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聖将記  作者: 玉兎
第六章 点灯
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第四十四話 宗心



 それは俺が春日山城址(じょうし)からこの地に飛ばされ、三日ばかり経った頃のことだった。



 せせらぎの音をたどってようやく小川を見つけた俺は、わき目もふらずに川辺に駆け寄った。

 手で水をすくう手間を惜しみ、そのまま川面に口をつけて水を飲む。

 消毒もせずに川の水を飲む危険性は承知していたが、正直、そんなことを気にしている余裕は一ミリたりとも残っていなかった。

 なにせこの小川にたどり着くまで、ずっとくわやらすきやらを持った人たちに追い回されていたので、死ぬほど喉が渇いていたのだ。



 川の水をがぶ飲みし、ようやく渇きから解放された俺は、川面から口を離して安堵の息を吐いた。

 巻き込まれた事態の異常性を思えば、安堵するのはまだ早いとわかってはいたのだが。



「まったくなあ……ここはどこ、わたしはだれ、とか本気でいう日が来るとは思わなかった」



 しみじみと呟く。

 幸い、自分が加倉相馬である記憶はしっかりと残っていたので、記憶喪失の可能性は真っ先に省けた。

 問題は「ここはどこ」の部分だ。

 記憶が確かならば、俺は春日山城址から一歩も出ていないはず。しかるに、気がつけばどことも知れない平地に立っていた。見かける人間の大半はボロ布と見まがう粗末な衣服を着ており、意を決して話しかけてみても胡乱うろんな目で睨まれるばかり。時には先刻のように怪しい奴だと追い回されることもあった。いったい俺が何をした。



 あんまりにも腹が立ったので、逃げるついでに軒先に転がっていた野菜をくすねてきたが、これは不当なる暴力に対する正当な抵抗の証である。声を大にしてそう訴えたい。

 が、その程度の戦果で空腹がまぎれるはずもなく、体力的にも精神的にも疲労はとうにピークに達している。

 やたらとかたい上に苦味が強い野菜を無理やり飲み下した俺は、天を仰いで呟いた。



「しかし、これからどうしたものか」



 いちいち内心の声を言葉にしてしまうのは、やはり今の状況に不安を感じているからなのだろう。何かしら喋っていないと落ち着かないのだ。

 むろんというべきか、あてなど何もないが、ここでじっとしていても問題は解決しない。

 何一つわからない状況だが、立ち止まっていては駄目だということだけは理解している。これは夢なんだと現実逃避するには、三日という時間はあまりにもリアルだった。

 と、その時。



 不意に背後で鈴の音が鳴った。



 俺はバネ仕掛けの人形のような動きで身体を半回転させると、拳を握り締めて身構えた。少しばかり過剰な反応かもしれないが、今日までの経験を思えば、警戒してし過ぎるということはないだろう。

 それに、俺は水を飲んでいる間、無警戒でいたわけではない。川辺には石が敷き詰められており、誰かが近づいてくれば、石を踏む音ですぐにわかったはずなのだ。

 それがなく、いきなり鈴の音が聞こえてきたことに俺は驚いたのである。



 警戒と驚きが混在した視線の先に立っていたのは――白木の杖をついた一人の女の子だった。杖の先に鈴が結び付けられている。さきほどの鈴の音はこれだろう。



 綺麗な少女だった。容姿も、そして身なりも。

 染みひとつ付いていない白色の着物は、今日までこの地で見かけた人々とは明らかに一線を画している。眼前の少女を見ていると、自然に巫女という言葉が思い浮かんだ。

 年齢は俺の感覚でいえば高校生には達していない。たぶん中学生くらいではなかろうか。優しげな顔立ちに、肩のあたりで切りそろえたふわりとした髪型がびっくりするほど良く似合っていた。



 瞳の色や声音はわからない。少女はずっと目を閉ざし、口を開くこともなかったからだ。ただ、その顔に浮かんでいるのは安堵の表情だ、と俺には思えた。

 顔ばかりではない。少女は杖を持たない左の手を自身の胸に置いており、その仕草はやはり少女の安堵を示すもののように見える。



 俺は握り締めた拳の力を緩めたが、完全に警戒を解くことはしなかった。

 目の前の女の子から害意は感じられなかったが、見覚えのない子であることも確か。少女が俺を前にして安堵の表情を浮かべる理由もわからない。

 追っていた野菜泥棒にようやく追いつけたという安堵かもしれないのである。

 ……いや、待て。少女はずっと目を閉ざしているのだから、俺が盗人だということには気づいていないはずだ。変に警戒しすぎると逆に怪しまれるかもしれない。



 そんな俺の警戒と猜疑の眼差しを、視力以外の何かで感じ取ったのかどうか。こちらに歩み寄ろうとしていた少女は動きをとめ、一瞬だけ口を開きかけた。が、すぐに何かに気づいたように口元を手で押さえると、今度ははっきりと困惑とわかる表情を浮かべた。

