第五十一話 豊弘の迷い
かくて上洛軍八千は慌しく京を離れることになった。
各方面からの引き留め要請はいまだ止んでおらず、嘆願、懇願、請願と様々な形で行われていたが、これはもうどうしようもない。
上洛軍が京を離れる日、どこから現れたのか何千という民衆が涙ながらに惜別の声を送ってくれたのは、上洛軍全員にとって何よりの栄誉というべきであった。
――ただ、見送るだけに留まらず、そのまま上洛軍にくっついて越後ないし甲斐まで付いて行きたい、と願う人間が何百人と現れたことは予想外と言うしかなかった。
彼らの多くは京の住民ではなく、上洛軍の噂を聞いて畿内各地から集まってきた流民たち。当然、女子供もいる。というか、そちらの方が多いくらいだ。いくら頼まれたところで簡単に連れて行けるものではなかった。
かといって放っておくこともできない。無視して先に進んでも、彼らはかまわず後ろについてくるだろう。置き去りにすれば、最悪、そのまま野垂れ死にしてしまうかもしれない。
むろん、そうなったところで上洛軍に責任はないのだが、世間の評判というものがある。
上洛軍が最後の最後に流民を見捨てて去ったと知られれば、今日まで積み上げてきたものが一朝にして崩れ去る。画竜点睛を欠くという言葉の生きた見本になりかねなかった。
……まあ、そもそも景虎様に見捨てるという選択ができるはずもないのだが。俺は困惑する景虎様に一案を献じた。
「ここはそれがしが一隊を率いて残ります。景虎様たちは春日山にお急ぎください」
見捨てるわけにもいかず、かといって足弱な者たちを連れて何ヶ月もかけて越後に戻るわけにもいかない。
となれば隊を分けるしかないだろう。
幸い、越前には敦賀という良港がある。西は山陰から東は東北を結ぶ日本海交易の一大拠点だ。
海路を使えば女子供でも楽に移動ができる――あ、いや、船酔いとかの関係であまり楽ではないかもしれないが、少なくとも雪の残った北陸路を女子供の足で進むよりは早く越後に行き着けるはずだ。
……俺自身、船酔いがひどいから二度と海とは関わるまいと思っていたのだが、この状況でそんなわがままは言ってられない。
俺の提案を聞いた景虎様はほっとしたようにうなずいた。
自分たちを慕ってついてくる民を置き捨てるわけにはいかず、一方で倒れた定実様を案ずる気持ちは募るばかり。気が急き、考えあぐねていたのだろう。
「頼めるか、相馬」
「お任せを。ただ、朝倉家に協力を依頼する使者を出していただきたく」
「当然のことだな。敦賀といえば宗滴殿が郡司を務めていたはずだ。加賀へ向かう前に私の口から頼んでおこう」
こうして俺は京を出て早々、景虎様たちと分かれて行動することになった。
兵二百、民五百を率いて近江を抜け、越前へ入る。越前では朝倉軍の出迎えを受け、そのまま敦賀への道を先導してもらった。その間、兵と民とを問わず、水も食料もすべて朝倉軍が提供してくれるという至れり尽くせりっぷり。
聞けば、先行した景虎様の要請だけでなく、京の将軍家からも通達がきているらしい。往路と同様に復路でも上洛軍に便宜をはかるように、と。
さすが義輝様と言うしかない。
もちろん、朝倉家の篤志にも感謝しなければならない。
この分なら越後までたいした問題もなくたどり着けるのではないか。俺はそんな風に楽観的に考えていた。
「ところで、わが師よ。このまま海路でよろしいのですか?」
敦賀へ向かう途次、娘子軍を率いる豊弘に訊ねる。
言うまでもないが、豊弘の故郷は加賀の国。越前の隣国だ。敦賀から船で加賀へ行くことはできるが、船は風次第、波次第。陸路を使った方が確実だろう。そう考えての問いかけだった。
すると豊弘は、浮かぬ顔つきながらこくりとうなずいた。
「かまいません。民の中には京でお世話になった人たちもいます。私がお守りするのは当然のこと。それに、正直に言えばまだ心が決まっていないのです……」
