第四十五話 筆跡
「それで、えっと、相馬様、こちらの方はどなたですか?」
ちょこんと首をかしげた弥太郎に問われた俺は、澄ました顔で隣に座っている人物についてかくかくしかじかであると説明する。
宗心は言葉を喋れないので俺が話すしかないのだ。
もっとも、俺とて宗心のことを詳しく知っているわけではないので、説明といっても限度があるのだけれど。
そもそもどうしてここにいるのかもよくわからん。
すると宗心はぴしっと俺の顔を指差してから、いつかのように俺の手をとり、そこに文字を書きはじめた。
こそばゆさに耐えながら解読。し、ん、ぱ、い。
ええと、つまり――
「俺が心配だった、と?」
こくり、と大きくうなずかれる。
「それはなんというか、どうもありがとう……?」
心配になったとしても、どうして越後ではなく京に現れたのか。上杉陣屋にはどうやって入ったのか。弥太郎や段蔵たちの目を潜り抜けて俺の部屋にやってこられたのはどうしてか。
さまざまな疑問が入り混じり、感謝の言葉もはきつかないものになってしまう。
宗心はそんな俺の内心に気づいているのかどうか、気にするなと言いたげにぽんぽんと頭を叩いてくる。なお、宗心の身長的に座ったまま俺の頭を叩くのは厳しいので、わざわざ中腰になっていらっしゃる。
越後で共に旅をしていたときもそうだったが、このちっこい少女、俺に対してやたらとお姉さんぶるのである。あとなにげにスキンシップが激しい。
意思を伝えるために手を取るのは仕方ないにしても、川で水浴びをした後に身体を拭いてくれたり、歩くときに手をつないできたり、座るときにぴったりと身体をくっつけてきたり。朝起きたとき、やたらと良い匂いがするなと思って目をあけたら、いつの間にか膝枕をされていたこともあった。
なお、こうして文字で記すとけっこうエロいシチュエーションもあるのだが、当人がいたってはきはきと、そしてにこにこと嬉しそうにしているものであんまり色気はなかった。
こう、幼い弟の世話を一生懸命焼いているおねえちゃん的な雰囲気。
おかげで「こいつ俺に気があるんじゃね?」的な勘違いをしないで済んだのだが。
今思えば、先刻の覚慶への態度も、悪い女に引っかかろうとしている弟を強引に連れ戻しに来た姉、という風に見えなくもなかった。
ともあれ、そんな宗心だったから、俺に一言もなく姿を消したときはかなり驚いたし、ショックでもあった。
こうして再会できたことは嬉しいが、その目的が気になるのは当然の話。
すると、宗心は空中で墨をする動作をしてみせた。
……あ、なるほど、筆談か。以前はともかく、今なら紙も筆もあるしな。目が見えないとはいえ、簡単な文字なら書けるだろうし。
というわけで文房四宝(筆、硯、紙、墨)を用意する。
見とれるような優美さで墨をすった宗心が筆をとって字を書き始めた。
墨をする姿勢でちょっとは予想していたが、すごい達筆である。本当に目が見えないのか、この人。
「…………これは」
それを見た段蔵が、思わずという感じで呟いた。
どうしたのかと思ってそちらに視線を向けると、段蔵はなんでもないというように小さくかぶりを振る。俺と同じように盲目とは思えない達筆に驚いたのだろうか。
そうこうしている間に宗心は一枚目を書き終えた。
『寒の入りを迎え寒さ厳しき折、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。さて、本日うかがいました用向きについてですが――』
「お手紙か!」
思わず突っ込んでしまった。
すると、宗心はてへっと笑って自分の頭をこつりと叩く。ええい、お茶目な仕草をするんじゃない。そんなことでごまかされないぞ。
と、次いで字をつづった宗心は二枚目の紙を俺の前に置いた。
『よからぬ気配がしましたので』
「よからぬ気配?」
『具体的に記すと、色香にまどわされて道を踏み外しそうになっている誰かさんの気配が』
……えらく具体的な気配ですね。
別に色香に惑わされてはいないし、そもそも道を踏み外すってなんのことか。覚慶の申し出をまとめれば「好きにやらせてやるから客将として京に留まれ」というもの。上杉を裏切るとか、そういった後ろ暗いことは一切なかった。
さすがにその内容をここで口に出す気はないが……あれ、口に出せないということは、俺自身、後ろめたい気持ちがあるからなのか?