 しばし何事か考え込んでいた少女は、急に「ひらめいた!」といわんばかりにぎゅっと左拳を握り締めると、そっとその場にしゃがみこみ、持っていた白木の杖を地面に置く。



 杖が地面に置かれた際、先端につけられていた鈴が、ちりんと澄んだ音をたてた。

 杖を置き終えた少女は、ゆっくりと立ち上がると、俺に向けて両の手のひらを開いてみせる。

 それが害意のないことを示す動作であると悟った俺は、戸惑いつつもその推測を声に出してみた。



「ええと……敵意はない、ということかい?」

「――!」



 こくこくこく、と高速で上下に揺れる少女の顔。外見から推して物静かな子だと思い込んでいたが、先ほどからの百面相といい、どうやら思った以上に活発な子であるらしい。

 あるいは、こうして俺と出会えた事が、少女にとって、はしゃがずにはいられないくらい嬉しいことだったのかもしれない――いや、まあ絶対違うだろうけど。



 少女は杖を拾いなおすと、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

 一歩進む都度、杖の先で揺れる鈴が、りん、りんと涼しげな音をたてる。その音が、つい数日前の記憶と結びついたが、この時の俺にその意味を理解することはできなかった。

 俺が理解できたのは、目が見えず、言葉もしゃべれない眼前の少女が、白く細い指をつかって俺のてのひらに書き記した名前だけ。



 『そうしん』

 それがほんの数日だけ旅の道連れとなった少女の名前であった。




◆◆◆




 聞き覚えのある鈴の音が鳴り響いたとき、覚慶の胸の中にいた俺はふっと意識を引き戻された気がした。

 と、次の瞬間、襖が派手な音を立てて開かれる。

 反射的に覚慶から離れた俺は慌てて後ろを振り返る。

 何か急用があって弥太郎なり段蔵なりが飛び込んできたのかと思ったのだが、俺の視界に立っている人物は思い浮かべた二人のどちらでもなかった。



「そ、宗心そうしん!?」



 いつか見た白絹の着物をまとった少女がそこに立っていた。

 え、え、何でこんなところにいるんだ?

 俺にとってはこの世界で初めてまともに接してくれた人物だ。晴景様に拾われるまで生き延びることができたのは宗心のおかげといっても過言ではない。



 だが、宗心は俺と出会って数日後に突然姿を消した。できるかぎり行方を探したのだが、結局どの方角へ向かったのかさえ分からなかった。

 明らかにわけありの様子だったし、俺を自分の事情に巻き込むことを恐れたのかもしれない――そんな風に自分を納得させるしかなかった。

 いずれ再会できればいいと願っていたが、その後、俺が越後でいくら名をあげようと宗心が春日山城を訪れることはなかった。

 他国に行ったか、そもそも俺に会う気がないかのどちらかであろうと考えていたのだが……



「どうしてここに……いやいや、その前にどうやってここに入った?」



 上杉陣屋は来る者拒まずのフリーパスではない。それに、俺がこの部屋で覚慶と話をしていることは弥太郎たちも承知している。誰かを通すとは思えないし、仮に通すとしても一声かけるだろう。

 驚きもあらわに問いかけると、宗心はそれにはこたえず――そもそも口がきけないのでこたえようもないのだが――俺の目の前まで歩み寄ると、そのままむんずと襟首を掴んできた。



 そして、襖までずりずりと引きずりながら戻っていく。相変わらず、ちっこい身体に見合わぬ力の持ち主である。

 俺は抵抗しなかったが、仮に抵抗しようとしても無駄だったろう。

 白木の杖は盲人であることを示す道具なのだが、俺は宗心がこれを振るってごろつきを叩きのめす場面を一回、素手で撃退する場面を二回目撃している。

 つまりはそういう子である。



 襟首つかまれた猫みたいな格好になりながら宗心の顔を見上げると、彼女は俺ではなく覚慶をじっと見つめていた。

 閉じた目を見るかぎり、光を失ったままであることは間違いない。だが、宗心の視線は確実に覚慶を捉えている――そんな気がした。



 一方の覚慶はといえば、そんな宗心を冷えた眼差しで座ったまま見返している。

 白と黒の対峙は、しかし、長くは続かなかった。

 すぐに覚慶が立ち上がったからである。



きょうめたわ」



 そう言うと、尼僧は俺と宗心の近くを通り過ぎて部屋を出る。

 そして、そのまま陣屋の出口へ向かって歩き始めた。

 見れば、弥太郎や豊弘がどうしたものかと俺と覚慶を交互に見やっている。仮にも将軍の妹御、このまま一人で帰していいものかと考えたのだろう。



 俺としても覚慶が望むなら誰かしら供をつけようと思ったのだが、覚慶にその気はないようだった。

 というか、すでにこの場にいる人間に対し、いかなる関心も払っていないのが後ろ姿から感じられる。

 つい先刻まであれほど熱心に誘いかけてくれた俺に対しても。



「覚慶殿!」



 思わず声を出していた。

 だが、覚慶は振り返らない。足を止める素振りさえ見せない。

 濡れたような黒絹の髪を翻して角を曲がり、俺の視界から消えていく。

 そのあまりの変わりように唖然とした。



 よほど宗心に話を遮られたのが腹に据えかねたのか、あるいは俺が覚慶よりも宗心の方に注意を向けたのが面白くなかったのか。

 いや、だが、あれほどの人物がそんな些細なことで態度を翻すとは思えない。

 何より、今の覚慶の姿は腹を立てたという感じには見えなかった。あれはもう完全に興味の失せた態度だ。

 俺の呼びかけは無視されたのではない。気にも留められなかったのだ。それこそ野良犬の鳴き声のように。 




 ――そこまで考えて、ふと気づく。

 そういえば先刻の会話の中で覚慶は一度も俺の名を呼ぶことがなかった。

 加倉とも。

 相馬とも。



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