第五十六話 北の騒乱、南の胎動
春日山城に帰還した翌日、俺は段蔵と共に軒猿の里を訪ねた。
端的に言うと城から逃げ出したのだが、その理由は後述する。
「今日は上洛の働きに礼を述べるために参りました」
俺は軒猿の長に一礼してから持ってきた金子の袋を渡した。
長は金子の額を確認してから、軽くかぶりを振って言う。
「……また法外な。加倉殿、気前が良いのは結構なことですが、人は慣れるものでござる。いつもいつも大金をばらまいていると、配下はそれを当たり前のことと思うようになってしまいますぞ」
「こたびの上洛の成功は軒猿の働きあってのもの。これは法外ではなく正当な額だと考えております」
「――ふむ」
長は俺の顔をじっと見る。針のような眼光に緊張を強いられた。
何か気に障るようなことを言ったかと内心で首をかしげたが、結局、長はそれ以上俺には何も言わなかった。
「段蔵」
「は」
「……ようやってくれておるようじゃな」
長の言葉に段蔵は深々と頭を下げる。
それを見た長は何事かに気付いたようにぐっと眉をあげた。
「む、髪を伸ばしておるのか?」
そう言われて、俺は反射的に頭を下げている段蔵を見た。
出会ったときは耳の後ろあたりでばっさりと切られていた髪は、たしかに今は肩にかかる程度まで伸びている。
といっても、適当に伸ばしているというわけではなく、きちんと髪先をそろえているあたり、段蔵なりに思うところがあってやっていることなのだろう。
段蔵が答えるまで一拍の間があった。
「……切るに足る任務がありませんでしたので」
忍として活動するにおいて長い髪は邪魔になる。くのいちとして「女」を使うならともかく、それ以外の場面で長い髪が役立つことはないだろう。
それゆえ、これまでは基本的に髪を短くしていたのだが、俺に仕えてからこの方、そういった影で動く任務がほとんどなかった。
必然的に髪を切る必要もなかった――それが段蔵の言い分であった。
確かに、俺に馬術を教えてくれたり、弥太郎に文字を教えてくれたり、あるいは各地に放った軒猿の動きを統括してくれたりといったことで髪を切る必要はあるまい。
俺はそう納得したのだが、軒猿の長は何故だか一瞬笑いをこらえる表情になった。
すぐに元の表情に戻ったが。
「さてさて、軒猿屈指の使い手に忍働きをさせぬとは、加倉殿も酔狂なことをなさる」
「そう、でしょうか? たしかに段蔵には忍として働いてもらう方がいいのでしょうが……」
俺は申し訳なく思いつつも正直なところを言う。
「今、段蔵に任務を与えてしまうと、他のことが軒並み止まってしまうんですよね」
忍として必要だったからなのだろうが、段蔵はおおよその物事に精通しているので、どんなことでも危うげなくこなしてくれる。
執事――というと何か違うな。家宰、そう、家長にかわって家のことを取り仕切ってくれる家宰のような存在なのだ。くわえて馬術やら武術の稽古までしてくれる。
ぶっちゃけ、外に出すなんてもったいなくて出来やしないのである。
ただ、忍者である段蔵が今の働きに満足しているのかと問われれば、自信をもって「はい」とは言いかねる。
これまで段蔵の口からそういった不満が語られたことはなかったが、それとて我慢しているだけかもしれない。
俺はそう思って待遇の改善を考慮しようと思ったのだが、長はあっさりかぶりを振った。
「なに、忍が影にいなければならぬという法もなし。お好きなように用いてくだされ。段蔵がそれに否やを唱えることはありませぬ。のう?」
長の言葉に段蔵は迷うことなくうなずいてみせる。
俺は内心ほっと胸をなでおろした。段蔵なみに忠実で有能な側近を探すのは、武田家と正面から戦って勝つことくらい難しい。
今後ともよろしくお願いします。
「しかし、こたびの景虎様と政景様の騒ぎといい、忍を側役として用いる加倉殿といい、やはり上杉家は珍妙な家でござるな」
長の表現につい吹き出してしまった。
「珍妙ですか。言いえて妙ですね」
軒猿の長は現在進行形で春日山城で起きている騒ぎを知っているようだが、これを不思議とは思わなかった。
なにせもう城下でも話題になっているくらいなのだ。
――景虎様と政景様が喪主の座を『譲り合って』口論になった、という事実は。
まさかそういう形で揉めるとか、いくら何でも予想できるわけがない。
直江景綱から話を聞いたときは畳に突っ伏してしまいそうになった。
実のところ、定実様は遺言を残しており、そこには景虎様を定実様の養子とした上で越後守護職を継がせるように、と記されていたそうだ。
定実様が生前にこれを口にしなかったのは、やはり政景様とのかねあいを考慮したためであろう。
ゆっくりと根回しをした上で話を切り出すつもりだったに違いない。
ともあれ、定実様が望み、政景様が認めた以上、何も問題はないはずだったのだが、春日山城に戻って遺言の内容を知った景虎様は、しばし呆然とした後、すぐに辞退する旨を告げたそうだ。
