第五話 関川の戦(前)
長尾勢は春日山城を進発した。
当面の目的地は春日山城の東を流れる関川である。
騎馬隊を用いるの利は機動力にある。そして、水はその機動力を妨げるもの。俺が関川に目をつけたのは当然のことであった。
時期は梅雨。川の水量は間違いなく増加している。
俺の作戦は単純だった。川岸に布陣すると同時に川の上流を堰き止める。そして、退却すると見せて柿崎勢を釣り出し、渡河する柿崎勢を水で押し流す。それだけである。
陳腐な計略といわれそうだが、陳腐と言われるのはそれだけよく使用されるからであり、よく使用されるということはそれだけ成功例が多いということなのだ。
……まあ、他に何の策も思い浮かばなかったというのが正直なところなのだけど。
そうして関川にたどり着いた長尾勢だったが、俺の作戦は初手からつまずいた。
斥候から急報が届いたのである。
ちなみにこの斥候は猿鳶という名前で、出陣に先立って自分を偵察に出すよう求めてきた。
たしかに柿崎勢の情報は欲しかったところ。身の軽さには自信があるとの言葉どおり、地を駆ける速さは韋駄天の化身と呼んでも過言ではないほどだった。
俺はその場で猿鳶の意見を採用し、偵察に向かわせた。
その猿鳶からの報告である。
柿崎勢は騎馬三百、足軽一千。彼らが現れるのは数日後のことと思われていたが、なんと柿崎景家は騎馬隊三百のみを率いて猛然と春日山に迫りつつあるという。
このままでは明日にも関川に姿をあらわすかもしれない。
普通、敵地に侵攻する際は兵力の分散を避けるものだが、どうやら向こうは長尾軍など騎馬だけで蹴散らせると考えたようだ。
実に正しい判断だよ、こんちくしょう。
腹立ちまぎれに地面を蹴った俺は、ここで全軍を二手に分けることにした。
一隊は川をせきとめる工作部隊、一隊は柿崎勢を奇襲する部隊である。
おそらく柿崎景家は長尾勢が打って出るとは考えていないはず。何故といって、晴景様が総大将だったら確実に篭城するからだ。晴景様が二十歳に満たない若造に采配をあずけるとは夢にも思うまい。
その虚をついて敵の出鼻をくじき、進軍速度を鈍らせるのが奇襲部隊の役割である。
人数は工作部隊が四百、奇襲部隊が百。
もちろん俺は奇襲部隊の方に加わった。
柿崎勢への奇襲は決死隊に等しい。向こうは騎馬。こっちは徒歩。向こうは精鋭。こっちは烏合の衆。勝算なんぞ立てようがない。
だからこそ、俺自身が指揮をとらねばせっかく高まった士気は潰えてしまうだろう。
「ああ、胃が痛い……」
なるべく精鋭を、ということで戦闘経験のある兵を選別しながら胃をさする。
指揮官に任じられてからこちら、ずっとお腹がしくしく痛むのである。
この年で胃潰瘍とか本気で勘弁してもらいたい。
「だ、大丈夫、です! 加倉様は、私が、お守りしますからッ!」
俺の隣には「頑張りますッ!」と全身で叫んでいる弥太郎がいる。黒い眼の奥では、決意が炎の形をとって燃え盛っていた。
実のところ、俺は弥太郎を奇襲部隊に加えるつもりはなく、その膂力を堰作りに生かしてもらうつもりだった。
たしかに弥太郎が本物の鬼小島であれば大きな戦力になる。だが、同名の別人である可能性は否定できないし、仮に本物だとしても、自分より年下の女の子を死地に連れて行くのは抵抗があった。
まあ、戦に連れ出している時点で目くそ鼻くそではあるのだが……こればかりは俺の心の問題だから仕方ない。
ところが、肝心の本人が俺の指示に従わない。
どうか再考をと繰り返し訴えてくる。
その様子があまりに切なげだったので、先刻ためしに槍を振るってみてもらったのだが――いや、本気で驚いた。