豊弘はそう言って自分の格好を見下ろす。
今の豊弘は鮮やかな紅色が眩しい朱塗りの甲冑を身に着けている。小柄な――というより子供の豊弘の体型に合わせた特注品だ。
配下の娘子軍もこれにならっており、傍から見ると実に立派な赤備え。ぶっちゃけ上杉軍よりも強そうである。
これは豊弘恩顧の娘子軍および遊女小屋の皆さんが、有り余る資金と人脈を駆使して用意した『加州豊弘直属部隊』の正装。
この格好で京の町を練り歩く姿は、あれぞ加州殿の赤備えよ、と一部住民の間で熱狂的な人気を誇っていた。ある意味、京都名物になっていたといってもいい――豊弘本人はめっちゃ恥ずかしがっていたけれども。というか、何とかしてくださいと泣き付かれたけれども。
ともあれ、若すぎる加賀の驍将の名は京の町に知れ渡り、その評価は一部のやっかみを除けばおおむね好意的なものだった。
室町御所でも長尾景虎、春日虎綱に次ぐ上洛軍の一将として遇されていたようである。
だが、加賀に戻ればそうはいかない。
豊弘は傀儡守護の三男坊。そんな人間が京で勇名を馳せ、三十名あまりとはいえ――以前の十七名から倍増した――直属の部下を持つようになれば、侮蔑は警戒へと姿を変え、いずれ排除に行き着くだろう。
そして、排除の手は豊弘に従う者にも向けられるに違いない。豊弘はそれを案じているのだ。
ならば越後に来ればいいのでは、と俺は考え、実際に勧めもした。むろん景虎様の許可を得た上での誘いである。
これに対して豊弘は明らかに心を動かした様子であったが、父富樫晴貞のもとを離れる決断はたやすいものではなかったようだ。加賀における父の立場の不安定さを思えば、それも当然のことであろう。
俺としてもできれば何とかしてあげたいのだが、安易に他国の内情に口を挟むことはできない。しかも相手は一向宗だ。やぶをつついたら八岐大蛇が飛び出して来かねないし……
と、そんな風に頭をひねっていたら、豊弘が慌てたように言葉を続けた。
「あ、加倉様には感謝しているんですよ! 父上も良い金策ができたと喜んでいらっしゃいましたッ」
と、豊弘が口にしたのはしばらく前の出来事に由来する。
その日、俺は豊弘の口から父親が以前絵に傾倒していたことを聞かされた。大名の手慰み、下手の横好きというわけでもなく、城の外から師を招いて学んだ本格的な腕前らしい。
子供たちが生まれてからは絵筆を置いたらしいのだが、晴貞の私室には昔の絵が何十枚と保管されているそうな。
それを聞いた俺は豊弘にある提案をした。
その絵、売ってみないか、と。
絵の値段に定価はないと聞く。
京で評判の豊弘が持ち込めば商人も無視はできないだろうし、加賀国主であり、あの『加州豊弘』の父君の絵だと触れまわれば、それなりの付加価値がつくのではなかろうか。
もちろん売れない可能性もあるが、それならそれで上杉軍が買い取って陣屋に飾ればいいわけだし。
ほとんど思いつきの提案であったし、豊弘もたいして期待はしていなかったようだが、なにしろ富樫家の困窮ぶりはわが子を養いかねるレベルだ。多少なりとも可能性があるならば試してみるのも悪くない。
この頃の豊弘は費用も人員も自分持ちで加賀に使者を飛ばせるほどの身代になっていた。
肩を縮めながら、ひとり上洛軍に加わった頃と比べれば雲泥の差。立派になった豊弘の姿に涙を禁じえない――と言ったら軽く腕をつねられた。
そんなわけで、駄目もとで売り込みをかけてみた俺たちだったが、案に相違して評判は良かった。特に馬の絵はその道の人に絶賛される出来栄えだった。
加賀を代表する上洛軍の一将であり、将軍の覚えもめでたい加州豊弘に対する追従もあったかもしれないが、この際売れればなんでもいい。
晴貞が苦笑まじり――絶対売れるわけないと思っていたのだろう――に送ってきた最初の三枚は三日とたたずに売切御礼。父上追加くださいと再度差し向けた豊弘の使者を前に、晴貞はしばらく絶句していたそうな。