守護亡き後は守護代がその後を継ぐべき。それが景虎様の考えであり、ここで自分が守護代である政景様を飛び越えると国内が不穏になる、と主張した。
名門である越後上杉家の名跡を自分が継ぐことへの遠慮もあったと思われる。
一方の政景様の主張は、これは簡単であった。
主君の命令を守ることこそ臣下の務め。ましてや遺言である。これを履行しないことは天下に春日山の恥をさらすに等しい、というものだった。
どちらの主張にも理があった。そして、どちらも自分が引いて相手を立てようとしていた。
だからこそ、どちらに意見が傾こうとも越後の混乱は最小限で済む――はずだったのだが、なんか途中から二人とも感情的になってきたらしい。
景綱から話を聞いたときはいまひとつ状況が理解できなかったのだが、昨夕に行われた第何回かも分からない話し合いを実見して、ようやく理解できた。
以下はそのときの様子である。
「――ですから! なにも上杉の名跡を継ぐのは私でなくとも構わぬでしょう。政景殿が上杉の名跡を継いで守護におなりになれば、私は全力でこれを補佐いたします。さすれば越後は平穏無事。定実様もご安心くださるはずです!」
「――だから! 御館様が後を託したのは景虎、あんただって言ってるの! 遺言状はあんたも見たでしょう? あんたは御館様の意思をふみにじるつもりなの!?」
「く!? で、ですが、長幼の序からみても、現在の立場からいっても、次に越後を統べるべきは政景殿をおいて他におりません。守護代たる身をさしおいて私が守護になれば、また国内に不穏な動きがッ」
「ふん、そんなもんあたしが一言言えば吹き飛ぶわよ。越後守護代長尾政景、越後守護上杉景虎の臣として忠節を誓いますってね!」
「上杉景虎などと、そのような恐れ多いッ」
「そもそも、あたしが守護代になったのはあんたが身を引いたお陰でしょう。だったら、今度はあたしが身を引くのが当然。これで貸し借りなしってことじゃない!」
「貸しや借りなどということでは――これは一国の大事です、やはりここは私などより政景殿を立てるべきです!」
「ああ、もう往生際の悪いッ!」
乱暴に髪をかきむしった政景様が、びしィッと音が出そうな勢いで景虎様を指差した。
その勢いに怯む景虎様。なんか新鮮な光景だった。
「景虎、言っておくけど」
「は、はい」
「私を守護にまつりあげておいて、自分はその下で自由に戦に行こうだなんて、許さないからね!」
「はい?」
目を丸くする景虎様。明らかに予期しないことを言われて戸惑っている。
というか、政景様の言葉を聞いている皆が同じ状態だった。
俺は、まあ、何となく政景様の言わんとしていることが理解できたので、苦笑いを浮かべるにとどめたが。
「今でさえ守護代って理由で身軽に動けずに面倒だってのに、このうえ守護? 冗談じゃないわ! 自慢じゃないけど、あたしは御館様のように春日山城でじっと後方を支えているなんて真似、やれるけどやりたくないッ!」
なにげに問題発言の政景様だった。やれるけどやりたくないって、それ単なるわがままでしょう。
だが、勢いにおされている景虎様はそこに気付かなかったらしい。あるいは気付いていても指摘できなかったのかもしんない。
「今回の上洛だって、できることなら行きたかったのに! 越後の片隅であたしが蘆名の田夫野人どもと戦っている間、あんたたちは京の都で華々しく戦っていたんでしょう。公方様とじかに話したり、朝廷の公家と連歌の会を設けたりしたのよね!?」
「は、はい。それはいたしました、が……」
「その頃、あたしは蘆名の田夫野人どもと作り笑顔うかべて和議を結び、さすがは越後守護代お綺麗ですなとか、ため息が出るほど陳腐な褒め言葉をきかされていたわけ。さあ、あんただったらどっちをとるの、景虎!?」
よっぽど蘆名が気に入らなかったのか、田夫野人を連呼する政景様。
腕組みをして景虎様を睨む政景様の背後で、恨みだか嫉妬だかの炎が轟々と燃え盛っている様が幻視できた。
たぶん、景虎様も同じものを目にしたのだろう。
もう「おずおずと」と形容したくなるような状態で政景様を見ている。
それでも上杉継承の件は最後まで肯わなかったあたり、景虎様もたいがい頑固である。
結局、二刻(四時間)ばかり続いた話し合いでは決着がつかず、景虎様はめずらしく渋面を隠さずに毘沙門堂に篭ってしまった。政景様も政景様で、眉間に雷雲を漂わせながら、冬眠前の熊のように私室をうろうろ歩き回っており、とうてい声をかけられる雰囲気ではない。
どうしたもんかと頭を抱えていると、何故だか他の重臣たちが俺にお二人の仲裁を頼んできた。主だったところをあげると、赤田城の斎藤朝信とか、栃尾城の本庄実乃とか、与板城の直江景綱とか、琵琶島城の宇佐美定満とか――おい、半分以上景虎様古参の配下じゃねえか。特に後ろ二人、しれっと俺に押し付けようとするな!