長尾勢の中で一番古参の兵さえ感嘆するほどに見事な槍さばきだったのである。
そんなものを見せられては弥太郎の願いに否とはいえない。
古参兵が太鼓判を押してくれたことも手伝って、俺は不承不承弥太郎を連れて行くことにした。
こうして弥太郎は自分の力で自分の居場所を勝ち取ったのである。
その後、隊を分け終えた俺は、工作、奇襲両部隊を引き連れて上流に向かった。
奇襲部隊は川下で渡河する予定だったのだが、関川の水勢が予想以上に激しく、また濁流のせいで底が見えない危険な状態であったため、川下での渡河は危険だと判断したのである。
なので、渡河できそうな場所をさがしに上流へ向かったわけだが、なかなか適した地点が見つからない。
この時点で俺は自分の作戦の穴に気がついた。
川が荒れているのを見たときは「これだけ荒れていれば水攻めがしやすい」と喜んだのだが、冷静に考えて、これほどの水量をどうやってせき止めればいいのだろう。
堰作りの専門家がいるわけでもないのだ。土のうをつくるための麻袋さえ用意していない。
くわえてタイムリミットは明日まで。
この条件で堰をつくろうと思ったら四百人では全然足りない。千人以上の人夫を動員しても、おそらくはぎりぎりだろう。
川をせき止めることができなければ水計は使えない。
かといって、ここで水計を諦めるわけにはいかなかった。
現在の春日山長尾家の窮状を打開するためには「負けない」だけでは駄目だ。求められるのは勝利。それも、ただ柿崎を追い返すだけでは足りない。追い返すだけでは遠からず柿崎は報復に来る。
だから、求められるのは圧倒的な勝利だ。敵に再起を許さないだけの打撃を――可能ならば柿崎景家を討ち取りたい。
そこまでやって初めて春日山は息をつくことができるのである。
その意味で、景家が騎馬隊のみを率いて突き進んでくる今の状況は好機なのだ。
関川の増水も天の配剤としか思えない。
何か、何かあるはずだ。この状況を生かせる策が。
水、水、水、濁流、奔流、激流、背水……背水の陣は……だめだな、全滅する未来しか見えない。
やはり敵に渡河させたところを討つ、これは外せない。
堰がつくれないのなら、何か別のもので代用するしかないが…………いや待て、代用?
頭の中で一つのアイデアがひらめいた。
水計が使えないなら火計で代用すればいいのではないか、と。
その着想に至ったとたん、それまでの煩悶が嘘のように頭が回転しはじめる。
俺はそれらをまとめあげて一つの作戦案に落とし込んだ。成功するかは賭けであるが、少なくとも成算なしに堰をつくるよりはマシなはずだ。
こうなると工作部隊の動きがまったく違ったものになってくる。急ぎ主だった兵士を集めた俺は、早口でこれからの動きを指示していった。
まずは火を使うとなれば油がいる。それも雨に消されないくらいの量が必要だ。
俺は工作部隊から二十名ばかりを選んで春日山に戻し、城内、城下を問わずありったけの油をかき集めてくるように命じた。すぐに「二十名では足りない」との意見が出たので、さらに二十名追加。
それと、本格的な堰つくりは無理だとしても、もう少し川の流れを緩めておきたかった。柿崎勢が渡河を諦めるほどに荒れ狂ってもらっては困るのだ。
なので堰つくりにも人数を割く。
他にはこの近辺から舟を集める人数。これは舟同士を繋ぎ合わせて即席の橋にするためである。
これは行きではなく帰りのための橋だ。強襲が失敗し、柿崎勢に追われながら逃げてくることも十分に考えられる。そのとき、増水した川に行く手を遮られたら目もあてられない。
