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聖将記  作者: 玉兎
第七章 蠢動
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第五十三話 神座の武



 加賀衆の部隊で騒ぎが起きている。

 前波吉継のもとにその報せが届けられたとき、俺はたまさかその場にいた。



 敦賀に向かうまでの順路の説明から、この時期の海の荒れ具合まで、吉継に聞いておかねばならないことが山ほどあったからだ。

 越前は山がちな地形が多く、野武士や山賊のたぐいが襲ってくる可能性もある。五百人の民を欠けることなく連れて行くためにも情報収集は必須だった。



 妙に焦った様子の朝倉兵が加賀衆――豊弘の部隊の騒ぎを報告したとき、俺はさして危機感を覚えなかった。

 何故といって、現在俺たちは円陣を組んで行軍しており、豊弘の娘子軍は民衆と共に円陣の内側に配置しているからだ。

 仮に山賊なり野武士なりが現れたとしても、いきなり豊弘たちを襲うのは不可能。深刻な事態は起こりようがないのである。



 おおかた、女性ばかりの部隊を珍しがった朝倉兵のからかいが過ぎて小競り合いでも起きたのだろうと、そう思っていた。京都でも似たようなことがあったのだ。

 一方で、報告を聞いた前波吉継は俺の数倍は動揺していた。

 前波家は朝倉家の直臣筆頭。その次男である吉継は義景の覚えめでたく、今回の任務も諸事要領よくこなしていた。体格は縦に長く、横に細く、どことなくアラビア数字の「1」を連想させる。顔立ちも柔和で、上杉軍への対応も丁寧すぎるほど丁寧であり、俺としても嫌な印象を抱きようがなかった。



 その吉継が明らかに顔色を変えている。

 ここではじめて俺は嫌な予感を覚えた。その嫌な予感を倍増させたのが報告の兵士の口から出た「富田長繁」の名前である。

 俺が知る歴史において主家である朝倉を裏切り、朝倉滅亡後は織田家臣の身で一揆を煽動し、かつての同輩賢臣を次々に殺害して越前一国を掌握した梟雄。

 その後、煽動した一揆を制御できずに越前を失い、最終的には部下に後ろから撃たれて殺されたあたり、梟雄というよりは狂雄という感じだが、いずれにせよ、聞いて安心できる名前ではない。



 そんな人物が豊弘にちょっかいをかけたと聞き、俺は顔をしかめた。

 まさかこんなところで狼藉を働くとも思えないが――そんな甘い考えは次の吉継の言葉で消し飛んでしまう。



彼奴きゃつは……長繁は狂犬なのです。気に入らぬ相手には誰彼かまわず吠えかかり、喰い裂こうとする。野心家で、人の下につくことを極端に嫌います。特に近い年齢の者の場合、それが顕著にあらわれまして、私にも前波の家名がなければ貴様など俺の足元にも及ばんなどとたびたび暴言を……」

「……なぜ、そんな人間が朝倉軍にいられるのです?」

「あれで戦の強さだけは文句のつけようがないのです。義景様もいま樊噲はんかいと呼んで頼りになさっておりまして……」



 吉継が額の汗を拭きながら弁明を続ける。



「ご重臣の朝倉景鏡(かげあきら)様をはじめ、彼奴の放逐を主張する方々は幾人もいるのですが、義景様は離そうとなさらず……実は、こたび彼奴をこの部隊に加えたのも義景様たっての願いでありました。長繁は先の上洛軍に加わることを熱望しておりましたが、かなえられずに城中で鬱々としておりまして。それを気にかけた義景様が、野外に出れば少しは気も晴れようと温情をかけられたのです」

「はた迷惑なッ」



 思わず吐き捨ててしまった。

 気鬱を散じるというなら狩りなり戦稽古なり催してやればよかろうに、どうしてわざわざ他国の軍の護衛などさせるのか。

 俺が唸ると、吉継は身を縮めた。



「申し訳ありません。その、義景様が、長繁も上洛軍の方から京洛の話を聞きたかろうと仰いまして……」

「お優しいことですな! だが、義景様がそこまで富田とやらを気にかけるならば、はじめから朝倉軍の一隊を与えて上洛に参加させればよかっただけのこと! いや、隊を与える必要もない。一人であっても上洛軍には参加できた。現に豊弘は――加州殿はただ一人で上洛軍に加わったのですッ」