それ以外にもけっこう来た。無理ですと言っても聞いてくれん。
ここは加倉殿に出ていただくしか、などとおためごかしを言ってくるが、その内心は手に取るようにわかる。誰も今のお二人の間に立ちたくないのだ。当然、俺もである。
これが一人二人なら適当にあしらっていれば済むのだが、重臣たちはひきもきらずにやってくる。さすがに俺も音をあげた。
軒猿の里にやってきたのは、これまでの段蔵たちの働きに礼を言うためであるが、今の春日山城にいたくなかったという理由も少なからず存在する。あんなん息がつまるわ!
そんな俺を見て長が苦笑する。
「守護の座を欲して争う話は数あれど、守護の座を譲り合って争う話など聞いたこともござらぬ。武田などが聞けばどう思うでしょうな」
「呆れて鼻で笑いそうですね。戦乱を治めると言いながら、守護の権力を欲さない景虎様を、晴信は理解できないでしょうから」
それを聞いた長は興味深そうに目を光らせる。
「――加倉殿は景虎様を理解できると仰せか?」
「できるといえば嘘になります。それがしが景虎様の立場なら、間違いなく守護の座を得ようと考えますからね。定実様のご遺言と、政景様の後押しがあればなおのこと。そこで頷けない潔癖さが、将相としての景虎様の弱点であり、そして多分、長所でもあるのだと思います」
「ほう、長所ですか。なにゆえ、と問うてもよろしいですかな?」
俺は小さく笑う。
胸中で温めている景虎様の説得案を確認しながら、長の問いに応じた。
「そんな不器用な景虎様を何とかお助けせねばと奮起する家臣がいる。それも大勢の。つまりはそういうことですよ」
◆◆◆
駿河国、駿府城。
駿遠三、三カ国の太守にして「海道一の弓取り」と称えられる今川義元の居城には駿河各地から参集した将兵が溢れかえり、城の内外は祭りのような喧騒に満たされていた。
集結した将兵の数、実に二万人。しかもこれは駿河の兵のみであり、この先、遠江、三河と進軍していけば二国の兵も加わる予定だ。
敵地である尾張織田領に踏み込む頃には、想定される兵力は三万五千にまで膨れ上がっている。これに北条と武田の援軍を加え、総兵力は四万超。
三国同盟の締結により、後背の不安を取り除いた今川軍の全力出撃であった。
これだけの大軍を支えるには尋常でない量の物資を必要とするが、今川家は東海地方の豊沃な美田を支配し、駿河、遠江には幾つもの良港を抱えている。さらに富士金山をはじめとする鉱山開発にも力を注いでおり、府庫には金銀兵糧が山と積まれていた。
今の今川家にとって、四万の大軍を長期間にわたって維持することはさして難しいことではない。
義元と雪斎が心血を注いで築き上げた今川家は最盛の時を迎えていた。
駿府の城では上洛前の最後の軍議が行われている。
といっても、最初の戦いとなる尾張攻略に関してはすべての準備が整っている。ゆえにこの軍議は確認以上の意味を持たない。
それでも、この場に集った今川家の諸将は緊張と興奮を隠せずにいた。身のうちから湧き出る戦意を抑えきれず、誰もがたえずそわそわと身体を動かしている。周囲の僚将と互いの武運を祈る姿も随所に見受けられた。
そんな中、ひときわ力強い声が軍議の間に響き渡る。
声の主は今川家の主、今川義元。
その義元は眼前で頭を垂れる一人の武将に向かって命令を発していた。
「松平元康」
「は!」
「こたびの上洛、先鋒はその方ぞ。三河松平の精鋭を率い、尾張の国境をふさぐ城塞を破砕せよ。我が軍が清洲へ至る道を切り開く重大な任である」
「重任をお授けいただき、ありがたく存じます。仰せのごとく、我ら松平勢、鬼神となりて織田信長の防備を打ち砕いてご覧にいれまする!」
そう答える声はいかにも若く、潔癖さを感じさせる若者のものだった。
松平元康。
周囲に居並ぶ歴戦の今川武将たちと比べれば、一回りも二まわりも若く、容姿にも幼さが残る。それもそのはずで、このとき元康は二十歳まで数年を余す年齢であった。
若者というより少年と呼んだ方が適切かもしれない。
だが、元康に若さゆえの気負い、あるいは怯みはなかった。
