第四十六話 点灯
しんしんと降り積もる雪が緑深き紀伊の山々を白く染めあげていく。
耳が痛くなるような静寂に包まれ、俺はほぅっと息を吐き出した。
京の町中や上杉陣屋ではたえず周囲に人がいたので、こういった静けさは久しぶりだ。
いつまでもこうしていたいと思う一方で、あまりの静けさに妙な人恋しさを覚えたりもする。我ながら難儀な奴だ、と苦笑していると――
「相馬」
静かな呼びかけが耳朶を震わせる。
その声で我に返った俺は、似合わぬ思索を中断して声をかけてきた相手に向き直った。
そこには景虎様の姿がある。
俺たちは仏教の聖地として知られる高野山を訪れていた。
二人っきりで。
なお、滞在期間は一ヶ月を予定しています。
……どうしてこんな状況になったのか。
その端緒は景虎様の一言だった。
高野山に行ってくる、という。
日本仏教の聖地、高野山。
俺は宗教にはあまり詳しくないが、景虎様が崇める毘沙門天が仏教の武神であることくらいは知っている。であれば、景虎様が高野山に行きたいと願うのも不思議なことではない。
問題は次の景虎様の言葉だった。
「供は相馬、お前に頼む」
「……承知しました」
葬送の件から続くゴタゴタに終止符を打ちたいのだろうと察した俺は、覚悟を決めてうなずいた。
覚慶や宗心の一件も段蔵あたりから報告があがっているはず。このままなあなあで上杉家に留まっていては、いつか取り返しのつかない事態が起こりかねない。
去るにせよ、留まるにせよ、けじめをつけるべきタイミングであった――と思っていた俺は、次の景虎様の言葉を聞いて目が点になった。
「今回は半ば私用だから大勢は動かせん。つまり供は相馬だけだ。道中よろしく頼むぞ」
「……はい!? いやいや、それはいくらなんでも危険では――」
異議を唱えようとする俺を見た景虎様は、片目をつむっていたずらっぽく微笑む。
色々言いたいことがあったのだが、その仕草一つですべて消し飛んでしまいましたよ、ええ。
まあ、たぶん景虎様なりの気遣いなのだろう。
ただ、当然というべきか、上杉軍を統べる立場の景虎様が京を離れるのは簡単ではなかった。
俺は直接関わったわけではないが、御所の方々との調整はかなり難航したようだ。
最初、俺は御所の態度を大げさだなと思った。
細川晴元が降伏してからというもの、京周辺は平穏そのもので、町にも活気が戻りつつある。景虎様が数日京を離れたところでそうそう問題は起こらないだろうに、と。
だが、あらためて事情を聞いて幕臣や公家が反対するのは当然だと思い直した。
滞在期間が一ヶ月と聞いたからである。
そら渋るのも当然だわ。武田の将である春日虎綱は残るとはいえ、上洛軍の大将が一ヶ月も京を離れたら何が起こるか分かったものではない。
また、単純に景虎様が一ヶ月も俺と過ごすことをけしからんと考える者もいるだろう。
実際、直江景綱などは壮絶な仏頂面をしていたし。
そういった反対や危惧、不満をことごとく説き伏せて高野山行きを認めさせた景虎様は、案外とても口達者な方なのかもしれない。
京から南へ下り、久秀の所領である大和を通って紀伊の国に入る。
その間、目立った事件がなかったのは、主に久秀に発行してもらった手形のお陰であろう。
くわえて三好家の統治、ことに松永領の治安の良さは驚くべきものがあり、そちらの恩恵も少なくなかった。
町を歩いてもごみ一つ落ちておらず、街道は整備され、道の両脇には街路樹が植えられている。
この手の木々は戦や一揆が起こると木材として切り倒されてしまうものだから、松永領内ではそういった騒乱が起きていないことの証明でもある。
道行く人の表情も明るく、子供たちが楽しげに走り回っている姿を何度も目にした。
松永久秀は陰謀しか脳のない小策士とは一線を画する人物である。そのことが領内の風景からまざまざと感じ取れた。
これには景虎様も深く感嘆し、将軍家を圧迫する松永久秀の評価を一部改めたようである。
久秀が親切にも手形を発行してくれたのは、このあたりの狙いもあったのかもしれない。つまり、平和に暮らす民の姿を見せて上杉家の戦意を鈍らせようとしたわけだ。
だとしたら、久秀は実に上杉家、というか景虎様の性質を理解していることになる。
「霜台が案内しようか?」という提案を言下に謝絶した時の、小さく唇を尖らせた久秀の姿を思い出す。
あの姿の下にそんな深慮遠謀が秘められていたとはなかなか想像しにくいが、久秀ならばその程度の芝居はおてのものだろうとも思う。
しかしあれだな、ここまで策謀の多い人物として世に知られてしまうと、本心からの行動であっても作為ありと思われてしまうのだな。
