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聖将記  作者: 玉兎
第七章 蠢動
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第五十五話 越後帰還



 数日後、俺たちは無事に船上の人になっていた。



 富田長繁に関しては、まあ命は助かったとだけいっておこう。

 体力が回復し次第、前波吉継が一乗谷城に連れて行く予定になっている。結果として俺は人身大の爆弾を義景に送りつけたことになるが、そうさせたのは義景なのだから文句を言われる筋合いはない。せいぜいがんばって爆弾処理に勤しんでほしいと思う次第である。

 爆弾処理が成功したら成功したで、失敗したら失敗したで、利用価値はいくらでもあるからな、ふふふ。



 ――最近、坂道を転げ落ちるように性格が悪くなっている気がする。

 気をつけよう。




 ともあれ、敦賀では宗滴殿の指図を受けた役人に丁重に迎えられ、船の数も十分に用意してもらった。

 敦賀の役人は、俺たちが到着する前に前波吉継から医者やら薬やらを要求されたことで、道中で変事が起きたことを察している様子であった。

 それでも過度に慌てることなく、冷静に俺たちと会話していたあたり、郡司である宗滴殿の薫陶は敦賀の隅々にまで行き渡っているのだろう。



 その宗滴殿は一向宗と対峙しているために加賀国境を離れられず、敦賀で顔を合わせることはできなかった。

 宗滴殿が俺たちと長繁のいさかいをどのように評するかは気になるところであるが、それが判明するのは後日になる。

 宗滴殿が俺たちを非難するとは思えないが、なんだかんだいっても宗滴殿も朝倉家の人間だ。当主である義景の意向には逆らえないだろうし、いずれ矛を交える時が来るかもしれない。



「そんな日は来てほしくないけどな…………うぇっぷ」



 かっこつけて呟いてみたものの、その直後、猛烈な吐き気に襲われた俺はたまらず両手で口をふさいだ。

 くそ、日本海荒れすぎ、船揺れすぎ。

 これでも冬の荒天に比べればなぎに等しいというのだから、俺にはとうてい船乗りは務まりそうにない。



「大丈夫ですよ、にいさま。ほら、いたいのいたいのとんでいけー」



 そう言ってうめく俺の背を優しく撫でてくれるのは豊弘である。

 あの日の出来事以降、豊弘は俺にぴったりくっついて離れようとしない。俺以外の人間に対しては、以前の豊弘に戻りつつあるのだが、俺に対してはいまだに極端に甘えてくる。呼びかけも「兄さま」のままだ。それだけ心に受けた傷は深いのだろう。



「はい。とても傷ついたので、傷が癒えるまで全力で兄さまに甘えます!」



 ……正直、もう立ち直っているような気がしないでもないのだが、うん、心の傷だから甘く見てはいけないな。周囲に心配をかけないよう、無理に明るく振舞っているのかもしれないし。そうに違いない。



 もう一つ付け加えれば、豊弘は男装をやめて女の子の格好をするようになった。

 娘子軍の人たちには性別を偽っていたことを謝り、理由も説明したそうだ。京に戻るなら、これまでの分も含めて俸給を支払うといったそうだが、それに応じた者はゼロだったとのこと。相変わらずの人望である。

 豊弘の表情がとみに明るくなったのは、隠し事をやめた解放感のせいなのかもしれない。

 これまでは風呂やら何やらでかなり気を遣わねばならなかったから、それが無用になったというだけで心にかかる負担は段違いであろう。



 心への負担といえば、あれだけ悩んでいた加賀帰国の決断はついたのだろうか。

 そう思って訊ねてみると、豊弘はびっくりしたように目を見開いた後、ぷくっと頬を膨らませた。



「兄さま、さすがにそれはひどいです」

「ん? ひどい?」

「はい、ひどいです。だって兄さまが言ってくれたんじゃありませんか。加賀には戻るな、一生俺のそばにいろって!」

「…………え?」



 そんな無責任なことを言った記憶はないのだけど……?

 いや、もちろん越後に誘ったことは覚えている。だが、あれはあくまで選択肢の一つを提示したに過ぎず、豊弘もそれを分かっていたから悩んでいたはずなのだが……



「たしかにおっしゃいました! 私を助けてくださったとき『大丈夫、もう大丈夫だ。豊弘には指一本触れさせないから。絶対、絶対にだ』と!」

「あ、ああ、それはもちろん覚えているが」

「あれはつまり、一生誰にも私を触らせたりしない、だから越後に来て俺のそばで幸せに暮らせ、という意味ですよね!」



 意訳ってレベルじゃねえな、おい!?

 あかん、もしや本当に豊弘は心を病んでしまったのだろうか。妄想にすがってつらい現実を忘れようと……く、おのれ富田長繁! やはりあいつはぶち殺しておくべきだった。今からでも遅くない、一乗谷に乗り込んで脳天を叩き割ってくれん!