大きな瞳をしっかと見開いて義元と向かい合う姿には一軍の将としての風格が漂い、居並ぶ今川の宿将たちにおさおさ劣らぬ迫力をかもし出している。
決して大きくはない身体に詰め込まれているのは、媚びでも阿諛でもなく、しなやかにして強靭な自尊の心。
弱小勢力である三河松平家の後継者に生まれた元康は、幾度も人質として他国に出され、多くの嘲りをうけて育ったが、それでも決して己を卑下することなく前を見続けた。
人質らしからぬその性根を義元に見込まれた元康は、義元の姪を与えられて今川一門に名を連ね、また太原雪斎から軍略を教授され、今川軍の一将としての地位を築きあげてきた。
そんな元康に対し、義元は声に誠実を込めて告げる。
「以前よりの約定、果たす時が参ったな。尾張制圧と同時に岡崎城の主はそちとなる。尾張における奮戦を期待するぞ」
その言葉を聞き、元康は昂ぶる感情で顔を赤くしながら深く頭を下げた。
岡崎城主に返り咲くことは、元康にとって悲願といってよい。その悲願が手の届くところまで近づいているのである。身の内から湧き出る激情で全身が震えた。
「ありがたきお言葉! 必ずや期待に沿う働きをご覧に入れますッ」
「ふっふ、そなたの鋭鋒を真っ先に受ける織田のうつけが哀れになるのう。そういえば、そなたは織田家にも一時、人質として入っていたわけだが、織田に対してなんぞ思うところはないのか? 信長と近しい年であれば、面識の一つもあるのであろう?」
「いえ、遠目に信長の姿を見たことはございますが、親しく言葉をかわしたことは一度も。それに、織田の人質となっていたのはわずかな間だけでしたので」
『はっははは! 竹千代、そのようにへっぴり腰では馬に振り落とされてしまうぞ。もっと股を締めるのだ! そう、そうだ! はは、なかなか筋がいいではないか!』
脳裏に懐かしい声がよみがえる。
だが、顔の筋を完璧に制御下に置いた元康は、自身の胸にわきあがる思いを寸毫も面に出すことはなかった。
義元が何事か思い出すように天井に目を向ける。
「うむ、あの時はそちの師である雪斎が、織田の血族と引き換えにそちを解放したのであったか」
一足早く三河に発たせた雪斎の顔を思い浮かべながら義元が言う。
元康はかしこまってうなずいた。
「御意にございます。雪斎和尚にはどれだけ感謝しても足りませぬ。もちろん、義元様にも。それがしはじめ、松平家に今日あるはこれすべて今川家のご厚恩あってのこと。そのこと、終生忘れることはございません」
元康の言葉に義元は破顔した。
「はっは、そういってくれるとありがたいな。氏真も、そちにはぜひとも股肱の臣となってほしいと申しておった」
「身にあまるお言葉、恐縮です。この身がどれだけ氏真様のお役に立てるかわかりませんが、精一杯頑張らせて――」
元康が氏真への忠誠を口にしようとしたとき。
不意になにやら慌しい物音がこなたに近づいてきた。
ややあって、荒々しい足音をたてて軍議の間に姿を現したのは――
「なんじゃ、どうした氏真、そのように息をきらせて? しかも甲冑までまとうておるとは穏やかではないのう」
「むろん、私も上洛軍に加えていただくためです、父上!」
そう言ってぐっと胸をそらせたのは、義元の嫡男 今川氏真であった。
大柄で筋骨たくましい義元とは対照的に、氏真は色白で手足は細く、見ようによっては女性にも見える。着ている甲冑もいかにも重たげだ。
顔のつくりも繊細かつ柔和で、義元の妻の美貌をそのまま受け継いだ端麗な容姿をしている。
年齢は元康より五歳上なのだが、外見だけ見れば氏真の方が年下に見えた。
当人はそんな自分の顔や身体つきを不満に思っており、どうして父に似なかったのかとたびたび悔しがっている。
そんな氏真であるが、家臣や領民の評判はすこぶる良かった。教養にすぐれ、尚武の精神を育み、物惜しみせず、寛大で権威を笠に着ることがないときては評判が悪かろうはずもない。
皮肉にも、当人にとっては悩みの種である柔和な外貌も氏真の人気を高めるのに一役買っていた。
今回の上洛において氏真は駿府の留守居役と定められている。
