表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖将記  作者: 玉兎
第七章 蠢動
54/112

第五十四話 峻烈なる報復


 重い手ごたえが鉄扇越しに伝わってくる。

 富田長繁のこめかみが裂け、口から呼気が吐き出される。

 そのまま地面に崩れ落ちるかと思われたが、寸前で足を出し、かろうじて踏みとどまった胆力はさすがというべきだろう。



 ただ、半ば本能的な動作であったらしく、反撃は行われなかった。脳天への衝撃で意識が朦朧もうろうとしているのか、足も身体もふらついている。

 そんな隙だらけの長繁に容赦する理由は、俺の中のどこを探しても見つからない。

 再度鉄扇を振りかざし、先刻とは逆側のこめかみに叩き付けた。



「……か」



 ぐるり、と長繁が白目をむく。

 いま樊噲はんかいは音をたてて地面に倒れ、ぴくりとも動かない。

 と、俺を助けるべく駆け付けようとしていた弥太郎が、勢いあまってたたらを踏みながら俺の視界に飛び込んできた。



「そ、相馬様、大丈夫ですか!?」

「ああ、大丈夫だ。悪いがこいつを見張っておいてくれ。逃げようとしたら殺してかまわない」

「は、はい、かしこまりました!」



 地面に倒れた長繁をあごで指しながら言うと、弥太郎はぴしりと背筋を伸ばして応じる。

 弥太郎には長繁だけでなく、前波吉継の方も注意しておくよう指示したばかりなのだが、どうやら俺を心配するあまり、その指示は頭から吹き飛んでしまったらしい。

 ちらと吉継を見ると、呆然としたまま案山子のように立ち尽くしている。まあ、あの様子ならおかしなことをする心配はないだろう。



 それらを確認した後、俺は倒れている豊弘のもとに駆け寄った。

 いや、駆け寄ろうとして、躊躇してしまった。

 上半身を起こした豊弘が恐怖に怯えた目で俺を見ていたからだ。一瞬わけがわからなかったが、十一、二の女の子が酷い目に遭わされた直後に、犯人とそれ以外の男の区別がつかなくなったとしても不思議はない。