 船酔いも忘れ、胸中で決然と誓ったとき、豊弘がぺろっと舌を出した。



「――というのは冗談ですが」

「うぉい!?」



 笑えない。それは笑えないぞ、豊弘。

 じとっと睨むと、同じような目で豊弘に睨み返された。



「それは冗談にしても、あれだけのことを言ったのですからきちんと責任をとってください、兄さま。あのとき、私がどれだけ頼もしく、また嬉しく思ったことか、言葉で伝えられないのが残念です」



 そう言うと、豊弘はぽてんと俺の胸に顔を埋めてきた。

 そのまま小声で続ける。



「……加賀に戻れば、また似たようなことが起きるかもしれません。いえ、きっと起きるでしょう。そのとき、兄さまは遠く越後にいらっしゃる……私は、それが怖い」



 背に回された豊弘の手が震えているのがわかる。

 衣服の隙間から包帯がのぞく少女の身体を、俺は優しく抱きしめた。



「……父上にはふみを書きます。上杉家との友好のために越後におもむくと伝えれば、否とは仰らないはずです」

「そうだな。そこで否という方なら、そもそも豊弘を京にやるはずがない」

「はい。父上のことは心配ではありますが、今の私では父上を助けるどころか足を引っ張ってしまいます。兄さまや景虎様の下で学ばせていただきたいと思うのです」

「それはもちろん大歓迎だ」



 豊弘が上杉家にいるとわかれば一向衆も晴貞に手を出しにくくなるはず。越後に来ることは父への間接的な援護にもなるわけだ。

 なにより俺自身、今の豊弘を加賀に置いていく気にはなれなかった。



 ――と、そのとき、どこやらからひそひそ声が聞こえてきた。



「どうやら収まるべきところに収まったようですな。ご両所、これからもよろしくお願いいたす」

「こちらこそ、白神殿」

「……はうう」

「む? 弥太郎殿はいかがなされた?」

「富田を討った際の加倉様の凛々しいお姿が目に焼きついて離れぬようで」

「はっは、それはそれは。段蔵殿も同様かな?」

「そのようなことはありえません」

「しかし、凛々しいとは思われたのであろう?」

「……言葉のあやです」



 何を言ってるんだあいつらは。

 腕の中の豊弘と目を合わせて小さく肩をすくめると、豊弘はくすりと楽しげに微笑んだ。







 船はさらに日本海を進んで行く。ときおり加賀、能登の港に寄港しながら越後を目指す。

 正直、港に着く都度「こんな危険なところにいられるか! 俺はひとりで越後に帰るぞ!」と叫びたい気分に駆られたが、仮にも指揮官である俺が部隊を離れるわけにもいかない。

 船団が能登半島に差し掛かる頃には、胃の中に吐くものさえなくなって、弥太郎たちに本気で心配される羽目になった。



 が、人間、どんなにつらいことでもいつかは慣れるものらしい。能登半島をぐるりとまわる頃になると、ようやく身体と心が落ち着いてきた。

 越中が見えてくる頃には逆にテンションが上がりきってしまい、ついには船の舳先へさきで十字のポーズをとり「I'm the king of the world!」と叫んで大笑いするまでになっていた。

 それを見ていた弥太郎たちは本気で俺が「こわれた」と思ったらしい。失礼な。

 それを見ていた水夫たちには危ないことをするなと大声で怒鳴られた。すんません。




 そんなこんなで越中を通り抜けて数日。

 海面を照らす陽光はすでに暖かな春の日差しになっている。彼方から吹き付けてくる風は緑の息吹を含んで心地よく、波間をはねる魚も心なし楽しげだ。

 出立したときは秋深い季節であったのに、気がつけば冬を通り越して春に入っている。夏はもうすぐそこだった。



 直江津の港を出て城へ向かう途中、あたりの景色に懐かしさを感じている自分に気づいてやや戸惑う。

 だが、あるいはそれは当然のことなのかもしれない。俺がこの地にきて、もうじき一年が経とうとしているのだから。

 越後から京へ、そして京から越後へ。

 およそ半年を経て、俺は春日山城に帰還した。




◆◆◆




 予想もし、覚悟もしていたことだが、俺たちが帰還したとき、すでに上杉定実(さだざね)様は亡くなられていた。

 春日山城を守ってきた政景様、そして俺たちに先んじて帰着していた景虎様のお二人からそのことを聞かされた俺は、つつしんで定実様の冥福を祈った。



 詳しい話を聞けば、最初に定実様が体調を崩されたのが昨年の初冬――上洛軍が出立して間もなくであった。

 気分が優れぬといって床に就いた定実様は、数日、止まらぬ咳に苦しんだ。はじめはただの風邪かと思われたのだが、十日が過ぎても治らず、半月後には咳に血が混ざるようになったという。