 言い捨てるや、踵を返して自分の馬に向かう。

 今や胸中に満ちる嫌な予感は、咽喉をせりあがって口からあふれ出んばかりに膨れ上がっている。

 馬のところで控えていた弥太郎と段蔵が、俺の顔を見て驚いたように目を見開いている。

 俺は二人に豊弘のところへ向かうと口早に述べると、鐙に足をかけて鞍上へと身を移した。



 弥太郎たちは危急であることを察したのか、事情を問わずに俺に続いてくれた。さらにその後ろに、慌てた様子の吉継が側近を従えて追ってくる。

 そうして目的地についた俺が見たのは、富田長繁らによってぼろぼろにされた豊弘と娘子軍の姿だった。








 はじめに口を開いたのは前波吉継だった。

 顔を真っ青にした吉継の口から、悲鳴のような叱咤が放たれる。



長繁ながしげェ! 貴様、いったい何をしている!?」

「はん、前波の次男坊か。見りゃわかるだろう。義景様をだましていた悪党に天誅を加えていたところだ!」

「きさま……正気か? 義景様は上洛軍を丁重に敦賀まで案内せよと仰ったのだぞ。その上洛軍に危害を加えるなど!」

「だからぁ、その上洛軍が義景様をだましていたって言ってんだろうが! 目が悪いのは知ってたが、耳まで悪かったのか、おまえ?」



 そう言うと長繁は足蹴にしていた豊弘をさらに踏みつける。

 豊弘の口から切れ切れの悲鳴がこぼれるところを、俺は黙って見つめていた。



「聞いておどろけ、加州豊弘は女だ! 女だったんだよ! 俺たち朝倉はこの女に騙されてたんだッ! 守ってやる必要なんかねえさ、そうだろう、上杉の軍師さんよぉ!?」



 鞍から下りて地面に立つ。

 あらためて周囲を見渡し、状況を確認する。



「あんたたちだってこいつに騙されていたはずだ。もしそうじゃねえってんなら、あれえ、おっかしいなあ、上杉の奴らも俺たちを騙してたってことになるぜぇ? なあ、そうじゃねえか、加倉そ――」

「段蔵、白神殿たちを頼む」



 膝に刀を突き立てられ、地面に縫いとめられている白神右京と、三十名あまりの娘子軍。

 彼女らの周囲には長繁の麾下と思われる朝倉兵が二十人ばかり。

 俺はそのすべてを段蔵に任せ――段蔵はあっさりとうなずいた。



「おまかせください。朝倉の兵はいかがしますか?」

「殺せ」

「御意」



 その俺たちのやり取りを聞いた長繁が狂ったような笑い声をあげた。



「は! 殺せだあ? そんなガキ一人に俺の部下がやられるわけ――――ぬ?」



 罵声を吐こうとした長繁が、不意に警戒するように目をすがめた。

 段蔵が袖口に忍ばせた暗器に気づいたのだとすれば、やはり武力に関しては図抜けたものを持っているのだろう。

 もし段蔵が長繁を狙ったのだとしたら失敗に終わったに違いない。

 だが、段蔵が狙ったのは長繁麾下の兵であり、彼らは主ほどの力量を持ち合わせていなかった。



「おまえら、避けろッ」



 長繁の警告を部下たちは当惑の表情で受け止めた。その直後。

 とさり、と。

 娘子軍の兵士を足蹴にしていた朝倉兵が二人、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。

 苦悶の声一つあげずにうつぶせに倒れた二人を見て、周囲の朝倉兵が怪訝そうな顔をする。

 彼らが状況に気づいたのは、倒れた二人の頭部を中心に暗赤色の水たまりが広がりだしてからだった。



 一人は首。一人は右の眼球。

 いずれも飛苦無とびくないで貫かれた傷口からあふれ出た血が地面を濡らす。

 事ここにいたり、ようやく長繁の警告の意味を悟った朝倉兵たち。だが、その反応は遅きに失した。

 放たれた飛苦無とびくないは瞬く間に第三、第四の標的を射抜き、新たに二人が倒れる。そうして、ようやく彼らが首や顔を守ろうとし始めたとき、飛び加藤の身はすでに朝倉兵の至近にまで迫っていた。



「ぐああああッ!?」

「ああああ、くそが、くそがああ!」

「ひぃぃ、や、やめ……!」



 足を、腕を、あるいは首を、顔を。

 段蔵は草を刈るようなたやすさで朝倉兵を打ち倒していく。いずれの攻撃も具足に守られていない部分、特に関節部を狙っており、一撃で命を断ち切るよりも戦闘力を奪うことを主眼に置いているようだ。