 介抱は弥太郎に頼んだ方がよさそうだ。

 そう判断した俺が後ろにいる弥太郎に呼びかけようとしたとき、豊弘の口から震える声が漏れた。



「か……くら、さま……?」

「――! そうだ、加倉だ。わかるか、豊弘?」



 慌てて豊弘に向き直り、慎重に声をかける。

 豊弘はこちらの声に反応を見せず、唇を震わせ、大きな両のまなこを見開いている。



 涙の跡がはっきり残った豊弘を見て、一瞬の半分ほど迷った末、俺はゆっくりと少女に近づいていった。

 豊弘が怯える様子を見せたらそっこうで離れねば。

 そんなことを考えつつ、一歩一歩向こうとの距離を詰める。



 長繁と対峙した時とは比べ物にならない緊張を経て、手を伸ばせば豊弘に触れられる距離まで近づいた。

 あらためて豊弘を見れば、白い鎧下よろいしたは泥と血に汚れて見るかげもなく、脇差に突かれ、あるいは斬られた傷跡からは今も血が流れ続けている。

 半ばあらわになった少女の肢体。豊弘は鎧下の乱れを直そうともせず、震える手を俺に向けて差し伸べる。溺れる者が必死にわらを掴もうとするように。



 その手を、できるだけ優しく握り締めた。

 ここでようやく目の前の俺が幻ではないと確信できたのだろう、豊弘の顔がくしゃりと歪む。

 ほろほろと零れ落ちる涙があまりに痛々しくて、俺は反射的に豊弘の身体を抱き寄せていた。



「……うぁッ!」



 その衝撃で傷が痛んだのか、胸の中の豊弘がくぐもった声をあげる。

 前述したように、豊弘の身体には脇差でつけられた傷が生々しく残っている。急に抱き寄せれば痛がって当然だ。

 しまった、と思ってとっさに豊弘から離れようとする俺。

 だが、その動きに気づいた豊弘はかえって自分から俺に抱きついてきた。両の手が俺の背中にまわされ、離すものかといわんばかりにぎゅうっと力が込められる。



 どうやら咄嗟の行動は間違っていなかったらしい。

 そう悟った俺はあらためて豊弘を抱きしめた。もちろん、傷口を刺激しないように最大限優しく、ゆっくりと。 

 胸元から聞こえてくる押し殺した泣き声が、周囲をはばからない号泣に変わるまで、さして時間はかからなかった。



「……ああ……うあああああ! 怖かったよぁ! 痛かったよぉ!」

「大丈夫、もう大丈夫だ。豊弘には指一本触れさせないから。絶対、絶対にだ」

「あああ、にいさまぁ! にいさまぁ……!」



 胸を締め付けられる悲痛な泣き声に、反射的に腕に力がこもってしまう。

 豊弘は痛かったはずだが、その痛みさえ嬉しいのだというように俺の胸に顔をこすりつけてきた。

 その声も少しずつ小さくなっていき、やがて豊弘は俺に身体をあずけるようにして眠りに落ちる。緊張の糸が切れたのだろう。



 俺を兄と勘違いしていたあたり、まだまだ気が動転しているようだし、どこかでゆっくり休ませてやらねば――そう考えていると、横合いから俺を呼ぶ声がした。



「……加倉殿。すまぬ、不覚をとった」



 それは白神右京だった。

 娘子軍を率いる大柄な女兵士は、刀を杖代わりにして近づいてくる。

 長繁の配下は段蔵によってすでに一掃されており、娘子軍の兵士たちもそれぞれに立ち上がっていた。ただ、彼女らの半数以上は負傷しており、さらにその中の半数が自分の足では立てず、仲間に肩を借りている状態だった。

 俺はかぶりを振って右京に応じる。



「詫びねばならないのはこちらです。朝倉がこのような挙に出ることをまったく予想できませんでした」

「お互いに、といったところか。まさか朝倉があのような狂犬を飼っているとはな……」



 右京が忌々しげに倒れている長繁を睨んだ。どうやら完全に気を失っているようで、弥太郎に見張られている長繁は白目を剥いたままぴくりとも動かない。

 それを見た俺は豊弘の身体を抱えて立ち上がった。

 右京は怪我をしているので、負傷を免れた娘子軍の兵士を呼んで豊弘を託す。



 と、ここにきてようやく前波吉継が部下と共に駆けつけてきた。

 鞍上から飛び降りるように地面に降り立つと、目に見えて狼狽しながら口を開いた。



「加倉殿、すまぬ! 長繁めが無礼をした!」

「長繁めが? 朝倉家は無関係であると?」

「と、当然だとも! まさか長繁めがここまで無思慮な奴であるとは思ってもいなかったのだ。義景様は上洛軍を敦賀まで丁重に案内せよと仰せであった!」

「ほう、それはそれは」



 口の端を吊りあげて言う。

 槍を構えて目を怒らせている弥太郎と、単身で二十あまりの朝倉兵を屠った段蔵の二人を従えた俺が、あからさまに嘲弄の表情を見せたことで、吉継の額には大量の汗が噴き出していた。



「義景様じきじきに護衛につけた武将が加州殿をいたぶった。つまり、これが朝倉家の丁重なもてなしであるとおっしゃるわけですな?」

「違う、そうではない! すべては長繁の独断! 義景様が命じたなどということはありえない!」

「ありえないと仰るが、前波殿。その長繁が暴れている間、朝倉兵は誰一人これを止めようとしなかったではありませんか」



 冷笑すると、吉継は目に見えて怯んだ。



「そ、それは……」

「前波殿ご自身にしてもそう。この場に来て、長繁の凶行を目にしても貴殿は動かなかった。あの駄犬を止めたのはそれがしであり、配下の兵をしとめたのもそれがしの部下。その間、貴殿と貴殿の部下は案山子かかしのごとく突っ立っていただけだ。ご存知か、ああいう態度を高みの見物というのです――朝倉に異心ありと見なさざるを得ぬ」



 冷たく吐き捨て、吉継を睨みつける。



「公方様の上意に従うふりをして上杉、武田、富樫の三家を領内に招きいれ、詐略をもって害そうとした。それが失敗に終わるや、今度は責任を配下になすりつけて罪を免れようとした。とうてい誇りある武士もののふのやることではない。こたびのことは必ず三家に、公方様に、そして天下万民に知れ渡るものと思われよ、前波殿!」



