は労せず甲斐まで戻ることができる。何も問題はないのだ。



「――もっとも、策が成らなかったという意味では私の敗北になります。それは面白くない。いっそ信繁にわざと負けるように命じて、村上に惨めな敗走ぶりを見せ付けてやりましょうか」



 晴信はくすりと笑う。

 もちろん、楽巌寺を釣り上げるために大切な将兵を無駄死にさせるつもりはない。

 このとき、晴信が口にしたのはただの冗談であった。

 その冗談がまさか現実のものとなろうとは、さすがの晴信もまったく予想していなかった。



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