 むろん、可能と見れば首筋を切り裂き、眼球を貫いて、朝倉兵を次々に冥府へ送り込んでいく。



 たった一人の「ガキ」によって配下を半壊させられた長繁は、目を血走らせて脇差を握り締めていた。

 可能であれば、すぐにでも段蔵に襲いかかりたいのだろう。

 だが、長繁にはそれができない。もしここで俺たちに背を向けようものなら、俺の隣にいる弥太郎によって、即座に身体に風穴を空けられるのが分かっているからである。



「弥太郎」

「はい!」



 俺の呼びかけに弥太郎がすばやく反応する。

 槍を構えた前傾姿勢。目は獲物を狙う獅子のように爛々と輝き、長繁を見据えている。段蔵のように「殺せ」という命令が己に下るのを今や遅しと待ち構えている様子だった。

 だが。



「ここで朝倉兵を牽制していてくれ」

「……え? で、でも……」



 戸惑ったような弥太郎の声。

 俺はその声に押しかぶせるように小声で命令を付け加える。



「……富田だけではなく前波の方もだ。俺が命じたら前波吉継を捕らえろ」



 弥太郎が目を丸くする。

 が、俺としては当然の措置だった。

 この時点で朝倉家とその将兵に対する信頼を完全に失っていた俺は、富田長繁と前波吉継を別々に見る気もなくしていた。

 二人が結託しているとは思わないが、この醜行の証拠隠滅をはかる吉継が長繁もろとも俺たちを斬り殺す可能性は考慮しておかねばならない。弥太郎はそのための布石。いざとなったら吉継を人質にとって朝倉領を強行突破する。



 残った富田長繁には俺が当たれば済む。

 先刻から向こうの挑発をこれみよがしに無視しているのも、俺への憎悪を煽り立てるためだ。豊弘を人質にされでもしたら面倒だからな。

 弥太郎を長繁に当てないのはこのためでもある。弥太郎相手に追い詰められれば、あの狂犬は何をしてくるか分からない。だが、俺相手ならそもそも人質をとろうという発想すら湧くまい。



 弥太郎から抗議が来るかなと思ったが、鬼小島はじっと俺の顔を見つめ、何故だか一度ぶるりと身体を震わせてから小さくうなずいた。

 妙な反応に戸惑ったが、まあいい。詳しくは後で聞こう。

 俺は富田長繁に向かって一歩踏み出した。






「はん、刀も持てない青瓢箪あおびょうたんが。のこのこ何しに出てきやがった? 俺の部下を殺しやがった以上、もうお前らも朝倉の敵だ。加州のことで朝倉を欺いた罪もある。前波がなんと言おうと許す気はねえぞ!」

「さすがはいま樊噲はんかいとうたわれるだけはある。朝倉、朝倉とうるさいくらいに主家思いだな」



 わざとらしく拍手までしながら言うと、長繁はそんなこちらの態度に眉をひそめた。

 ややあって、馬鹿にするように口の端を吊り上げる。



「今になってご機嫌とりか? おせえんだよ、ばぁか!」

義景ごしゅじんさまに尻尾を振るしか脳のない駄犬が吠えるな」



 言って、俺はおもいきり口をひん曲げた。



「まあ、だからこそお前はいま樊噲はんかいなんだろうけどな。いま張良ちょうりょうにも、いま蕭何しょうかにも、いま韓信かんしんにもなれないお前には足軽大将がお似合いだ。身の程知らずの野心を捨てて、ずっと義景相手に尻尾を振ってろ。そうすれば駄犬のお前も、忠犬にはなれるだろうさ」

「…………てめぇ」

「ああ、伝わらなかったか? すまないわん。犬語を話すのを忘れてたわん。わんわん!」



 嘲笑まじりに犬の真似をしてみせる。

 効果は覿面てきめんだった。長繁は目を怒らせ、歯をむき出しにし、顔を鬼灯ほおずきのように赤くして、こちらに突っ込んでくる。

 速い。

 手に持っているのは脇差だが、長繁の膂力をもってすれば、あれ一本で俺の身体を真っ二つにすることもできるだろう。



「相馬様!」



 後ろからは悲鳴のような弥太郎の声。慌ててこちらに向かおうとしているようだ。

 長繁の兵を相手にしていた段蔵もこちらを援護する素振りを見せている。

 だが、当然のように二人よりも長繁の方が速い。



「くたばりやがれ!」



 大上段に構えた長繁は、見る者が見れば隙だらけだったのだろう。

 だが、刀を差さない俺にその隙を突くことは不可能だった。だからこそ、長繁の方もさして警戒せずに突っ込んできたに違いない。

 空間そのものを断ち割る勢いで長繁が刃を振り下ろす。

 誰の者ともしれない息を呑む音がきこえてくる。あるいは、それは俺自身のものだったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺は腰の鉄扇に手を伸ばした。




