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聖将記  作者: 玉兎
第五章 深淵
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第四十三話 その手をとれば



 しんと静まりかえった室内に、俺の荒い呼吸音が響く。

 一乗院覚慶(かくけい)の言葉は閉じた心を切り裂く刃のようだった。

 いいかげんなことを言うなと笑い飛ばすには、あまりにも……



「まわりの者とも合わぬと感じておろう? それも当然よ。先にちらと見かけただけであるが、そなたの配下はみな強い。姉君や越後の仁と同じ側に立つ者。自らを犠牲とするそなたを案ずることはできても、それを望むそなたの心情を理解することはできぬのだ。その者たちが語る言葉が、どうして胸に染みようか」



 俺は何も言い返すことができなかった。

 そのとおりだ、と納得してしまったから。

 弥太郎たちに対して、そして景虎様たちに対して感じていた違和感。心配してくれるのはうれしいが、どこかずれていると感じていた心の隙間に、覚慶の言葉はおどろくほどすんなりと入り込んできた。

 その心地よさに――ようやく話が通じる人が現れてくれたという安堵に、思わず相好を崩してしまう。



 それを見た覚慶が、はじめて微笑を浮かべた。

 暖かくも優しくもない笑みだったが、不安や気遣いのこもっていない表情こそ、今の俺が望んでやまないものだった。



「愚僧ならばそなたを理解することができる。何故というて、この身もまた弱き者、そなたと立場を同じうするゆえな。なればこそ、そなたの罪を受け止めることもできよう」



 そう言って覚慶が近づいてきたとき、俺はその場を動こうとはしなかった。

 つい先刻、得体の知れない寒気を感じた相手だというのに。

 その相手が両の手を伸ばして頬を挟み、まるで接吻でもするかのように顔を近づけてきたときも逃げようとは思わなかった。



 黒の僧服から立ちのぼる伽羅きゃらの香りが何故か懐かしい。どうしてだろうと考えた俺は、この香りが晴景様が使っていたそれと同種のものだと気づく。

 息遣いさえ感じる距離に覚慶の顔がある。

 桜色の唇がゆっくりと開かれ、奇妙に甘い声が耳朶をくすぐった。



「聞こう。そなたの心に刺さったはりを語るがよい」



 それを聞いた瞬間、俺の脳裏に今際いまわきわの父の姿がよみがえった。

 見たことのない目で、見たことのない顔で、俺を疫病神と罵った父の声が。





 

 ――念のために言っておくが、父は立派な人間だった。息子であることを誇らしく思える人だった。

 母は俺を産んだときに亡くなり、男手一つで俺を育ててくれた。母と結婚するまでは天涯孤独の身だったそうで、いろいろと不器用だったが、愛情をもって接してくれたのは間違いない。



 亡くなったのは四十前。その若さで大病をわずらい、苦しい闘病生活も報われず……その苦悶、無念は察するに余りある。

 居合わせた母方の祖父母は、仕方のないことなのだと慰めてくれた。

 そのとおりであろう。

 避けられない死を前にして、少しくらい取り乱しても仕方ない。

 まだ子供だった俺は突然のことに動揺し、わけもわからず大泣きしてしまったが……今ならばわかる。決して恨んでなどいない。



 実際、父の立場であれば俺は疫病神そのものだったに違いないのだ。

 最愛の妻を殺して生まれてきた命。

 祖父母の助けがあったとはいえ、育児と仕事、二足の草鞋わらじをはくのは大変なことだったはずだ。

 そうして、ようやく子供に手がかからなくなり、少しは自分の時間が持てるようになった矢先、自分が死病に冒されていることを知らされる。



 俺が同じ立場に立ったら、子供を罵らずにいられる自信はない。子供に罪はないと分かっていても、きっと言わずにはいられないだろう。こんな人生を望んだわけではない、この疫病神め、と。

 むしろ、死の間際まで恨み言ひとつ言わず、こんな病気すぐに治してやるさと笑っていた父の精神力を俺は尊敬している。

 そう、心から尊敬している。



 ――だからこそ、この身はあの人の子供にふさわしくあらねばならない。

 ――そうすれば俺は疫病神ではなくなる。あのときの父の目を、顔を、言葉を忘れることができる。そのためならばいくらでも自分を犠牲にしよう。



 つまるところ、俺の心に刺さったはりとは両親を死に追いやった事実そのものであり……





「まことにそうか?」

「……え?」

「言うたであろう、そなたは弱いと。二親の死をおのが責と考え、それから逃れようとすることを弱さとは言わぬ。むしろ、二親の死を忘れず、自らを犠牲とすることを厭わぬならば、それは強さというべきであろう」

「それは」

「弱さとは醜いもの。弱さとは惨めなもの。弱さとは臭いもの。心のうちをまさぐってみよ。あるであろう。己でも目をそむけ、鼻をつまみたくなる感情が。決して恨んでなどいない? 心から尊敬している? まことか? 母御はそなたを産んでなくなった。それがどうしてそなたの責になる。命と引き換えに産んでくれと頼んだわけでもあるまいが。父御は死病に冒された。それがどうしてそなたの責になる。自分の身体をわきまえず、勝手に病にかかっただけではないか。そなたはただ生まれ、ただ生きただけ。それが罪であろうはずがない」