その他、工作部隊の面々すべてに役目を割り振った俺は、ここで一人の兵士に目を向けた。
先刻から弥太郎と共にじっとこちらを見つめている猿鳶である。
猿鳶はかなり小柄で、背の高い弥太郎と並ぶと親子にしか見えないが、この場にいるからには実戦経験もあるはずだ。
過酷な斥候の任務を軽々とこなしたことからも体力、分別は折り紙つき。
口調と態度はややきついが、他者に隔意があるわけではなく生来のものなのだろう。その証拠に周囲の兵士ともよく言葉をかわしており、特に弥太郎とは馬があったようである。
その猿鳶は俺の視線に気づいて口を開いた。
「なにか?」
「いや、今思ったんだが、猿鳶は斥候に出たときにこの川を往復したんだよな? どうやって越えたんだ?」
「私の身ごなしは一度お見せしたでしょう。それに、私は川のほとりで育ちましたので、この程度の水かさであれば何とでもなります。言うまでもありませんが、弥太郎のように重い具足をまとった者が私の真似をすれば流されますよ」
猿鳶の言葉を聞いた弥太郎は、自分が川に流される姿を想像をしたのか、うそ寒そうな表情を浮かべている。
その後、何か気になることがあったのか、しげしげと自分の身体を見下ろしていたが――ああ、猿鳶が重いと言ったのは具足であって君の体重のことではないと思うぞ。
それはさておき。
「使い立てしてすまないが、この先に渡れそうな場所がないか見てきてほしい」
「その程度は造作もありませんが、これ以上の時間の空費は避けるべきと進言します」
ここからさらに上流に向かうと、渡り終えた後で柿崎勢を捕捉する手間が増える。
最悪の場合、こちらが補足する前に柿崎勢に関川を越えられ、春日山城を直撃されてしまう。
そうなったら目もあてられない。それよりは――
「加倉様は出陣前に城内にある縄をかき集めていらっしゃった」
「あ、ああ。縄は色々と使えるからな」
「その縄を結び合わせてください。私はそれをもって川をわたり、適当な木に結び付けます。そうすれば縄を伝って川を越えることができます」
邪魔になる具足や槍などは縄でまとめて、人間がわたり終えた後で別個に運べばいい、と猿鳶は言う。
俺は思わずぽんと手を叩いた。
◆◆
――俺や弥太郎を含めた奇襲部隊が川を渡り終えたのは、それから一刻(二時間)あまりが経過した後であった。
幸いなことに全員無事である。
正確にいえば、途中何人かが川に流されそうになったのだが、そのつど弥太郎が剛力を発揮して救い出してくれたのだ。発案者の猿鳶ともども頭があがらない。
ちなみに、その猿鳶はこの場にいない。
柿崎勢がどこまで接近しているか、それを確かめるためにひとり偵察に向かってくれたのである。
弥太郎もそうだが、なんでこんなに有能な人間が春日山で雑兵なんぞをやっているのか。
戦いが終わったら二人を高禄で召抱えるように晴景様に進言しよう、と俺は心に決めた。
空はあいかわらず雨雲に覆われており、時間の経過が測りにくいが、すでに日が大きく傾いている時刻である。
俺たちは川に沿って下流に向かい、しかる後、方向を転じて街道を進んだ。おそらく同じ道を柿崎勢も進んでいるはずだ。
しばらく進むと、偵察を終えた猿鳶が戻ってきた。聞けば、柿崎勢はろくに休息もとらずに街道をひた走っているらしい。
このままでは今日のうちに関川に到着してしまう。
思わず舌打ちする。
予想以上に敵の動きが早い。ここで足止めしておかないと、こちらの準備が整う前に川を渡られてしまう。
そうなれば、もうこちらに勝ち目はないだろう。
少なくとも今日一日は柿崎勢を足止めしなければならない。
俺たちはただちに戦いの準備にとりかかった。