そうして得た利益は先行している景虎様の本隊から晴貞に渡されるはずだ。
けっこうな額だったから、豊弘が再び寺での奉公を強いられることはないだろう――いやまあ、娘子軍を率いる今の豊弘に寺奉公を強いる奴がいるはずもないが。
絵筆の費用を惜しんで絵をやめた晴貞が、再び筆をとるには十分すぎる額。そうして晴貞が描いた絵を加賀なり京なりで売れば儲けることも可能。豊弘が口にした「金策」というのはそういう意味であった。
◆◆◆
「ああ、本当にどうしよう……」
加倉と別れた後、豊弘は内心で頭を抱えていた。
これまでも悩み深き人生ではあったが、その悩みは自分についてか、もしくは父についてだけだった。
それがいまや配下(!)の心配もしなければならない。京都からついてきた民の中には、ひとにぎりだが豊弘についていきたいと願っている者もいるので、そちらも考える必要がある。
責任は両肩に重かった。
いったいどうしてこんなことになったのか。
原因を挙げろと言われれば加倉相馬以外にありえないのだが、豊弘もなんだかんだと言いつつ逆らわなかった。
与えられる褒詞を嬉しく感じたのは事実であるし、自分の行動で父の立場が少しでも良くなるならば、と『加州殿』として幕臣との折衝もがんばった。
結果、京の将軍家から富樫家に対して三十枚の黄金と、加賀における逆徒討伐の教書が与えられた。
教書とは、簡単にいえば「加賀守護に逆らう者たちを討ってよし」とする将軍家のお墨付きである。
これにより晴貞はおおいに面目をほどこすこととなり、国内における影響力も高まった。三男坊ひとりを上洛軍に加えた対価としては破格といってよい。
そういった恩恵に浴しておいて、加倉を責めるのはあまりに身勝手というものだろう。
そもそも豊弘自身、加倉を恨んだことはない。たまに文句を言うのはじゃれついているようなものである。
口にしたことは一度もないが、二人の実兄とは疎遠な豊弘は加倉相馬に兄の姿を見ていた。
その加倉や、弥太郎、段蔵、岩鶴らと共に過ごした京での日々は、豊弘にとってあまりに濃密だった。喜怒哀楽のすべてがあった。
加倉が調子を崩したときは胸を締め付けられる思いをしたものの、終わってみればそれさえ貴重な経験である。家族以外の誰かをあんなに心配したことはかつてない。
加賀に戻れば、あの日々が戻ってくることは永遠にない。自分の迷いの原因は、つまるところその一点にある――豊弘はとうにその事実に気づいていた。
「加州様、ため息ばかりついていると幸せが逃げてしまいますぞ」
無意識のうちにうつむき、ため息を吐いていた豊弘に横合いから声がかけられる。
豊弘とそろいの朱塗りの甲冑をきているこの人物、名を白神右京という。
元北面の武士にして、娘子軍の事実上の指揮官である右京は、大柄な身体をゆすりながらバシバシと豊弘の背を叩いた。
「笑う門には福きたる。苦しいとき、つらいときこそ笑いなされ。さすれば陽気も巡ります」
「は、はい、ありがとうございます、右京さん」
北面の武士――つまり帝室を守る尊貴な部隊に所属していた白神が、どうして加賀の三男坊の下につきたいと願ったのか。
いまだに豊弘はそれを不思議に思っている。右京は優れた武勇の持ち主であり、身長も体格も雄偉の一言。正直なところ、坊主をおもわせる短く刈り上げた髪型とあいまって筋骨隆々の大男にしか見えない。
もっとも、見方をかえればそれだけ頼もしく威圧感があるということでもある。出自もしっかりしており、仕官を望めばたいていの家で受け入れてもらえるだろう。何を好き好んで無位無官の三男坊などに、との豊弘の疑問は当然のものであった。
以前に訊ねた際には「実はそれがし、美少年に目がなくてですな。豊弘様のお姿に一目でやられてしまったのでござる」と豊弘をドン引きさせる台詞を吐いた右京であるが、何ヶ月も行動を共にしていれば、それが冗談のたぐいであったことは豊弘にも理解できる。