正直なところ、覚慶にかき回された心はいまだ乱れたままだ。
どうやら向こうは俺のことを知らず、知ろうともせず、たわむれに弄んでいただけのようだが、それでも覚慶の言葉の多くが正鵠を射ていたのは事実。
今後どうするべきか、どうしたいのか、そんな単純なことさえ俺は自分の気持ちを掴みきれていなかった。
一つはっきりしているのは、このまま上杉家に仕えるのは厳しいということだ。
日陰でしか咲けない花もある、と覚慶は言った。上杉の君臣は俺にとって眩しすぎる、とも。
きっとこれは正しい。このまま上杉にいると、俺は太陽の光を浴びすぎて枯死してしまう。
とはいえ、そんな理由で辞めるわけにはいかないし、辞めさせてもくれないだろう。なにより、それでは晴景様との約束を反故にすることになってしまう。
そういう意味で、上杉に籍を置いたまま客将として京に残るという覚慶の案は魅力的だったのだが……去り際の様子からして、あの申し出も取り下げられたと判断するべきだろう。
そんなことを考えているうちに自然と表情が暗く沈んでくる。
そんな俺に周囲から気遣わしげな視線が注がれる。
覚慶との会話を聞いていない弥太郎たちにしてみれば、俺が何故そんな顔をするのか分からない。声をかけたいが、葬送の一件で腫れ物扱いをしている状況では何と話しかけていいかも分からない。そんな戸惑いが感じられた。
そのことでますます気分が重くなる。上杉家に留まるかぎり、今後もこんな空気が続くと思えば気鬱にもなる。
覚慶や宗心の登場で遠ざかっていた倦怠感がふたたび顔をのぞかせた。
と、そんな俺を見ていた宗心がぽんぽんと己の膝を叩いた。
なんだ、と思って宗心の顔をうかがうと、もう一度ぽんぽん。
はて、この人は何を訴えているのだろうと首をかしげる。
すると宗心は筆をとってさらさらと一行の文字をつづった。
『眠りは百薬の長、憂いを払う玉箒です』
……それ、眠りではなくて酒じゃないですかね。薬も箒も。
まあ言いたいことはわかったけれども。
つまりは膝枕してあげるから寝なさいと。弥太郎や段蔵、豊弘に岩鶴らもいる中で。
「それはさすがに無理――」
ぽんぽん。
「いや、まだ夜ではないですし――」
ぽんぽん。
「特に眠いわけでも――」
ぽんぽん。
いかん。これは「はい」を選ぶまで続く選択問題だ。
宗心の表情を見るかぎり引く気はなさそうである。
だが、さすがに衆人環視の中、女の子に膝枕とか寝られる気がしないし――などと考えていたとき、意外な声が室内に響いた。
「そういうことであれば私たちは席をはずしましょう」
そう言ったのはなんと段蔵だった。
言っただけでなく、すっと立ち上がると弥太郎たちを促して部屋の外に出てしまう。
そうして襖が閉じられたとき、室内には俺と宗心しか残っていなかった。
◆◆◆
「あの、段蔵。いいの?」
部屋を出た段蔵に向け、弥太郎が心配そうに話しかけてくる。
加倉と宗心を二人きりにしていいのか。宗心の正体を確かめないでもいいのか。加倉の不調をそのままにしておいていいのか。
そんな様々な意味が込められた「いいの?」であった。
むろん、弥太郎はかなうことなら自分が何とかしたかった。だが、自分には加倉の抱えている悩みを理解することはできないと本能的に察してもいた。
学の無さ、気性の違い。いずれにしても一朝一夕で何とかなるものではない。
こういうとき、頼れるのは常に冷静沈着な同僚であった。
その段蔵は気難しそうに眉根を寄せ、離れた場所から加倉の部屋の様子をうかがっている。
常に怜悧な光を湛える双眸は、このとき、珍しく迷いに揺れているように見えた。
「いいのかと問われれば、よくないとしか言えません。ですが――」