できれば落とし穴とか逆茂木とかを山ほどこさえた堅牢な陣をつくりたかったが、川を渡るまでにロスした時間が響いて無理だった。まあ、仮に時間があったとしても、陣地構築に必要な資材なんて持ってきていないのだが。
したがって俺たちが注力したのは罠つくりである。
街道近くの木に縄を結びつけ、道をまたいで反対側まで伸ばしておく。騎馬が通過する寸前に縄を引っ張ることで馬の足をからめとるのだ。へたに手で引っ張ると、馬の力で指が引きちぎれてしまうので、その点は何度も注意しておいた。
「そういうことなら、これが役に立つかと」
そう言って猿鳶が取り出した竹筒には、いやに硬く、角ばった木の実がぎっしり詰め込まれていた。
海辺で見かけるテトラポッドを連想させる木の実の形は、漫画でよく見かける忍者のマキビシそっくりである。
「よくご存知ですね。これはヒシの実を乾燥させたものです。馬に追われた際の用心のために持ち歩いています」
「そ、そうか」
……この人、実は忍者だったりしないか? 猿鳶という名も猿飛佐助を連想させる。
うずうずと好奇心がうずいたが、へたに詮索して警戒されても困る。
喉まで出かかった質問を飲み込んだ俺は、猿鳶からもらったヒシの実を街道にばら撒いた。
これらの罠にかからなかった敵に対しては必ず三人一組で当たるように指示。
このとき、人ではなく馬を狙うことも徹底させる。できるかぎり敵の機動力を殺ぐためだ。これは味方の被害を減らすための工夫でもある。
首級をあげる必要はないと言い含めたのもこのためだった。強敵相手に欲目を出せば、余計な被害が増えるのは目に見えている。
それらの準備が完了してから四半刻(三十分)あまり。
しとしとと降り続く雨音に混じって、遠雷のごとき轟きが彼方から伝わってきた。
その音は一秒ごとに高まっていき、やがて耳を圧する轟音となって空と大地を揺り動かす。
現れ出でたのは馬も鎧も、旗指物さえ黒一色の黒備え。
数は三十騎ほどであろうか。察するに先行偵察のための部隊だろう。
俺たちが草むらに潜んでいるとは想像だにしていないようで、一直線に街道を疾駆している。
音に聞こえた柿崎勢。たった三十騎といえど、地面を蹴立てて迫り来る迫力はすさまじい。
知らず、采配を持つ手が震えた。
と、不意に。
手に暖かい感触が触れた。
柿崎勢の方向しか見ていなかった俺は驚いて隣に視線を向ける。
すると、そこにいた弥太郎が俺を力づけるようににこりと微笑みかけてきた。
弥太郎がこれまで戦場に出たことがあるのかは知らない。人を殺したことがあるのかも知らない。
だが、少女の様子を見れば、戦に慣れていないのは明らかだ。
接近する柿崎勢の脅威を感じていないわけでもないだろう。
それでも弥太郎は、俺を力づけるために笑みを浮かべてくれた。
これで何も感じないのは男じゃない。
俺は弥太郎に笑みを返した。
たとえ虚勢であろうとも、戦場に出たからにはゆるぎなく立っていなければならない。
ちらと猿鳶を見れば、恐怖など毛ほども感じていない様子で淡々と敵を見据えていた。
今の俺が見習うべきはこの胆力だ。
そう考えた俺は丹田に力を込め、迫り来る黒備えを睨みつける。
すると、俺の視界の中でいきなり人馬が宙を舞った。甲高い馬のいななきと狼狽する兵士の声が聞こえてくる。
先頭を走っていた騎兵が罠にかかったのだ。
後続の騎馬も次々に落馬し、あるいは道をそれて馬を御すことに必死になっている。
――それは逃すことが出来ない隙。
「全員、かかれィッ!!」
俺の号令に応じて、隠れていた長尾勢が柿崎勢に牙を剥く。
乱戦の始まりであった。