しみじみとそう思う。智略縦横の名が広がることは良いことばかりではなさそうだ。
だからといって、実は久秀がものすごく素直で誠実な人となりだった、などという展開はありえないと思うけれども。
その後、高野山に入った景虎様と俺はすぐに高僧たちの出迎えを受けた。
京を出たときに先触れの使者を遣わしており、なおかつ莫大な寄進も行っていたからだと思うが、僧たちの対応は丁重の一語に尽きた。
景虎様のおまけに過ぎない俺まで賓客扱いである。見るからに位の高い高僧たちに下にも置かない対応をされる居心地の悪さよ。
だが、そんな居たたまれなさは長続きしなかった。
高野山は真言宗を開いた空海が布教の拠点を置いた場所である。厳粛な雰囲気に包まれた山門をくぐり、金剛峯寺の壮麗な社を目にすれば、仏教とは縁遠い俺でさえ心洗われる思いがする。
あたりを見回せば、いかにも修行を積んだと思われるお坊さんが森然と祈りを捧げている姿が見受けられる。
他方、やたらと強面なお坊さんが薙刀を手に闊歩している姿も見かけた。
聞けば諸大名の干渉を退けるために僧兵という武力を蓄えているそうな。
その是非はともかくとして、政治、宗教、軍事が密接に関わってしまうのはこの時代では当然のことなのだろう。
別段、一向宗だけが特別に荒ぶっているわけではないようだ。
俺と景虎様が案内されたのは寺社仏閣が立ち並ぶ霊山のさらに奥、一般の巡礼者や僧侶たちが立ち入ることの出来ない区画にある部屋だった。
おそらくは最上級の客を迎えるための部屋なのだろう。
山麓の賑やかな声もここまでは届かない。峻厳な八葉の峰を見晴かす眺望は素晴らしいの一語に尽き、この景色を見ることができただけでも高野山に来た甲斐はあったと思う。
――とはいえ、いつまでも景色に見入っているわけにもいかない。観光に来たわけではないのだ。
そろそろ本題に入るべきだろう。
そう思い、意を決して口を開こうとした俺だったが、それに先んじて景虎様の声が響いた。
「相馬。一つ、いや、二つ、そなたに詫びねばならぬことがある。まずそれを話しておきたい」
「わ、詫びる? 何のことでしょう?」
「一つはそなたの行いを殿下に話したことだ。許しもなしに済まなかった」
「あ、ああ、そのことですか。事情は覚慶殿からうかがっています。公方様が強引に景虎様を問いただしたのだと。公方様からの仰せでは断ることもできますまい。景虎様が詫びるようなことではございませんよ」
俺が言うと、景虎様はかぶりを振った。
「だとしても、言うべきではなかった。言い訳になるが、あの時はわずかなりと手がかりが欲しいという気持ちがあったのだ。将軍である殿下や、僧籍にある覚慶殿であれば、私とは異なる見方ができるのではないか。それを聞きたいという心が自制を越えてしまった。すまない」
景虎様が頭を下げる。
俺は大慌てで両手を左右に振った。
「いえいえ、そもそも別に知られたところで困る話でもないですし……そ、そうだ! 今のが一つ目ということは、もう一つは何ですか!?」
景虎様に頭を下げられるとか、居たたまれないことこの上ないので、さっさと話題を移すことにする。
すると、景虎様は予想外のことを口にした。
「もう一つはその覚慶殿のことだ。実は相馬と覚慶殿が何を話したのか、私はすでに知っている」
「は……うぇ!? 知っているって、どうして」
「段蔵から聞いたのだ」
景虎様いわく、段蔵は人払いに応じるふりをして室内の様子をうかがっていたという。
マジか、ぜんぜん気づかなかったわ。まあ本気で気配を消した段蔵に気づけるはずもないのだけれど。
「主を思うゆえの行動だ。段蔵のことは責めないでやってほしい。責められるべきは、その忠心に乗じてしまった私だ」
「い、いえ、それこそ配下を思うゆえの行動だったのでしょう? 一つ目もそうですが、別段詫びることではございません」
というか、段蔵や景虎様に心配を強いたのは俺なのだから、それこそ責められるべきは俺一人であろう。
それに、景虎様がすでに俺の心底を知っているというのは正直助かる。あの頃の記憶をほじくり返すのは苦痛でしかないのだ。
俺としてはこれから話そうとしていたことの九割以上がすでに終わっていた感覚である。
あとは景虎様がどう判断するか。それを聞いた上で俺の去就を決定すればいい。
思わずため息がこぼれた。
と、その吐息を吹き散らすかのように景虎様の凛とした声が響く。
「相馬、一つそなたの勘違いを正しておきたい」
「……は、勘違い、ですか?」
「うむ。段蔵の話を聞くかぎり、どうもそなたはそこを履き違えているように思えてならぬのだ。そこというのはつまり、私についてだが」