◆◆◆




 高野山で過ごした一ヶ月において、俺は景虎様から様々なことを教えてもらった。

 中でも最も時間を割いたのは武芸の習得である。

 といっても、俺に刀槍の心得はなく、いかに景虎様でも一月やそこらで素人を一人前にすることはできない。

 そこで景虎様が指差したのは、俺の腰に差さっている鉄扇だった。言うまでもなく、かつて景虎様からいただいたものである。

 


『鉄扇とは、武士が刀をつけられぬ場に持っていく護身具だ。まずはこれを自在に操れるようにしよう。おそらく、相馬にも合っていると思う』

『合っている、と仰いますと?』



 不思議そうに訊ねた俺に対し、景虎様は一瞬ためらう素振りを見せたが、やがて思い直したように言葉を続けた。



『運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり。戦とは不思議なものでな、相馬。死んでも構わぬと敵中に突撃した者が生き残り、死にたくないと激戦を避けた者に矢が降り注ぐ。そんな例がいくらもある。ゆえに、まことのいくさ人と呼べる者たちは戦場で死人しびとと化す。死人ゆえに生を望まず、死人ゆえに死を恐れず、ただ己が武勇をもって戦場を駆ける者どもは、味方にすればこれほど頼もしいものはなく、敵にまわせばこれほど恐ろしいものもない』



 なるほど。つまり景虎様や政景様のような人たちか。俺はそのように理解した。天に愛されている、というやつだ。

 景虎様はなおも続ける。



『むろん、そのような者は滅多におらぬ。おらぬのだが……』



 景虎様の目が俺に向いた。

 目をぱちくりとさせる。 



『あの、それがしが何か?』

『相馬。そなたはすでにその領域に片足を踏み入れているのだよ』

『……へ?』



 思わず間の抜けた声をあげてしまう。

 そんな俺を見て景虎様は苦笑した。



『むろん、そなたをいくさ人だとは言わぬ。このような物言いはそなたの気分を害するやもしれないが……』

『い、いえ、怒るなどとんでもない。自分自身が誰より承知しております』

『そこはもう少し覇気をもって欲しいところなのだがな。ふふ、まあそれはさておこう。今、そなたは自分が誰よりも承知しているといった。ならばこれも承知していようが、そなたはときおり死人と化す。生を望まず、死を恐れず、目的に邁進まいしんする死人にな』



 景虎様に言われて、俺は、む、と唇を引き結んだ。

 片足を踏み入れているという言葉の意味を察したのだ。



『繰り返すが、そなたをいくさ人だとは言わぬ。そなたといくさ人では心のありようもまるで異なろうしな。ただ、単純な事実として、そなたは生死の境で動じない心を持っている。春日山や佐渡での戦いはその典型だな』



 本当はこのようなことを言いたくないのだが。

 そんな前置きをしてから景虎様は決然といった。



『その心は戦において得難い資質なのだ、相馬。敵の刀を見ても怯まず、敵の弓矢を見ても動じず、冷静に対処できれば生き残る道も増すというもの。だから、そなたに鉄扇を操る術を教えよう。戦場でそなたが死人と化したとき、そなた自身を守れるように。そなたの後ろにいる誰かを守れるように、な』




◆◆◆




 ――キィィン、と。

 奇妙に澄んだ金属音がその場に響き渡った。

 銀のさじで銀の皿を叩いたような、不思議な音色。

 俺が鉄扇で長繁の一刀を受け流した音だった。



 受け止めたのではなく、受け流した。ゆえに、力のかぎり脇差を振り下ろした長繁は勢いあまって体勢を崩している。

 驚愕に染まる奴の顔が目の前にあった。



 本来、富田長繁の武芸は俺などの及ぶところではない。

 だが、その長繁の武芸も景虎様には届かない。

 高野山での一ヶ月、連日のようにあの方の刀を受け止めてきた俺にとって、今の長繁の一刀をさばくのはそれほど難しいことではなかった。



「お返しだ、いま樊噲はんかい



 鉄扇を握り締める。

 長繁の顔が怒りに歪むのを見ながら、俺は無防備にさらされたこめかみに全力の一撃を叩き込んだ。




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