 それを聞いた吉継は駄々をこねる子供のようにふるふると首を左右に振り、声を裏返らせて応じた。



「それは誤解だ! いや、誤解です、加倉殿! 我らは本当に知らなかった! 先ほどは動かなかったのではない、動けなかったのです! 長繁めのあまりの暴挙に頭がついていかなかったッ」

「……それを信じろと言われるのであれば、こちらの要求に応じていただかねばなりませんな」

「よ、要求とは……?」

「まずは負傷者の手当て。加賀衆が横になれる陣屋を早急に用意されよ。大量の湯と、清潔な布もです。それと、いそぎ敦賀に使者を差し向け、動ける医者とありったけの薬を運ばせる。このくらいのことはしてもらわねば、朝倉を信じることはできぬ」



 それを聞いた吉継は露骨に安堵の息を吐いた。

 俺がとんでもない無理難題を言い出すのではないかと恐れていたらしい。



「そ、それはもちろん! ただちに手配いたします!」



 そう言うと吉継は配下に指示を飛ばしはじめた。

 よし、まずはこれでいい。今は豊弘と娘子軍を休ませるのが先決だ。

 朝倉家を責め立ててやりたいのは山々だが、こちらの兵は二百、おまけに戦えない五百の民衆を連れている。朝倉領内で朝倉軍を相手にするのは愚というものだった。

 景虎様に急使を送り、上洛軍に引き返して来てもらうという手もないではないが――越後の情勢を考えれば、ここで朝倉軍相手に戦端を開くわけにはいかない。



 朝倉義景に思い知らせるのは越後の情勢が落ち着いてからのこと。

 俺は猛る復讐心をなだめつつ、前波吉継との会話を続けた。

 だが、さすがに吉継が長繁の身柄を引き渡してほしいと言い出したときには、感情をおさえることができなかった。



「……前波殿、戯言はほどほどになされよ。いかなる事情があったにせよ、これだけのことをしでかした奴を生かしておくつもりはありません。そちらに渡せるのは死屍くらいのものです」

「い、いや、お待ちくだされ、加倉殿! もちろん、そやつを無罪放免にするつもりなどござらぬ! 先刻も申し上げたように、そやつを危険視する者は多いのです。こたびの件が知れ渡れば、間違いなく死罪に処せられましょうッ」

「ならば、わざわざ身柄を引き渡す必要などござるまい」



 俺が言うと、吉継は今や汗まみれになった顔を盛んに動かしながら続けた。



「そ、そのとおりなのですが、これも先ほど申し上げたように、義景様が長繁を気に入っているのです。その長繁が己のあずかり知らないところで誅された――それも他家の人間がそれを為したと知れば、穏やかならぬ気持ちを抱かれましょう。最悪の場合、朝倉家と上杉家の間に亀裂が生じてしまいます!」