「景虎様についての勘違い?」
はて、何のことかと首をひねる。
そんな俺を見て、景虎様はおとがいに手をあてる。
「おそらく弥太郎や段蔵についても同様だが、これは私が語ることではないからな。京に戻ったら本人たちから聞くといい」
「は、はあ……今ひとつ掴みきれないのですが、勘違いとは具体的にどういうことです?」
「相馬も知ってのとおり、私は幼くして城を出され、林泉寺に預けられた。姉上の話では、これは私の才気を愛してのことだったという。苦しんだ姉上には申し訳ないことながら、父が私を愛してくれていたことは素直に嬉しく思う」
「それは当然のことかと思います」
「では、これも当然のことと納得してくれよう。城を出された私は父を憎んだのだ」
それを聞いた瞬間、俺は反射的に眉根を寄せる。
景虎様の口から憎むなどという言葉を聞いたのは初めてだった。
「言葉にせぬ思いが幼子に伝わるはずもない。私は父に嫌われ、捨てられたのだと思った。謝れば許してもらえるのではないかと期待し、幾度寺を抜け出して城に帰ろうとしたことか。そのたびに師に腕ずくで連れ戻され、理不尽な説教を受け――念のためにいっておくが、子供心に理不尽と感じたという意味だぞ? ともかく説教を受けて……そんなことを何度も繰り返すうちに腹が立ってきてな。どうして父は私を捨てたのだと。いったい私が何をしたというのかと」
その頃の自分を思い出したのか、景虎様の口に苦笑が浮かぶ。
「あるとき、思ったのさ。父が私を捨てたなら、私も父を捨ててやろうと。そしていつか、父が私を捨てたことを後悔するくらいの武将になってやろう――そう考えた。それからの私は父を見返したい一念で努力を重ねたよ。正直に言おう。父の訃報を聞いたとき、私は一粒の涙も流さなかった。捨てた子の弔いなど不要でしょうと、胸中で亡き父に語りかけていたよ」
「景虎様……」
意外といってこれほど意外な話はない。
俺は瞬きも忘れて景虎様の顔を見つめる。と、その顔が悲しげに伏せられた。
「……もっとも、城に戻って父の死に顔を見た瞬間、その思いは吹き飛んだのだがな。涙が枯れないのが不思議なくらい泣きに泣いたよ。思えば、あの頃の私は強がっていたのだろう。自分が父に捨てられたのではない、自分が父を捨てたのだと思い込むことで、捨てられた痛苦から逃げていた……」
そう言って小さくかぶりを振った景虎様の眼差しが俺に向けられる。
黒曜石を思わせる瞳はただただ真摯だった。哀憐の情から俺の過去に似たつくり話をしたのではないか――そんな疑いは抱きたくても抱けない。
「これが相馬の勘違いだよ。私とて弱いのだ。間違えることも、逃げることもある。姉上の話を聞いたとき、どれだけ己の浅慮を悔いたことか。親の心、子知らずとはまさに私のことだろう」
「……景虎様」
「自らの親の心さえ見抜けなんだ私だ。そなたと、そなたの二親について何が言えようはずもない。ただ、上杉の中にあって自分だけが弱く、醜いなどと思ってくれるな。かつて荀子も言った。人の性は悪なり、その善なるものは偽なりと。肉を持ち生ける我らが、その身に影を宿すは逃れえぬ自然。だが、我らはその影を知り、おさえ、御すことができる。相馬、そなたが今日まで必死にそうしてきたようにな」
景虎様の言葉に深々と頭を垂れる。
頭を下げたのは、このまま景虎様を見ていると泣き出してしまいそうだったからだ。
声が震えないように注意しながら言葉を紡ぐ。
「……ありがたき、お言葉です」
「ありがたいは私の言うことだ、相馬。春日山城でそなたと対峙した日から――いや、そなたが姉上に仕えた日から今日までのすべてに感謝している。そなたがこの世に生まれ来たことは、私たち姉妹にとってこの上ない幸運だった」
「………………あ」
それはたぶん、景虎様にとって何ということもない言葉だったはずだ。
別段、力を込めて断言したわけではない。ただ心に浮かんだ言葉をそのまま口にしただけ。そんな感じだった。
だが、俺にとっては。
この世に生まれ来たことを何のてらいもなく肯定してくれた、その言葉は。
「…………ぐ……ッ」
溢れる涙を止められないくらいには、心を揺さぶるものであった。
頭を垂れたまま、唐突に肩を震わせ始めた俺を見て、景虎様から戸惑ったような気配が伝わってくる。
だが、その気配はすぐに消え去り、かわって暖かい手が俺の身体を引き寄せ――気が付けば、俺の身体は景虎様の腕の中におさまっていた。
何も口にしない景虎様の気遣いに感謝しつつ、俺は子供のように声をあげて泣いた……
 