だからといって、自分や弥太郎、あるいは豊弘らが動いて事態が解決するものなのだろうか。いや、解決するまい――段蔵はすでにその結論に達していた。
実のところ、段蔵は先刻の加倉と覚慶の話を一部始終聞いている。
過日、松永久秀が陣屋を訪れたときは見抜かれたが、あれから段蔵も遊んでいたわけではない。むしろ、あの出来事は忍者である段蔵にとって痛恨ともいえる経験だった。過ちを繰り返さないために修練に励んだのである。
その結果、ひそかに二人の話を聞いた段蔵は加倉の罪業ないし病根を知った。
今は自分たちが何をしても加倉を追い詰めることになる。どれだけ真剣に案じても、手を差し伸べても、加倉には逆効果だ。
あのまま話が進んでいれば、加倉は上杉家を離れることを肯ったに違いない。
あのとき、段蔵は半ば無意識のうちに隠形を解いて行動に移ろうとしていた。
それを制したのがあの宗心と名乗る少女である。
そのことには感謝している段蔵であるが、少女の存在は警戒せざるを得なかった。
――確かにあのときは部屋の様子を探ることに集中していましたが……
だからといって侵入者を見過ごすはずがない。ましてや加倉の部屋の前まで歩いていく姿を見落とすなどありえない。あのときは、段蔵はもちろん弥太郎に豊弘、岩鶴たちだって加倉のことを案じ、隠れて部屋の様子をうかがっていたのだ。
あの少女はその中を誰にも気づかれず、見咎められずに歩み寄り、堂々と襖を開け放ったのである。
そんなことは不可能だ。それこそ姿も気配も消せる幽霊でもないかぎり。
そう、幽霊。
虚飾を廃して自らの感覚を信じれば、あの瞬間、あの少女は突然加倉の部屋の前に現れた。段蔵の五感はそう告げている。
「……ですが、それこそありえない。そも、幽霊には襖を開けることも、人に触れることも、墨をすって字を書くことも不可能です」
段蔵はつぶやく。
となると、考えられる可能性は多くない。その一つは、宗心が『飛び加藤』など及びもつかない、神域に達した忍者であるという可能性だ。
これならばすべての不可解を説明し得る。
だが、段蔵はこの可能性を否定していた。
自尊心ゆえに自分より上の存在を認められないとか、そういうことではない。宗心のあらゆる挙措、あらゆる態度が忍ではないと段蔵に訴えかけているのだ。
幽霊ではない。忍ではない。にもかかわらず、段蔵らの目をあざむき得る存在。
本来なら最大限の警戒を要する相手である。間違っても主と二人きりにさせてはならない。
なのに段蔵がそれを許した理由は――
――あれは、景虎様の筆跡だった。
宗心と名乗った少女が記した文字。
それは長尾景虎の文字と同質――いや、ほとんど同一のものだった。
筆跡というものは書いた者の特徴が色濃くあらわれる。どれだけ優れた右筆であっても他者の筆跡を再現することは難しい。
もちろん似せることはできるが、見る者が見ればあっさり看破できる。それくらい文字とは『個』が浮き出るものなのだ。
段蔵は忍者という職業柄、そういった差異を見抜く目を養っている。大名お抱えの右筆であろうと簡単に欺かれぬという自信と実績がある。
その段蔵の目から見てなお、宗心の筆跡と景虎の筆跡は似ていた。始筆、送筆、終筆、とめ、はね、はらい、その他細かな癖までが重なっていた。
景虎と宗心が同じ師から習ったとしてもここまでは似るまい。段蔵の感覚から言えば、二人の差は師弟の差だ。
どちらかが――年齢から見て、おそらくは景虎が基礎からみっちり宗心に仕込んだのではあるまいか。
だとしたら、宗心は景虎に相当近しい者ということになる。