氏真本人は父と共に征路につくことを強く望んだのだが、義元としてはいくら三国同盟を結んだとはいえ駿府を空にするわけにもいかない。
それに戦に絶対はない。義元に万が一のことがあったとき、氏真までが倒れては今川家はおしまいだ。
そういったことを考えれば、氏真を連れて行くことはできなかった。
この理論には反論のしようもなく、一時は氏真もしぶしぶ納得したのであるが、みずからの友である元康が先鋒を務めると聞き、しんぼうたまらずこの場に現れたのである。
「父上! 元康は私より年少、背格好とて大きな違いはございません。その元康が先鋒という大任を授かっているのに、どうして私が駿府で留守番をしていなければならないのですか!」
「氏真。元康とそなたでは立場が違うのだ。このようなこと、言わずともわかるであろうが」
突然、家臣の前に出てきて、滔々と不満を述べ立てる氏真に、義元は困惑の表情を浮かべる。
本来、このような場所での無用な差し出口は一喝して退けるべきなのだが、氏真相手に義元がそれを出来ないことは、この場にいる全ての家臣たちが了解するところである。
なんだかんだと言いつつ、義元は嫡男を溺愛しているのだ。
自然、家臣たちの視線は氏真の後ろに佇む者に向けられた。
そこにいるのは白髪の老人だった。
より正確に言えば、老人のようにしか見えない老けた男性だった。
大柄な身体をすぼめるようにして立っていること、目じりや頬に刻まれた深いしわ、何より生気の薄い枯れたような眼差しが、見る者に年齢以上の老いを印象付けている。
白髪の男性は困惑もあらわに口を開いた。
「わ、若君、ここは軍議の間ですぞ。お父上も困っておられる……」
「武田の爺、それは承知しておる。しかし、私は父上と共に戦いたいのだ。私より年下の元康でさえ何年も前に初陣を済ませているのに、私はいまだ戦場に立ったこともない。これでどうして胸を張って今川の後継者を名乗れようか。北条より嫁いできた妻に対しても恥ずかしいことではないか!」
力強く言い切る氏真の興奮をなだめるように、男性――武田信虎は両手を軽く上げ下げしつつ応じた。
「留守居もまた大切なお役目。進むことのみ考え、空になった本城を奪われて滅亡した者は古今の歴史に多うございます。若君ならばご存知でしょう」
「今川は武田、北条と盟約を結んだ。敵などどこにもおらんではないか」
「結んだ盟約が必ず守られるならば、このような乱世にはなっておりますまい。上洛なさるお父上が後顧の憂いなく戦えるようにすること、この大切なお役目を果たすことができるのは嫡男である氏真様をおいて他にございませぬ」
「今川一門というのであれば、元康だっていいだろう。それに武田の爺、爺だって今川の一族であることに違いはないのだ。十分に留守居が務まる!」
その氏真の言葉に信虎は気弱げな笑みをもらした。
「そのようなことをすれば、武田家の破約を招くだけのことでござる。甲斐にいる娘は爺めを殺しにやってまいりましょう。盟約など関係なく」
かつて甲斐国で起きた父娘の死闘を知る氏真は、はっとした顔ですぐに詫びの言葉を口にした。
「あ、す、すまん、翁。心無いことを申した、許せ」
「なんの、お気になさいますな。ともあれ、この場はさがりましょうぞ。皆様の邪魔になっておりまする」
そういわれ、氏真は小さくうめく。まだ言いたいことはいくらもあったのだろう。
だが、自分の失言を許してくれた信虎に対し、さらにわがままを言うことははばかられる。
それに、氏真も自分の望みがかなえられないであろうことは理解できていた。それでも何度も訴えるのは、それだけ上洛という一大事に心浮き立つものがあったからであった。
信虎が氏真を説き伏せて軍議の間を後にすると、明らかにほっとした空気が軍議の間に流れた。
その後、軍議は再開されたが、前述したように今回の軍議は確認事項をあらためることのみ。ほどなく軍議は終わり、元康をはじめとした今川家の諸将は自分たちの部隊に戻っていった。
後は義元による進発の号令を待つばかりである。
今川、織田、松平にとっての。
上杉、武田、北条にとっての。
ついには日ノ本という国にとっての、転機となる戦いが幕を開けた。