「だから生きたまま引き渡せ、と? 今の話を聞くに、義景殿が長繁の罪を免じる可能性、無きにしもあらずと聞こえましたが?」

「い、いえ、さすがに義景様もこたびのことを聞けばあやつに愛想をつかすはず! ただ、上杉家の手であやつを処断することはおやめいただきたいのですッ」



 前波吉継は必死に言い募る。

 別段、富田長繁を救いたいわけではあるまい。義景お気に入りの長繁をみすみす見殺しにしたとあっては、吉継も主君の不興をこうむることになる。それを恐れているのだ。

 この分では、かりに義景が長繁を免罪しようとしても、吉継が主君を諌めることは期待できないだろう。



 ――かといって、ここで俺たちが長繁を殺せば、それはそれで面倒なことになる。



 今しがた吉継が言ったように、逆恨みした義景が襲いかかってくるかもしれない。

 そこまでいかずとも、上杉と朝倉の仲が険悪になる可能性は十分にありえよう。

 越後と越前ではずいぶんと距離が離れているから、仮に険悪になったとしても大して影響はない――と言いたいところなのだが、これがけっこう影響があるのだ。



 京都滞在中に少し述べたが、越後は青苧あおその取引で大きな利益を得ている。

 その青苧は越後の港を発し、日本海をはるばる渡って越前の敦賀に運ばれ、そこから越前、北近江を通過して琵琶湖に浮かび、琵琶湖をくだって京や堺に持ち込まれる。

 朝倉家と敵対関係になると、この青苧のルートがおもいっきり寸断されてしまうのである。この場合、上杉家がこうむる損害は天文学的なものとなるだろう。



 それでも豊弘のことを話せば景虎様はわかってくださると思う。佐渡の金銀で損失を穴埋めすることも可能だろう。

 だが、貴重な資金源を失ってしまうことに変わりはないし、それを知った豊弘が自分のせいだと思い悩む可能性だってある。

 つまり、今求められるのは――



①豊弘たちにひどいことをした富田長繁に十分な罰を与える。できれば一生涯消せない傷と屈辱を刻み込む

②ただし殺してはならない

③その罰をもって義景が上杉家との関係を断つことがないよう配慮する必要がある



 最低でもこの三つをクリアする案だ。

 義景が長繁の武勇を買っている以上、手足や指を切り落としたり、あるいは目をえぐる等の身体的処罰は③に抵触してしまう。

 それに、あまりに過激な罰は吉継に掣肘されてしまうだろう。

 となると。



④前波吉継を納得させられる軽微な処罰。あるいは重度の処罰であっても、吉継がそれを認めるだけの理ないし利を提示する



 という条件を追加する必要がある。

 そんな案がそうそう転がっているはずが……はずが――――――ふむ。






「右京殿」

「――加倉殿、それがしは断固反対いたしますぞ! 彼奴を生かして返すなど、どうして承服できましょうか! 主を守ることもできず、彼奴に言いようにやられた我らにそのようなことを言う資格はござるまいが、しかし……!」

「右京殿、右京殿、ご安心くだされ。それがしとて気持ちは同じ。豊弘を足蹴あしげにした者には相応の報いを受けてもらいます。そこで一つ、提案があるのですが」

「……む? 提案とは、いったいなんでござろう?」



 俺は声を低めて自分の考えを語る。

 それを聞いた右京は驚きのあまり目を丸くした後、吠えるような笑い声をあげた。



「くあっははははッ! なるほど、なるほど、それは名案! 名案でござるぞ、加倉殿! 生涯取りのぞけぬ汚辱を与え、なおかつ他者の目につかず、しかも当人がそれを吹聴することは決して出来ぬ! ああ、できるはずもない! 力自慢であればあるほど! 野心家であればあるほど! 己が何を失ったかなど語れようはずもなし!!」



 大笑いしながらばしばしと俺の背を叩く右京。

 膝の傷はかなり痛むだろうに、一向に叩くのをやめてくれない。

 と、不意に右京が俺の耳元で小さくささやいた。



「――それで、それがしに実行役を務めよと仰せか?」

「気が乗らぬというなら、それがしがやります」

「はっは、気が乗らぬなど! 是が非でも任せていただきますぞ。殺してはならぬということであれば多少の準備はいりますが、なに、業腹ですがこやつの強さは本物。体力も十分。きっと耐えてくれましょうぞ! はっはははは!」