 ここにおいて定実様が何らかの病に侵されていると判断した政景様は、上洛軍を率いる景虎様に使者を差し向けようとした。

 だが、この時点ではまだ定実様には意識があり、景虎様に使者を遣わすことをやめさせたのだという。



『今知らせれば、あの律義者のこと、必ず帰ってきてしまう』



 というのが理由だった。

 主君に強く言われては、政景様としても強いて使者を出すわけにはいかない。

 それに、定実様の容態も大分回復しつつあるように見えたので、その点も思いとどまった一因であったらしい。



 実際、この後ほどなくして定実様はとこを払い、政務に復帰する。

 ――あるいは、この時の床払いが早すぎたのかもしれない。定実様の病は完全には癒えておらず、ときおり咳き込んでは少量の血を吐くようになった。



 もっとも、これに関しては政景様も後から定実様の奥方に聞くまで知らなかったらしい。

 その奥方にしても、二月のはじめに偶然その現場を目撃するまでまったく気づいていなかったというから、定実様は二ヶ月近くの間、一人で病を抱え込んでいたことになる。

 しかも、その後も奥方にかたく口止めして、これまでどおり政務に励み続けた。



 無論、これには理由があったはずだ。

 ただでさえ景虎様と五千の兵が不在の越後。このうえ当主が短時日のうちに二度も病に倒れたと知られれば、またも他勢力が妄動を始めるだろう。

 定実様は越後守護として、再び国内が兵火に包まれてしまう事態を何よりも恐れたに違いない。



 しかし、無理をすれば病魔の進行を早めてしまうのは必然であった。

 一日いちじつ、春日山城で政景様ら重臣たちと話し合いを行っていた定実様が不意に咳き込み始めた。すぐにおさまるかと思った咳は一向にとまらず、案じた政景様が立ち上がろうとした刹那、目の前の畳が朱に染まるほどの大量の血を吐かれたのだという。

 ここにおいて、ようやく奥方から定実様の病状を聞かされた政景様は、蒼白になりながらも素早く必要な手筈を整え、京に急使を差し向けた。



 以上が京に急使が来るまでの流れである。

 血を吐いて倒れられた定実様は、そのまま意識を取り戻すことなく二日後に亡くなられたという。

 つまり、急使が京に着いた段階で、もうすでに身罷みまかられていたことになる。

 俺と政景様の言い合いを、苦笑しつつなだめてくれた定実様の姿を思い起こし、俺はあらためて頭を垂れた。




 しかし、嘆いてばかりはいられない。

 定実様の存在が現在の越後政権にとってどれだけ重要であったかは言をまたない。その定実様が亡くなられた上は、混乱を最小限にとどめなければならぬ。越後を兵火のちまたにしないためにも失敗は許されない。



 すでに定実様のご遺体は寺に葬られ、その死は越後全土に知れ渡っている。

 多くの家臣たちの前でお倒れになったので、死を隠すこともできなかったのだ。

 まあ、これは仕方ない。

 問題は葬儀の喪主を誰が務めるかである。

 喪主を務める者、それすなわち次代の越後政権の首座に座る者。これはすべての人々の共通の認識であった。



 政景様が野心家であれば、景虎様が越後に戻る前にさっさと葬儀を行ってしまっただろう。

 だが、政景様は景虎様の帰還を待って喪主を決めることを明言し、実際そのとおりにしてしまった。

 おそらく――否、間違いなく、直属の上田衆からは猛烈な反対があったはずだ。政景様の決断は、手を伸ばせば届くところにある越後守護の座からそっぽを向いたに等しい。どうして座ろうとしないのか、と普通の家臣なら言うだろう。たぶん俺でも言う。

 なんといっても政景様は守護代なのだ。守護のかわりに国内を取り仕切っても、道義的に責められる恐れはないのである。



 それでも政景様は景虎様の帰還を待った。

 これを聞いた俺は深い安堵の息を吐く。

 政景様が野心にのまれ、独断で葬儀を終わらせて、強引に越後の主権を握るかもしれない――そんな一抹の不安を俺は抱いていたのである。その不安が綺麗に一蹴されたのだ、おおいに胸をなでおろした。

 後で当人に言ったら蹴飛ばされたが。




 ともあれ、この政景様の行動により、お二人が今後も協調できる可能性は飛躍的に高まった。

 二人が手を取り合えるならば、越後守護長尾政景、守護代長尾景虎で一向にかまわない。景虎様自身は政景様の下につくことに何の不満も覚えないだろうし。

 問題はそれぞれの家臣たちだが、主たちが押し切れば強いて反対もできまい。

 これは案外あっさりと片がつくかも――俺はそんな風に考えていた。


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