そう思って宗心を見れば、春風の香るような暖かさが感じられた。段蔵の主に向けた感情にもくせがなく、その点、くせだらけだった一乗院覚慶とは比べるべくもない。
この人ならば消沈の底をさまよう主を引っ張りあげることができるのではないか。
必要とあらば強引に。
あのとき、段蔵はそう思い、宗心に加倉を任せたのである。
――ただ、段蔵が知るかぎり、景虎が栃尾城主になってから今日まで、宗心のような人物が近くに侍ったことはない。
畢竟、景虎が林泉寺に預けられていた頃の知己ということになる。
そのあたりは後でしっかり確認せねばなるまい。
段蔵がそう思ったとき、加倉たちがいる部屋の襖が音もなく開かれた。
見れば、件の宗心が足を忍ばせて廊下に出てきたところだった。手には白木の杖を握っている。
段蔵たちの姿を認めた宗心はこいこいと手招きをした。
「あ、あの、相馬様は……!」
弥太郎が問いかけると、宗心は唇の前に人差し指を立ててから、そっと室内を指差した。
すると、そこにはくうすうと寝入っている加倉相馬の姿が。
宗心が身振り手振りで布団をしいてあげるように伝えると、弥太郎はこくこくとうなずいて部屋の中に消えていく。豊弘たちもそれに続き、段蔵と宗心だけがその場に残った。
寝ている加倉を気遣った段蔵が視線で付いて来るようにうながすと、心得た宗心がこくりとうなずいた。
段蔵が先に立って歩き出すと、それを追うようにちりんちりんと鈴が鳴る。
その鈴の音に耳を傾けながら、段蔵は思案した。
聞きたいことは山ほどある。だが、まずは覚慶の妖言から主を守ってくれた礼を言うのが先決であろう。
空き部屋の前までやってきた段蔵は、襖をあけて宗心を中へ招じ入れようとした。
ところが。
「…………え?」
段蔵が振り向いたとき、そこには誰もいなかった。
つい先ほどまで確かに感じていた気配が霧消している。
加倉の部屋からここまでほんの数十秒たらず。姿を隠せるような場所はなかったし、そもそも段蔵はずっと後ろに注意を払っていた。杖に付けられた鈴の音が宗心の存在を主張していた。
それらがすべて一瞬で消え去ったのである。
もしここに第三者がいれば、絶句する飛び加藤という非常にめずらしいものを見ることができただろう。
次の瞬間、何事かに思い当たった段蔵は駆けるように加倉の部屋まで戻り、そのまま室内に飛び込んだ。
寝具の準備をしていた弥太郎たちが、段蔵に気づいて驚いたように目を丸くしている。
「だ、段蔵? どうしたの?」
弥太郎の問いに答える時間を惜しんで、段蔵は室内に目を配る。脇に置かれた机の上に先ほど宗心が使用した文房具が残っていた。
すたすたとそちらに歩み寄ると、すばやく紙を確認する。
すべて白紙だった。
宗心が文字を記した紙は一枚も残っていない。
しまった、と内心で臍を噛む。あの少女、春風のように穏やかな顔をして、存外に食わせ者であったらしい。
段蔵が己の正体に感づきかけていることも、自分の書いた文字がそのきっかけとなったことも察していたに違いない。そうでなければ紙を持ち去る理由がない。
わけもわからず目を丸くする弥太郎たちをよそに、段蔵は自分の失策に歯噛みする。
案の定、というべきだろうか。
この後、段蔵が景虎に事の次第を確認すると、景虎は不思議そうに首をかしげて言った。
「私が読み書きを教えた者、か? それはもちろん何人かはいるが、筆跡が重なるほどとなると心当たりがないな。そもそも林泉寺にいた頃は、山に川にと遊びまわってばかりでずいぶんと師をてこずらせたからな、私は。ろくに机に向かった記憶がないのだ。栃尾に入ってからは将として学ぶことが多く、こちらでも他者を教える余裕を持たなかった。宗心という名にも聞き覚えはないぞ」