 そう言って楽しげに笑い続ける右京の姿を、弥太郎や前波吉継はわけもわからず見守っている。

 もう一人の段蔵はといえば、俺たちのひそひそ話をしっかり聞き取っていたらしく、額に手をあてて深いため息を吐いていた。






◆◆◆






 富田長繁が目を覚ましたとき、時刻はすでに夜になっていた。

 意識がぼんやりしている。視界が揺れて定まらない。

 どうやらどこかの天幕の中のようだが、自分はいったいどうしてここにいるのだったか。

 軽く首を振って起き上がろうとした長繁は、そこでようやく自分の身体がいましめられていることに気がついた。



 手も、足も、何重にも縛られてぴくりとも動かない。怒声をあげようと口を開きかけたが、口にも猿轡さるぐつわを噛まされており、出てくるのはうめき声ばかりだった。

 と、そんな長繁の姿に気づいたのか、すぐ近くから声が聞こえてきた。



「おお、気がついたか。ちょうどよい。準備も終わったので、そろそろ叩き起こしてやろうと思っていたところよ」



 それが自分と戦った白神右京という大女であることを悟った長繁は、憎憎しげに顔を歪めてうめき声をあげる。

 右京はからからと笑った。



「何を言っているのかさっぱりわからん。まあ、ここはどこだとか、何をしているとか、そういったことだろう。安心しろ、すぐにわかる」



 そういう右京の手には白い布が握られていた。それ一枚だけでなく、どうやら大量の布が用意されているらしい。

 近くには松明と酒樽らしきものも見えた。

 それに、たらい。どうやら満々と湯が張られているらしく、うっすらと蒸気がのぼっているのがわかる。たらいの数も一つ二つではない。



 何故だか背筋に悪寒を感じながら、長繁は目を鋭く細めて口を動かす。

 それに応じたのは右京ではなかった。



「ほら、大人しくしろ、樊噲はんかい殿。敗れた上は虜囚に落ちるのが戦場の理。醜く足掻くのは無様というものだ」



 それが加倉相馬であることを知った長繁の口から、ひときわ大きなうなり声が発される。

 拘束を引きちぎろうと激しく身体を動かす長繁だったが、やはり手足の縛めは解けなかった。

 ここでようやく長繁は己の格好に気がついた。

 具足はおろか肌着まではがされ、ふんどし姿をさらしている自分の格好に。



「ようやく気づいたか、長繁。義景様の覚えめでたいいま樊噲はんかいも、こうなると滑稽なものだ」



 この言葉を口にしたのは前波吉継である。

 ようやく危機感を覚え始めたのか、今度は長繁もうなり声をあげなかった。

 警戒するような眼差しで吉継を睨んでいる。



「安心しろ。方々はお前を殺そうとしているわけではない。もちろん、拷問を加えることもない。貴様のしでかしたことを考えれば、そのどちらであっても文句など言えぬのだがな。それがしから頼み込み、命は免じてもらったのだ。わかるか、長繁。前波の次男坊、貴様に比べればとるに足らないこの私が、貴様を救ってやったのだよ。感謝してほしいものだな」



 むろんというべきだろう、長繁の目に感謝が浮かぶことはなかった。

 針のような眼光を吉継に向けている。

 常ならば動揺したであろうその勁烈な視線を、今、吉継は余裕をもって受け止めることができた。



「ただし、いくら私でも貴様を無罪放免にしてくれとは言えなかった。貴様の凶行を知れば当然のこと、自業自得と知るがいい。これより方々は貴様からあるものを奪う。腕か、足か、それとも目か? 安心しろ、どれでもない。義景様は貴様の武勇を愛でられている。その武勇を失わせるような真似はしないとのことだ。はは、よかったな、長繁。方々の慈悲に感謝することだ」



 酔ったような赤ら顔で喋り続ける吉継の目に、長繁は喜悦の光を見た。

 吉継は愉しんでいる。そして喜んでいる。忌み嫌う長繁の苦悶を見ることができると。長繁の生涯消せない汚点を掴み、膝下に組み伏せることができると。



 長繁の嫌な予感は、今や胸を喰い裂かんばかりに膨れ上がっていた。うめき、暴れ、なんとかこの場を逃れようとする。自慢の怪力で縛めを引きちぎろうとする。

 だが、やはり縛めは解けなかった。

 そんな長繁を見て右京がせせら笑う。



「無駄だ無駄だ! 貴様の力は昼間、十分に見せてもらった。その縛めは決して解けぬ。加州様へ向けた暴言と暴力、わずかなりともあがなってもらうぞ、小僧!」



 言って、右京は懐から鋭利な小刀を取り出した。

 刀身が松明の火を映してぎらりと輝く。

 怯む長繁を一瞥した右京は、小刀を火にかざして熱した。



 目を見開いてその光景を見つめる長繁の前に立った加倉相馬は、邪悪と称しえる笑みを浮かべながら、己の顔を長繁に近づける。

 そして、唇同士が触れ合わんばかりの距離まで近づくと、なぶるようにささやいた。




樊噲はんかい殿――宦官かんがんというものをご存知か?」




 次の瞬間、天幕の中に濁った悲鳴が轟いた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