――いや、もしかしたら冗談ではなく本音だったのかもしれないが、豊弘の外見に惹かれただけなのであれば、娘子軍を組織するために出資者を募ったり、武具刀剣のたぐいを買い揃えたり、同じ娘子軍の者たちを鍛えあげたりはしないだろう。
ちなみに、娘子軍とはいっても女性以外を排除しているわけではない。当初はともかく、人数が増えた今となっては男性の兵士もそれなりにいる――その男性兵も比較的年若な少年(美形)が多いのは、きっと偶然であるに違いない。豊弘はそう信じている。
ともあれ、白神右京とはそういう人物だった。
彼女は北面の武士として諸国の動静にも通じている。さすがに加賀の国主が息子を寺奉公に出さねばならないほど困窮しているとは知らなかったが、豊弘にそのあたりの事情を聞いてからはおおよそのことを把握していた。
「まったく、これだから坊主どもは気に食わんのだ。坊主は坊主らしく寺で念仏を唱えておればよいものを!」
右京は憤慨する。
北面の武士は寺社勢力と衝突することが多かった。彼らが主に相手をしていたのは比叡山延暦寺の僧兵であり、一向宗徒ではなかったが、坊主が武器を片手に世俗の権力を求めている時点で大差はない、と右京は断じている。
その坊主どもの横暴に豊弘が苦しんでいると思えば、自然と口調も荒くなった。
もっとも、ただ腹を立てるだけではなく、しっかりと分析もしている。
「しかし、こたびのことで富樫家は将軍の覚えもめでたくなり、上杉家、武田家とも強いつながりを築いたと坊主どもは考えておりましょう。たしか武田と本願寺は縁戚でもあったはず。これまでのような無法は控えるものと思われます」
「そうなることを期待しています。我が家の力が強くなれば、父上に頼んで皆さんを召抱えることもできますし……」
「あいや、お待ちを! 余の者は知らず、それがしはたとえ富樫家が天下を取ったとしても豊弘様の下から離れぬ所存。ご承知おきくだされい!」
大声で断言した右京は呵呵と大笑する。
右京は常にこの調子であり、豊弘が金銭で俸給を払おうとしても「結構結構! それがしより、若い者に与えてやってくだされ。それがしはもう十分育ちましたが、若い者たちはこれから食べて食べて大きくなってもらわねば困りますからな! ……まあ、あまり大きくなると可愛らしさがなくなるので、そこは釣り合いがほしいところでござるが」などと言って受け取ってくれないのである。
――なお、後半については、自然と聞かないふりができるくらいには豊弘も右京の言動に慣れてきていた。
と、そのとき、二人の目が不穏な騒ぎをとらえた。
何事かと見ると、娘子軍と朝倉軍の一部が揉めている。豊弘に近づこうとする朝倉兵を娘子軍が押し留めているらしい。
眉をひそめた右京は豊弘をその場に残し、騒ぎの場に歩み寄る。
「何事だ?」
「あ、隊長! も、申し訳ありません。この男……いえ、この方が加州様に会わせろとしつこくて」
そういって部下が指差したのは、豊弘ほどではないにせよ、年若い少年だった。右京が見たところ二十歳には達しておらず、精々十六、七といったところ。あるいはもっと下かもしれない。
ただ、その体つきは子供のものではなかった。
長く伸びた手足はしなやかでありながら力感に満ち、肉食の獣を思わせる。
均整のとれた体格は虎体狼腰――古来より優れた戦士を多く生み出してきた理想的な身体つきをしている。
目鼻立ちも悪くない。普段の右京であれば目を輝かせたかもしれなかった。
ただ、状況が状況である。興味よりも警戒がまさるのは当然のこと。
くわえて、少年の双眸からあふれ出る飢えたような光が右京の脳裏に警鐘を鳴らしていた。
「……朝倉家中の方とお見受けする。まずは名乗られよ。しかる後、用件をうかがおう」
低く押し殺した右京の詰問に対し、少年はあざけるような笑みで応じた。
「富田長繁だ。京洛で名高い加賀の驍将に見えたく、推参つかまつった」