「…………あ」



 何故だか、身体が震えた。

 怒っているのか、喜んでいるのか、それとも悲しんでいるのか。自分でもよくわからなかった。

 父に疫病神と罵られたとき、祖父母に仕方ないことだと慰められた。死を前にして、父は心が乱れてしまったのだと。

 だが、疫病神という言葉を否定してくれることはなかった。



 わざわざ口に出して否定するまでもないことだったから。それはそのとおりだろう。

 だが、それ以外にも理由はあったのだと思う。たとえ錯乱していたにせよ、思ってもいない言葉が口をついて出ることはない。父の胸には、きっと俺を疫病神と思う気持ちが存在していた。たとえ極小のものであったとしても。

 そして、同じものがきっと祖父母の胸にもあったのだ。二人から見ても、俺は娘を奪った疫病神なのだから。




 その事実がいとわしい。

 そうだ。覚慶の言うとおりだ。俺はただ生まれ、ただ生きただけだ。疫病神などと言われる筋合いはかけらもない。



 誰が命と引き換えに産んでくれなどと頼んだか。

 誰が寝る間も惜しんで働いてくれなどと頼んだか。

 かなうなら、俺だってもっと普通の家に生まれたかった。母親が生きている家、父親が病気ではない家に。

 祖父母の家で母の思い出話を聞かされるのもうんざりだった。

 お前のお母さんはお前が生まれてくるのを楽しみにしていた――そんなことを聞かされて、俺にどうしろというんだ!?





「………………ああ、そうか。これが、俺の心を刺していたはりか」

「そのとおり。そなたは二親を尊敬などしておらぬ。逆よ。どうして己がこのような重き荷を背負わねばならぬと、己を遺して逝った二人を呪ったのだ。それがどれだけ罪深いことであるか、そなたは理解している。人として、子として、思うだけでも許されぬと理解しながら、それでも断ち切ることができない呪い。醜く、惨めで、腐臭を放つ弱さそのもの。それを消すために、そなたは二親への尊敬と敬意で己の心を塗り固めた。まさしく臭いものにふたをしたのだよ」



 言われた瞬間、全身から力が抜けた。たぶん、力以外の何かも抜けた。

 反論する気にはならなかった。そのとおりだと心が認めている。

 命をかけて産み、育ててくれた両親に感謝どころか呪詛を向ける人間。そんな自分を認めたくなくて無茶ばかりする人間。

 百年かけても理解できぬと景虎様たちに語った覚慶は、これ以上ないくらいに正しかった。

 弥太郎たちと話が噛み合わないのも当然だ。あの子たちが俺のような下衆を理解できるはずもない。



 もはや座っているだけの気力もなく、俺は畳の上に倒れかけた。

 と、くずおれた俺の身体が覚慶によって抱きとめられる。

 僧服の胸元からのぞく白い谷間に、ぎゅっと顔を押し付けられた。柔らかい感触、鼻をくすぐる香のかおり。こんな時だというのに律儀に反応する下半身に乾いた笑いがこぼれる。

 ちろり、と覚慶の舌が俺の耳朶をなめた。



「嘆くことはない。愚僧もまた弱きもの。ゆえに、そなたの弱さを受け入れよう。泣きたいときには胸を貸そう。そなたの生に寄り添おう。決して捨てぬ。決して離さぬ」

「…………あ」

「我がもとにきやれ、迷い子。越後の君臣はそなたにとって眩し過ぎる。世には日陰でしか咲けない花もあるのだ」

「……けど、それは……」

「何も裏切れというのではない。先にちらと言うたが、姉君は越後の仁を客将として京にとどめようとしておる。だが、上杉はかの者を手放すまい。ゆえに、そなたが客将となるのだ。上杉に籍を置いたまま、我が下で働くがよい。わらわはそなたを妨げぬ。恩義のため、忠義のため、道義のため、好きなだけ己の身を投げ出せばよい。その評はそなたを癒し、将軍家を安泰ならしめ、そして上杉の名を高からしめる。誰もが満たされるのだ」



 俺の頭を抱える覚慶の手の力が強まる。

 いつの間にか覚慶の僧服の帯が緩んでいた。あらわになった白い乳房が俺の顔をやわからく押し包む。

 


「ふふ、母として子にぬくもりを与えようか。女子おなごとしておのこの猛りをしずめようか。いずれでもかまわぬ。そなたが望むものを与えよう」

「……どうして、そこまで俺を……」

「言うたであろう。この身もまた弱き者。彷徨ほうこうするそなたを見捨てておけようか。誰もそなたに言わなかったというなら、今ここでわらわが言おう――」



 息遣いさえ聞こえる距離で覚慶がささやいている。

 それを聞いた瞬間、全身が喜びで震えた。

 この人は俺の欲しい言葉をくれると確信できたからだ。



 それを聞けば、何かが決定的に変わる予感があったが、それでも構わなかった。

 俺自身よりも俺のことを理解してくれる人がいる。そのことが嬉しくてならなかった。

 だから、次の覚慶の言葉を遮ったのは俺ではなかった。





 ――ちりん、ちりん、と。

 いつか、どこかで聞いた鈴の音が聞こえてきた。



   


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